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2006年11月 の投稿

他人を見下す若者たち

カテゴリー:未分類

著者:速水敏彦、出版社:講談社現代新書
 今の子はすぐに怒ると多くの先生たちが言う。それはすべての子どもがすぐに怒るというのではなくて、極端に怒りやすい子どもの数が多くなったということ。
 飛行機のなかで暴言を吐いたり暴れたりする粗暴な迷惑客がこの4年間で5倍にも増えた。子どもだけでなく、大人のほうも同じようです。
 会社では、最近の成果主義の悪影響で、上司や同僚をバカにする社員が増えている。迷惑行為をする人は、周囲の状況、そして社会常識をまったく無視し、自分だけのルールで行動する。そして、それを否定されると、すごく攻撃的になる。
 今の子どもたちは、たとえ内面的に喜びの感情が芽ばえていても、それを抑制している。子どもは言葉や表情で喜びを表現するのを抑制するが、文章には表現しやすいようだ。
 今の子は個人の損得には敏感になったが、社会の損得や他者の損得には共感できず、鈍感になった。日本の若者は、あまり自分に自信をもっていない。
 現代の学生は、クラスなりグループなりを自ら組織することが大の苦手である。リーダー不在なので、まとまって行動することはなく、同じ学科を専攻している者同士でも、一度も会話しないで卒業することも珍しくない。全体のために働くことに対し、煩わしさを露わにする。
 中高年層でうつになる人が多いというが、最近は子どものうつも増えている。うつ状態の子どもは、小さなことですぐに傷つき、めそめそする。そして、気分が沈みがちで、しばしばため息をつく。
 現代の若者は、赤ちゃんのときの誇大自己をそのまま持続させている人が多いように思われる。公の場での発言は、年輩の人のほうが自己批判的、自己卑下的な言動が多く、若くなるにつれて自己肯定的、さらには自己高揚的な言動が多い。
 人間は、本来、常に自分を高く評価していたい動物である。人は自分よりも優れた人物について知りたがっているというよりも、自分よりも劣っている者についての情報を求めたがっている。下方比較の傾向がある。自己高揚欲求は、とくに自尊感情に対する脅威を感じたときに強く働き、その結果として自分よりも下位にある者との比較によって、自分の幸福感を増大させようとする。
 人の自信は、新しい人間関係にある周りの人たちから承認され、賞賛される経験を通じて形成されることが多い。ところが、そんな親密な周りの人たちが少ない社会では、個人の自信も形成されがたい。
 人間は個性化も大切だが、その前に社会化が必要だ。子どもたちに達成感や自己効力感をもたせる環境を設定する必要がある。
 タイトルは刺激的ですが、書かれている内容はしごくもっともなことばかりで、胸に手をあてて私も思いあたるところがいくつもありました。私の子育ても、あれで良かったのかなとつい反省させられてしまいました。といっても、もう遅いのですが・・・。

レーニンとは何だったか

カテゴリー:未分類

著者:H・カレール・ダンコース、出版社:藤原書店
 レーニン神話を解体する、というのがオビの言葉です。うむむ・・・。私は大学生のころ、レーニンの本はかなり読みました。愛読したといってよいでしょう。その理知的で、鋭い分析に、身も心もしびれる思いでした。
 レーニンの父はロシア人だが、その母はカルムイク人だった。モンゴルの血を引き、アストラハンで結婚した。レーニンが父親と同じく、かなり目立ったアジア系の風貌をしており、とくに切れ長の目をしていたのは、この祖母の血によるものである。
 そして、レーニンの母方の祖父は、ジトーミルのユダヤ人で、ユダヤ人商人とスウェーデン女性との子どもであった。だから、レーニンの中には、ロシア人、カルムイク人、ドイツ人およびスウェーデン人の血が混じっている。また、正教、ユダヤ教、プロテスタント人、そしてカルムイク系の仏教も間接的には受け継いでいる。
 レーニンの母親はロシア語、フランス語、ドイツ語の3カ国語を話し、ピアノの名手だった。レーニンの父は高い教養がある。この父も祖父母も、医学あるいは数学の高等教育を受けている。
 レーニンの家は農奴の働いていた領地を有しており、世襲貴族の家柄であった。
 マルクスのロシア人嫌いはよく知られている。しかし、マルクスは常にロシアのことが気がかりだった。うへぇー、そうだったんですかー・・・。知りませんでした。
 レーニンは1906年の国会解散のころ、選挙を議会白痴症と名づけて攻撃した。このころ、レーニンは労働者の蜂起を呼びかけていた。
 1908年、レーニンの党は崩壊しつつあった。1910年には党員は1万人を下まわり、5年前の10分の1になった。社会民主党の組織は消滅していた。
 1910年、マリノフスキー事件が起きた。マリノフスキーはレーニンが目をかけていた活動家の一人だったが、ツァーリの政治警察(オフラーナ)の一員でもあった。当時の左翼陣営には政治警察の手先がうじゃうじゃしていた。
 1917年、皇帝は参謀本部に引きこもり、相変わらず不人気な皇后は大臣の選任を決定し、頻繁に大臣の首をすげ替えた。今や、精神異常の女性の気まぐれだけで政治が行われている。こんな不安感がロシア社会に広がっていた。
 ドイツ当局にとってレーニンは、ロシア政権を崩壊させるために握っている切り札であった。革命の火ぶたを切るために、レーニンは講和を説き、軍隊を解体へ駆り立てる。
 1917年、ドイツにとって戦力を西部戦線へ集中することが急務だった。戦争が二つの戦線で展開する限り、ドイツの決定的勝利は不可能なのだ。ドイツは講和と革命のプロパガンダをまかなうための多額の資金をレーニンに提供した。持参金つきでレーニンはロシアへ帰還することができた。レーニンがドイツから大金をもらってロシアへ帰ったというのは本当のことなのでしょか・・・。
 レーニンは新聞発行手段を握っていた。その資金の出所の一分はドイツから支給されたお金だった。これは他党の資金とケタ違いだった。この本は、レーニンがドイツからもらったお金がいくらだったかまでは明らかにしていません。
 1917年夏、レーニンが発行する「プラウダ」は9万部だった。そして、レーニンの党の各種新聞の総部数は32万部だった。ボリシェヴィキの印刷機は、毎日、莫大な数のビラを印刷した。
 1917年の4月から7月にかけて、ケレンスキーはレーニンを危険な扇動者とみなしながら、長いあいだ過小評価し続けていた。
 1918年1月1日、レーニンは一斉射撃を受けた。車の後部座席に押しつけられて辛うじて銃弾を免れた。
 議会はボリシェヴィキに敵対していた。市内の多くの人士も同様だった。しかし、政府、軍など、すべての権力機関はレーニンの手中にあった。レーニンは議会のはじまるときにいても議員たちが実際に審議を始めようとするとき、これ見よがしに議場から退出した。 全国各地にソヴィエトが出現した。ソヴィエトの参加者数が増大していくと、会議は効力のないものとなった。イニシアティヴは、もっとも活動的で、もっともボリシェヴィキに操作されやすい要素、すなわち兵士たちに委ねられるようになった。
 120人の協力者で仕事をはじめたチェカーは、1年後には職員3万人以上となった。
 トロツキーは、生まれたばかりの彼の軍隊に、敵とみなされた者を情け容赦なく鎮圧し、見せしめの死刑をどしどし執行せよとの指示を与えた。至るところで、良心のためらいもなく銃殺が行われた。戦闘で捕らえられた白衛軍兵士や農民ばかりか、自軍の兵士や将校も厳しい鎮圧を遂行する力に欠けたときには銃殺された。軍は、さらに兵員を増強した。早くも1918年秋には、100万の兵力を擁していた。
 1918年末、レーニンは反抗する農民たちに対してテロル的措置を命令した。
 レーニンは、きわめて早くから、迅速な解決の方を好む意向を表明していた。ロマノフ家の人間を一人残らず、つまり優に100人あまりを皆殺しにする。この提案が1918年7月16日の夜に実行された。ニコライ2世だけでなく、皇帝一家の幼い子どもたちまで殺された。レーニンの殺害せよ、銃殺せよ、流刑にせよという指示の大部分は常に隠密裡に出されている。
 1912年、レーニンは革命の輸出の可能性を信じるのを止めると、直ちに全努力をソヴィエト国家の建設に捧げ、党とチェカー、軍という、己の手によるすべての手段をこの目標のために動員した。
 レーニンは反動的聖職者集団への処刑を実行すべきだと命じた。処刑の数が多ければ多いほど、うまくいくだろう。処刑執行に関するレーニンの指令は遵守された。レーニンの指示どおり、1922年に8000人近くの教会に仕える者たちが粛正された。
 この本は、ロシア革命の内情がレーニンにとってもひやひやするほど危ない綱渡りの連続であったこと、レーニンは、そのなかでむき出しの暴力をためらわずに実行してきたことを暴き出しています。なるほど、戦争と内乱状態では、そういうこともあったんだろうな。平和主義者レーニンというわけにはいかなかったんだろうな。そう思いました。その負の遺産をスターリンはますます大規模に拡大していったということなのでしょう。
 それにしてもタイトルは気になります。何者だったか、ではなく、レーニンとは何だったか、というのです。レーニンは物ではないのです。いくら何でも、という気がします。

日本人はなんのために働いてきたのか

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著者:河原 宏、出版社:ユビキタ・スタジオ
 明治維新後、近代国家としての日本の成功は、しっかりとした中産階級を育てたことにあった。今も、この階層が薄弱な国の基礎は脆(もろ)い。せっかく育てたひと握りの知識層が外国に移住しはじめると、将来の可能性は閉ざされる。
 現代日本では、バブル期までにあった一億層中流の幻想は崩れた。少数の上昇組は金が金を生む金権至上になり、資産を2世、3世に伝えるほかに関心はない。その他の大部分は、ゆっくりか急速にかの差はあっても、中流の座から滑り落ちる運命にある。しかも、経済以上に、日本人から覇気・元気・活気・生気などのバイタリティーが消滅した。こうして四無主義、つまり無関心、無責任、無気力、無感動が生まれる。これが現代日本を表現する精神である。
 大正14年にうたわれた金々節を紹介します。
 金だ金カネ この世は金だ
 金だ金カネ その金ほしや
 バカが賢く見えるも 金だ
 酒も金なら 女も金だ
 神も仏も坊主も 金だ
 金だ 本から本まで金だ
 みんな金だよ 一切金だ
 金だ金だよ この世は金だ
 金、カネ、金、カネ、金、カネ、金だ
 そして、次は昭和4年(1929年)12月29日の新聞記事です。
 金!金!人の世のオールマイティ!金!
 金は現世のみならず、あの世まで征服して、ついに地獄の沙汰まで支配するに至った。人は何のために働き、何のために生きるのかと問えば、ただ一言、金、と答える。これが一般世間の哲学なのだ。
 ええーっ、これって今の日本とまったく同じセリフじゃん。そのまま、今の世相をあらわす言葉として通用するじゃん。つい、そう思ってしまいました。
 1900年から1950年までの半世紀のうちで1930年代は、自殺者数も人口10万人あたりの自殺率も、ともに一番高かった。この時代は前途に希望が見いだせない、生き甲斐に乏しい時代だったと言える。
 日本で顕在化している、人々の議会制度に対する不信感は、具体的には、各種選挙における棄権率の増大という形で広まっている。なんど選挙をして投票してみても、結局、権力を握るのは、特権層か、それにつながる人たちだという思いは、多くの人の意識の底に沈澱している。
 二大政党の対立は、必ずしも議会制度の活性化としては作用しない。多くの場合、二大政党は、装飾の部分に相違を残しながら、本質的には類似のものになってしまう。選挙民は、どっちか選べといわれても、カレーライスとライスカレーのどちらが良いかを選ばされるようなもの。つまるところ、選挙への関心と情熱を失わされる。
 こんな本があるそうです。ハックスリイの『すばらしい新世界』
 労働者階級になる幼児は、本や花を本能的に嫌うようにしつけられる。なぜ、労働者は本を嫌悪するように造られなければならないか?
 成長した彼らは、本など読んで、働く時間をムダにしてはならない。
 花や景色や自然については、どうか?
 これを愛してみても、生産労働には、何の役にもたたない。とりわけ自然愛好の欠点は、それがただで手に入るということ。働く者には幼児の段階から、世の中、ただで手に入るものがないことを、身にしみて刷りこんでおかなければならない。うむむ、そうだったんですかー・・・。認識を改めました。

コバウおじさんを知っていますか

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著者:チョン インキョン、出版社:草の根出版社
 韓国の新聞マンガにコバウおじさんというものがあるのは私も知っていました。韓国の世相と政治を庶民の立場から鋭く風刺したハイレベルのマンガです。なんと45年間も連載したというのですから、本当にたいしたものです。日本でも、それほど息の長いのはないでしょう。サザエさんは世相を反映していますが、政治批判はほとんどないでしょう。フジ三太郎には少し政治批判を感じていましたが・・・。
 韓国の学生運動は、日本と違って最近まで盛んでしたが、このところいささか低調のようです。そのかわり、労働運動は相変わらず過激なようです。労働者がデモやストライキをするときには赤いチョッキをユニホームのように着ます。
 コバウおじさんの作者である金星煥(キムソンファン)は、1932年10月、ソウル近くの開城(今の北朝鮮)で生まれました。父は抗日運動に関わっていて、5歳のときに旧満州に移り住みました。
 戦後、朝鮮が独立し、金星煥は高校生のときからプロのマンガ家としてデビューします。まだ17歳というから天才的です。やがて、朝鮮戦争が始まります。1950年6月25日のことです。金星煥は、多くの死体を目撃し、ショックを受けます。コバウおじさんは、この朝鮮戦争のさなかに生まれました。
 コバウのコは高で、名字。バウは岩という意味で名前。高は、韓国民族の孤高な精神を、バウは岩のような剛直な性格をあらわす。年齢は55歳。その後、ぜんぜん年をとりません。
 コバウおじさんには頭に一本しかない髪の毛がある。平常時は先が少し曲がっており、驚くとまっすぐに立つ。呆れ返ったり困ったりすると、ぐにゃぐにゃになる。だから、髪の毛の状態でコバウおじさんの気持ちが読みとれる。
 コバウおじさんは無表情な顔をしている。これは、思ってもいない感情を、迎合して派手に表現する、おかしくもないのに追従的に笑う習慣のある日本人とは別だという表現でもある。コバウおじさんは、無表情な顔で淡々と状況を伝える。これが、もし表情豊かで、可愛いキャラクターだったら、かえってこのマンガのインパクトは大きくなかっただろう。冷静なジャーナリストの役割をつとめているため、読者はかえって素早くその内容を理解し、共感できた。なーるほど、鋭い分析ですね。
 金星煥は、政府によって連行され、即決裁判にかけられて、大統領を侮辱した軽犯罪で450ファンの罰金刑を言い渡されたことがあります。
 コバウおじさんが休んだ日は読者からの問い合わせが新聞社に殺到し、政府の方があわてて政府の干渉によって休載したと思われないように金星煥を呼びつけ、干渉しないことを約束してマンガを描かせたというエピソードも紹介されています。それほど、国の内外で注目されるマンガでした。
 マンガの絵は変えられないとしても、セリフは何百回も変えさせられたと金星煥は語っています。わざと締め切り間際に入稿して、変えにくくもしていたそうです。
 著者は韓国うまれの女性です。自分でもマンガを描きます。小泉首相を風刺したマンガがいくつか紹介されていますが、なかなかの出来です。
 日本の新聞マンガも、もうひとつビシッと今の世相と政治を厳しく批判してほしいものだと、つくづく思いました。

天皇の牧場を守れ

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著者:横田哲治、出版社:日経BP社
 宮内庁の御料牧場(農場)は、大久保利通によって明治8年に開設され、以来130年になるが、鶏インフルエンザ、牛のBSE、豚の口蹄疫などの法定伝染病と無縁である。
 御料牧場では、鶏舎は三重の網で囲われている。カラスなどの中型の野鳥が入らないための大きめの網、スズメなどの小鳥が入らないためのネット、そしてさらに細かいネットが張られている。鶏インフルエンザのウイルスは、野鳥からの感染も心配なのだ。
 茨城県では570万羽の鶏が鶏インフルエンザのために処分された。そのうち、世界一の養鶏業といわれるイセファーム(株)では、350万場が処分された。これは、ウインドレス鶏舎(窓がない)である。御料牧場は、その近くにあるけれど大丈夫なのです。なぜか?
 御料牧場は、天皇家のライフライン。週2回、白い車で皇居へ搬入している。御料牧場では、第1に鶏の移動をしない。第2に鶏の糞便をつけたトラック、人、長靴などを十分に消毒する。第3に、野鳥や動物などを鶏舎に近づけない。
 鶏は生後700日たつと病気への抵抗力が低下する。そこで、御料牧場では、400〜500日で鶏のヒナを入れる。さらに、エサも工夫している。にんにくやとうがらしを加え、サプリメントを加えることもある。
 600万羽の鶏を処理するにも、お金がかかる。1羽につき500円を要する。つまり、600万羽で30億円かかる。そして、鶏インフルエンザは、人間も感染して風邪や高熱をひきおこす。死亡率は65歳以上で80〜90%という高率だ。
 現在に日本の食料自給率は40%(カロリーベース)だが、天皇一家の食事には輸入農産物はまったくない。すべて国内で生産された安全な食料だ。良質な卵は一ヶ月おいても、美味しく食べられる。家畜の健康管理には、4人の獣医師が目を光らせている。
 御料牧場は400頭のめん羊を飼育している。サフォーク種という、鼻の黒い肉用の品種。ここの羊の肉の旨さの秘密は、飼養管理にある。とりわけ餌が重要だ。
 御料牧場では、たとえ輸入飼料でも、可能なかぎり有機栽培の穀物をつかっている。有機栽培の資料は一般より30%以上も割高だが、そんなことは問題としない。
 このように、天皇一家は純国産の食料で健康保持を図っているわけです。ところが、私たち庶民は、いつもアメリカべったりの自民党政府によって、またもや狂牛病の心配のあるアメリカ牛肉を押しつけられつつあります。庶民がどうなろうと知ったこっちゃない。大切なのは、ご主人様であるアメリカ様のご意向だ。そんな安倍政権には、ほとほと呆れてしまいます。

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