法律相談センター検索 弁護士検索
2005年10月 の投稿

危ない食卓

カテゴリー:未分類

著者:フェリシティ・ローレンス、出版社:河出書房新社
 著者はイギリス人の女性です。フランスで休暇を過ごしたときのことを次のように書いています。
 フランス人が食文化を守りつづけていることに感心した。フランス人は地元で生産したものに誇りを持っていて、それを食すことを楽しんでいる。店の人は常に「ボナペティ」(たんと召しあがれ、という意味)と声をかけ、正午には店を閉めて帰宅し、3時間の昼休みをとる。
 そうなんです。3時間の昼休みはともかく、私がフランスに行きたいのは、美味しいものを楽しく味わうフランス人の生き方に賛同しているからでもあります。イギリスでは、それがありません。
 ファーストフードを大急ぎで胃の中に流しこみ、自宅のディナーでも調理ずみチキンと袋から出したカットサラダを盛りつけるだけ。
 著者はスーパーで売っているチキンの解体現場に潜入して働きました。実は、私の依頼者が先日、鶏肉生産工場に就職したのですが、その苦悩のほどをたっぷり聞かされました。要するに毎日、生きた鶏の首を包丁で切り落とす仕事なのです。この本では頸動脈切断機という言葉が出てきますので、イギリスでは、その仕事は機械化されているのかもしれません。私に話してくれた人の職場では、人間が手作業でしているそうです。殺される鶏の方も、危険を察知して、ひとしきり、ひどく暴れるそうです。そして、糞尿を周囲にばらまいたりして必死に抵抗するのです。それを抑えて短時間で次々に殺していく作業です。上司からは、誰かがやらなければいけない仕事だ。モノだと思えばいいし、そのうちに慣れてくるからと慰められたそうです。でも、私にはとても耐えられません。いかにも、辛そうな口調で語ってくれました。うーん、そうかー・・・、そうだろうなー・・・。私は、何と言ってよいか、返す言葉が見つかりませんでした。
 この本では、そのような悩みの次の場面が問題となっています。解体して生産されているトリ肉は、いったいどこの国で生産されたのか不明なほど、あちこちの国のトリ肉が混ざっていて、食品ラベルはウソだらけだというのです。
 チキンナゲットはトリの皮からできている。イギリス人はトリのむね肉を好み、日本ではもも肉が人気だ。足は中国で、砂袋はロシアで好まれる。膨大な量のトリ皮が残るので、トリ皮はチキンナゲット加工業者をめざして世界中を旅することになる。実は、風味のあるナゲットをつくるにはトリ皮を15%入れるのがちょうどいい。
 オランダ産の業務用チキンから、ブタのたんぱく質と大量の水が検出された。ウシ廃棄物を混ぜたトリ肉はイギリス全土に流通していて、チキンナゲットのメーカーがそれを使っている。最近の鶏舎には、3万羽から5万羽のニワトリを入れている。給餌も給水もコンピューター管理。ニワトリに与えるえさと水に寄生虫退治の薬や、必要に応じて大量の抗生物質が混ぜられる。
 1957年、食用ニワトリの平均生育期間は63日で、体重1キロあたり3キロのえさが必要だった。1990年代には生育期間は42日、えさは1.5キロですむようになった。2007年には、体重2キロのニワトリを生育する日数は33日になる予定。半減する。ところが、ニワトリ自身の健康が危なくなってきた。
 うーん、トリ肉もチキンナゲットも恐ろしい食品だったのかー・・・。
 この本は、また、食品の危険性だけでなく、巨大スーパーの進出が社会機構を壊すことも強調しています。
 地域の食料品店というのは食べ物を買う機会だけではなく、いろいろな社会機能をもっている。近所の人と出会って会話をかわす場であり、お年寄りや小さい子たちのふれあいがあり、人のつながりと安心感をもたらす場なのだ。ところが、郊外型ショッピングセンターができると、そのような機会も機能も喪われ、人の住む地域は「食の砂漠」地帯と化してしまう。
 イギリスでは、6大スーパー・チェーンが食品市場の4分の3を支配している。イギリスの食品の半分は1000軒の大型スーパーで売られている。いや、実は世界の食品小売業トップ30社は全世界の食品売り上げの3分の1を支配している。
 アメリカのウォルマートは世界一大きな小売業であるだけでなく、世界一売上高の大きい企業でもある。その売上高は2450億ドル。第二位はフランスのカルフールで、売上高は650億ドル。ウォルマートの4分の1でしかない。今後5年間で、小売が食品供給連鎖を完全に支配することになる。つまり、全世界の食をほんの数社の巨大グローバル企業が支配することになるのだ。
 日本人の好むエビ、あのブラックタイガーについても取りあげられています。
 抗生物質と成長ホルモンにどっぷりつかっている。ブラックタイガーは肉食動物なのでエビ一匹を育てるために、その体重の2倍以上のたんぱく質を与えてやらなければならない。えーっ、そうなんだー・・・。日本人は東南アジアの環境破壊の元凶なのか・・・。エビを食べるのも、ほどほどにしなくっちゃ。
 食は生きるうえでの最上の喜びのひとつ。そのために買い物をし、料理をし、食卓を囲むことで、人と人とは結びついてきた。人は人と食事を共にすることで、社会を築いていく。食を考えることは、私たちはどんな社会の一員でありたいのかを考えることでもある。
 うーん、怖い。いろいろと毎日の食生活のあり方の根本を考えさせられる本でした。

パンツの面目、ふんどしの沽券

カテゴリー:未分類

著者:米原万里、出版社:筑摩書房
 いやあ、まいりました。知らないことだらけでした。よくぞ、ここまで調べあげたものです。つい、降参、降参と叫んでしまいました。著者はロシア語通訳の第一人者です。
 ソ連の小学校では、裁縫の授業で女の子がまっ先に教わるのは下着のパンツの作り方。第二次大戦が終了するまで、ソ連では下着のパンツがまったく工業生産されていなかった。
 戦後のドイツ・ベルリンに駐屯したソ連軍人の妻たちは、ネグリジェやシュミーズ姿で、あるいはレースのパンツとブラジャーだけで町を歩いていた。綺麗なレースの縁取りのついたシルクのパンツやブラジャーが、まさか下着だろうとは夢にも思わず、よそ行きの装いのつもりで町を歩いていたのだった・・・。この話は、私も前に聞いたような気がします。てっきり、いつもの西側による反共宣伝かと思っていたら、そうではなかったのです。うーん、そうなのかー・・・。えーっ、それにしても、まさか・・・と驚いてしまいます。
 笑うときに口元を隠す習慣は日本人にしかない。えっー、そうなんだ・・・。
 イエス・キリストが十字架にはりつけられたとき、パンツを着用していた可能性は高い。
 アダムとイブは、いちじくの葉を一枚だけ前隠しにしていたのではない。腰紐で葉をはさんでつるしていた・・・。なるほど、なるほど、そういうことかー・・・。
 現在の世界では、商品化された使い捨てのナプキンを使える女性の方が圧倒的な少数派。それがないのは北朝鮮に限らない。うむ、うむ、きっとそうなんだよねー・・・。
 ズボン形式の衣服の誕生は、今から3万年前の石器時代にさかのぼる。人が乗馬を覚えた6千万年前よりもはるかに前のこと。つまり、馬に乗るためにズボンが考案されたのではなく、ズボンを着用していたから、馬を乗りこなせるようになったということ。
 ところが、ヨーロッパでは、男はズボン、女はスカートという固定観念が強い。15世紀、フランスの英雄ジャンヌ・ダルクが火あぶりの刑に処せられたとき、その罪状のひとつが、男用のズボンを着用したことだった。
 実は、この本に書かれていることが、あまりにも衝撃的であり、かつ、トイレでの行動様式など具体的で、尾籠な話に徹しているので、紹介するのをいくつも遠慮してしまいました。どんな話なのか、この分野に興味と関心をお持ちの方には一読をおすすめします。
 ところで、著者は私よりいくつも若いのに、「あとがき」によると悪性の卵巣癌があり、手術したものの再発したとのことです。著者のエッセーは、いつも大変小気味よく鋭い切れ味なので、感心しながら読んできました。どうぞ、身体に気をつけて、引き続き、あまり無理されることなくがんばってほしいと心から願っています。

闘えない軍隊

カテゴリー:未分類

著者:半田 滋、出版社:講談社α新書
 イラクのサマワに派遣されている自衛隊について、その実情が紹介されています。
 はじめ政府が考えていた場所は別の場所だったし、派遣する時期も二転三転した。陸上自衛隊はイラク南部のサマワかナシリアを希望していた。それが、バグダッドに変わった。ところがアメリカが不満をみせて、北部のバラドを示した。慌てた日本政府が危険を理由に拒否し、振り出しのイラク南部に戻った。
 そもそも、自衛隊員が生命をかけるのは日本の平和と独立を守るため。それが、なぜイラク派遣になるのか。国連平和維持活動(PKO)ならともかく、イラクは死者が増え続けている戦地でもある。だから、派遣の大義が必要だった。サマワが選ばれたのポイントは、イラクへの効果的な復興支援ではなく、いかに自衛隊の安全が確保できるかだった。それには、アメリカ軍から離れている地域であることが、きわめて重要だった。
 実は日本政府も、はじめ自衛隊を守ってくれるのはアメリカ軍しかいないと考えていた。しかし、そのアメリカ軍がイラク人や武装勢力の反発を買って次々に襲撃されている。サマワなら、アメリカ軍のいるバグダッドから300キロも離れていて遠く、アメリカ軍を狙った攻撃に巻きこまれることはない。そこで、サマワが選ばれた。
 サマワの自衛隊宿営地に入る道路には何の標識もない。訪れる人を歓迎するより、安全のために存在を隠すことに重点が置かれている。
 よその国の軍隊は国旗を小さくしているが、自衛隊だけは日の丸を大きく目立つようにつけている。この「目立とう作戦」はイラクで日本の人気が高いことを利用したもの。それは、日本が1970年代から80年代にかけて、ODA(政府開発援助)で惜しみなく注いだことによる。なるほど、そういうことなんですね・・・。
 イラクにいる自衛隊員がもし死亡したときには、3億円近いお金が遺族に支払われることになっています。大変な特別待遇です。
 イラクは今なお戦地である。創設以来、一度も実践を経験したことのない自衛隊は、「最初の一発」を海外で放つかもしれない状況下での活動が続いている。自衛隊のイラク派遣の意義は、復興支援を行うことではなく、あくまでイラクに居続けることなのだ。イラク(サマワ)に自衛隊が安全で居続けられるように、日本政府は、サマワに本格的な火力発電所を建設する資金として127億円を無償援助することにした。途上国支援が目的のODAが、自衛隊を守る武器になっているのです・・・。
 自衛隊のなかには、憲法改正するより、今の規定で活動可能な分野で国際貢献すればよいという現実主義的な声は強い。イラクの復興を日本政府が真剣に考えているのではない。ひたすらアメリカの要請の応じ、自衛隊を派遣すること自体が日米同盟維持の手段であり、目的である。それ以上ではない。復興のために文民を派遣することはまったく眼中にない。
 著者は最後に次のように言っています。
 日本が海外で武力行使をしない特殊な国として戦後60年間過ごした実績を捨て去るのは愚かしいことだと思う。
 私もまったく同感です。アメリカの言いなりになって、そのうしろについていったら、いつのまにか、殺し殺される世界が日本国内でも生まれてしまいます。平和な社会がたちまちのうちにこわされてしまうのです。その点を私たちは自覚すべきだと思うのです。

「最後の一葉」は、こうして生まれた

カテゴリー:未分類

著者:斉藤 昇、出版社:角川学芸ブックス
 O・ヘンリーは私の好きなアメリカの作家です。9.11の前から久しくアメリカには行っていませんが、アメリカに行く前には、いつもO・ヘンリーの短編小説のカセットブックで英語に耳を慣らして出かけるようにしていました(私はフランス語は少々話せますが、英語はまるでダメなのです。でも、せめて、聞けるようにはなりたいと思って・・・)。その見事なドンデン返しには何度聞いても聞きあかせないものがあります。どこか、ほのぼのとした人間性を感じさせてくれるからでしょう。どれも、深い味わいのある、また切れ味のいい名文だと思います。
 この本を読んで、O・ヘンリーの一生について詳しく知ることができました。O・ヘンリーが銀行員をしていたこと、横領事件で刑務所に入っていたことは知っていましたが、その詳細を知ることができたということです。詳しいことを知ってガッカリしたということは全然ありません。それどころか、ますますO・ヘンリーの書いた小説をもっともっと読みたくなりました。
 O・ヘンリーの書いた本は、その死後10年間だけで500万部売れたそうです。ところが、1950年代には低い評価が与えられたというのです。
 O・ヘンリーの世界は、知的に不毛なサハラ砂漠である。
 よくぞケチをつけたものだと思います。とてもO・ヘンリー をまともに読んだ人の評とは思えません。
  O・ヘンリーの母は、彼が3歳のとき肺結核のために早死にしていますが、文才も画才もあり、ユーモアを解していたそうですから、その才能は母親ゆずりのようです。
 O・ヘンリーは学校には行かず、叔母のもとでヨーロッパ文学書を読破していきました。そして、小さいころから画もうまかったのです。ところが、お金がないため、15歳から薬剤師として働かざるをえませんでした。そして、その経験が刑務所に入ったときに役立ったのです。
 その後、銀行出納係として働くようになったのですが、当時の銀行は、かなりいい加減だったようです。従業員がちょっと借りて後で返してもとがめられなかったのです。でも、O・ヘンリーは横領罪に問われてしまいます。そして、裁判中に保釈で出ていたときに南米のホンジュラスに逃亡するのです。しかし、妻の重い病気を知って帰国し、裁判を受けて懲役5年の実刑判決を受けました。5654ドルを着服したという罪です。法廷では一言も弁解しなかったのですが、控訴はしたようです。でも、ダメでした。
 模範囚としてつとめましたから3年3ヶ月で出所していますが、このことを生涯にわたって娘には隠し通したそうです。死後6年たってはじめて娘は父の前半生を知りました。最初の妻が病死し、作家として売り出してから再婚しましたが、実は、その相手は幼なじみの女性でした。O・ヘンリーの本を読んで、自分が子どものころ一緒に遊んでいた男の子ではないかと手紙を送ったのがきっかけでした。それほど、O・ヘンリーの本は細部にわたって情景描写が行き届いていたというわけです。
 O・ヘンリーは、娘とは違って、再婚相手には自分の過去をすべて明らかにしたといいます。並々ならぬ誠意のあらわれだと著者は評していますが、同感です。
 ところが、O・ヘンリーは過度の飲酒による重篤な肝障害そして糖尿病と心臓病とを併発してしまいました。ついに48歳のとき、ひとり淋しく亡くなったのです。1910年6月5日のことですから。今から100年近く前のことです。
 O・ヘンリー・サプライズという言葉が紹介されています。O・ヘンリーの作品のほとんどは2000語内外の短編です。意外性のある結末に読み手は心がぐいぐい魅せられ、強いインパクトを与えられます。
 社会の弱者に対する優しさ、人間の根底にある慈愛にみちたヒューマニズムの視点がどの作品にも認められるとしていますが、まったく同感です。3年3ヶ月の刑務所生活のとき、薬剤師の仕事を医師の下でしながら、受刑者たちの話を親身になって聞いていたことが、このように昇華していったわけです。
 もし、あなたがO・ヘンリーの短編をひとつも読んでいなかったとしたら、それは人生の大きな損失です。すぐさま本屋か図書館に走っていかれることを強くおすすめします。

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.