法律相談センター検索 弁護士検索
2005年10月 の投稿

美女たちの日本史

カテゴリー:未分類

著者:永井路子、出版社:中公文庫
 いま、女帝を認めるかどうか議論されていますが、著者は、飛鳥時代から奈良時代までは、女帝と男帝は8人ずついて、その比率は五分五分だったのだと強調しています。私も知りませんでしたが、昔から日本では女性が強かったことは体験的な実感としてもよく分かります。女帝は例外でもなんでもないのです。
 推古天皇は、当時の東洋諸国で初めて出現した女帝です。その治世は592年から36年も続いています。中国の則天武后よりも早いのです。その後、元正天皇という未婚の女帝も出現しています。35歳のときのことです。その治世は9年間でしたが、その後も太上天皇として69歳で亡くなるまで共同統治にあたりました。実権を握っていたのです。つまり、女帝が例外だとか、お飾りなど、とんでもありません。
 奈良朝は、天皇家でも貴族でも、一族で殺しあったり、政争や合戦に加わったり、じつに血なまぐさい権力闘争の時代だった。ところが、平安時代になると政争のかたちが変わった。死刑が停止された。権威である天皇が殺されるようなことはなくなった。しかし、平安朝は、あくどいことも平気でやる時代だった。うーん、そうなのかー・・・。
 ぐーんと時代は下がります。日野富子のことが紹介されているなかで、次のように書かれています。
 上流社会では子どもが生まれると必ず乳母がつく。乳母は育てあげた若君がいよいよ成年男子になったとき、セックスについても手をとり足をとって実地教育をすることが多い。つまり、乳母は将軍の恋人でもあった。へーん、そうなんだー・・・。ちっとも知りませんでした。だから乳母の力って無視できないほど強いんですねー・・・。
 戦国時代の政略結婚についても、次のように書かれています。
 この時代は想像以上に情報社会であり、その情報は女性によって婚家から実家へ、実家から婚家へと流れていく。だから、女性を政略結婚の犠牲者だと考えるのは間違いで、彼女たちも国人層の一人としての役目を果たしていた。一方で仲よくしながら、実家に通報してスパイ活動もするというのが当時の女性の役割だった。
 日本史の表と裏に登場してくる女性の果たした役割の大きさを改めて認識させられる本です。まことに日本は昔から女性でもってきた国なのです。私は本当にそう思っています。

かわいい孫の愛し方

カテゴリー:未分類

著者:岡崎光洋、出版社:熊日出版
 甘やかしが孫をダメにする。そんなサブタイトルがついています。なるほど、そうなんです。孫がかわいいからといって、ガマンすることを身につけさせるしつけをせずに、どんどんお金にあかせて欲しがるものを買い与えつづけていったら、孫の人間性をゆがめてしまうのは必至ですよね。
 おじいちゃん、おばあちゃんが、孫へ直接的な甘やかしすぎたり、逆に冷厳すぎたり、また子夫婦の子育てへ過干渉する。これが問題なのです。
 なぜ甘やかしすぎるのか。あるおじいちゃんは、自分の家はかつて貧乏で、何も買ってもらえずに友だちにバカにされた。だから、孫にだけはそんな思いをさせたくない。それだけで、甘やかしているわけではない、と言ったそうです。これでは、おじいちゃんの単なる自己満足でしょう。孫には、ほしいと思っても、ガマンしなければいけないときもあることを教えるべきです。
 父親が父親でなく、心理的には「息子」のままにとどまっている男性がたくさんいる。いつまでもだらしなく、わがままで、大人になっていない。
 おじいちゃんたちの孫への溺愛や迎合がストレートに孫に届きすぎている。
 おじちゃん、おばあちゃんが、子や孫にきちんと伝えるべきことは次の3つ。
 ひとつは歴史。ふたつ目は心の大きさ。そして、命のはかなさ。
 兄弟20日、孫20日。これは、20日もともに暮らすと、お互いにあきてきて嫌気のさすことが多いということ。なんだか思いあたるフシがあります。皆さんはいかがですか。
 たいていの孫は、どんなに祖父母からかわいがられていても、最終的にはいずれは母親を一番慕うようになるし、必要とする。幼いときに、どんなにおばあちゃんっ子、おじいちゃんっ子であっても、いずれ、お母さんを一番求める。
 うーん、222頁という薄い本ですが、いろいろ考えさせられました。幸か不幸か、私にはまだ孫がいません。そのうち孫誕生ということになったら、この本を読み返してみようとは思っています。

アリラン坂のシネマ通り

カテゴリー:未分類

著者:川村 湊、出版社:集英社
 私は「冬のソナタ」も「四月の雪」もみていませんが、韓国映画には心魅かれるものが多く、かなりみています。カルチャーショックと言っていいほどの衝撃を受けたのは「風の丘を越えて──西便制」でした。パンソリのすごさにはただただ圧倒され、声も出ませんでした。日本の歌謡曲の源流はパンソリにあるとも言われていますが、この映画に登場するパンソリの迫力にはとてもかなわないのではないでしょうか。
 1970年代の韓国の民主化運動のなかで韓国の伝統的な民衆文化が見直され、大学に民俗芸能研究のサークルができ、学生デモの戦闘に農楽隊が立ったそうです。この映画をまだ見ていない人は、ぜひDVDで見てください。強くおすすめします。
 ただし、パンソリをうたう芸人は、韓国では社会の最下層に位置する、いわば被差別民だということです。いまでもそうなのでしょうか・・・。どなたか教えてください。
 「シュリ」「JSA」「シルミド」「ブラザーフッド」。いずれもすごい映画でした。
 著者は、現在の韓国映画の隆盛には、明らかに、その背後に1人の多大な貢献(後見)をなしえている人物がいると強調しています。それは、ご存知の金正日氏です。
 「シュリ」は245万人、「JSA」は250万人、「友へ、チング」268万人、「シルミド」と「ブラザーフッド」は1000万人。すごい観客動員数です。
 それまで、北朝鮮の人間はカッコよく描いてはいけないという暗黙の禁忌があった。ところが、「シュリ」は、北朝鮮の人間をカッコよく描き、「JSA」は人間的に描いた。
 「ブラザーフッド」には、アメリカ軍はほとんど登場してこない。いわば、朝鮮戦争を主体思想によって描いた映画だ。このように、38度線があるからこそ、韓国映画の世界は、ヒューマニズムにあふれる優れた作品、感動的な力作や大作をつくることが可能となった・・・。
 うーん、なるほど、そういう見方もできるのかー・・。たしかに、社会の緊張感が日本とはまるで違うということを実感させられる映画ですよね。
 この本には登場していませんが、最近の映画で、「おばあちゃんの家」もいい映画でしたね。「春香伝」もよかったですよ。少し前の「南部軍」という映画を見たいのですが、DVDになっているのでしょうか。どなたか教えてください。
 ソウルにアリラン坂のシネマ通りというのがあるそうです。一度はソウルに行ってみたいと思っています。

あなたの子どもを加害者にしないために

カテゴリー:未分類

著者:中尾英司、出版社:生活情報センター
 「少年A」と母親についての分析は鋭く、いかにもなるほどと納得できました。
 「少年A」の母は、我が子が納得できない。自分の納得できるA以外は認められない。つまり、目の前の現実をまっすぐに直視できない。これは、目の前のAという存在を母親が否定していることになる。うーん、そうなんだー・・・。
 母親は事件のあとAに会う前は、きっと私に助けを求めてくるはずという確信をもっていた。ところが、現実には、「帰れ、ブタ野郎」という罵声が返ってきた。でも、母親はAがなぜそんなに怒っているのか理解できなかった。
 これを、著者は、母親とAの関係は母子関係というより、支配者と被支配者の関係だとみています。Aの母親は、絶対的支配者としてAの上に君臨し続けていたというのです。
 Aの母親は、物事を白黒どちらかハッキリさせなければ気がすまない性格だと自分を規定しています。著者は、これをラクに生きたい人が陥る性格だと指摘します。というのも、世の中に白黒決着のつく問題はほとんどないからだというのです。
 うーん、なるほど、そうなんです。弁護士を30年以上していて、本当にそう思います。たとえば、小泉首相は本当に無責任な嘘をつく人だと私は思いますが、世の中の多くはそう思っていません。ことは簡単に決着つかないのです。
 謝罪とは、傷つけた相手の気持ちを自分が受けとめたことを相手に伝える行為。だから、相手の気持ちを共感的に受けとめる心があれば、自然と謝罪の言葉は出てくる。ところが、Aの母親は、その謝罪ができなかった。
 Aは、小学3年生のとき、「僕のすべて」であり、唯一絶対の存在であった母親が、実は自分のことを支配していただけで、自分のことはまったく理解しようとしていなかったことを明らかにさとった。そして、ケンカした理由を聞かれることもなく、帰宅したばかりの父親に一方的に殴られたとき、Aは、いつか両親に自分のことを理解してもらえるかもしれないという希望の糸が切れた。Aは自分がネグレクト(無視・放置)されていることを思い知った。
 人は、自分を認めてくれる人に忠誠を尽くす。人は、自分を理解する人間を裏切ることはできない。それほど、人は人に認めてもらいたい存在なのだ。人は、自分の存在が無視されることに耐えられないため、あらゆる手段をつかってストロークを得ようとする。ストロークとは、その人の存在を認めさせるために働きかけること。たとえば、万引するスリルとは、否定的であるにせよ、自分の存在が認知されるという快感のこと。万引という行為のウラには、社会的ルールを犯してまで自己の存在を証明したいという孤独な魂の悲鳴があるのだ。うーん、そうなんだー・・・。
 人は最初から大胆な行動ができるわけではない。最初はちょっと手を出して当たりを見る。その時点で、生命にかかわるようなことであれば、ガツンと分からせなければならない。最初が肝心だ。万引は犯罪の源である。
 本気で叱られたとき、子どもはうれしいもの。自分のことを思ってのことだと分かるから。なによりも、自分と正面からぶつかってくれるから。自分から逃げずに、かつ、自分を育成してくれている。これに勝る生きる喜びはない。
 叱るときは短く、が鉄則。このときに伝えなければならないのは、親の思いであって、理屈ではない。本当にお前のことを心配しているよ、という思いだ。
 親は子どもを見放さず、見守ることが大事だ。
 読んでいるうちに、私自身の子育てについても大いに反省させられるところが多々ありました。一生懸命、子育てにはとりくんできたつもりではいるのですが・・・。周囲を見まわしても、経済的にはかなり恵まれた条件のもとであっても、子育ての難しさに悩んでいる親(弁護士)は決して少なくありません。

自衛隊指揮官

カテゴリー:未分類

著者:瀧野隆浩、出版社:講談社α文庫
 自民党が4割の得票率で議席では7割を占めて「大勝」するなか、民主党はタカ派が代表となり、日本国憲法(とくに9条)は今まさに風前の灯です。小選挙区制の得票数では、与党の自民・公明をあわせた票より野党全部の票が200万票も多いというのです。本当に民意を反映しない制度です。亡くなった後藤田正晴元代議士をはじめ、多くの戦争体験者は9条を無視して自衛隊を海外へ派兵するのはいかんと叫んでいます。ところが、戦争を知らない若い40代が、日本を強い国にするために9条をなくせと居丈高です。本当に怖い世の中になりました。
 この本は防衛大学校出身の新聞記者が書いたものです。毎日新聞社会部編集委員という肩書ですが、国家の安全はどう守るのかとオビに書かれています。そこでいう国家には、弱者を守る視点が本当に入っているのか、読みながら絶えず疑問を感じました。自衛隊が「国家を守る」というとき、その実体は我が軍すなわち自衛隊を守るということです。つまり、自衛隊の周辺で、一般市民がウロウロしていたら、それは邪魔者しかありません。もし違うというのなら、ぜひ、そうでないという確かな根拠を訊きたいものです。
 古今東西、軍隊は敵の軍隊とたたかうことと、自己の保身しか頭にないのです。国家を守るというのは、いわばとってつけたものでしかありません。そもそも、いったい国家とは何をさすのでしょうか・・・。
 この本を読んであっと驚いたのは、地下鉄サリン事件が起きた1995年3月20日よりも3日前の3月17日に、陸上自衛隊の化学隊がサリン防衛に動き出していたという事実がさらりと書かれているということです。しかも、なんと戦闘用防護衣まで用意されていたというのです。
 オウム教団がサリンをつかってテロ攻撃することを3日前に自衛隊はつかんでいて、すでに400着の防護衣まで用意されていました。著者はそのことを何ら問題とすることなく、現場の自衛隊指揮官がいかに勇気があったかをほめたたえています。私にはとてもついていけません。事前に情報をつかんでいたのなら、地下鉄に乗りあわせていた一般市民が被害にあわないようにすべきだったのではないのでしょうか・・・。
 現場の第一線にいる指揮官が生命をかけていることは私も認めます。しかし、そんなことを言うのなら、私たちの日常生活を守るために生命をかけている人はほかにもたくさんいるのではないでしょうか。たとえば、電柱にのぼって配線工事をしている人、トンネル工事などに従事している人など・・・。なにも、人を殺す武器をもっている自衛隊だけが生命をかけて国民(とその日常生活)を守っているのではありません。
 私は、防衛大学校を卒業した人たちが、自衛隊を退官したあと、どんな生活をしているのかについて、すごく関心があります。三菱重工業や小松製作所などの兵器(軍需)産業に多くの人が就職(天下り)していっているのではありませんか。どうなんでしょうか。どなたか詳しく事実を教えてください。

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.