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2006年3月 の投稿

食品の裏側

カテゴリー:未分類

著者:阿部 司、出版社:東洋経済新報社
 怖い本です。つい目をそらしたくなってしまいました。でも、毎日の生活の基本である食べもののことですから、目をよーく見開いて、最後まで読み通しました。
 著者は理学部化学科を卒業し、食品添加物の専門商社に長く勤めてきました。食品添加物を売り歩くセールスマンでした。でも、あるとき、自分の家で子どもたちがミートボールを美味しそうに食べるのを見てガク然としたのです。「そんなもの、食べたらいけない」こう叫んだといいます。
 スーパーの特売用ミートボールは何からつくるか。牛の骨から削りとる、肉とも言えない端肉。そのままだとドロドロだし、水っぽくて味もない。そこで卵をうまなくなった廃鶏のミンチ肉を加えて増量し、ソフト感を出すために組織状大豆たんぱくを加える。そして、ビーフエキス、化学調味料を大量に加えて味をつける。歯ざわりを滑らかにするため、ラードや加工でんぷんも投入する。機械で大量生産するので、作業性を良くするために結着剤や乳化剤も加える。色をよくするために着色料、保存性を上げるために保存料とPH調整剤。色あせを防ぐために酸化防止剤をつかう。これでミートボールができあがる。いや、まだまだある。ソースは、氷酢酸を薄め、カラメルで黒くして、化学調味料を加えてソースもどきをつくる。ケチャップの方は、トマトペーストに着色料で色をつけ、酸味料を加えて、増粘多糖類でとろみをつけ、ケチャップもどきをつくる。これで、やっと商品になる。結局のところ、添加物を30種類ほどつかっている。つまり、本来なら産業廃棄物となるべきクズ肉を、添加物を大量に投入して「食品」に仕立てあげたということ。こんなミートボールは、自分の子どもには決して食べさせたくない。それが著者の出発点でした。
 添加物商社の3大お得意さまは、明太子、漬物、ハム・ソーセージ。
 明太子。これは添加物で、どうにでもなるもの。ドロドロに柔らかく、粒のない低級品のタラコでも、添加物の液に一晩漬けるだけで、たちまち透き通って赤ちゃんのようなつやつや肌に生まれ変わる。身も締まって、しっかりした硬いタラコになる。
 ハム。100キロの豚肉のかたまりから、130キロのハムをつくる。肉用ゼリー液を豚肉のかたまりに注射器で打ち込む。
 コーヒーフレッシュは、植物油に水を混ぜ、添加物で白く濁らせ、ミルク風に仕立てたもの。だから使い放題にできるのだ。
 一般に日本人が摂取する添加物の量は1日平均10グラム、年間4キロ。日本人の食塩摂取量は1日12グラムなので、それと同じくらいということになる。
 コンビニのおにぎり。甘みを出しておいしくするためアミノ酸などの化学調味料や酵素が加えられ、保存性を高めるためにグリシンが入っている。フィルムがするっと抜けるために、乳化剤や植物油をつかう。こうやって10種類ほどの添加物がつかわれている。
 このようにして日本人の舌は、今や完全に化学調味料に侵されてしまっている。味覚が麻痺して天然の味が分からなくなっている。
 食品を買うときには、必ずひっくり返して裏を見よう。台所にないものが少ないもの、台所にないカタカナがぞろぞろ書いてあるようなものは買うのを避けよう。
 加工度が高くなればなるほど添加物は多くなる。安いものには飛びつかないこと。安いのには理由がある。うーん、毎日の食生活にはかなり気をつけているつもりでしたが、本当に怖いことだと改めて反省させられました。

21世紀の特殊部隊

カテゴリー:未分類

著者:江畑謙介、出版社:並木書房
 主としてアメリカ軍の特殊部隊がつかっている特殊装備が紹介されています(下巻)。
さまざまな小火器、通信機が紹介されていて、驚きます。
 携帯式翻訳機(フレーズレター)には、アフガニスタン作戦用のものがあり、パシュトン語、ダリー語、ウルドゥー語、アラビア語の1500のフレーズがおさめられていて、電子合成語でフレーズを発音することもできるそうです。
 防寒用の下着は4層になっていて、マイナス40度まで耐えられる。
 防弾チョッキはケブラーというアラミド系の人造繊維をアメリカのデュポン社が開発し、世界の90%を占めている。この防弾チョッキは14〜16層で構成され、ナイロン製より50%も軽い。3キログラムほどの重さ。20層とすると6キロの重さになって、長時間の着用と敏捷な動きが難しくなる。
 シークレットサービスや要人のつかう防弾チョッキは2キロほど。ただし、防弾チョッキの耐弾性が高まると、命令した衝撃による身体への外傷性障害(ブラント・トラウマ)が問題となる。やはり、身体は打撃を受けるのである。
 飛行機、ヘリコプター、船などについても、特殊装置の概説があります。
 先日、天神の映画館で「ジャーヘッド」というアメリカ映画を見ました。アメリカによる湾岸戦争のとき、砂漠地帯へ侵攻したアメリカ海兵隊の兵士の生活を紹介しています。
 海兵隊の新兵教育とその訓練過程については、ずい分前に見たベトナム戦争のときの映画「ハンバーガー・ヒル」とまるで同じでした。要するに人間をバカそのものにして、何も考えず、ためらいなく人を殺す殺人マシーンに仕立てあげるのです。そのしごきはすさまじく、軟弱な私にはとても耐えられそうにありません。
 湾岸戦争のとき、狙撃兵として出動を命じられ、イラク軍の幹部を殺そうとしたとき、突然、「撃つな」と命令されます。空爆で片づけるからだというのです。
 人間が人間を殺すことがいかに大変なことかということ、同時に、空爆によって大量無差別にイラクの市民が殺害された現実が描かれています。
 アメリカが世界の憲兵だなんて、とんでもありません。それはアメリカの勝手な思いあがりでしょう。世界の各国、各民族はアメリカのために生きているわけではありません。アメリカのおかげで平和が保たれているのではありません。むしろ逆ですよね。世界中で起きている戦争に戦争にアメリカが関わっていないものがあるでしょうか・・・。私は絶対にアメリカによる世界支配なんて許しません。

金沢城のヒキガエル

カテゴリー:未分類

著者:奥野良之助、出版社:平凡社ライブラリー
 いやー、面白い。ホント、おもしろい本です。たくさん本を読んでいると、ときどき、これっていう本にぶちあたります。そんな本です。カエルの本ですが、人間の生き方まで考え直させる、そんな素晴らしい本です。
 カエルはわが家の庭にもたくさんいます。小さなツチガエルと梅雨時のミドリガエルです。この本に登場するのは、大きなヒキガエルです。昨年、金沢城を見物してきましたが、金沢城内にまだ金沢大学があったころ、大学教授が10年のあいだ、夜な夜な城内を徘徊し、夜行性のカエルたちの生態を調べあげたのです。うーむ、学者ってすごーい・・。
 ところが、ヒキガエルたちは、最後には絶滅してしまったのです。メダカも今や絶滅の危機に瀕していると言いますが、カエルの世界も安穏としておれない世の中になってしまいました。みんな人間のせいなのです。罪深い人間です。いつまでも万物の霊長なんて威張ってはおれないはずなのですが、てんで、その自覚に乏しいのが人間です・・・。
 著者は、金沢城本丸跡付近にいるヒキガエルのうち1526匹について個体識別し、 10年間も観察しました。
 ヤマカガシはカエルを専門に食べるヘビだ。だから、ヤマカガシを見たらカエルはすくんで動けなくなる。そんな話がある。そこで、著者は生まれてまもない小さなヤマカガシをヒキガエルの前に置いた。すると、どうだろう。ヒキガエルはのそのそと歩いてヤマカガシをのぞきこみ、ぺろっと舌をくりだして頭から呑みこんでしまった。カエルがヘビを食べるなんて、ええーっ、そんな・・・。
 カエルの個体を識別するため、4本の足から1本ずつ、計4本を切り落とす。カエルは前足に4本、後足に5本の指をもっている。だから、左前足、右前足、左後足、右後足の順に切りとった指の番号をならべて4桁の数字をつけ、それを個体番号とするのだ。カエルの足を切り落とすとき、そのたびにカエルは目をつむり痛そうな顔をする。最後には全身からうっすらと毒液をにじませる。相当こたえているようすだ。だから、いつも、ゴメンネ、と声をかけて切ったと著者は弁明する。
 ヒキガエルは自分の繁殖池をだいたい決めて、めったに変えない。ヒキガエルは乾燥に適応していったグループで、オタマジャシから変態して上陸するや、繁殖期以外は一生、水の中には入らない。ヒキガエルは日没後に活動し、雨がふると時間にかまわず出てくる。
雨が降ってヒキガエルが活動をはじめるのは、降雨とともに地表にあらわれる好物の餌を求めてのことである。
 ヒキガエルは虫やミミズ、ナメクジやカタツムリなどを食べている。ミミズの一匹でものみこむと、満足してねぐらに帰り、当分、地面に出てこない。ヒキガエルは信じられないほど無欲で、わずかな餌で満足し、蛙生の大半を寝て暮らしている。
 蛙は口からは水を飲まず、体表から土のなかの水分を吸収している。だから、ねぐらの土が湿ってさえいれば水分は補給できる。ヒキガエルは乾燥に強く、体重が半分になっても死なない。
 変温動物のカエルは身体の芯まで冷えきって代謝はほぼ止まってしまうから、冬眠中はほとんどエネルギーを使わない。ヒキガエルの一年のなかで、冬眠の4ヶ月ほどが一番安全な時期でもある。
 ヒキガエルの繁殖は交尾とはいわず抱接という。メスが産み出した卵に体外でオスの精子をかける。そのため、オスがメスの背中に乗り前足でしっかりと抱きかかえる。オスの前足は前年秋から太くなりはじめ、繁殖期にはポパイの腕のようにたくましくなる。そのうえ、前足の指の背側に黒いざらざらしたかさぶたのようなものが発達して、メスに抱きついたときのすべり止めの役を果たす。メスは、卵でお腹がふくらんでいる以外に変わりはない。オスはメスの2〜3倍もいるので、抱接できないオスは多い。
 オスは昂然と頭を高くかかげてメスを待つ。しかし、お互いにまったく没交渉で、それぞれただひたすらメスの来るのを待つ。オス同士でのナワバリ争いというものはない。カエルは動いているものにとびついて抱きつく。相手がオスだったとき、そのオスは鳴いて間違いだと教える。これをリリースコールという。おい、はなせよ、というわけ。
 ヒキガエルは夏は夏眠、秋にちょっと働いてすぐに冬眠。春に10日ほど繁殖に精を出したらすぐに春眠する。
 ヒキガエルのオスは3歳で成熟し、最高11歳まで生きる。メスは4歳で成熟して卵を生み、最高9歳まで生きる。オタマジャクシから子ガエルになって上陸したあとの夏に 97%の子ガエルは死んでしまう。
 ヒキガエルはケンカしない。餌をとる場所も寝る場所も共有。他の個体に干渉せず、勝手に生きている。ほぼ完全な個人主義者の集まりが、ヒキガエルの社会である。オス同士も争うことはない。
 ヒキガエルにも障害をもつものがいる。著者の観察したなかに3本足のカエルがいました。でも、立派に8年間は生きのびたのです。あくせくせずに生きているカエル社会の話です。人間社会も参考とすべきではないでしょうか。
 実は、この本は私が大学生時代のころの観察をもとにしたものなのです。そのころの様子も軽妙なタッチで描かれています。公務員削減などで人間社会にうるおいがなくなっていることの問題点も指摘されています。ちょっと気分転換したいと思うときに読む本として、おすすめします。

ナポレオン戦争全史

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著者:松村 劭、出版社:原書房
 ナポレオンは兵站支援システムの名人だった。作戦開始に先立って計画される兵站計画は、補給処と交付所の作戦配置および補給所要の見積りがきわめて優れていた。兵士と兵站段列は、4日分の非常用糧食を携行していた。そして、主補給基地と中間補給基地はもちろん、作戦部隊に随伴する前方段列にも所要の補給品を準備し、持続的に追送していた。
 ナポレオン軍は驚くほど迅速に機動した。1805年、フランス北部海岸から西部ヨーロッパを横断したウィーン、アウステルリッツに至る800キロの戦略的機動は、20万の兵力が1日平均20〜25キロの移動を5週間続けた。これは、ジンギス・カーン軍の速度に匹敵する。
 ロシア会戦のときは、これがうまくいかなかった。輸送用の四輪荷車の通過可能な道路網がなかったのも一因だ。ナポレオンが準備した兵站支援能力では越冬が困難だったので、ロシアに対する勝利は年内であることが絶対条件となっていた。
 ナポレオンは敵に弱点を示して決戦に誘いこみ、各個に撃破するのが得意だった。二つの敵の間に主力を配置し、ナポレオン軍を挟撃しようとするように敵を誘致して、各個に撃破する。これを内戦作戦という。やむなく内戦態勢になるのではなく、自分から求めて内戦態勢に入る。だから、当然、最悪事態になることを覚悟し、ひそかに秘密の対策も講じていた。不利な態勢と見せかけて、不敗の態勢をとっていたのだ。もっともワーテルローでは失敗した。
 ナポレオンは、ジャコバン党の活動家になり、フランスに対抗するコルシカ国民革命の独立運動に身を投じた。このため、フランス軍は、砲兵中尉だったナポレオンを罷免した。ナポレオンはコルシカ島に生まれたイタリア人である。
 フランス革命のあと、ジャコバン党とジロンド党の対立抗争のなか、ナポレオンは砲兵大尉として復職に成功した。そして、英国派が故郷コルシカの財産を奪ったので、ナポレオンはフランス派に転向した。
 ロベスピエールに認められたナポレオンは1793年9月に大佐となり、トゥーロン包囲戦に砲兵指揮官として参加し、功績をあげ、准将に昇任した。1795年8月にロベスピエールが失脚すると、ナポレオンも軍職を剥奪され、牢獄に入れられた。その後、軍隊から追放され、投身自殺しようとして、セーヌ河畔を放心状態で徘徊したこともあった。このとき、昔の友人が救ってくれた。王党派の反乱にナポレオンが見事に対処した功績で、中将に昇任する。
 1796年3月、28歳のナポレオンはイタリア正面軍司令官に任命された。
 それ以降のナポレオンの戦った戦闘がすべて図解されています。もう少し詳しい解説があると良いという不満が残りましたが、概観することはできます。図解についても、通常の軍史ものよりも簡略すぎて、ナポレオン軍の動きが、もうひとつ分かりにくいという弱点があります。
 ナポレオンの一側面を知ることのできる本でした。

「戦火のなかの子どもたち」物語

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著者:松本 猛、出版社:岩崎書店
 いわさきちひろの絵は何度みても、いつ見ても本当にいいですよね。眺めているだけで、心がほんわか、身体全体がじわーっと温まってくる気がします。
 いわさきちひろは1973年夏、55歳で亡くなりました。この本は、ちひろの長男猛が絵本の制作過程を紹介したものです。絵も素晴らしいのですが、絵本がどうやって出来上がっていくのか、その過程の試行錯誤が紹介されていますので、とても興味深いものがあります。
 「戦火のなかの子どもたち」は、直接的には日本におけるベトナム反戦のたたかいに呼応して出来上がった本です。ちひろは、自分の少女時代の第二次大戦の惨禍の経験をふまえて絵を描いています。
 ベトナムに一度も行ったことがなくても、ベトナムの写真やポスターを参考にしながら、ちひろはベトナムの子どもたちを生き生きと描きました。
 戦争の悲惨さを描くのに、その残虐ぶりを直接的に絵に再現するのではなく、あくまで可愛い子どもの姿を描くことによって、そんな子が殺される戦争の悲惨さを浮きぼりにする。これがちひろの絵です。
 絵本をつくるときには、原画を広い8畳の和室に並べて、ストーリー展開を考えていきます。絵本になったときの印象を確認し、構成と言葉を考えていくのです。絵本が完成していく様子が図解されて、手にとるように分かります。
 ちひろは絵本の画面の流れをどうつくるかに腐心した。前ページの絵に出てくる風の余韻を残し、次に登場する少年の絵の印象をしっかりしたものにするためには、たとえ一枚の絵としての力が減少しようとも、この場面を強くしすぎるわけにはいかない。このように考えるのです。
 自分は、どんなにかわいい子どもたちが犠牲になったかを伝えるために、できるだけかわいい子どもを描く。
 「戦火のなかの子どもたち」の主題は傷ついた子どもの心だった。
 花の好きなちひろには、たくさんのシクラメンが届けられた。アトリエのなかにはシクラメンの花で一杯、あふれるほどだった。
 国会議員で忙しい夫をかかえ、大家族で暮らすちひろは、絵を描くときには出版社の確保した宿舎にカンヅメになったりしていた。
 子どもたちの愛らしい、生き生きとした絵に強く心が魅かれます。あのころの輝く瞳をいつまでも忘れたくないものです。

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