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2006年1月 の投稿

いま問いなおす「自己責任論」

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著者:イラクから帰国された5人をサポートする会、出版社:新曜社
 評論家の大宅映子は次のように語りました。
 人質家族の「自衛隊は撤退しろ」や当事者の「またイラクで活動したい」発言には呆れてしまう。退避勧告を無視して事件を起こした責任を、まずはしっかり認めるべきだ。こうした事件のように、自己責任でやれることを何でも国のせいにしていると、国は非難される前に規制をたくさんつくって、今以上に国民をがんじがらめにしてしまう。
 アメリカのパウエル国務長官(当時)は、インタビューで次のように発言しました。
 誰もリスクを引き受けようとしなかったら、私たちには前進はなくなる。私は、あの日本市民たちが、より大いなる善のため、よりよき目的のために、すすんで自分の身を危険のなかに置いたことを嬉しく思っている。日本の人たちは、こういう人たちがすすんでああいう行動をとったことを誇りに思うべきだ。
 どうでしょうか。イラク侵略の張本人であるアメリカの支配者のなかにも、こういう考えを表明する人がいるのです。それに比べると、大宅映子の発言はいかにも安っぽいものに思えてなりません。まさしく小泉好みの御用評論家ではないでしょうか。
 いかなる思想の持ち主だろうが、国民保護は政府の義務のはずだ。論者は強調しています。私も、まったく同感です。小泉首相を支持する人間だけが日本人ではないし、小泉支持者だけが政府に税金を納めているのではないのです。小泉をいまの日本で最大の危険人物とみている私も、それなりに税金をおさめています。
 昔から日本人は世界各地の危険なところへ進出していったことで有名です。それなのに政府の退避勧告を無視したら、あとは何も言えなくなるなんて、とんでもありません。それに、だいいち、自衛隊は「安全な」サマワに行っているというのが政府の建て前なのではありませんか。しかも、イラクのサマワで給水活動にあたっているフランスのNGOに対しては、日本政府は、給水車35台分のレンタル料35万ドルについて、無償資金協力をしています。つまり、日本政府はフランス人がボランティア活動するのはいいけれど、日本人の民間ボランティアが活動するのは困るというのです。まるで筋が通りません。
 読売新聞は社説で人質になった3人とその家族を次のように攻撃しました。
 3人は事件に巻きこまれたのではなく、自ら危険な地域に飛びこみ、今回の事件を招いたのである。自己責任の自覚を欠いた、無謀かつ無責任な行動が、政府や関係機関などに大きな無用の負担をかけている。深刻に反省すべき問題である。
 人質の家族の言動についてもいささか疑問がある。記者会見で公然と自衛隊の撤退を求めていることだ。武装グループの脅しに屈し、政府の重要政策の変更まで求めることが、適切といえるだろうか。
 えーっ、と驚いてしまいました。そんなことを言う資格がいったいに読売新聞あるのでしょうか。サマワで自衛隊を取材していた記者は全員撤退しました。もちろん読売の記者もです。そして、それは、政府の費用負担だったのです。そもそもサマワで自衛隊がしているのは何なのか、日本のジャーナリストは本当のことを現地からまったく伝えていません。いえ、伝える努力すらしていないのです。政府が退避勧告したから、それに従っているというのでしょう。しかし、その後もフリーのジャーナリストはイラクへ何度も出かけているではありませんか。私たちはそれによってイラクの現実を知っているのです。
 3人が解放される前、公明党幹部が記者団に次のように語ったそうです。
 3人が解放されて、帰国後にヒーロー、ヒロイン扱いされ、自衛隊撤退を訴えられたら厄介だ。
 つまり、3人が解放されて、自衛隊撤退を求める世論が高まるのを恐れ、その前に3人を叩きのめしてしまったというわけです。恐るべき世論操作です。
 それにしても、3人叩きに乗せられた日本人が多かったということは、今の日本社会の底流にドス黒い怨念がドロドロうずくまっている。そんな感じがしてなりません。いかにも冷え冷えとした思いに駆られてしまいます。

マルクスだったらこう考える

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著者:的場昭弘、出版社:光文社新書
 私が大学生のころはマルクスやエンゲルスそしてレーニンの本を読むのはあたりまえの雰囲気でした。私も結構読みました。哲学の話にはとても難解なところがたくさんありましたが、それでも目をはっと大きく開かせるような視点があって、本当に勉強になりました。今でも当時読んだ本は、文庫版がほとんどですが、書斎に置いてあります。
 ところが、今やマルクスなんて話題にものぼらなくなりました。この本によると、大学の経済学部にマルクス経済学がなくなっているのは当然のこと、大学内でもマルクス主義を信奉しているなどと人前で口にするのもはばかられるというのです。えーっ、本当にそうなんでしょうか。実社会はともかく、学問の社会では存在してよいと思うのですが・・・。最近のイギリスの調査では20世紀の偉人のトップに多くの人がマルクスをあげたそうです。
 最近ではアメリカ資本主義だとか、アメリカ帝国主義という言葉まで口にすることがはばかられるようになっている。かわって、アメリカ民主主義、アメリカ自由主義と言わなければならない。なるほど、マスコミの報道はたしかにそうなっていますよね。でも、かつてのベトナム侵略戦争と同じことを今、現にイラク侵略戦争をアメリカはした(している)わけです。それも大義も根拠もなく、ただ石油利権の支配を求めてしたことが明白となったわけですから、アメリカ帝国主義と呼んで何が悪いのでしょうか。
 著者は、資本のグローバリゼーションが進行する今、それに対する抵抗戦線としてマルクス思想を再構築する必要があると訴えています。なぜか? それは、資本のグローバリゼーションこそ、私たちをとことん貧困にし、かつ非人間的な存在にするものだから。貧富の二極化傾向は、国家や民族をこえて、世界的規模で促進されつつある。市場原理の進行によって、こうした現象が水面下ですすんでいる。
 たとえば、教育システムの有償化。国公立大学の行政法人化、私立大学の助成金の削減は、教育の分野にも市場原理が導入されたことを意味している。教育レベルが将来の所得を決定するとすれば、こうした社会は両極分化を加速させていることになる。
 私は、このくだりを読んで、北欧の国々では大学の授業料が無償であり、学生には手厚い奨学金制度が完備しているということを思い出しました。日本は、まさにアメリカのように逆行した道を突きすすんでいます。
 教育は社会の義務である。子どもは最初から集団のなかで教育を受けなければならない。
 巨大資本は巨大メディアを傘下におくことで、あらゆる運動に対してメディアをつかったコントロール戦略をとっている。資本が多部門を吸収しつつあるのに、資本に対抗するはずの労働組合が単一部門の中に引きこもるというのは、実に奇妙なことだ。
 若者たちが大学で英会話や会計学、コンピューターなどの実務教育を受けている。しかし、このような実務教育は、就職にすぐに役に立つスキルではあるかもしれないが、学ぶべきものを学ばないことになる。ちゃんとした経済学や哲学を学ばなかったことから、若者たちは自分たちがフリーター予備軍として取り扱われていたのだということを自覚できないようになっている。これは、大学が社会に対する批判の目を養うための教育を放棄することで、体制に唯々諾々(いいだくだく)と従う労働者をつくり出すシステムになっている。
 福祉に投入されているのは、税金という形をとった集合労働の成果だ。だからこそ、福祉は当然の権利なのだ。
 賃金は本来みんなのもの。だから、福祉の切り捨てなどあってはならない。働かない者を働ける者が助けるというのは、何も人間社会に限った話ではなく、動物社会でも広く見られる。自然の摂理なのだ。それなのに、高度に成長した人間文明にあって、逆に福祉が減少していくとは、いったいどういうことなのか・・・。
 著者の考えには賛同できないところもありますが、結論として力説しているところには、心から同感します。今こそマルクスの見直しが必要だと私は思います。他者を排除するのではなく、福祉を大切にする社会をつくりあげていきたいものです。今のような弱いものに冷たい日本だと、出生率が落ちて2200年には日本人は700万人しかおらず、いずれ消滅するという予測が出ているではありませんか・・・。今こそ考え直すべきときです。今なら、まだ間に合います。

アラン・デュカス

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著者:小椋三嘉、出版社:新潮社
 フランス料理の有名シェフの素敵なレストランとご馳走を紹介した大判の写真集です。私は1ヶ月間ほど、寝る前の10分間、この本を手にとって燦々と陽のさす南フランスの開けた野山を前にしたテラス・レストランで手のかかった料理を美味しくいただいている姿をしっかり目に焼きつけて布団に入っていました。これで幸せな眠りが保障されるのです。3800円もする高い本ですが、1ヶ月ほども美食を目で堪能できたわけですので、それを考えたら安すぎて申し訳ないほどです。でも、一度は現地のホテルに出かけてみたいと本気で思っています。
 道路の両側にはオリーブの木が育ち、ラベンダーの花が咲き誇っている。あたりにはハーブのにおいが立ちこめる。観賞のためではなく、レストランでつかう自家製オリーブオイルやラベンダーエッセンスになる。レストランの周囲にある広々とした庭には、鹿や馬やロバなどが飼育され、手入れの行き届いた菜園には、トマトやナス、ニンジン、ジャガイモといった見慣れた野菜から、ハーブや薬草、今は市場から消えてしまった珍しい品種まで、さまざまな種類の野菜や果物が育つ。バジルだけで15種類、トマトになると35種類もの品種がある。そのほかバラ園をはじめ、観賞用の花などを楽しむこともできる。
 夏には、はるか遠くの山まで見渡すことのできるテラスで、その雄大な景観を眺めながら食事が楽しめる。
 秋は、何と言ってもジビエ料理。そのなかでも小鳩は比較的くせがなく、食べやすい。小鳩のもも肉をココット鍋で焼いてから、オーヴンで火を通す。そこへニンジン、新タマネギを入れ、再びオーヴンへ。フォアグラの両面を軽く焼いた後は、その旨みと香りをグリーンピースに移しながら炒め、鶏のフォンで煮る。別々に調理した食材をココット鍋に戻して完成。
 黄金色に焼きあがった小鳩のもも肉と、今にもとろけ出しそうなフォアグラが陶器製の鍋にすわり食欲をそそります。ニンジン、タマネギ、グリーンピースなど野菜もたっぷり。ああ、おいしそう・・・。
 もうひとつだけ料理を紹介します。あっと驚きました。巨大なフォアグラが丸ごとこんがり黄金色に焼きあがり、黒コショウと白い食塩が美しさを引きたて、もちろん食欲もかきたてています。
 丸のままで500グラムほどもある鴨のフォアグラをポワレして表面に焼き色をつける。それから200度のオーヴンで7分間。イチジクを24時間つけ込んだポルト酒を、イチジクごとポワレで煮詰めながらとろみを出したソースをかける。仕上げにフルール・ド・セル(塩)と黒コショウを振ってサービスする。口の中でとろりとしたフォアグラとポルト酒づけのイチジクの甘みが官能的に溶けあったところに、カリカリとした塩とコショウが食感と味わいにパンチを利かせる。
 あー、もうたまんないですね。見るたびに口のなかによだれがたまってきます。うーむ、食べてみたい。そんな叫びをあげてしまいました。ナイフを入れると、トロトロのフォアグラが溶けだし、鼻腔の奥まで芳しい香りが届きます。ああ、なんと頭がクラクラしてきます。だ液がたまってきて、そっと舌の上に乗せます。うーむ、舌になじむ・・・。至福のとき。赤ワインはほんの少しでいいのです。でも、これだと、やっぱり、グラス3杯は軽くいってしまうでしょうね。でも、それだけでいいのです。舌がバカになってしまっては、せっかくの料理の良さが分かりませんからね。
 南フランスはいいですよ。ぜひ、もう一度行ってみたいですね。なにしろ、夏は夜10時近くまで明るいんです。そのうえ、めったに雨が降らないのです。ですから、観光客として、こんなに過ごしやすいところはありません。エクサンプロヴァンスに4週間滞在したのも、今から13年も前のことになりました。また行きたいと本当に思っているのです。はい。ご一緒にいかがですか・・・。

民族浄化を裁く

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著者:多谷千香子、出版社:岩波新書
 著者は検事になったあと、ヨーロッパで旧ユーゴ戦犯法廷判事をつとめて退官し、現在は法政大学法学部の教授です。
 実は私は著者と司法試験の口述試験を受ける直前に一緒に口述試問の練習をしたという記憶があります。そのときから英語もフランス語もペラペラで、世の中にはすごい人もいるんだなあと感心したことを覚えています。
 民族浄化の実像は、血で血を洗うバルカンの歴史が生んだ民族の怨念の再来とか歴史の必然などと片付けられるものではない。それは当時の指導者が仕掛けた権力闘争がわざと引き起こしたものにすぎない。共和国の独立による旧ユーゴ連邦分裂の危機を千載一遇のチャンスとして積極的に利用し、他民族の攻撃から自民族を守ることを口実に自分の権力基盤の確立を目ざして、国土の分捕り合戦をしたのだ。他民族が集団殺害を計画していると嘘の宣伝をして、あたかも身に危険が差し迫っているかのような現在の不安を強調したり、他民族に天下をとられて二級市民の悲哀をなめることになるかもしれないという将来の不安を煽った。そして、過激で分別のない若者や前科者などの無法者が民族浄化の実行部隊として使われ、野放しのまま放置された。指導者たちは、表では彼らの犯罪の取り締まりを約束しながら、裏では実行部隊を利用した。
 民族のモザイクといわれる旧ユーゴでも、ボスニアを除けば、それほど異なる民族が入り組んでいるわけではない。
 そして、ユーゴの民族の違いは、客観的事実というよりは、歴史的に作られた各民族の自己認識の問題といった方が正確である。セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人、モンテネグロ人は、いずれも5〜7世紀にこの地に南下してきた南スラブ人の一分派であって、血統的にはすべて南スラブ人。言語も南スラブの方言程度の違いしかない。ええーっ、そうなんだー・・・。ちっとも知りませんでした。まったく別々の民族がいりくんでいるのだとばかり思っていました。
 しかし、彼らが独自の民族として自覚し、主張するのは、別々の歴史を歩いてきたことによる。セルビア、マケドニア、モンテネグロは500年にわたってトルコの支配下におかれ、スロヴェニア、クロアチアはオーストリア・ハンガリー帝国の支配下におかれていた。この違いが大きい。歴史の違いは、埋めることの難しい、宗教や文字を含めた文化の違いをもたらし、各民族の自意識にしみ込んでいった。
 モスリム人も、血統的にはセルビア人やクロアチア人と変わらず、トルコ支配下でイスラム教に改宗した者の子孫にすぎない。トルコは、異教徒には比較的寛大だったが、イスラム教への改宗者には課税しなかった。
 旧ユーゴの崩壊は、国際社会の対応のまずさを抜きにしては論じられない。胎動してきたボスニア紛争の大きな引き金を引くことになったのは、ドイツによるクロアチアの独立承認である。ドイツに批判的だった他の先進諸国も、ドイツに追随してクロアチアの独立を承認したことは、致命的な状況判断の誤りであり、紛争がボスニアに拡大するのをほとんど決定的なものにした。
 民族浄化をすすめた民兵の残虐行為はナチスに酷似している。それが特殊な出来事ではなく、人間性に本来的に根ざしたものであり、これからも起こる可能性がないとは言えないことを示す。暗い一面であっても、変わらないものなら、それを直視する以外、正当な対処方法はない。将来の紛争の予防策は、同じような残虐行為を繰り返しかねないこの人間性を直視することから始めなければならない。
 ユーゴ戦犯法廷の判事の一人に日本人がいて活躍していたこと、それがこのようなコンパクトな形で日本人に知る機会を与えてくれたことに感謝します。

なぜフィンランドの子どもたちは「学力」が高いか

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著者:教育科学研究会、出版社:国土社
 2004年暮れ、OECD(経済協力開発機構)は2回目の国際学力比較調査(PISA)を発表した。
 日本は「読解リテラシー」が8位から14位に、「数学リテラシー」が1位から6位に低下した。新聞各紙は、日本の学力が世界のトップから転落、と報道した。
 これに対して、フィンランドは、「数学リテラシー」が2位、「読解リテラシー」と「科学リテラシー」は1位、「問題解決能力」は3位、総合して1位だった。
 これまで、日本と韓国は理科と数学のテストで突出していた。しかし、それはなんらかを犠牲においてかちとられたものであった。それは人格形成において、である。両国とも塾教育がすさまじい。そして、詰めこみ教育、無理にたたきこむ。したがって人格形成において欠陥がうまれる。批判的な能力とか忍耐とか思いやりというのが本当の意味での学力を形成する。そこには、もちろん社会批判も入っている。さまざまな困難をかかえている現代社会で、それらを解決するのにふさわしい知識や技能や態度を教育のなかで、どうやって子どもたちに身につけさせていくのか、それを今、真剣に考えなければいけない。
 PISAで、日本の場合、記述式の設問について無回答が多い。それは、日本の子どもたちが考えることを放棄してしまうから。格差が広がり、全体として低下したというより下が多くなってしまった。これを放っておいて全国テストなんて、とんでもないことだ。
 1992年から、北欧では教科書検定は一切なくなった。各国とも、国語教科書のなかに公民教育、自然の教育、いのちを大事にすることが取りあげられている。「生きる力」を育てることを貫いている教科書だ。
 教育費は、給食費をふくめて、すべて無償で、公費でまかなわれている。義務教育費は国が57%、地方が43%を負担し、高等教育は国が100%負担している。
 総合性の教育は、授業中、先生が説明しているときでも、できる生徒が席を移ってもできない子に教えにいく。子ども同士で教えあうことは、子どもにとって喜びでもある。
 教科書は教師が自由に選ぶ。基礎的な教科書は貸与される。学習書的なものは交付される。宿題や塾は、ほとんどない。子どもたちは朝9時から午後2時まで学校にいる。先生は放課後は翌日の教材を準備する。そのあと時間があったら、子どもの家庭を訪問する。教師は夜になると地域の親たちを教える。アルバイトだけど、国が100%補助する。
 教員の社会的地位、信頼の高さは、教職をもっとも優秀な人がつく職業にしている。これは、日本のような「でもしか」教師ではないということです。
 フィンランドの学力世界一の優秀さは、次の3点にある。第1は、学力水準(平均点)の高さ。第2は、学力格差の少なさ、第3は、社会経済的背景の影響における教育の優秀さ。
 地域には、図書館とその分室が、コンビニ(スーパー)よりも多いほど。国民が図書館をしており、本をよく読んでいる。小学校のクラスは20人ほど、中学と高校は16人が標準。小学校で70人、中学も高校も150人程度。校長も授業を担当し、学級を担任する。
 うーむ、フィンランドの教育と日本との違いがよく分かりました。それなら、いま小泉内閣のすすめていることはいったん凍結して、本書での提案をもう一度考えてみるべきではないか。つくづく、そう思いました。

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