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2006年9月 の投稿

アメリカ弱者革命

カテゴリー:未分類

著者:堤 末果、出版社:海鳴社
 2005年10月時点で、イラクでのアメリカ兵の死者は2200人。万一、生きて帰っても誰も面倒はみない。予算カットで軍病院の予約もとれない。
 アメリカの自己破産申立の理由は2つ。医療費と離婚。まっとうに働いている中流階級の一家が、ある日、家族の一人が病気にかかっただけで、高すぎる医療請求書につぶされて破産し、社会的に抹殺されてしまう。
 大統領選挙のときにつかわれた電子式投票機械は、たとえばオハイオ州の黒人居住区では、投票待ち時間が平均5〜6時間。通常なら、184人に1台あるはずの機械が、貧困地区では1000人に1台しかないから。
 落ちこぼれゼロ法が軍のリクルーターに役立っている。この法律は、全米の高校からドロップアウトする生徒を救いあげ、ゼロにするため、周囲の大人が状況を正確に把握しておかなければいけない、としている。その大人のなかに軍も含まれる。だから、軍のリクルーターは、生徒の名前、住所、国籍、両親の職業、成績、市民権の有無、そして携帯番号を知ることができる。拒否した高校は、政府からの助成金が打ち切られる。
 軍に入ったら大学へ行く費用を全額、軍が持つという甘言でつられる。本当はそうではない。そして、州兵になっても、イラクへ送られる。イラクに駐留しているアメリカ兵の10人に1人は州兵と予備兵。一度、入隊してしまえば、上官からの命令にノーとは言えないのだ。軍隊なのだから・・・。
 アメリカ市民ではアメリカ軍の現役兵士が4万人近くいる。入隊すればアメリカ市民権を与えるというエサでつっているのだ。2004年にアメリカ軍がリクルート用につかった費用は3億3,100万ドル(330億円)。リクルーター若者には夢を見せてやるのだ、とうそぶいています。夢だけに終わるのだけど・・・。
 アブグレイブ刑務所でイラク人の捕虜の虐待が起きたとき、拷問したのは、職を奪われた工場労働者たちだった。大学費用がほしくて入隊した一人だった。
 イラクに駐屯したアメリカ兵の延べ人数は100万人。国防総省は、これから精神的治療が必要になる兵士は10万人をこすと予想している。極限状態におかれて精神が不安定になった彼らは、帰ってきても、普通に人と接することが難しくなる。家族とのコミュニケーションがとれない。夫婦仲がうまくいかない、自殺や殺人に走る。不安症や不眠症から仕事が続けられなくなる。
 2004年時点でアメリカには350万人のホームレスがいる。そのうち50万人がイラク帰還兵だという。すさまじい現実です。侵略する国においても内部崩壊がはじまっているのですね・・・。

霞ヶ関、半生記

カテゴリー:未分類

著者:古川貞二郎、出版社:佐賀新聞社
 5人の総理に内閣官房副長官として仕えた佐賀県出身の官僚が自己の半生を語った本です。なかなか読みごたえのある内容が語られていました。著者は平成11年夏に初期肺がんの手術をされたとのことです。今後のご健勝を祈念します。
 内閣官房副長官は、自治省(総務省)や厚生省(厚労省)など旧内務省系の出身者から選ばれることが多い。副長官は各省庁を引っぱっていく仕事なので、バランスが必要。旧内務省系は公平な立場から国家全体を考える役所だと考えられている。
 私の知人に自治省のキャリア官僚がいます。あるとき、雑談のなかで、旧内務省キャリアの名簿があるということを知らされ、ひっくり返るほど驚いてしまいました。内務省って、戦前あった役所だとばかり思っていましたが、この本にも出てくるように、今も生きている役所なんですね。げに、官僚の世界とは根深いものがあります。戦後60年以上たっているのに、内務省官僚だった人なんて、ほとんど現存していないのに(失礼、まだ生きている人がおられるとは思いますが)、役所の方は今も脈々と生きづいているのです。
 午前8時前に自宅を出て、午後7時まで分刻みのスケジュール。帰宅するのは、夜9時か10時。それから11時か12時まで番記者と懇談する。一日に少なくとも20人と会って話をする。弁護士の私も一日に20人ほど会って話をすることは珍しくはありません。でも、私が会う人は、みなさん肩書きもお金もない人ばかりです。いわば身の上相談みたいなもので、元気にしてますか、くよくよしないで下さいね、と励ますだけのことがほとんどです。まあ、それでも、ここに来るとほっとします、なんて言ってくれる人がいますので続けています。
 官房副長官は東京を離れられない。休日を除くと、8年間で東京を離れたのは、あわせて2週間だけ。ただし、千葉に菜園をもっていて、そこには通っていた。
 身体が頑健。そして、気分転換が上手でないとつとまらない仕事だ。
 閣議の様子が写真で公開されています。初めて見ましたが、円卓です。テレビで映されるのは、閣議前の閣僚応接室の様子。閣議室には、総理と全閣僚と、政務(2人)と事務の副長官そして内閣法制局長官の4人のみが陪席し、事務職員は入らない。
 しかし、閣議の前に次官会議がある。明治19年(1886年)から続いている必要なシステムだ。たしかに、そうなんでしょうね。
 首相官邸を新築する責任者として、近くに建った高層ビルから狙撃されないような手配もした。私も2度だけ首相官邸に入ったことがあります。司法制度改革審議会の顧問会議に陪席するためです。せっかくですから、トイレも使わせていただきました。さすがに豪華です。
 著者の父親は農業。成績は優秀でしたが、音楽と習字は苦手。一万人に一人という音痴だったそうです。音痴なのは私も同じです。九大に一度すべって佐賀大学の文理学部に入り、翌年、九大に入ることができました。そして、大手の損保会社に入れず、長崎県庁に合格。県職員として勤めながら厚生省を目ざしたのです。長崎県庁では、法令審議会で条例づくりを担当しました。これが後で役に立ちました。
 厚生省の上級職の学科試験には合格したものの、面接で不合格。このとき、著者は人事課長に直談判したというのですから、すごいものです。ちょっと真似できませんね。このように、著者はすべって、ころんで、しかし、しぶとく立ち上がっていきました。その苦労が報われたのです。誠実な人柄は、その苦労からも来ているようです。
 厚生省に入って、昭和35年(1960年)の安保改定反対デモにも飛び入り参加したそうです。これもすごいことですが、これを今堂々と語っているところも偉いですね。もっとも、今は安保条約肯定論者だということです。
 2年間だけ、警察庁に出向しています。このとき、報告書には、哲学を書くように指摘されたとのこと。なるほど、ですね。自分の頭で考えたことを書いてほしい、ということでしょう。
 そのあと環境庁に出向します。このころ仕事に没頭して家庭をかえりみなかったことから、長男から、「また来てね」と手をふられたそうです。ふむふむ、仕事人間だんたのですね。
 著者は公害健康被害補償法の立案と実施にも深く関与しています。私も、この公健法には密接に関わってきました。四日市ぜん息裁判の判決が下ったのは、私が司法試験の受験中だったでしょうか。この判決について、当時、現職裁判官だった江田五月氏をチューターとして招いて司法修習生の自主的勉強会で議論したこともありました。弁護士になって2年目から、日弁連公害委員会のメンバーとして、この公健法の改正を目ざして各種の提言づくりに関わってきました。
 著者は田中角栄首相の下で内閣参事官となりました。国会が始まると、質問を各省に割りふり、その答弁を首相宅に午前3時に届け、午前7時には家を出る。午前8時に登庁して官房長官に説明する。3時間しか眠れないので参事官だと冗談を言っていた。すごいですね。官僚を目ざしたこともある私なんか、官僚にならなくて良かったと思いました。
 厚生省に戻って、官房長となった。霞ヶ関では、自分の10の力を12と錯覚するくらいの自信がないとやっていけない。一方で、同程度の他人の力量は8くらいに見がちだ。そこで、人事に不満が生じる。それをふまえて公正を心がけるしかない。
 OB人事も官房長の仕事。うまくやらないと不満が出て、ひいては組織の士気にも影響してくる。組織を生かし、人を生かし、その家族を生かす。この理想はなかなか難しい。 平成5年、東大卒でない初めての厚生次官となった。
 内閣官房副長官の在任8年7ヶ月は、歴代最長。司法制度改革にも関わった。
 この本を読んで最後に疑問に思ったのは、これほど人柄が良くてバランス感覚抜群の人が、なぜ福祉切り捨ての福祉行政をすすめてきたのか、ということです。今や、老人は病気をかかえていても病院に長くいることができません。リハビリだって、途中で問答無用と打ち切られます。そんな冷たい福祉行政となってしまいました。すべては軍事優先(サマワへの自衛隊派遣には惜しみなく大金をそそぎこんでいます)の結果です。そのような冷たい政治の中枢に、どうしてこんな心の温かい人が中枢に座っていたのでしょうか。不思議でなりません。

織田信長、石山本願寺合戦全史

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著者:武田鏡村、出版社:ベスト新書
 織田信長と石山本願寺とのあいだの足かけ11年に及ぶ合戦の行方を詳しく追った本です。なかなか面白い内容でした。さすがの信長も宗教を敵にしたら、簡単にはいかなかったのですね。
 石山本願寺が信長に抗して挙兵したのは1570年(元亀元年)9月12日。石山本願寺は、信長軍に包囲されながらも、4万人が生活できる空間域を確保していた。
 信長は本願寺の退去をしつこく強要した。それには二つの戦略的な展望があった。まず第一に、本願寺を屈服させ、大坂から退去させることで、各地の大名と結ぶ門徒勢力の力を配下におけば、尾張、美濃、近江、京都そして摂津、河内、和泉、大和が結ばれて、織田軍の軍事と交易の回廊は瀬戸内海を通じて四国・中国・九州へと伸ばすことができる。
 信長は本願寺勢力を長袖者と侮りました。これは、法衣などの長袖をまとう坊主や、それに従う農民などの力は、いかほどのものか、という侮り(あなどり)の思いがあらわれていました。しかし、その認識がまったく甘かったことを信長はやがて思い知らされるのです。逆に信長は、四面楚歌に陥ってしまいます。
 1574年(天正2年)正月元旦、岐阜城の信長は朝倉義景・浅井久政・浅井長政の三人の首を薄濃(はくだみ。漆塗りして金粉で色づけしたもの)した三つの髑髏(どくろ)として、その前で織田家の前途を祝った。これは、真言立川流の秘儀によるもので、死者に非礼をしたものではない。7年間、安置して祀(まつ)れば、8年目にどくろに魂がよみがえってきて、神通力を与えるという風習を尊重したのです。つまり、信長は彼らのどくろを祀って、その霊力を受けて活力としたいという思いがあったわけです。
 本願寺合戦で、信長も足に鉄砲の弾を受けて軽傷を負ったそうです。初めて知りました。
 本願寺は、4年に及ぶ長期の籠城生活を余儀なくされます。それだけの本願寺の財力と、門徒衆の力、そして本願寺を支援することで信長の勢力を削ごうとする毛利などのバックアップがあって初めてできたことです。
 信長は本願寺の完全封鎖を指示すると、近江の安土山に築いていた安土城工事の監督に帰ったりしています。安土城をつくる過程で本願寺合戦が同時併行していたのです。
 毛利水軍は、焙烙火矢(ほうろくひや)という、投げつけると爆発炎上する火矢を信長方の水軍のもつ安宅船に投じた。この焙烙火矢の威力は絶大で、信長方の軍船は次々に炎上し、沈没していった。ところが、信長はこれを教訓として、2年後に焙烙火矢や弾丸をはね返す鉄板の装甲を施し火砲三門を備えた巨艦の軍船を浮かべて、本願寺の生命線を絶ってしまった。
 本願寺の門主の顕如は信長と講和し、退去して明け渡すという方針をとった。しかし、その子の教如は徹底抗戦派だった。この親子の確執については、信長の目を欺く演技だったという話もあるが、著者はそうではなかろうとしています。
 いずれにしても、信長が本当に約束を守るのか、大変な決断だったと思われます。
 本願寺の講和は、天皇の要請を受諾した勅命講和として、天皇の権威を絶対視している。これは権威や権力と一線を画してきた親鸞以来の本願寺の立場を大きく改変した。第二に、信仰の主体を門徒から宗主に切り替えた。本願寺宗主の貴人化は、このときから増幅され、加速していった。
 専制体制を開くか、中世的自由な特権を守るか、これが信長と本願寺の戦いの根底にあった。教如派の不満は、新たな本願寺の創立に向けられ、本願寺が東西に分立する大きな原因となった。
 石山本願寺合戦で本願寺が信長に屈服したことは、中世的自由民の生活の終焉であり、宗教教団が政治に支配・統制される序章となった。本願寺は、自ら内部対立を惹起したことで、やがて東西本願寺に分立する原因をつくり、それによって武家の宗教統制と身分制度の受け皿となった。
 このように石山本願寺合戦は日本の中世と近世を画する大きなエポックとなる戦いだった。なるほど、なるほど、よく分かりました。

ジェーン・フォンダ、わが半生(下)

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著者:ジェーン・フォンダ、出版社:ソニー・マガジン
 ジェーン・フォンダはベトナム戦争の真最中にベトナムに行きました。そして、北爆を受けたベトナムで少女からこんなことを言われたのです。
 私たちのために泣くことはありません。私たちはなぜ自分たちが戦っているのかを知っていますから。あなたの国、あなたの国の兵隊さんたちのために泣いてあげてください。その人たちは、なぜ戦うのかも知らないで私たちと戦わされているのですから。
 そして、別の男性役者はこう言いました。
 私たちのような小国は、アメリカ人を憎んではやっていけません。いつか戦争が終われば、私たちは友人にならなければなりません。
 ジェーン・フォンダは、少女の言葉でハッと気がつきました。この戦いは、彼らの問題ではなく、私たちの問題ではないのか、と。戦うのは簡単なのだ。だけど、平和を守るのは、戦うより難しいこと。
 ベトナム戦争では5万8000人のアメリカ人(そのほとんどは私と同世代の前途有為な青年でした)と100万人のベトナム人の生命が犠牲になった。いま、アメリカはベトナムに10億ドル以上の投資をしている。アメリカとベトナムの貿易総額は60億ドルに達し、アメリカはベトナムにとって最大の輸出市場になっている。2003年秋ベトナムの国防大臣はペンタゴンの歓迎式典で最大の敬意を払って迎えられた。ベトナムは観光でもビジネスでも、もっとも安全な国のひとつと見なされている。変われば変わるものですね・・・。私も、ぜひ一度はベトナムに行ってみたいと考えています。
 ジェーン・フォンダはベトナム反戦運動に身を入れ、とかくの批判を浴びましたが、女優としては、実は、それまで以上に花開いたのでした。そして、ジェーン・フォンダはホームビデオの世界に乗り出し、大成功をおさめたのです。実は、わが家にもビデオがありました。ジェーン・フォンダのエクササイズです。本を5冊、ビデオテープを23本もつくったというのですから、たいしたものです。1本のビデオを5日間で撮影しました。ただし、その準備には6ヶ月から1年かけたそうですが・・・。
 ジェーン・フォンダは自分が浮気をしていたことを次のように告白します。
 私の摂食障害は完璧という不可能を求めていたことの裏返しで、食べ物を体に「入れる」ことで自分の中の空虚を埋めようとしていた。過食して吐くという行為は止めても、私自身は変わっていなかった。自分の体と本気で向きあい、自分の心を包んでしまった偽りのコントロールという頑丈な容器を打ち壊さなければならなかった。
 私は食べ物の代わりにセックスに逃げ場を求めた。浮気をしたのだ。それはすばらしかったが、同時に心の傷になって残るような経験だった。いつか、この背信の報いを受けるだろうという不安に絶えずつきまとわれながら、そのくせ心地よい解放感も感じていた。ただ楽しむために誰かと一緒にいる。妻でいなくてもいい相手と一緒にいることは、私のなかのずっと死んでいた部分を生き返らせてくれた。なんという大胆な告白でしょうか。
 ジェーン・フォンダは45もの映画に出演した。本当に満足のいく演技のできた作品は、そのうち8〜9作しかない。今日は、おまえが分不相応なギャラをふんだくる詐欺師だったことがバレる日だという悪魔の声に絶えず脅えていたそうです。うむむ・・・。
 グレゴリー・ペッグが一日中くり返し練習している様子も見たといいます。役者としてのアイデンティティは、すべて周囲で用意してくれ、その日のシーンで何を考え、何を感じ、そして言う言葉まで渡される台本が教えてくれる。役者の責任は演じる人物の感覚や言葉に命を吹きこむことの一点に絞られる。これこそが難しい。だからこそ役者は、これに対して報酬が支払われる。
 役者は他者を感じ理解するために、他者の気持ちになることを要求され、この他者の目を通して物事を見ることが俳優に同情という感情を与える。芸術家が独裁者を嫌悪し、愛国者を装った独裁者にガマンできないのは、このためではないか。
 芸術家は人の心がもつ多様性を愛するが、独裁者はそれを忌み嫌う。
 私の言う親密さとは、セックスのことだけではない。セックスも親密さのひとつではある。だが、親密さのすべてではない。ときとしてセックスは快楽を目的とした単なる性器の刺激である。私の言う親密さとは、二人の人間が心を通わせあうことであり、互いに明らかな欠点があろうとも、心を大きく開いて向きあうことである。
 心を開けば人は傷つきやすくなる。だからこそ信頼が大切になる。また、自分を愛することも大切である。自分を愛せなければ、誰かと心を開きあって真に親密な関係になることなどできない。
 私は、相手が求めるとおりの女になっていた。セクシーな若い女であり、物議をかもす生活家、そして大実業家に寄り添う貞淑な妻だった。間違ってはいけない。女が男を選ぶ。男が女を選ぶんじゃない。私も、本当にそう思います。
 ジェーン・フォンダが豊胸手術をしていたというのでビックリしました。そんな必要はなかったでしょうに・・・。ところが、そのインプラントをとる手術を受けたのです。そのときの女医さんは、こう言いました。
 女性は、ある年齢になって、本当の自我が育ち、自分をもう外見で判断しなくてもよくなると、インプラントを取りたいと思うことが珍しくない。
 ここまで確固たる自己分析をされると、さすがです。心から拍手を送りたくなります。
 男性遍歴の数々がことこまかに描かれていて、そこらの小説を超えてしまいます。事実は小説より奇なり、なんていう言葉は今となっては古めかしすぎますね・・・。人生とは何かを考えたい人に一読をおすすめします。

動物感覚

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著者:テンプル・グランディン、出版社:NHK出版
 大いに目を開かされる本でした。自閉症をもつ動物科学者が動物の行動と感覚を分かりやすく解説した本です。なるほど、なるほど、そうだったのかー・・・と、思わず何度もうなずきながら読みすすめていきました。440頁の大部な本ですが、おもしろさと未知の発見でドキドキしてしまう本です。
 著者は自閉症のおかげで、動物に関して、ほとんどの専門家とちがった見方ができる。動物は私たちの思っている以上に賢い。長年、動物とともに暮らしていながら、私たちが動物の特殊な才能に気づかない理由は簡単だ。その才能が見えないということ。
 自閉症の人は絵で考える。頭の中では、まったくといっていいほど、言葉はめぐっていない。次から次へとイメージが流れているだけ。
 動物は明るい場所から暗い場所に移動するのが大嫌いだ。とても大事なことは、動物は目に見える世界にきわめて敏感なこと。
 ふつうの人の知覚系統は、見慣れているものを見るようにつくられている。
 動物であれ人間であれ、目で見て考えるタイプは、こまかいことにこだわる。動物は細部にこだわる。自閉症の人も、ものの全体よりも細部に大きく注意を向けている。動物と自閉症の人は似ているところがいくつもある。
 牛がなにか目新しいものに自分から近づいていくのは、好奇心があるから。動物はみな好奇心が強い。遺伝子に組みこまれている。好奇心が強くなかったら、必要なものを見つけたり、不要なものを避けたりするのに苦労する。好奇心は用心の裏返しだ。
 自閉症の人は、ほとんど常に音に対する鋭い感受性で苦しんでいる。大量の音から受ける影響を説明しようと思ったら、太陽を直視することにたとえるしかない。ふつうの人には聞こえない音を聞いている。たとえば、となりの部屋であめ玉の包みをはがす音が聞こえる。
 人間は意識して気づいている以上に、たくさん知覚している。不注意による見落としとしては、頭脳処理の高度なレベルで起きる。脳は、なにかを意識に送りこむ前に、数多くの処理をおこなっている。ふつうの人の脳は知覚情報が入ってくると、その正体を突きとめ、それからようやく人に情報を伝えるかどうかを、その重要性によって決定する。つまり、知覚情報を人が意識する前に脳がすっかり処理しているのだ。
 ふつうの脳は、人が望んでも望まなくても、関心のない細部を自動的にふるい落とす。自閉症の人は違う。ふるい落とすことができない。身のまわりの何千億という詳細な知覚情報が意識のなかに入りこんできて、圧倒される。めくるめくような大量のこまかい情報だ。自閉症の人は、ほかの誰も見たり、聞いたり、感じたりできないものを、見たり聞いたり感じたりしているのだ。
 動物と人間の情動の大きな違いは、動物には人間のような心の葛藤がないこと。動物は相反する感情をもたない。動物同士や人間と愛憎関係にはならない。動物は忠実だ。人を好きになったら、とことん好きだ。外見や収入など気にしない。子どもの情動も、犬の情動のように率直で、忠実だ。
 自閉症の人の感情も、ほぼ単純だ。自閉症の人の気持ちは、動物の気持ちと同じように率直で赤裸々だ。自分の気持ちを隠さないし、気持ちにゆれがない。
 動物は人間がもっているような複雑な情動を恐らくもっていない。
 脳の探索回路が活発になるのは、ついに食べ物を見つけたとき、あるいは食べているときではなく、食べ物を探しているあいだだ。探索それ自体に快楽を覚えるのだ。動物と人間は食べ物探しを楽しむようにつくられている。だから狩猟家は、殺した動物を食べるわけでもないのに狩猟を楽しむ。猟をすること自体が好きなのだ。
 遊びには新皮質がまったく必要でない。人間の子どもは誰でも成長して前頭葉が成熟するにつれて、だんだん大はしゃぎをしなくなる。前頭葉が支配的になるほど、「まじめ」になり、遊ばなくなる。
 ラブラドールは、ニューアゥンドランドの作業犬だった。氷のような水中にとびこんで漁網から魚をとってこなければならなかった。ラブラドールは水中で、魚をつかまえようとして、がむしゃらに水をかく。ラブラドールは奇妙な犬だ。恐怖心があまりなく、攻撃性が低く、社会性が高い。しかし、これは正常な組み合わせではない。
 犬をしつけるもっといい方法は、胸やおなかをくすぐったり、なでたりして、犬にとって楽しいゲームをしながら寝ころがせ、そのときに餌を与えること。こうすれば、犬は何もいやなことをされずに服従の姿勢をとる。動物に新しいスキルを教えるために罰を与えるのはよくない。ほとんどすべての場合、肯定的な方法をつかえば、動物に芸当を覚えさせたり、スキルを伸ばしたりする訓練ができる。
 犬が人間と暮らすようになったのは、人間が犬を必要とし犬も人間を必要としたから。人間と犬の関係だけでなく、自閉症の人を動物と比較することによって、人間とは何か、どういう存在なのか、もうひとつ認識が深まった気がしました。

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