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2006年10月 の投稿

雷鳥が語りかけるもの

カテゴリー:未分類

著者:中村浩志、出版社:山と渓谷社
 ライチョウは有名ですが、残念なことに、私はまだ現物を見たことがありません。
 この本を読んで、人を恐れない日本のライチョウは、実は世界で珍しい存在だというのを知りました。アメリカでは、ライチョウは人の姿を見たらすぐに飛んで逃げていくそうです。人間に射たれて食べられるからです。そう言えば、我が家にすむスズメもそうです。家の屋根瓦の下に巣をつくっていますし、しょっちゅう出入りしているくせに、巣を出入りするときだけは物音ひとつ立てません。実に静かにしています。でも、いったん外に出たら例のピーチクパーチクとかまびすしいこと、このうえありません。
 高山にすむライチョウの写真がたくさん紹介されています。日本のライチョウは静かに近づくと1メートルの距離でカメラを構えて写真がとれるそうです。わが家の常連のキジバトは2メートルが限界です。毎朝エサをやっていても、そうなのです。
 ライチョウは飛べないわけではありません。ちゃんと飛べます。日本のライチョウは人間にいじめられてこなかったので、人の姿を見ても逃げないのです。ライチョウは高山にすむ神の鳥として、古来からあがめられてきたのです。
 ライチョウが高山にしかすまないのは、ライチョウが氷河期の遺留動物だから。高山は氷河期の気候に似ているので、雷鳥はそこで生き延びることができた。
 雷鳥は北海道や東北地方にはすんでいない。標高が高くても、高山帯の面積が小さいので生きのびることができなかった。本州には、強い風と冬に多い雪があり、一年中、葉が緑のハイマツがある。そこは雷鳥の営巣場所として、また隠れ場所として雷鳥にとって重要な役割を果たしている。また、ヒツジが日本にいないことが幸いした。ヒツジは白い悪魔だとも言われている。山の草々を食べ尽くしてしまうから。それでは雷鳥は生き残ることができない。
 雷鳥のオスはナワバリをめぐって激烈なたたかいをくり広げる。メスを確保すると、オスはメスを守ってつがいをつくる。ヒナがかえるとメスが子育てをし、オスは単独行動になる。ヒナは天敵のオコジョに補食されたり、危険が高い。だいたい3分の1以下に減ってしまう。
 冬のあいだ、ライチョウは、とにかくじっとしている。動かず、じっとしていると目立たない。それが最良の護身術なのだ。
 中央アルプスにもかつてライチョウがいた。しかし、駒ヶ岳にロープーウェーをかけ、年間に数十万人もの人間が入るようになって、数年のうちにライチョウはいなくなった。
 ライチョウのオスのナワバリは平均して直径300メートルほどの大きさだ。ライチョウはニワトリに近い種類なので、砂浴びが大好き。
 一夫一婦のライチョウだが、まれに一夫二妻のライチョウもいる。
 日本に生息するライチョウは、3000羽ほど。ライチョウの夫婦は、翌年も生き残るのは全体の3分の1ほどにすぎない。ただ、オス・メスともに生きていたら、翌年も同じペアを組む可能性は高い。
 ライチョウが減っているのは、日本に高山気候の地域が少なくなったことにもよると指摘しています。つまり、地球温暖化がここでも原因となっているのです。ライチョウ保存の試みも始まっていますが、なかなか難しいようです。
 実物のライチョウをぜひ山で近くに見たいと思いました。

警察VS警察官

カテゴリー:未分類

著者:原田宏二、出版社:講談社
 警察官でありながら、警察の不正・まやかしとたたかっている人々を紹介した本です。世の中にはこんな勇気をもっている人がいるんだなと改めて人間の偉大さに感銘を受けました。
 警察の裏金づくりは昔からあり、きっと今も続いているのでしょう。ところが、マスコミはまったく問題にしていません。残念なことに権力に歯向かう勇気がないからです。
 裏金の使途は、上層部のヤミ手当、官官接待の費用、異動時の餞別、部内の飲食などにあてられる。その金額は300〜400人規模の警察署で年間6000万円は下らない。現場の捜査員などの激励経費にあてられることもあるが、それは例外。裏金システムは幹部が自由につかうためのものであり、現場の警察官のためのものではない。その手口は全国一律。裏金システムがばれないためのつじつまあわせの事前準備が、国の機関である警察庁会計課の指導で入念に事細かに行われている。
 いやあ、ひどい話ですよね。不法を取り締まるべき立場の公務員が、税金を私物化していて、誰も問題にしないというのですからね。
 勇気ある人々を励ますためにも、ぜひ、あなたにもこの本を買って読んでほしいと思います。

サイバー監視社会

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著者:青柳武彦、出版社:電通通信振興会
 アメリカのチョイスポイント社の個人情報データベースには2億2000万人について250テラバイトの情報が蓄積されて、毎日4万データが追加されている。ここが、大規模のなりすまし犯罪グループに情報を渡してしまった。犯人グループは、身元を偽って50件のアカウントを同社に登録し、正当な目的で情報を閲覧するように見せかけて、消費者の名前・住所・社会保障番号、クレジット履歴などの個人情報を引き出した。14万5000人の個人情報が漏れた可能性がある。
 プロの犯罪集団はここまでやるのですね。コンピューターに登録された情報は、どんなに守ろうとしても漏れていく危険があるということです。
 京都府宇治市の住民基本台帳のデータが流出した事件で、市民がプライバシーを侵害されたとして市に損害賠償を求めて訴訟を起こした。裁判所は1人について1万5000円を認めた。これは市の委託を受けたデータ処理システム会社のアルバイト従業員がデータを複写して社外に持ち出し、名簿業者に販売したもの。1人1万5000円といっても、住民全員が原告となったとしたら、総額は31億円を上まわることになる。
 この本では、Nシステムも街頭の防犯カメラもその有用性が強調され、危険性は軽視されています。私は、社会全体の連帯心をもっと高める総合的方策をとるべきだと考えていますので、著者とは考えを異にします。それでも、問題を多角的に考えようとする姿勢自体は評価できると思いました。

朝鮮王朝史(上)

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著者:李 成茂、出版社:日本評論社
 朝鮮王朝(李朝)500年の栄枯盛衰のドラマを活字にする本格的通史。オビにこのように書かれていますが、読めばなるほどと納得します。なにしろ上巻だけで600頁あります。私は東京までの往復2日間かけて、じっくり読みとおしました。
 上巻は、李成桂の建国から、ハングルが制定された世宗朝、「チャングムの誓い」の舞台となった中宗朝を経て、第18代の顕宗朝までです。李朝500年が、激しい波に浮かんであらわれては消え去っていく様子が活写され、手に汗にぎる思いにかられます。
 歴史は過去との対話である。
 けだし名言です。過去を知らないことには、現在の自分を知ることは決してできません。
 歴史において、善悪は表裏一体であり得る。小国の韓国が、これまで生き延びてこれたのは、能力を重視し、優秀な人材を選び、国家を経営してきたからである。能力主義こそ、韓国の誇るべき精神的資産なのだ。
 科挙制度と朱子学は、400年かかって韓国のものになった。つまり、10世紀にとりいれられた科挙制度は14世紀になって韓国に定着した。12世紀に導入された朱子学は16世紀の退渓(テゲ)、栗谷(ユルゴク)の時代になって、やっと韓国のものとして定着した。
 国王が世襲されるのに対し、官僚は科挙によって選ばれたから国王より優秀だった。彼らは巧妙な制度をつくって王権を制約した。人事権と軍事権は、形式的には国王にあったが、実質的には臣僚たちが握っていた。
 臣僚のあいだで朋党が生じ、党争が公然と横行する。国王は朋党間の調整に汲々とするばかりだった。皇帝権が強かった朝鮮では朋党は公認同然だった。
 朝鮮の歴代諸王たちの治世は、おおむね20年ほど。20〜30代に即位して、40〜50代に死去することが多かった。宣祖、粛宗、英祖のように30〜50年も在位した王は例外的だった。
 次の王位継承者である世子の資格条件として、長子相続の原則は、朝鮮時代にすでに確立されていた。しかし、王位の継承のような政治的に重要かつ複雑な問題を原則どおりに行うというのは、それほどたやすいことではなかった。朝鮮王朝時代500年間に推載された王は27人。そのうち王の嫡長子など、正当性に何ら問題のなかったのは、わずか10人にすぎない。残り17人の王は、世子の冊封過程や王位継承において、原則にそぐわない非正常な継承者であった。兄弟次子継承もある。物理的実行行使によって即位した世祖、中宗、仁祖、王子でない遠縁の王族として大統を継いだ宣祖、哲宗、高宗、庶子として冊封された光海君や景宗、さらに世子が交代した定宗や世宗もいる。
 王位継承には、能力や道徳性のようなものも重要な条件となっていた。王位の傍系から初めて王位を継承したのは宣祖だった。
 大院君とは、王に後嗣がなく、死後、王族から王位継承者が出た場合、その父を指す呼称だ。
 李氏朝鮮の内情を総括した歴史絵巻物を見ているような気持ちになる本でした。

明治天皇

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著者:笠原英彦、出版社:中公新書
 明治天皇が生まれたのは嘉永5年(1852年)秋のこと(9月22日)。孝明天皇の第二子。母は孝明天皇の側室、典侍として入内(じゅだい)した権大納言(ごんだいなごん)中山忠能(ただやす)の次女慶子(よしこ)。明治天皇は4歳まで母の実家である中山家で養育された。中山家には型破りな人間や熱血漢の儒学者などがいて、明治天皇は大いに感化されたと思われる。
 孝明天皇は6人の皇子・皇女に恵まれながら、そのうち5人までが3歳を数えるまで生きられなかった。慶応2年(1866年)7月、徳川家茂が21歳で大阪城で死亡。慶喜が後継者となって長州征討を中止。孝明天皇も同じ12月に36歳で亡くなった。毒殺されたとも言われる。明治天皇の即位は、慶応3年(1867年)1月、16歳のとき。
 イギリス公使が明治天皇と会見したときに同席したアーネスト・サトウは、次のように明治天皇を描いた。
 天皇は眉を剃り、その上方に描き眉を施すなど化粧をし、応対はぎこちなかった。
 横井小楠によると、明治天皇は面長で浅黒く、背丈はすらりとして声は大きかった。
 天皇が東京に来たのは明治1年(1868年)10月13日。江戸城を皇居と定めた。京都から東京までの旅費80万円を天皇家の財政は負担できず、沿道の諸藩から借金した。
 孝明天皇は外国や外国人を洋夷として忌避していたが、明治天皇はむしろ西洋に多大の関心を示した。天皇は政務に対してはあくまで熱心だった。必ずしも才気煥発とはいえないが、大変な努力家ではあった。
 西郷隆盛が征韓論が容れられずに下野したとき、明治天皇は22歳。自律的な判断を下せるとは誰も想像していなかった。西郷に殉じる者はあっても、天皇に忠誠を尽くそうとする者はいなかった。天皇はむなしい気持ちに駆られた。天皇の権威失墜は決定的で、このような事態を如何ともなしがたかった。だから、次第に酒にふけるようになった。
 明治天皇は、皇后とのあいだに子はなく、権典侍の柳原愛子(なるこ)とのあいだに皇子2人、皇女1人をもうけた。しかし、無事に成長したのは、のちの大正天皇だけだった。
 西南戦争のとき、明治天皇は26歳。西郷との直接対決を避けようとし、西郷が死んだあと追悼歌まで詠んだ。西郷に対する同情には深いものがあった。
 明治天皇は日頃、よく人物評を口にした。黒田清隆については、実にいやな男だと言い切った。しかし、天皇は内閣の輌弼を受けて消極的天子であることが望まれた。天皇が宮中で側近からの進言を耳にして意思表示することは、政治責任を負う内閣の動きと齟齬することが懸念された。
 明治憲法を制定するまでの枢密院における審議に明治天皇は一日も欠かさず出席し、玉座で目を光らせた。明治天皇は政治に関心を示し、政策の方向づけや人事に介入した。天皇は政治的に成熟してきていた。
 明治天皇は大隈重信の入閣によい顔をしなかった。明治天皇は進歩思想を敬遠する傾向があった。藩閥政府に加勢していた天皇は政党の進出を内心快く思っていなかった。
 明治天皇は常に立憲君主としてのあり方を模索していて、能動的な行動を自制していた。つまり、明治天皇は「専制君主」ではなかった。
 明治天皇の祭祀嫌いは半端ではなかった。主要な行事は掌典長が代拝した。
 天皇についての「常識」は、たいてい明治以降のことであって、江戸時代までのものとは違うということを、今の日本人はあまりにも知らないように思われます。明治天皇の生活の一日を紹介した本(前にとりあげました)とあわせて読むと、ますます面白いと思います。この本を読むと、一人の等身大の人間が見えてきますから、明治大帝という呼び方には大いに違和感を覚えてしまいます。

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