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2004年4月 の投稿

生活形式の民主主義

カテゴリー:未分類

著者:ハル・コック、出版社:花伝社
 デンマークの学者による、民主主義とは何かを考えた本です。40年前に書かれていますが、内容は新鮮そのものです。書かれた時期を知らずに読むと、現代日本について警告を発した本ではないか、そうとしか思えません。
 「もっとも太った人々は、もっとも賢い人々でもある」
 そうと言えないことは、現代日本の金満家たちの愚行で証明ずみです。
 「戦争が正しい者を決めることはけっしてできない。ただ、最強者を決めることができるだけである。人間には、勝利と正義とを一緒くたにする特別な傾向がある。警察と軍隊は必要悪である。それらは必要ではあるが、それらに依存しない可能性こそ私たちが期待しているもの。他方を嘲笑い、怒鳴りつけ、しばらくそれを続けてから、取っ組みのケンカをはじめる。それによって最強の者が決められる。そうした流儀は子ども部屋の掟である。子ども部屋は、反動と権威主義的支配によって、強者の法律と容赦のない権力行使が命ずるところに帰するのが常である」
 これは、アメリカのイラク侵略戦争と、それに無批判に追随している日本を批判した文章としか読めません。
 「民主主義社会では、あらゆる決定が相対的で、正しいことがらへの接近にすぎず、それゆえ討議は止むことがない。
 民主主義は生活形式であり、西ヨーロッパで2000年以上にわたって絶えず挫折や堕落を繰り返しながら成長を遂げてきた。それは自己完結したものではない。
 民主主義は、勝ちとられた勝利ではなく、つねに継続するたたかいである。それは一度に達成された結果ではなく、つねに新たに解決されるべき課題である。
 民主主義の本質は投票によって規定されるのではなく、対話や協議、相互の尊重と理解、そしてここから生まれる全体利益にたいする感覚によって規定される。
 人間的な覚醒、すなわち啓蒙と教育、それなしには民主主義は危険なものになる。多数派というのは、まさに怪物である。
 宣伝は、民主主義にとって、年々、危険性の度合いを増している。テレビと映画によって、現代人は、国民的・政治的権力の優位性や欠点をまったく受動的に確信す
る」
 権力によるマスコミ操作はイラク戦争のとき、そして今もますます強まっています。有事立法が施行されたら、その危険性は今よりはるかに増大することでしょう。よくよく現代日本のあり方を考えさせられる本です。

トキオ

カテゴリー:未分類

著者:東野圭吾、出版社:講談社
 知人のNAOMIさんが絶賛していたので、早速読んでみた。うまい。さすがにぐいぐい引きこまれていく。いつまでもおとなになりきれない青年の気持ちがよく描かれている。そこへ身内と自称する変な青年が登場して、つきまとう。いったい何のために・・・。青年はふられた彼女の行方を追ううちに事件に巻きこまれていく。変な青年もついてきて、しきりにアドバイスというか指示を与える。いったい、どういうつもりなんだ。でも、何かひかれるものがあり、その言いなりに動かざるをえない。
 おとなになりきれない、なりたくない青年の揺れ動く気持ちをバックに事件が展開し、意外な結末を迎える。オビには時を超えた奇蹟の物語とある。まさにそのとおりだった。

まちづくり権

カテゴリー:未分類

著者:寺井一弘、出版社:花伝社
 日田市に別府市の主催する公営競輪の場外車券売り場をつくるという。とんでもない。日田市が市長を先頭に反対運動に立ちあがった。でも、国が設置を許可した。さあ、どうする。国を相手に設置許可の取り消しを求める行政訴訟を起こすしかない。そこで、日田市出身の筑紫哲也の推薦で東京で活動する長崎出身の著者が登場した。
 著者の行きつけの日田の寿司屋は「弥助すし」。その長女が福岡の三隅珠代弁護士。私は残念ながら、「弥助すし」にはまだ行ったことがない。
 「まちづくり権」を提唱して果敢に挑んだものの、裁判所は見事に肩すかしを喰らわせる。だいたい裁判長は、ついこのあいだまで国(行政)の代理人をやっていたような人物なので、コチコチの頭しかない。高裁でも一回結審だと言われてしまう。そこを著者は持ち前の粘り強さで2回目の裁判をなんと4ヶ月先にすることに成功した。幸いにも別府市長が交代して合意が成立し、裁判自体は取り下げで終了。その成果がこの本になった。この裁判については、別に『まちづくり権への挑戦』(信山社)という本が出ている。こちらは九大のゼミ生たちがまとめたもの。

路上に自由を

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著者:小倉利丸、出版社:インパクト出版会
 Nシステムのカメラが最近やたらに目立つ。私は毎朝、通勤途上にあるカメラをにらみつけています。朝から不愉快です。街頭の監視カメラには、もう慣らされてしまいました。我らの日常生活が知らないうちに撮影され、いつも録画されているのかと思うと、嫌な気分になります。
 新宿・歌舞伎町には街頭防犯カメラが50台設置されている。ひところは犯罪発生が減ったと言われたが、今また元通りになった。つまり、監視カメラが犯罪の抑止力になるというのは神話にすぎない。なぜなら、カメラにはどうしても死角がつきものだから、悪どい人間はカメラの裏をかこうとするからだ。
 大阪地裁は「あいりん地区」の15台の防犯カメラのうち1台の撤去を命じた。それは解放会館の斜め前に設置され、そこを出入りする人を常時監視して録画までしているからだった。イギリスには、現在、公私をふくめて250万台もの監視カメラがある。日本も、そのうちイギリスのようになるのでしょうか・・・。まるで恐ろしい監視社会です。考えるだけでもゾッとしてしまいます。
 Nシステムの監視カメラは、福岡県内には31ヶ所、高速道路に11ヶ所あり、全国802ヶ所の4%を占める。このNシステムは「犯罪防止」のためにだけ使われているのではない。そのことを、マスコミはもっと世間に知らせるべきだと思います。
ところで、あなたもNシステムのカメラって見たことありますよね?
 北九州で、この10月に開かれる九弁連大会のシンポジウムのテーマがこれに決まったそうです。

女帝推古と聖徳太子

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著者:中村修也、出版社:光文社新書
 聖徳太子は実在しなかったのではないかという有力説があります。この本は、なぜ聖徳太子が天皇にならなかったのか、それを考えています。厩戸皇子は19歳になっていたので、若すぎて大王になれないということではなかった。しかし、額田部王女の方が即位した。額田部王女こそが日本史上初の女帝で、その即位の理由は、我が子ないし我が孫に大王(天皇)位を譲らさんがためであった。厩戸皇子には蘇我馬子がバックアップしている。だから我が子竹田王子が大王になる可能性は低い。そこで、額田部王女は、自分が大王となって、自分から息子(竹田王子)へ譲位した方がスムースにことが運ぶと考えた。厩戸王子が額田部の摂政になった可能性は低い。本当に厩戸王子を信頼しているのなら、いつまでも王位を譲らないのはおかしい。
 厩戸王子さえその気になれば、大王になるのにそれほど困難はなかったはず。それをしなかったのは、厩戸には近親者同士での権力争いを避けようという気持ちがあったからだ。
 和をもって尊しとなすという言葉は、その当時の日本で、いかに争いごと(戦争と裁判)が多かったかという事実を反映しています。古代の日本人が事なかれ主義で生きていたわけではないのです。そこを現代日本人の多くが誤解しているように思います。

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