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2004年9月 の投稿

金正日の私生活

カテゴリー:未分類

著者:藤本健二、出版社:扶桑社
 金正日氏のお抱え料理人として13年間仕えていたという日本人調理士が金正日氏の私生活を暴いた本です。これを読んだら北朝鮮の政治の動向が分かるというものではありません。それより、金正日氏一家などの支配階級の日常生活について、調理人の眼を通して、その一端が図や写真つきで開設されているところに、この本の面白さがあります。招待所の内部の配置図がきわめて詳細です。やはり現場を見た人だからこそ、と私は思いました。
 著者は金正日氏に個人的に可愛がられたため、人間としては今も大変な愛着をもっているようです。
 北朝鮮の招待所って、どんなところなのかな、と思う人には参考になります。

孝明天皇と一会桑

カテゴリー:未分類

著者:家近良樹、出版社:文芸新書
 「一会桑」(いっかいそう)という言葉を私は知りませんでした。一橋慶喜、会津藩、桑名藩の頭文字をとった言葉です。幕末の孝明天皇と一会桑は、お互いを必要不可欠の存在として認めあい、深く依存する関係にあった。
 明治以降の日本人が想像してきたほど、薩長両藩の「倒幕芝居」における役割は圧倒的なものではなかった。それより、今までの政治体制ではダメだという多くの人々の思いが政治を変えた。「一会桑」などが中心になった長州再征がうまくいかなかったのも、日本全国に内輪もめはやめろという意見が強かったからだ。
 幕末の政治情勢と天皇の果たした役割について考えるうえで、大変勉強になりました。

戦場の精神史

カテゴリー:未分類

著者:佐伯真一、出版社:NHKブックス
 実に面白い本でした。知らないって恐ろしいと思いました。武士道について、根本的に考え直させられました。
 新渡戸稲造の『武士道』が有名ですが、これは1899年(明治32年)にアメリカで刊行された本です。新渡戸は『武士道』という言葉は自分のつくった言葉(造語)だと思っていたそうです。それほど、日本の武士道の先例を知らなかったのです。いや、日本の歴史や文化についてほとんど知らないまま、アメリカで病気療養中に、いわば自分の思いこみで書いた本なのです。
 そもそも武士道という言葉は中世の文献にはほとんど出てこない。ようやく戦国時代から使われるようになったが、それほど多用されていたわけでもない。爆発的に流行するのは、明治30年代以降のこと。武士道というのは歴史の浅い言葉。江戸時代までの日本の武道は、ひずかしくすすどくあらねばならないと教えてきたと貝原益軒は批判している。「ひずかし」とは、心がねじけ、ひねくれているさま、「すすどし」とは、機敏で油断がならないさま。人のとった敵の首をも奪って自分の手柄にするようなのが日本の武道なのだ、というわけです。要するに、切り取り強盗は武士の習い、というのです。
 武士は戦いにおいては、もっぱら虚言を用いるのだ。それを嘘をついたといって非難するのは、何も分かっていない女のような奴である(『甲陽軍艦』)。
 戦場において一騎打ちの闘いがルール化されていたというのは誤った幻想でしかない。 ひたすら勝つことが大事であって、敵を騙すことは非難されるべきことではない。
 このことが「平家物語」やら「将門記」「吾妻鏡」「太平記」など、いくつもの文献をひいて実例があげられています。そこまでやるか、と驚くほどのえげつない騙し方がいくつもあります。しかし、それは騙し方、つまり勝った方がいかに賢かったかという賞賛の手柄話であって、決して非難されてはいないのです。
 「武士道」の実体を知った思いです。

火天の城

カテゴリー:未分類

著者:山本兼一、出版社:文芸春秋
 信長の築いた安土城をつくった大工の棟梁の父と子を描いた本です。安土城の跡地に足を運んで、天守閣のあったその場に立ったことがあるだけに、また、近くの博物館に原寸で想像復元したものを見たものですから、大工たちの苦労をビンビンと身体で感じることができました。
 天守閣に信長が居住し、そのすぐ近くで、しかも低いところに本丸があり、その御殿に天皇を迎える構えでした。信長は自分こそ天下人であることを誰の目にも明らかにしようとしたのです。
 全山すべてがお城だった安土城が焼失し、それを描いた絵もほとんどないというのは残念です。南蛮風というより、ヨーロッパの教会やお城の様式も取り入れてつくったという八角形の天守閣を色つきのまま拝んでみたかったものだと思いました。

福岡県弁護士会史

カテゴリー:未分類

著:福岡県弁護士会
 900頁ほどの大作なので、その厚さにおそれをなしてか福岡の中堅弁護士でも意外に読んだ人は少ない。しかし、私は会の役員になる前に3回通読したが、本当に面白いし、よくできていると思う。
 この夏、母の父の伝記を書くため、汗をかきかき読みふけった。読んでいるうちに眠たくなったときには、昼寝用の枕にも代用した。ぴったりの高さなのだ。何がそんなに面白いか、少し紹介してみたい。
 「三百代言」という言葉があり、代言人というと悪いイメージがある。しかし、代言人の質は想像されているほど低くはなかった。明治19年の代言人試験は、すべて論文式で、3日がかり。朝7時から12時まで、そして昼1時から6時までの各5時間に長文の1問に答える。民事に関する問題、刑事に関する問題、訴訟の手続、裁判に関する諸規則と問題は大別されていた。最近のように民法と商法、破産法というように法律ごとに細分化されてはいない、たとえば、次のような設問。
 学者甲が乙に手紙を贈った。文章は絶妙、字体もまことに美しい。乙は甲に無断で石版印刷して売り出した。甲が異議を述べて発売差止の訴訟を起こした。このとき、理由を詳述して甲乙の曲直を判定せよ。
 うーん、発売差止訴訟か・・・。まさに現代日本でもホットなテーマだ。この4月にスタートした法科大学院の卒業生の受ける新しい司法試験も、これまでの法律科目ごとの試験ではなくて、広く民事に関する問題として長文を読ませて判定文を起案させる形式が考えられているそうだ。だったら、明治時代に戻ったと言えなくもない。
 明治時代には付帯私訴が認められていた。つまり刑事裁判において、被害者が民事上の賠償請求することができた。これはフランス法にある手続で、被害者保護の観点から現代日本でもこれを復活させようという動きがある。しかし、これには被告人の無罪推定や疑わしきは罰せずなどの刑事手続きで守られるべき原則と矛盾する面がないのか、など難しい論点がある。
 ところで、日本人は昔から裁判を好まなかったとよく言われるが、とんでもない間違い。むしろ、日本人は昔から裁判が好きな民族だった。明治時代の裁判所には、今の調停申立が100万件もあった(明治16年がピークで110万件)。勧解と呼んでいた。もちろん、一般民事裁判も多かった。明治時代の人口は今の半分もないなかで、明治16年に地裁に年3万件、区ないし治安裁判所(簡易裁判所に相当)に年19万件あった。ちなみに、2003年度の東京簡裁は調停5万件、一般民事裁判は7万件だった。
 だから、明治14年に福地源一郎が東京日日新聞の社説で、我が国には健訟の弊風があって、民事訴訟が増えているが、これには人民相互の権利争いを挑発する代言人の存在があると主張した。もちろん、代言人側は、この主張に猛反撥した。
 弁護士人口は大正末から昭和初めにかけて急増した。大正10年(1921年)の弁護士試験の合格者は102人だったが、翌11年(1922年)には、一挙に2倍以上の262人となった。これは高文司法科試験になっても変わらず、昭和5年(1930年)には、400人台となった。その結果、全国の弁護士がわずか7年間で5割増となった。福岡でも毎年20人ほどの新規登録があり、東京からの登録換えも目立った。
 これは、まるで現代日本の状況と同じ。いま福岡には毎年20人から30人ほどの新規登録があり、東京からの登録換えも目立つほどではないが、ボチボチあっている。
 面白いのは、当時、出張事務所が認められていたということ。東京の弁護士が福岡に出張事務所を設けたり、県内でも複数の事務所を構えることが許されていた。いまは、弁護士法人を設立したら、それが可能になっている。ただ、出張事務所は弁護士の看板のもとで事務員が事件屋みたいなことをしているというので問題になって、やがて廃止された。
 弁護士が広告に励んでいた時期もある。新聞広告を出して客を勧誘することが認められていた。最近になって弁護士広告が解禁されたが、まだまだ広告をのせている弁護士は少ない。東京では地下鉄などに大きな広告を出している弁護士がいるが、弁護士仲間からはあまり評判が良くない。というのも、弁護士というより実は事務員が事件の処理をしている疑いがあるからだ。
 歴史は繰り返すとよく言われる。もちろん、単純にくり返すはずはない。しかし、いま司法制度が大きく変わろうとしているとき、先人の歩みをたどり、そこから教訓を学ぶことは決して無駄ではないと思う。

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