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2006年12月 の投稿

兵士と軍夫の日清戦争

カテゴリー:未分類

著者:大谷 正、出版社:有志舎
 江戸時代の本百姓は戦時に武士の組織する軍団に付きしたがい、補給を担当する陣夫となった。日本は馬の数が少なく、在来種は体格貧弱で、かつ牡馬は去勢されず、蹄鉄(ていてつ)が不完全であった。 
 西南戦争と日清戦争までは、民間人を雇用して臨時の軍属、すなわち軍夫として、おもに大八車を引かせて補給業務を担当させた。近代陸軍というものの、後方は江戸時代の大名軍の小荷駄隊と大差なかった。
 日清戦争のとき海を渡った日本陸軍は、17万人あまりの正規の軍人と十数万人の軍夫から成っていた。戊辰戦争以前は武士と陣夫の戦争だった。西南戦争と日清戦争は兵士と軍夫の戦争で、義和団出兵後は兵士だけで戦争をたたかった。
 軍夫とは、過渡期の日本軍の補給業務を担当した臨時傭いの軍属のこと。軍夫には軍服も軍靴も与えられず、軍夫の雇用と管理は軍が直接におこなえず、軍出入りの請負業者が担当した。軍夫をまとめる小頭(こがしら)など、末端の実務者の多くは博徒だった。
 軍夫は国内では40銭、国外勤務のときは50銭の日給が支給された。しかし、軍夫の給金を請負人がピンハネし、また賭博で巻き上げられることが頻発していた。
 「文明戦争」をおこなうはずだった第二軍は、旅順攻略戦において、外国人の新聞記者と観戦武官の目の前で、伝統的な武士の軍隊らしく無差別殺人に走った。これが旅順虐殺事件として欧米のジャーナリズムから非難された。
 当時の日本では、旅日記をつける習慣は一般的であり、従軍日記も貴重だと考えられていた。日清戦争の当時、兵士たちは家族あてに、そして新聞社にあてて、部隊の移動や作戦目的までもあからさまに書いてきたし、新聞社側も伏せ字(×××)という自己規制をおこないながらも、兵士や軍夫の手紙を掲載した。明治時代、地方新聞は書き手が不足していたこともあって、積極的に投書を掲載していた。戦場からの手紙を紙面に掲載するのは、その応用だった。
 中国人に対する呼称も、当初の清国人から豚人、支那土人、チャンチャンという蔑称が普通となり、中国人の弱さと物欲を侮り、不潔・臭気を野蛮の象徴とみなすようになった。この戦場の兵士、軍夫たちの中国観は、また新聞報道や手紙を通じて故国日本の民衆に共有され、中国に対する蔑視観がかたちづくられていった。戦争が終わった後に人々の記憶に残ったのは、単純で一面的な清国蔑視観だった。
 新聞記事と戦場からの手紙には、具体的な戦争の実情が紹介されていた。
 戦時国際法を適用した「文明戦争」のはずが、日本軍はしばしば敗残兵を捕虜にせずに殺してしまった。兵站線が延びきって補給が追いつかず、兵士たちは食料を略奪し、ときには寒いなか民家を破壊して燃料を得て生きのびた。都市を焼き払うことは満州の戦闘で始まり、台湾植民地戦争では、予防的懲罰的な殺戮と集落の焼夷が普通の戦闘手段となった。そして、敵軍より恐ろしかったのは伝染病だった。
 日清戦争のころ、出征した兵士たちが故郷の新聞社に手紙を書いて、新聞がそれを競って掲載していたこと、それに戦場の実際がかなり紹介されていたことを知りました。それにしても、戦場は悲惨でした。
 先日、硫黄島のたたかいをアメリカ側から描いたクリント・イーストウッドの映画(第一部)をみましたが、戦場の悲惨は昔も今も変わらないのでしょうね。そして、戦争で肥え太る軍指導者と政財界の支配者という連中が安全な背後で笑っているという構図も・・・。

蝶々は、なぜ菜の葉にとまるのか

カテゴリー:未分類

著者:稲垣栄洋、出版社:草思社
 ちょうちょう ちょうちょう
 菜の葉にとまれ
 菜の葉にあいたら 桜にとまれ
 桜の花の 花から花へ
 とまれよ 遊べ 遊べよとまれ
 これは文部省唱歌の歌詞。しかし、なぜ菜の花ではなく、菜の葉なのか。このちょうちょうは、モンシロチョウのこと。
 モンシロチョウは実際に菜の葉にとまる。産卵のためである。モンシロチョウの幼虫である青虫は、アブラナ科の植物しか食べることができない。そこで、モンシロチョウは、幼虫が路頭に迷うことのないように、足の先端でアブラナ科から出る物質を確認し、幼虫が食べることのできる植物かどうかを判断する。つまり、産卵しようとするモンシロチョウは、葉っぱを足でさわって確かめながら、アブラナ科の植物を求めて、葉から葉へとひらひらと飛びまわっている。モンシロチョウは、葉の裏に小さな卵を一粒だけ産みつける。
 といっても、この小さな卵はみるみるうちに大きな青虫になってしまいます。私も、キャベツ栽培に挑戦したことがありますから、よく分かります。毎朝、とってもとっても、翌日には大きな青虫が葉の裏にいつもいて、たちまち虫喰い状態になっていました。
 植物は昆虫に対する防御策をとっている。しかし、昆虫も、その毒性物質を分解して無毒化するなどの対策を講じている。ただ、それは万能というわけではない。だから、アブラナ科植物の防御物質を打ち破る術を身につけたモンシロチョウは、菜の葉だけを求めて飛びまわることになる。そうだったんですねー、なーるほど・・・。
 5月5日の菖蒲湯(しょうぶゆ)についての説明があります。
 旧暦の5月5日は、雨の多い田植えの時期。重労働で体は疲れる。気温や湿度の上がるこの時期に田んぼに入ると、虫や菌によって皮膚病にかかる危険がある。そこで抗菌力の強い薬湯に入って皮膚を保護する。ショウブやヨモギには強い抗菌作用がある。
 7月7日には、ほおずきの根を煎じた薬湯を飲む。ホオズキの根には堕胎の薬としての作用がある。7月7日に妊娠していると、もっとも忙しい稲刈りの時期に大きなお腹で動けなくなる。無理に重労働すれば、流産の危険があるばかりか、母体も危ない。そこで、7月7日にホオズキの薬湯を飲み、早いうちに流産させた。昔はどこの農家にもホオズキがあったが、それには実用的な深い意味があった。なーるほど、そうだったんですかー。
 昔の日本にあったモモは、先が尖っていた。桃太郎の絵本に描かれていたとおり。それが明治時代になって、現在のように丸いモモがヨーロッパから入ってきた。
 かつての日本では、花見は、梅の花を見に行っていた。ウメは遣唐使のとき、中国から日本にもちこまれた。万葉集には、ウメを詠んだ歌が 118首。サクラのほうは43首のみ。遣唐使が廃止されると状況は一変した。「古今和歌集」にはサクラの歌がほとんどで、ウメのほうはわずかになった。
 サクラのサは、田の神を意味し、クラは依代(よりしろ)の意味。つまり、サクラとは、田の神が下りてくる木という意味。
 植物にまつわるうんちくたっぷりの面白い本でした。

補給戦

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著者:マーチン・ファン・クレフェルト、出版社:中公文庫
 兵站(へいたん)の大切さは、古今東西かわらない真実です。腹が減ってはいくさは出来ないのですから。ところが、これまた、このシンプルな真理を無視してきた独裁者が昔も今もいます。もっとも、兵站が確保されても、大義名分がまったくなければ、今のアメリカのようにイラクで泥沼に陥って、もがけばもがくほどアメリカ兵が損耗していく苦境にたたされることになってしまいます。
 18世紀はじめ、スペイン継承戦争のとき、イギリス軍は、ヨーロッパ大陸で次のように進軍したそうです。
 軍隊は毎日昼ころに野営地に到着し、煮立ったスープ鍋をもった従軍商人によって迎えられる。その地の百姓も待ち構えており、行軍の費用を自分で支払うことのできる兵士に対して、喜んで商品を売却する。兵士はたらふく食べると、勘定を済まし、それから午睡に入る。うーん、なんというのんびりした戦場の光景でしょう・・・。
 当時の君主は補給隊を常設するより、請負人をつかったほうが安上がりだと考えていた。というのも、戦争が終われば解雇できるからだ。
 ナポレオンも補給を重要だと考えていた。ナポレオンは軍団に対して、4日分のパンと4日分のビスケットの携行を命じていた。ビスケットは予備品であり、緊急時にのみ手をつけるものとされていた。ナポレオンは補給に無関心どころか、作戦指揮に響くほど補給に注意を払った。
 ナポレオンがロシアにもっていったのは、24日分の食糧だった。このうち20日分は輜重大隊によって運ばれ、4日分は兵の背中によって運ばれた。1812年にナポレオンの本隊は600マイルを進撃し、途中でスモレンスクとボロージノという二つの大戦闘をたたかったが、モスクワに入城したとき、なお兵員の3分の1が残されていった。ナポレオンのロシア侵入は十分な準備なしに開始されたのではなかった。ところが、補給部隊が四囲の環境から崩壊してしまったのだ。
 ヒットラーのソ連侵攻のとき、補給物資の大部分は1200台の馬車によって運ばれていた。ドイツ軍は、自動車を手に入れることが困難だったので、民間から徴発した。すると、自動車の種類が多くなり、予備部品が不足して動かなくなっていった。
 ドイツのロシア侵攻軍が2000種類ものタイプの車輌をつかっていたため、予備部品が100万以上も必要となった。ロシアの鉄道はドイツの軌道と同じでないため、鉄道は利用できなかった。ロシア軍のガソリンはオクタン価が低く、ドイツ軍の車輌がつかうときには、特別につくられた施設でベンゾールを添加しなければいけなかった。
 ドイツ軍は、ロシア領内深く侵入する時点で補給困難に直面していた。秋のぬかるみの中で、ヒットラー軍は崩壊した。世界でもっとも近代的な軍隊が、その攻撃の成功にもかかわらず、今や重火器の支援を受けず農業用荷車しかもっていない歩兵の小部隊に頼っていた。ドイツ軍のモスクワ占領失敗は、冬将軍の到来に原因があるという意味は修正する必要がある。ヒットラーは兵站に何の関心も持っていなかった。これでは進撃できるはずもありません。戦争の裏面を知ることができる本です。

女甲冑録(おんなかっちゅうろく)

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著者:東郷 隆、出版社:文藝春秋
 戦国の歴史の中に立ち現れた女武者たち。かの女らの一瞬の光芒、その横顔が鮮やかに描かれています。女なれど、やわか男におとるべきや。そうなんです。日本の女性は昔から男に負けずおとらず、がんばっていました。それは戦国時代でもそうだったのです。
 萌黄威(もえぎおどし)の毛引き具足、白い上帯(うわおび)を締めなし、長(たけ)なる黒髪解いて颯と乱し、金の鉢金つけた鉢巻し、薄紅(うすくれない)の衣の裾引き上げ、紅い切袴(きりばかま)というのが常山御前鶴姫の姿。それに従う女性(にょしょう)たちも、赤あり、黒あり、紅裾濃(くれないすそご)、紫革(むらさきがわ)。男がまとうても派手派手しきを、女がまとえばなおのこと華やかな30余人の女武者姿。
 紫隔子(むらさきすそご)を織付けたる直垂(ひたたれ)に菊とじ滋(しげ)くなして、萌黄糸縅(もえぎいとおどし)の腹巻に同色の鎧袖付け、三尺五寸の大太刀。箙(えびら)に真羽(まば)の矢の射残したるを負い、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置く。兜は被らず、長(たけ)に余る黒髪を後ろに打ちなびかせ、金の天冠をば頭に置いたる異形の武者が馬を馳せていく。これぞ女武者巴(ともえ)であった。
 緑の黒髪を振り乱し、鳥帽子形(えぼしなり)の兜に小桜縅(こざくらおどし)の鎧、猩々緋(しょうじょうひ)の陣羽織。重大の太刀「浪切」(なみきり)、銀の采配を携え手綱を握って大手門に登場した甲斐姫は寄手を押し返す。
 武装した女性が立っている。長い髪を後ろに束ねた童形(わわがた)で、水色の鎧直垂に古式の銅丸をまとい、男のような革包(かわづつ)みの太刀を佩(は)いている。
 いやあ、本当に勇ましい日本の女性たちです。戦国期をたたかい抜いた女たちのあでやかな姿にほれぼれとしてしまいます。
 6つの短編小説から成る面白い本です。

土一揆と城の戦国を行く

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著者:藤木久志、出版社:朝日新聞社
 土一揆について、最近の通説は自律性のある惣村を単位として整然と組織され、債務証書を土倉(どそう。当時の金貸し)に迫って一人ひとり確認したうえで破ったとか、土一揆による放火や略奪は不測の逸脱に過ぎず、ほんらいの土一揆は、たしかな統制ある行動をとっていたとしています。
 著者は、これに対して、土一揆には激しい暴力的な行動があったことを強調しています。有徳人(うとくにん。富裕者)が、その社会的評価にふさわしい、危機管理の務めを果たさなければ、その徳(富)を実力でもぎ取る、つまり社会的な富の暴力的な再配分は当然だという自力救済の習俗が成立していた。
 飢饉状況は、金持ちの施主(有徳人・分限者)にとっては、安い労働力や資財を楽々と確保するのに有利な環境であっただけではなく、権力者の企てる飢饉のさなかの造作や普請も、権力が集積した富を放出して、飢饉にあえぐ人々に再配分する重要な回路であり、大規模な公共投資という性質を秘めていた。だから、もし有徳人・分限者が世の危機に期待される役割を果たさなければ、暴力による略奪の対象とされた。
 なーるほど、そういうことだったんですね。
 エジプトのピラミッドの建築も単に奴隷労働とみるのではなく、大型公共土木工事とみるべきなんだという学説を読んだことがあります。同じことなんでしょうね。
 民衆の戦争見物というのも、じつは戦場の略奪が目当てだった。村々の一揆の落人狩りなども、その一側面に過ぎない。明智光秀は、村人による落人狩りにつかまり、あえなく生命を落としたのでしたよね。
 これを読んで映画「七人の侍」を思い出しました。一見弱々しそうな村人たちが、実は、ひそかに米も武器も隠し持っていて、いざというときには落人狩りまでしていたのです。あれって、本当のことなんですね。
 いまの久留米市田主丸にあった筑後国の塩たり村には、天文4年(1535年)には庄屋がいたという地検帳があるそうです。庄屋というのは、近世にできあがった村の仕組みだというのが通説なのですが、ここにはもっと早くから庄屋がいて、自分で「作」もし、また、村の代表として「庄屋給」をもらっていたというのです。
 飢饉と戦争が相次ぐ世の中でしたから、暴力も公然とまかり通っていたことを事実として認識する必要があると思いました。

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