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2006年5月 の投稿

スターリングラード

カテゴリー:未分類

著者:アントニー・ビーヴァー、出版社:朝日新聞社
 実にすさまじい戦場です。ヒトラーとスターリンの非情さが、これでもかこれでもかと繰り返し描かれています。それでも幸いなことにファシスト・ナチスは敗れてしまいました。また、暴虐・冷酷なスターリンの誤った作戦指導にもかかわらず、無数のロシア人が祖国ロシアに生命を捧げ、祖国を救いました。
 この本のすごいところは、スターリングラード戦に関わった将兵の日記や手紙を数多く紹介し、戦場の模様が刻明に再現されているところです。もちろん、参加者の戦後の回想録や手記からも引用されているのですが、ドイツ兵の手記や家族に宛てた手紙がソ連軍の手に落ち、記録庫に眠っていたものが日の目を見ているのです。捕虜の尋問記録も活用されています。ですから、当時の前線兵士たちの心理状況が手にとるように分かります。両軍とも、敵軍の内情を知るため、捕虜の尋問結果には相当の注意を払ったようです。
 スターリングラードでは、5万人をこえるソ連市民がナチスドイツ軍の軍服を着てソ連軍と戦った。むりやりというより、大半は志願者である。これは、今のロシアでもタブーとなっている。これは、それほどスターリンの懲罰部隊はひどかったということを意味している。最前線で少しでもドイツ軍への攻撃をためらうものは背後から射殺された。スターリンは臆病者はその場で射殺するという命令を発した。退却を許可した指揮官は階級章を剥奪され、懲罰中隊に入れられた。この懲罰中隊は、攻撃中の地雷撤去などの自殺行為に近い作業につかされる。42万人以上の赤軍兵士がこれで死んだ。臆病者・脱走兵を射殺するためNKVD特別局がつくられた。ドイツ軍兵士は、部下の命を実に粗末に扱う赤軍司令官の態度に絶えず驚かされた。
 スターリンの誤ちはあまりにも大きい。1941年6月、ヒトラーはソ連へ侵攻し、バルバロッサ作戦を始動させた。モスクワでは、スターリンが、それを知らせる緊急通知をすべて却下していた。「挑発」に乗ってはいけないと命令したのだ。ドイツ軍は、戦車3350両、野戦砲7000門、航空機2000機。そのうえ、フランス陸軍の車両をつかって輸送力を高めた。トラックの70%はフランスからもってきていた。また、60万頭の馬もつかった。
 ドイツ軍の侵攻から5日間で、30万人をこえるソ連赤軍兵士が包囲され、2500両の戦車が破壊・捕獲されてしまった。2000機の航空機も破壊された。
 スターリンの犯した誤りは大きかったが、その個人的名声は、一般大衆の政治的無知のおかげで助かった。スターリンのせいでソ連軍が敗れたとは思わなかったのだ。しかし、最初の3週間で、ソ連が失った戦車は3500両。航空機6000機、赤軍の兵士200万人。ドイツ軍の捕虜となったソ連赤軍兵士570万人のうち300万人が虐殺によってドイツの収容所で死んだ。アウシュビッツで1941年9月3日、600人のソ連軍捕虜がチクロンBをつかったガス室で殺された。最初の実験対象とされたのだ。
 ドイツ空軍による1942年8月のスターリングラード大空襲は、出撃回数1600回、投下した爆弾1000トン。損害は3機のみ。当時のスターリングラードの人口は60万人で、わずか1週間で4万人もの市民が殺された。
 反撃にうつったソ連軍は怒濤のごとくT34戦車と武器貸与政策によるアメリカの戦車をくり出した。アメリカ製の戦車は車高が高く、装甲板が薄いので、ドイツ軍から簡単に撃破された。ドイツ軍は戦闘中に3000人のスターリングラード市民を処刑し、6万人もの市民を強制労働につかせるためドイツ本国へ輸送した。
 ドイツ軍の第一線部隊には、その兵力の4分の1位以上にあたる5万人ものロシア補助兵がいた。その数は次第に増え、7万人にのぼるとみられている。ヒーヴィと呼ばれるドイツ軍に所属するロシア兵の多くは志願した地元住民や脱走した赤軍兵士たちで、ドイツ兵なみに厚遇された。
 映画「スターリングラード」に出てくる狙撃兵ザイツェフも紹介されています。ドイツ兵を149人も射殺したのですが、さらに224人殺した狙撃兵が別にいました。
 包囲されはじめたドイツ兵のうち、17歳から22歳という最年少の兵士がもっとも病気にかかりやすく、死者の55%を占めていた。太っていた兵士がやせた兵士より弱く、包囲戦のなかで、いち早く死んでいったことも明らかにされています。
 スターリンには、ヒトラーと違って、恥という観念がなかった。大失敗を犯したあと、いささかも取りすまさず、ジューコフの反撃作戦を承認した。
 ドイツが毎月500両の戦車を生産していたとき、ソ連は月平均2200両の戦車を生産した。航空機も、年に9600機から1万5800機に生産を増やした。ヒトラーは、このソ連の生産能力を信じることができなかった。ヒトラーがドイツ女性を工場で働かせるという考えを容認しなかったとき、ソ連では何万人もの女性が戦車の生産現場にいた。
 スターリンの反撃作戦は厳重に秘匿してすすめられた。100万を超える兵が前線に終結した。
 1942年11月。スターリングラードのドイツ軍はソ連赤軍によって包囲された。ヒトラーはそのニュースをドイツ国民に知らせないという厳しい指示を出した。しかし、ドイツ国民にはすぐにひそかに知れわたった。12月、スターリングラードに本格的な冬将軍が到来する。ドイツ軍は十分な冬支度ができていなかった。
 包囲されたドイツ第六軍は使者をヒトラーへ送った。軍部内の反ヒトラー運動への使者でもあった。ナチス・ドイツ軍のなかにも従来のドイツ軍の考え方に立ち、反ヒトラーの動きもあったことが分かります。これが後に、ヒトラー暗殺事件へつながっていきます。
 しかし、ヒトラーは第六軍の撤退も降伏も認めない。ヒトラーは、上級将校全員の集団自決を期待していた。ドイツ第六軍の指揮官パウルスは最後の瞬間に元帥へ昇進した。1943年1月31日、パウルスは降伏した。この時点でも、ドイツ軍に所属していた多くのヒーヴィ(ロシア人)はドイツ軍に忠実だった。
 ドイツ軍のパウルス元帥以下は、部下の将兵たちと異なり栄養状態も良く、そのまま特別待遇を受けた。スターリンは、将軍22人を含む9万1000人の捕虜を得た。
 スターリングラードでのドイツ軍壊滅のあと、ミュンヘンの学生グループが「白バラ」運動と呼ばれる抵抗運動をくり広げたが、すぐに逮捕され、ゾフィー・ショルと兄のハンスは死刑判決を受けて斬首された。
 ヒトラーは、スターリングラードの壊滅のあとは、テーブルについても以前のように長広告をふるわなくなり、一人で食事をするようになった。ひどく変わった。左手が震え、背中は曲がり、じっと凝視するが、飛び出した目には以前のような輝きはない。頬に赤い斑点が浮かんでいた。
 スターリングラードでの勝利で、ソ連の士気は大いに高まった。スターリンにはソ連元帥に任命された。1941年のスターリンによる惨禍は、あたかもスターリンがすべて考案した巧妙な計画の一部であるかに粉飾された。スターリンは、今や「ソ連人民の偉大なる指導者」「我らを勝利に導いた天才」とほめたたえられる存在になった。
 ドイツ将兵9万1000人の捕虜の半数は春を待たずに死亡した。
 ドイツ軍の死亡率にはきわだった違いがある。兵士と下士官の95%が戦死、下級将校の55%も戦死。ところが、上級将校の死亡率はたった5%。ええっ、信じられませんね。
 ロシア人にとってドイツとの戦争によって900万人に近い赤軍兵士が戦死し、
1800万人が負傷した。ドイツ軍の捕虜となった450万人の赤軍兵士のうち生還したのは180万人のみ。ソ連市民の死傷者は1800万人、ソ連の戦争犠牲者は2600万人をこえる。これはドイツのそれの5倍以上。
 1945年から、スターリングラードのドイツ兵捕虜3000人がソ連によって釈放されていった。最後は1955年9月。パウルスは1957年にドレスデンで死亡。
 実によく調べてある本です。読み終えると、精神的にぐったり疲れてしまいました。戦争の悲惨さ、馬鹿馬鹿しさが本当によく分かります。前線の兵士は自主的に考える力を奪われ、指揮官は自己の保身を真っ先に考える世界なのです。これは、軍隊については古今東西とこも変わらぬ真理です。前に紹介した「ベルリン」と同じ著者による本で、読みごたえがあります。私は3日間、もってまわって読み通しました。

戦後裁判史断章

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著者:竹澤哲夫、出版社光陽出版社
 著者は私の尊敬する弁護士の一人です。何度も講演をお聞きする機会がありましたが、いつも謙虚そのもので、真に才能があって、優れた実績のある人は違うなとそのたびに感服させられました。
 弁護士生活55年をふり返り、これだけの本が書けるというのは、本当にすごいことです。私も、これで弁護士生活は32年目になっていますが、質量ともに、著者の足もとにも及びません。
 まずは軍事裁判です。いま、裁判員裁判によって連日開廷が実現しそうになっていますが、終戦後のアメリカ軍による軍事裁判は週3日開廷、期日変更を許さない午前9時から午後3時までの審理でした。これは大変なことです。しかも被告人が18人(朝鮮人16人、日本人2人)もいたというのですから・・・。
 軍事裁判は警視庁の5階で開かれた。連合国の旗を背景とするものの、裁判官も検察官も警備のMPも制服の米軍人だった。布施辰治弁護士が審理の冒頭で、「少なくとも朝鮮へ行ってきた裁判官は朝鮮人を裁判する裁判所を構成する資格はない。裁判の公正を期するが故に質問する」と前置きし、5人の米軍人裁判官ひとりひとりに対して「朝鮮へ渡って戦争に参加したことはないか」と質問した。その結果、2人が朝鮮での戦闘参加を認めて裁判官席から去った。これは、朝鮮戦争のさなかのことであり、朝鮮人に対して米軍はあたかも捕虜に対するようなさっきがちらついていた状況下のこと。南への強制送還は死を意味していた。何か戦場の延長のような一面をもった雰囲気のなかでの布施弁護士の、何ものにも臆しない、道理をつくした申立に強い感銘を受けた。
 私は、この文章を読んで、本当に腰が抜けるほど驚いてしまいました。裁判官に向かって堂々と質問したこと、その結果、2人も裁判官が交代したなんて、とても信じられないことです。
 騒擾事件として有名な平(たいら)事件の場合は、1951年秋から、毎週月火の2開廷を3週間続けて1週休み、月に6開廷のペースで3年続けたそうです。被告人は、なんと150人あまり。一審判決は全員無罪となりましたが、控訴審は逆転有罪となり、上告審は弁論はあったものの、上告棄却の判決でした。
 平事件では、裁判所は平事件専門の部を構成しているから月8回開廷するという方針を変えようとしない。しかし、それでは被告人は生活ができない。裁判をそんなに頻繁に強行するのなら日当を出せと要求した。弁護人はそれはいくらなんでも・・・と絶句してしまう。
 生活が苦しくて法廷に出られないという被告の訴えは、結局、裁判における当事者の対等を奪い、それは裁判の公開をも奪う。だから、当事者の対等を維持して公正な裁判をするには、月8回開廷というのは裁判所が間違っているという主張なのだ。先輩の岡林・大塚弁護士から指摘された。
 裁判所もやがて徐々に被告らの真意や実態を理解するようになった。被告に日当を出せ、という切実な訴えは、裁判所が失対当局に裁判日当も日給を支給してほしいという行政的解決をもたらした。うーん、そんなこともあるんですね・・・。まったく考えられもしない発想です。
 法廷において、弁護士同士のあいだには、経歴の新旧、長幼序はない。弁護人として公判にのぞむからには、それぞれが被告に対し、大衆に対し、たたかいの全体に対して責任をもつとともに奮闘するのだ。個人プレーは無縁だ。
 著者はいくつもの再審無罪事件に深く関わっています。財田川事件というものがありました。そのなかに被告人の捜査段階の「自白」のなかに、「百円札80枚を逮捕されて押送途中に気づかれないようにポケットから取り出し自動車の外に投げ捨てた」というのがあったそうです。同乗警官が7人も8人もいるのに、札束を投げたのに気がつかなかったなんて、そんなバカな・・・、と思いました。でも、それで自白調書として堂々と通用していたというのですから、驚きです。
 刑事弁護人の心構えとして、著者は先輩弁護士の話を引いています。テクニック以前の問題として情熱だ。この被告人がもし自分の兄弟だったら、自分の子どもだったらと考える。そうすると、情熱が湧いてくる。なるほど、ですね・・・。
 徳島事件について、警察は一貫して外部犯行説であったのに、検察庁だけが妻であった冨士茂子さんを犯人として起訴した。実の娘も外部犯行説を裏づける証言をした。そして、母親とずっと一緒に生活していた。母親が「父親を殺した」のなら一緒に生活なんてできるはずがない。そして、その娘は、「私は裁判というもの信じていません」と証言し、再審には加わらなかった。徹底した裁判所不信を植えつけてしまった・・・。
 いろいろ本当に学ぶところの大きい本でした。多くの弁護士に読まれることを願います。

生物時計はなぜリズムを刻むのか

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著者:ラッセル・フォスター、出版社:日経BP社
 ヒトは、時計をもたずに暗い洞窟に入り、日光の届かない状態で数日過ごすと、遠い昔の生活パターンに戻る。時間を知る手がかりを失うと、ヒトのリズムは外界から徐々にずれていく。
 地球上の時間が体内の時間に正しく反映されるよう、生物時計は毎日の日の出と日没によってリセットされる。ちょうど、テレビやラジオの電波をつかって原子時計の正確な振動に腕時計をあわせるのと似ている。このたとえは、今や古くなってしまいました。私も、安い電子時計をもっています(もらいものです)。衛星から送られてくる電波によって、自動的に時刻を自分であわせる仕掛けになっています。
 機械式時計が地球上にあらわれたのは1300年ころのこと。花時計の方は1751年にできた。オニタビラコとタンポポの花が、毎日誤差30分以内の周期で開いたり閉じたりすることに目をつけて、オトギリソウ、マリーゴールド、スイレンなどを円形に植えてつくったもの。たとえば、ミモザも暗いところに置いても、その葉は、まるで昼夜が分かっているかのように周期的に開いたり、閉じたりする。
 ゴキブリも、暗いなかにおいても、およそ24時間ごとの2〜3時間に活動を集中させる。自分のなかで昼と夜を区別している。
 ハチの「8の字ダンス」は有名です。今ではハチの一匹一匹に小さなバーコードをつけ、巣箱を出入りしたらレーザースキャナーで個体を識別している。ええっ、そこまでしてるのかー・・・、おどろきました。探索バチが巣に戻る時間が夕方遅くなって、ほかのハチがもう出かけられないとき、どうするか。その日はダンスを踊らず、翌朝ダンスする。そして、距離を示す尻振り回数や太陽に対する方向を覚えていただけでなく、12時間の時間差まで正確に補正してみせた。なんという能力でしょうか・・・。
 ニワムシクイという鳥に、時間ごとにエサの置き場所を変えると、鳥は決まったパターンで飛んでいくようになった。では、この鳥を3時間エサ場に行かせなかったら、どうなるか。3時間後に放たれた鳥は、その時間にエサのある場所にまっすぐ飛んでいった。つまり、ニワムシクイは、3時間という時間をきちんと認識して、それにあわせて自分の飛行スケジュールを調整したのだ。うーむ、すごーい・・・。
 ヒトの体内では、1個1個の原子が1016ヘルツで振動している。
 17年セミがいる。このセミの幼虫で、15年間を地中で過ごした幼虫をとりだし、1年に2回花をつけるように操作した桃の木の根から栄養を取らせるようにした。すると、セミは1年早く地上に出てきた。セミは木の根から栄養を取りながら、木の生理学的な変化を感知し、年数をカウントしていることになる。でも、どうやって、カウントした数を覚えているのか、謎のままだ。
 砂漠のラクダはどうやって高温に耐えているか。ラクダの体温は昼は41度にもなるが、まだ死ぬほどではない。夜は、水分を失ったラクダの体温は34.2度まで下がる。これはヒトにとっては危険状態。しかし、ラクダにとって体を冷やしておけば、翌日、体温が高くなるまで長い時間かかるという利点がある。つまり、ラクダは、体を保護するため夜間の低体温症を利用しているということ。そうなんですか、すごい生物の仕掛けですよね。
 ヒトは基本的に昼行性動物である。ヒトは、本来、夜には活動しない。体のあらゆるリズムは24時間の昼行性リズムで動いており、短期間で夜行性のパターンに順応することはできない。午前3時に単独事故を起こす確率は、夜勤を4日続けると、50%上昇する。午前7時から8時には、さらに高くなる。
 チャレンジャー号の爆発事故の直前、NASAの主要スタッフの睡眠時間は2〜3時間であり、しかも、24時間、連続勤務していた。
 フィンランドの客室乗務員の乳ガンの有病率が高いという統計もある。
 ヒトと生き物の時間に対するかかわりを考えさせる本でした。
 百合の花が咲きはじめました。朱色の百合、そして白にピンクのふちどりのついた百合です。大輪のカサブランカを植えたこともあるのですが、見あたらなくなってしまいました。ヒマワリがぐんぐん伸びています。家の近くの小川にホタルが乱舞しています。いつ見ても心がなごみます。

山内一豊と千代

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著者:田端泰子、出版社:岩波新書
 戦国武士の家族像というサブタイトルがついています。
 山内一豊の妻・千代に対して内助の功と呼ぶのは正しくないと著者は指摘しています。
 戦国期の妻は、化粧料として特有財産をもち、夫とは対等な人格であった。一豊と千代の関係は、手柄を立てて出世する夫と、それを献身的に助ける妻という夫婦ではなく、妻に特有財産があって政治情勢も把握している、双方ともに賢い夫婦の共同歩調で獲得した出世だった。
 現代と戦国時代とのもっとも大きな差異は、戦国時代には妻の地位と役割の重かった点、妻が家庭にいて社会的活動をしていないという姿ではなかったという点にある。妻も夫も一緒に知恵を働かせ、大まかな役割分担をしながら、時代の変化に対応する手だてを考えたのであり、大まかな役割分担は相互に移行可能であったので、夫が亡くなり、後継者が幼い時には、妻が亡き夫に代わって後家として家を管轄した。妻は夫のパートナーであると同時に、夫のよき代理者でもあったというのが戦国期の夫婦の実態だった。「内助」の意味は現代とは大きく異なっている。
 戦国時代の婚姻はつねに離別を前提とした政略結婚だったというのも正しくない。婚姻関係を結ぶことによる家と家との平和的協力関係こそが、戦国期の武士階級の婚姻の目的だった。
 戦国期に生きた女性には男性と同じ賢さ、判断力、持続的な努力や忍耐力が、現在以上に必要だった。人形のように主体性のない一生を送ることは時代が許さなかった。
 鎌倉期の女性は、男性と同じく、所領や地頭職を持っていて、それを自分の意思で子孫に譲ることができた。
 日本の女性は古代だけでなく戦国期も、やはり強かったのです。

スウェーデンに学ぶ「持続可能な社会」

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著者:小澤徳太郎、出版社:朝日新聞社
 スウェーデンは「人間社会の健全性」と「エコシステムの健全性」のバランスがもっともよくとれていると評価され、「国家の持続可能性」1位にランクされた。日本は24位、アメリカは27位。
 スウェーデンの国土は日本の面積の1.2倍。人口は901万人なので、神奈川県や大阪府に相当する小さな国。
 スウェーデンの行動原理はきわめて常識的で、単純明快。あたりまえのことを、あたりまえのこととして実行する。たとえば、スウェーデン政府は、「地球は有限」を前提として、「経済は環境の一部」と見なしている。
 スウェーデンは、1813年のナポレオン戦争以来、戦争に参加していない。アメリカのイラク戦争にも軍隊を派遣していない。
 物流システムは、IT革命がいくら進もうとも、実体経済のなかで、必ず重要な地位を占める。消費者や事業所への配送ニーズは、これまで以上に高まるだろう。世界最高水準の燃費を誇る日本車や日本の省エネ型家電製品も、使用台数が増えれば、エネルギー総消費量は増える。
 インターネットを介してやりとりされる情報量の増大により、パソコンなどIT関連の機器の消費する電力量は10年間で8倍に増え、2010年には現在の日本の電力需要の3分の1にも達すると予測されている。
 スウェーデンは電磁波対策がもっともすすんでいる国。電磁波は光や電波の仲間で、レントゲン撮影につかわれるX線はがんを誘発したり、遺伝子を損傷する可能性がある。スウェーデンでの調査によって、電磁波は子どもの白血病とかかわりがあることが判明した。そこで、高圧の送電線を学校などの生活ゾーンから引き離したり、コンピューター画面から離れるように規制した。携帯電話からもれる電磁波も心配だが、通信状態を整備するために建てられるアンテナからの強い電磁波がさらに心配である。
 スウェーデンは景気回復と財政再建の二兎を追って、二兎を得た。日本はどちらも得ることができなかった。にもかかわらず、「経済大国日本」を自負する日本の政官は、アメリカ以外はお手本としないという、きわめて不遜な態度をとっている。
 スウェーデンでは、収入に応じて保険料を支払い、払った保険料の総額に応じて給付を受けとる単純明快な所得比例制度がとられている。低所得者のためには、税金でまかなわれる最低保障制度もある。ただし、スウェーデンの給付水準は現役の手取りの38%にすぎない。それでも、医療・介護・住宅といったサービス保障が充実しているから、老後は安心なので、現金支給は多くなくても安心してやっていける。
 スウェーデンの真似をしろというのでは決してありません。でも、スウェーデンに学ぶべきところが日本は大きいことを痛感させられました。

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