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2005年9月 の投稿

闇先案内人

カテゴリー:未分類

著者:大沢在昌、出版社:文春文庫
 こうも簡単に人が殺されていくと、手に汗を握るというより、背中に氷のかけらを投げこまれた気分になって、身も心も冷えびえとしてきます。
 私の担当した刑事事件の被告人から、日本でも簡単にピストルが手に入るというのを聞いて恐ろしくなりました。ピストルの売買がチンピラ・ヤクザのレベルでも、こずかい銭稼ぎになっているというのです。現実の話ですから、怖いものです。
 話は、北朝鮮の支配者の子と思われる要人が日本に潜入してきたことから始まります。総連内部には警察トップと密接なつながりをもつ人間がいて、また反対勢力もいて、お互いにしのぎを削ります。ありそうな話と、とてもありえない話とが混然一体となり、バイオレンスたっぷりに展開していきます。
 逃がし屋だとか、変装するための顔師だとか、平凡な日常生活ではとても考えられない職業(プロ)の人々が登場してきます。うーむ、世の中にはそういう人もいるのかー・・・と思いました。
 なんとなく救われない気になってしまう、暗いヤクザなお話です。

個体発生は進化をくりかえすのか

カテゴリー:未分類

著者:倉谷 滋、出版社:岩波科学ライブラリー
 人間は母体のなかでヒトとなっていくとき、祖先の動物の進化の歴史を忠実にたどっていくというのが反復説です。私は、ずい分前からこの説を信じてきました。
 この本は、それは本当なのかと疑問を投げかけています。考えてみれば、動物の進化の歴史といっても、そんなに単純ではありませんので、いったい反復する進化とは何をさすのか、という疑問もわいてくるわけです。たとえば、カメは原始的な存在ではなく、むしろワニやトリに近いというのが、最近の分子進化的な解析によって判明したことです。つまり、生物が進化するといっても一本道ではありません。そこには例外だらけなのです。
 下等動物とか高等動物という表現がなされることがあるが、それはとても一義的に定義できる用語ではない。実際の発生は一直線には進まない。なーるほど・・・。
 よくよくかみしめて読めば分かるかもしれませんが、わずか100頁たらずの本書には難しすぎて理解できないところが多々ありますので、簡単には要約できません。
 でもでも、単純に進化の過程を個体の発生過程でくり返す、そんなことは言えないということだけは、私にもなんとなく分かりました。

鉄剣銘115文字の謎に迫る

カテゴリー:未分類

著者:高橋一夫、出版社:新泉社
 埼玉(さきたま)古墳群のひとつ稲荷山(いなりやま)古墳より出土した鉄剣から115文字の金錯銘(きんさくめい)が発見されたのは1987年のこと。もう30年近くも前のことになります。えっ、もうあれから30年もたったのか・・・。当時の驚きを思い出してしまいました。
 西暦471年の雄略天皇のときの豪族がもっていた鉄剣です。でも、その豪族が、畿内の豪族で東国に派遣されてきたのか、在地の豪族だったのかについては説が分かれ、今も確定していません。私は、そもそも邪馬台国九州説の熱烈な信奉者ですから、地方豪族説に当然のことながら左担します。
 同じ雄略天皇の銘のある直刀は熊本の江田船山古墳からも出土しています。この江田船山古墳には私も何度か行ったことがありますが、よく整備されていて、なるほど相当の力を持った豪族がかつて君臨していたことをしのばせるに十分な雰囲気です。
 90頁ほどの薄い冊子のような本ですが、カラーの写真と図版もあって、世紀の大発見がどこまで解明されたのか、素人にもよく分かるように解説されています。
 1500年以上たった今も金色に光り輝く鉄剣銘をじっくし眺めて、過去の日本を想像してみるのも心楽しいひとときです。

韓国のデジタル・デモクラシー

カテゴリー:未分類

著者:玄武岩、出版社:集英社新書
 韓国の盧武鉉大統領は、民主的な弁護士団体に所属する弁護士でもあります。日本でいうと自由法曹団とか青法協に相当するのではないかと思います(間違っていたら、ごめんなさい)。いずれにしても、日本では民主的弁護士(人権派弁護士)はおろか、弁護士が首相になるなんて、残念ながら夢のような話です。盧武鉉候補の当選には、世界でも有数のインターネット社会におけるデジタル・デモクラシーの発達があげられています。
 インターネットがなければ、盧武鉉側は主流メディアの攻勢で厳しい選挙戦を強いられていたに違いない。世界一のIT強国と自負する韓国で、20〜30代の若い有権者はインターネットを通じて既存の権力による暴露戦略を看破することができた。
 韓国社会において「朝中東」つまり「朝鮮日報」「中央日報」「東亜日報」の三大新聞は言論権力といわれるまでに権力を振るってきた。韓国の新聞の7割を占める三大新聞の影響は絶対的で、その公正性を欠く報道ぶりは、心ある人からことあるごとに批判されてきた。放送も例外ではない。夜9時のトップニュースはいつも全斗煥大統領の動静だったから、「テン全(チョン)ニュース」とからかわれていたように、公正報道とはほど遠い存在であった。
 韓国の歴代軍事政権は、言論への徹底した弾圧をとおして、新聞や放送を権力の統治手段にしてきた。そして、その見返りに、言論機関には独占的利益を、言論従事者へは高い社会的地位を与えてきた。こうした権力と言論との蜜月関係を、韓国では「権言癒着」と呼んでいる。
 これって、日本でもそっくりそのままあてはまるんじゃないの。思わず、私はそう叫んでしまいました。先の解散・総選挙のときの「小泉劇場」のフィーバーぶりをぜひ思い出してみて下さい。郵政民営化すれば日本の経済は良くなるかのような、とんでもない嘘を小泉首相がくり返すと、マスコミは無批判にオウム返しに叫びたて(もちろん、申し訳程度にチョッピリ批判もするのですが・・・)、刺客だとかマドンナだとか、世間の耳目を集め、改革に賛成か反対か、「改革」の中味を抜きにした選択を国民に迫ったのです。日本の言論界の堕落ぶりは、放送だけでなく新聞も目を覆いたくなるほどひどいものです。
 しかし、韓国はそれをインターネットの活用で乗り切っていったのです。そこが日本とまったく違います。盧武鉉側の「オーマイニュース」は、インターネットを通じて選挙運動の状況を「中継」していきました。1日だけで1910万ページビュー、訪問者数は 150万人(のべ623万人)というのですから、すごいものです。
 そして、市民参加型の新しい政治潮流が主流となりつつあるなかで、韓国では2世、3世議員が世襲していくなどというのは非常識になっています。なるほど、日本は遅れているなと、つくづくそう思いました。
 おもしろ、おかしく、ただそれだけの記事と番組によって国民を思うままに誘導していく日本のマスコミの現状は、なんとかして歯止めをかけたいものです。そのためには、日本でも、もっとインターネットの活用を真剣に考えるべきではないでしょうか。
 もちろん、マスコミのなかにも心ある人は多勢いると思います。でも、いまは、既存マスコミの外から、働きかけというか、立ちあがりが必要な気がします。それも、ホリエモンとか楽天やソフトバンクといった大手メジャーの力を借りないで、私たち自身の力でやり抜かなければいけません。若い彼らは、すでに金力と権力の亡者になりさがっているとしか思えません。強さと自信にみちみちている彼らには弱者の切り捨てしか頭にないようです。とても残念です。
 先日の総選挙で自民党が「圧勝」しましたが、多くの若者が投票所に行ったことが投票率のアップにつながったとみられています。でも、その若者たちはインターネットの世界で情報を知り、ほとんど新聞を読んでいないようです。先ほどの話と一見矛盾するかもしれませんが、私はやはり若者の新聞ばなれを危惧します。新聞も一面と三面以外の世論づくりを除くと、論説などけっこう鋭い指摘もあるのです。私の息子も新聞を読んでいませんでしたので、息子に毎日、新聞を読むよう押しつけました。
 ちなみに、自民党の「大勝」といっても得票率は4割。それなのに議席占有率は7割。小選挙区制がいかに民意を反映していないか、よく分かります。ところが、復活制がおかしいといって比例部分が削除されようとしています。民主党も比例を80議席減らせという政策です。これでは、多様な国民の声がますます国政に反映されなくなります。
 いろんな人間がいて、さまざまな考えの人がいて国は成り立っているのです。少数意見の切り捨ては弱者の切り捨てに直結してしまうのが怖い、そう思うこのごろです。すみわたった秋の好天気の下で庭仕事にいそしみながら、ひとり心配しています。

だれが源氏物語絵巻を描いたのか

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著者:皆本二三江、出版社:草思社
 源氏物語をカラー写真で写しとったような絵巻物があります。いったい誰が描いたのか、実証的に追求していった本です。なーるほど、そうだったのか、うん、そうなんだよなー・・・と納得できる本です。一読をおすすめします。
 結論を先に明かしてしまうと、著者は紀の局、長門の局などを中心とする女房たちが集団で描きあげたものとしています。絵巻は1120年代の前半ころに完成しました。
 源氏絵巻の製作の主力となったのは、古今の絵や書に造詣の深い女房たちだった。実際の製作は、専門絵師に近い技量をもつ者をふくむ多くの女房たちの協同作業だった。
 なぜ、そのように言えるのか、著者は絵のスタイルをこまかく検討していきます。
 指示書きまでされた下図が、彩色の段階で変更されている箇所がある。どう見ても専門絵師の手になるとは思えない描写が散見され、それがそのままにされている。これらは指揮系統が明確であったであろう工房では考えられない。しかも女性の手になると思われる箇所がある。
 当時、女絵と男絵と呼ばれるものがありました。
 女絵は静的で理想化を追求し、男絵は動的でリアルを追求する。男絵では人物の身体プロポーションは5頭身から6頭身で、そのころの人々の正しいプロポーションをあらわしているものだと思われる。ところが、源氏絵巻の方は、多くが8頭身、ときに10頭身にもなっている。そして、男性絵師が描いた女性の鼻は、なぜか大型化する傾向がある。女性の鼻としては大きすぎる。
 源氏絵巻には、素人画と思える表現が混じっている。高い技量をもつ専門絵師が、故意につたなく描くとは考えにくい。むしろ、製作に携わった集団に素人がいたと考えた方が自然だ。うーん、そうなのかー・・・。
 このあと、著者は、現代の男の子と女の子の絵には本質的な違いがあることを立証していきます。女の子は絵空事を描くのに対して、男の子は現実のどこかにある風景のような、根底にリアリズムへの希求がある。なるほど、そう言われたら、そうかもしれません。
 色をつかい、色を組み合わせることに喜びを覚えるのは女性の性質。これは昔も今も変わらない。男には色の話はつまらないもの。男の子の描いた絵には、人物の鼻が省略された顔はない。むしろ、写実的で大きな鼻があらわれる。ところが、女の子は3人の1人は鉤鼻を描き、鼻自体が省略されることもある。
 男の子の絵は動きをともなっていて、女の子の絵の方は静的である。
 これらをふまえて源氏物語絵巻を見ると、男性の登場人物より女性の方が自然に描けている。男性はすべて女性的な風貌であり、真に男性的な男は1人も見あたらない。このように、人物表現には、描き手の性が色濃く投影される。だから、源氏物語絵巻を描いていたのは、先に述べたとおり、女性集団だというわけです。

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