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2006年6月 の投稿

愛犬王・平岩米吉伝

カテゴリー:未分類

著者:片野ゆか、出版社:小学館
 犬の集団のリーダーが決まるときの優先順位が紹介されています。第一に性別。オスであること。第二に年齢。年長優先です。第三に気性の強さ。第四に才能。敏捷な立ちまわりで優位を獲得する。最後の第五に体力。要するに、年長の雄で、気性が強く知恵のあるものがリーダーとなります。犬の世界でも、腕力だけでは上位を占めることはできないのです。なーるほど、ですね。
 平岩米吉は昭和4年(1929年)から自由ヶ丘に住むようになりました。当時の自由ヶ丘は一面の田園地帯です。お寺のほか、水田と竹藪のなかに七面鳥やブタを飼う農家が点在していました。そのなかで、1000坪の敷地に多くの犬を飼いました。フェンスで囲うのですが、金網の下は30センチほど地面を掘って埋めていました。犬は穴掘り名人なのです。
 犬は人間の言葉を理解するのでしょうか?
 犬は単語の意味をまったく理解していないわけではない。固有名詞としては、自分や家族の名前、よく訪ねてくる人の名などは覚える。普通名詞では、食物や動作に関係あるものが大部分。勉強とか進歩など食物や動作と無関係で形のないことは理解しない。動詞も、座や伏せ、待てなど犬の行動と関連のあるものほど理解度が高い。しかし、行けと行くなが正反対の意味だと認識させるのは難しい。犬が言葉を聞くときに集中するのは、言葉の初めの方で、語尾については、ほとんど気にとめていない。
 米吉は、犬が電話を通した飼い主の言葉にどのように反応するか、という実験もしています。1回目は恐がり、2回目は分かり、3回目になって命令をきいたということです。米吉は、犬にも夫婦愛や伴侶を守ろうとする強い使命感があることを発見しています。すごいですね。妻は夫の帰りを待つ。食事もしないで、ひたすら待ち続けるのだそうです。
 米吉は日本最後の狼も飼っています。
 狼は犬と違う。敏捷性が高く、顎の力が強く、興味をもったものや自分の所有物と思ったものは、簡単にかみ砕いてしまう。狼ならではの声は遠吠えのみ。
 米吉が一匹の犬を可愛がると、犬はそれにこたえる。しかし、それが行き過ぎると・・・。深い愛情は、いいかえれば相手をいかに独占するかということ。その関係に立ち入る者は自分たちの幸せを脅かす敵だ。自分以外のすべての存在が敵となる。喜びと落胆と嫉妬と警戒のなかで、常に神経をピリピリさせながらイリス(愛犬)は、米吉の愛情を貪欲に求め続けた。
 イリスの母犬が死んだとき、イリスは絶えず立って行っては動かぬ母の臭いを嗅ぎまわり、その口や鼻や目や鼻をいつまでも舐め続けていた。母犬が棺に納められ、地面の下に姿を消していくとき、イリスは目をいっぱいに見開いてガタガタと震えていた。すごい、ですね・・・。犬と人間がどれほど違うのか、考えこんでしまいます。
 犬の言葉の理解度は、個体差が大きい。その違いは、飼い主の接し方によって生じる。いい加減に放置されている犬と、主人や家族から深く愛された犬では、あきらかに後者の方がたくさんの言葉や複雑な表現を理解できるようになる。
 フィラリアにやられて死んだうちの飼い犬(柴犬)は頭が悪いと思っていましたが、飼い主のレベルをちゃんと反映していたのでしょうね。バカな主人にはバカな犬が似合う、というわけです。でも、まあそれなりに可愛いがっていましたし、今もお盆にはきちんとお墓まいりはしています。
 犬は笑うのか? 実は、笑うのだそうです。うれしいときだけでなく、恐縮したとき、困惑・恐怖を感じたときも笑うのです。
 犬とともに生活した昭和の愛犬王の愉快なお話です。

信長とは何か

カテゴリー:未分類

著者:小島道裕、出版社:講談社選書メチエ
 すこぶる知的刺激にあふれた本です。ものすごく面白く、うん、こうでなくちゃいけないな。うなずきながら、頁をめくるのがもどかしいほど読みふけってしまいました。
 美濃の斎藤道三が信長に会見を申し入れたとき、大たわけと世間から見られていた信長(当時20歳)は、お寺に入る前は奇抜な格好をしていたが、寺に到着するとすぐに、屏風をめぐらして髪を結い直し、誰にも気づかれずにつくっておいた長袴をはいた正装で道三の前にあらわれた。道三の裏をかいたのである。
 桶狭間合戦についても、通説をコテンパンにやっつけています。今川義元は上洛しようとしていたのではない。そして谷間に陣を構えていたのではなく、桶狭間山に陣どっていた。今川義元はそれなりの人物だった。馬鹿にしてはいけない。信長は、雨のなかでなく、雨のやんだあと、低地から高地へ攻め上がった。それも少人数で正面突破をはかった。
 信長はその作戦を家臣たちにはかることなく独断専決した。あらかじめ家臣たちに明らかにしたら大反対にあうことが必至だったからだ。まわりに事を諮らず、家臣たちの常識は無視するのが信長のやり方だった。信長の作戦がうまくいったのは、はなはだ幸運だったから。これは藤本正行「信長の戦争」(講談社学術文庫)と同じ説です。
 信長の居館が山上におかれた岐阜城には、私ものぼったことがあります。麓にも屋敷がありましたが、家族は山上の館で生活していました。それにしては、かなり険しい山です。
 信長は客人と会うのを、山上から山麓への道の途中で出会うという独特のやり方をとっていた。これは、信長が身分にとらわれない人間だったので、格式と関係なく人に会うことのできる路上での面会を好んだからだ。
 信長が攻めた朝倉氏の館があった一乗谷にも行ったことがあります。発掘がすすんでいて、往古をしのぶことができます。一見の価値がありますので、ぜひ見に行ってください。
 信長の最期の居城となった安土城にものぼりました。このことは前にも紹介しました。
 信長は安土城で、天主を自らの居所としていた。天主に住んだ大名は信長くらいだろう。人目を奪う天主は、信長そのもの。自らを神格化しようとしたのだ。
 いま天主跡を訪れると、意外に狭い感じがするが、そこは、この地下倉庫の内側部分で、しかも、周囲の石垣は上部が崩れているから、それを補って想像しなければならないのである。そうなんです。天主跡は案外に狭くて、私はビックリしてしまいました。
 安土城の本丸御殿は、実は天皇を迎え入れるための施設だった。天主にいる信長が天皇の御殿を見下す位置にいることになる。明らかに、「天皇を従える信長」という構図だ。
 信長は官位に就かなかったが、朝廷の方が無冠では困るとヤキモキしていた。そこで、信長は、太政大臣か関白か将軍かのいずれかを推任するよう朝廷に要求した。これは、「なれるのだが、ならない」という信長の作戦だった。つまり、将軍に推任してくれといったら、もう断ることができない。しかし、「いずれかに」と言っておけば、どのような回答をするのも自由である。官職に任命された権力者となってしまえば、それ以上の者にはなれなくなってしまう。それは朝廷という権威に対する最後の切り札であり、可能な限りそれを引き延ばして、優位を得ようとしたのだ。なるほど、そういうことなんですか・・・。
 信長は、独裁者にありがちだが、人の言うことをまったく聞かない。とくに家臣に意見をされることは極度に嫌う。コミュニケーションがないから、人の不満に気づくのが遅れる。だから、予期せぬ相手がすぐ身近で反旗を翻す結果になってしまう。
 信長は、およそ政権と言えるだけの組織は何もつくらなかった。副官も奉行も何も置かず、すべてを信長が決裁する体制を続けていた。
 信長は各地を征服すると旧来の領主を登用せず、直臣を方面軍として配置して支配を委任し、最終的な権限は信長が持つという支配方法をとった。その結果、信長軍は各地に分散し、中央の信長周辺には軍事力がなくなってしまうことになり、それが本能寺の変を可能にした一つの背景となっている。
 50代も後半になってから上野の統治を命じられた滝川一益を見て、自分も丹波経営に苦労した光秀が、これから先どこに飛ばされるか分からないという不安を抱いたという推測はあたっている。恐らく、そういうことなんでしょうね・・・。
 戦国時代は、戦乱で疲弊しきっていたのではなく、むしろ社会に力がみなぎり、経済が非常な勢いで上向いていて、新しい社会的な枠組みをつくる機運が湧き上がっていたとみるべきだ、という著者の指摘には、ガーンと頭を一発たたかれたほどの衝撃がありました。そうだったんですか・・・。これからは映画「七人の侍」の味方も少し変えなくてはいけないようです。

ベルリン1919

カテゴリー:未分類

著者:クラウス・コルドン、出版社:理論社
 第一次大戦後のベルリンの状況が庶民生活を通して見事に描き出されています。第二次大戦に至るまでのドイツをあとづけようとする意欲的な大河小説3部作の第一弾です。 660頁もあり、ずっしりと読みごたえがあります。
 ドイツ帝国の首都だったベルリンには200万人をこす人々が生活していた。その人々の1918年冬から1919年冬までの1年間が詳しく語られる。
 ドイツ帝国は戦争をしている。しかし、水兵たちが反乱を起こした。労働者も、戦争をやめさせるためにストライキをしている。片腕をなくした父親が戦場から帰ってきた。周囲には戦没者通知書がどんどん届いている。戦争のせいで、みんな、ひもじい思いをし、凍えている。
 皇帝と将軍たちは勢力圏が広がる。戦争で得をするのは資本家たちだ。戦争はいい商売になる。武器と弾薬はすぐに消費するから、どんどん新しいのがいる。つくるのは工場、買うのは軍隊だ。新しい大砲と弾薬が次々に前線に送られる。そして、その武器で、外国を征服するのだ。だけど、オレたちには関係ない。外国を占領して、オレたちに何の得があるか。得をするのは、またしても資本家だ。そこには石炭や鉄や畑がある。もちろん、製品を売る市場もある。
 そうです。ドイツに社会主義の考え方が広まっていました。しかし、子どもたちの通う学校には、帝国に忠実な教師もいて、ちょっとでも反抗すると、手きびしい体罰を加えていたのです。
 ドイツの社会主義にも派閥がありました。もっとも先鋭的なのはスパルタクス団です。そのリーダーのリープクネヒトは、刑務所に何年も入れられていました。
 11月9日、ドイツ革命が始まり、兵士と労働者が手を組んで立ち上がった。皇帝は退位して外国へ亡命していった。しかし、革命主体がバラバラで、抗争にいそしんだ。
 エーベルトが政治の実権を握るかぎり、将軍と資本家が一緒に政治をするってこういうことなんだ。こんな嘆きが、労働者から聞こえてきます。
 エーベルトは、諸君、すぐに平安と秩序を取り戻さなければ、国民の食料を調達することもままならない。労働者が完璧な勝利をおさめるためにも、平安と秩序が不可欠である。こう演説し、国民の支持を広げた。
 スパルタクス団は少数派だ。内輪もめはたくさんだ。これ以上血を流すのはたくさんだ。平和とパンが欲しい。労働者の切実な声が、強硬派を抑えこみ、反革命がはじまった。
 祖国は崩壊の危機にある。みんなで救おう。敵は外にはいない。内側にいる。スパルタクス団だ。スパルタクス団のリーダーを殺せ。リープクネヒトを殺せ。そうすれば、平和と職場とパンを手にすることができるだろう。
 こんなポスターが貼られるようになりました。
 ローザ・ルクセンブルグが解放されたのは11月8日のことだった。準備が足りなかった。人々の気分をつかまえることができなかった。指導部のいない、気分だけの革命は人々を悲惨な目にあわせ、失敗に終わる。こんな短い期間に、どうやって兵士を味方につけられるっていうのか。連中は、何十年間も、別のことを頭にたたきこまれているんだ。それを数日でくつがえすことなんて、できるか。
 ローザ・ルクセンブルグは虐殺され、遺体はずっと発見されなかった。リープクネヒトは、殴打されたうえ、森を走らされ、後ろから撃たれて殺された。殺人犯たちは軍事法廷で2人が軽い禁固刑を受けただけで、他の者は無罪となった。なんと1962年に国から賞賛もされているというのです。呆れてしまいます・・・。
 重苦しい雰囲気の本です。当時のドイツを決して忘れてはいけないということなのです。
 歴史を学ばないものは盲目と同じだ。格調高いドイツのワイツゼッカー大統領の演説を思い出します。
 日曜日に、フランス語検定試験(仏検)準一級を受けました。なんと10回目、つまり10年前から受けているのです。とても難しくて、ウンウン頭をひねります。年に2回、できない受験生の気分を味わっています。それでも10回目ですので、自己採点では6割をこえ、75点でした(120点満点)。ペーパー試験をパスしたら口頭試験が待ちかまえています。すっごく緊張します。ボケ防止なのですが・・・。

典子44歳、いま伝えたい

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著者:白井のり子、出版社:光文社
 映画「典子は、今」の主人公は今44歳。結婚して、2人の子どもの母親として元気です。私は、本を読みながら、涙腺がゆるんで仕方がありませんでした。
 幼いころ、いじめにあった話も出ています。それでも、ともかく前を向いて生きてきた典子さんの話に心を打たれるばかりでした。最近、ちょっと元気をなくしたな、なんて思っている人には最適の本です。きっと明日に向かって生きる元気が湧いてくると思います。
 典子さんの長女は福岡で勉強中とのことです。長男はまだ小学校5年生。典子さんと子どもたちのうつった写真も紹介されています。お母さんそっくりの長女で、一瞬、どっちが典子さんか分かりませんでした。
 典子さんは、話し方教室に2年間、週2回、休むことなく通ったそうです。それだけでもたいしたものですが、おかげで講演で堂々と話せるようになりました。典子さんは、 26年間勤めた熊本市役所を退職していま講演活動を始めています。私もぜひ一度、典子さんの話を聞いて、彼女から元気をもらいたいと思います。
 典子さんのお母さんは看護婦。眠れないため睡眠薬を常用していたところ、サリドマイドが入っていたのです。典子さんが生まれたのは1962年1月27日。母親と赤ちゃんが対面したのは、なんと生まれてから50日目。その間に、典子さんの指は切除されていました。
 子どものころの典子さんは、まったく手のかからない子どもだった。いい子にしていないと母親から見捨てられるかも・・・と子どもながら自己防衛していたのかもしれない。
この世に頼れるのは母親ひとりきりですから、その母親に嫌われないよう、いい子にふるまったのではないか・・・。そう書かれています。きっとそうなのでしょうね。
 典子さんは足でなんでもできるようになります。母親は、それをほめて、ほめまくります。足で絵を描くと、うまいね、芸術家だね。そうほめてもらったそうです。
 1968年。小学校に入学するのも一騒動でした。結局、小学校に入れたのですが、昼休みの時間に母親にトイレの介護に来てもらったのです。学校でのトイレは一回だけということなのです。大変なことです。それを中学、高校まで一日も欠かさず続けました。母親の努力に頭が下がります。母親は看護婦ではなく、昼休みに学校に行けるような仕事をしたのです。
 典子さんは中学生のとき、友だちの心ない言葉に傷つきました。言った本人は自覚がなかったのかもしれませんが・・・。その体験から、眼が沈んだ子どもを見かけたら、優しい笑顔で、そっと「だいじょうぶ」とささやいてあげてください、と書いています。
 高校生のころは編み物・縫い物が得意でした。珠算も三級を取ったのです。すごーい。
 典子さんが映画に出演したのは19歳のとき、1981年のことです。母親は、家庭内の事情に立ち入らず、また家庭内を撮らないという条件をつけました。なるほど、ですね。
 広島まで行くシーンがあります。熊本駅で切符を買う。どうやってか・・・。典子さんは、切符の自動販売機の前に立って通り過ぎる人を物色します。頼んだら必ず手伝ってくれる人を探すのです。もちろん勘です。自分の勘を信じるのです。一発必中でした。
 私はこれを読んで、自分の胸に手をあてました。私は典子さんのおメガネにかなう自信がありません。いつもせかせかしていて、なんだか他人の世話を焼くようにはとても見えないのではないだろうか・・・、と。
 映画の試写会には今の天皇夫妻も見に来ていたそうです。実は、私は残念なことにこの映画をまだ見ていません。サンフランシスコ映画祭で2度もグランプリに輝いたそうです。10年間にわたって世界の人々に勇気を与えたというので、 10年後にも受賞したのです。すごいことですよね、これって・・・。
 映画は大変な反響があり、ついに典子さんの勤務先に見学者があらわれるようになりました。典子さんにとっては大迷惑だったでしょう。でも、彼女の働いている姿を一度見てみたいと私も思ったことです。ですから、見物人をあまり責める気にはなれません。一日800通、一ヶ月に3万通の手紙が届き、6畳の部屋にぎっしり積み上げられたといいます。
 典子さんは21歳のとき、縁あって結婚しました。彼の両親はすぐ賛成したのに、典子さんの母親の方が反対したのです。人並みに家事ができるのか、育児ができるのか。その心配もよく分かりますよね。しかし、ちゃんと家事も育児もできたのです。そして、足だけで運転する車にも乗れるようになりました。
 典子さんは、自分が障害者であるとは思っていません。これも、すごいことです。
 こう書いているだけでも、なんだか生きる勇気がわいてきます。典子さんと子どもたちの笑顔が実に素敵です。
 アガパンサスの青色花火のような花が咲きはじめました。梅雨空によく似合う花です。東京の日比谷公園に見かけたとき、つい声をかけてやりたくなりました。

不老不死のサイエンス

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著者:三井洋司、出版社:新潮新書
 赤血球には寿命がある。120日。人間の身体に流れている血液中には、1マイクロリットルあたり、男性で420万個以上、女性で380万個以上の赤血球がある。1日につくられる赤血球は、なんと、2000億個。この赤血球には核がない。
 ところが、神経細胞は分裂しないので、ヒトが死ぬまで生き続ける。神経細胞には核がある。
 クローン生物をつくるときには、初期化の作業をする。スイッチが入る元の状態に戻す。
 ドリー(羊)の場合、初期化のために核を使用する乳腺細胞を飢餓状態に置き、いったん活動を停止した状態にさせた。そして、脱核卵子にその核を入れるときに、電気ショックと栄養を与えて、細胞核の活動を再開させた。この方法で初期化できるのは、細胞が飢餓状態になると、遺伝子が働きにくくなる。体細胞は、特定機能以外の遺伝子が働かないよう、使われない機能の遺伝子をロックしていたが、危機状態に陥ると、そんな悠長なことも言っていられなくなり、生き残るために、この際、ぜんぶ開けておこうとしたのだろう。こうして全能性をもたせた。ところが、ドリーは早く死んでしまった。その早すぎた死は、初期化が本当に完全ではなかったからではないか・・・。これまでつくられたクローン動物が完全に寿命をまっとうした例はない。マウス、ネコ、ブタ、ウシ、サル、いずれも、そうだった。なるほど、そういうことなのか・・・。
 カロリー制限は、下等生物から高等生物に至るまで、現在では、もっとも確実に寿命を延ばすことのできる方法である。カロリーを70%に制限すると、寿命が延びることが実証されている。
 100歳以上の高齢者を百寿者という。1950年には100人足らず。1970年でも300人あまりだった。ところが、1997年には8500人近くになった。その後も、急増し、2005年には2万5554人になった。
 エストロゲンというホルモンは、女性の生殖機能が続くときには必須だが、閉経後には分泌が減少する。それを補うと称して若いときの濃度を維持しようとすると、乳ガン、子宮ガンの危険が大変増える。
 スポーツ選手の特殊な能力は、遺伝で決まっていることが多いのは事実。もちろん、素質だけではなく、厳しい訓練も必要。訓練の過程で、素質があることを監督が見抜いて一流の選手へ育てていく。
 ヒトの遺伝子には、40億年の環境変化にどう対応してきたかという経験が詰まっている。いま使われていない遺伝子、必要ないと思われている遺伝子が、いつどんなときに力を発揮するかは、環境が変化してみないと分からない。つまり、種が存続するために大事なのは、今日現在すぐれていると思われている遺伝子に統一されていくことではなく、あらゆるタイプの、あらゆる特性をもった遺伝子が、今も生き続けているということ。大きな環境変化に対応できるよう、これからも否定されることなく生き続けていくことが大切にされなくてはならない。
 多様性の尊重って、ヒトが生き延びていくために絶対に必要なものなんですね。よく分かりました。

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