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翔んでベトナム30年

カテゴリー:ベトナム

(霧山昴)

著者 小松 みゆき 、 出版 そらの子出版

 私と同じ団塊世代で、ベトナムで30年暮らしていた元気な女性がベトナムでの生活を振り返った本です

 認知症の母親とベトナムで暮らしていた状況は『越後のBaちゃんベトナムへ行く』で面白く紹介されていて、私は観ていませんが、松坂慶子主演の映画にもなっています。そして、ベトナム残留日本兵とその家族の状況を描いた『動き出した時計』も興味深く読みました。

 ベトナムに行く前には、東京で法律事務所に事務員として勤めています。そのとき、新聞切り抜きも仕事の一つだったと書かれています。私も新聞切り抜きは40年以上欠かしていません(台紙に貼るのは事務員の仕事です)。

 ベトナムといえば、私の大学生のころはベトナム反戦のデモと集会は日常的な光景でした。アメリカの若者たちがベトナムのジャングルのなかで泥沼の戦いに従事させられ、5万5千人もの戦死者を出しました。もちろん、ベトナム人の戦死傷者はその10倍ではすみません。桁(けた)が2つ違うほど甚大でした。

 この本のなかに、ベトナムの寺にあった鐘がなぜか銀座の古物商の店頭にあるのが発見され、日本の弁護士(渡辺卓郎弁護士)や松本清張などが呼びかけ人となってベトナムへ返還する運動が取り組まれ、ついに実現したこと。そして、著者は、そのベトナムに帰った鐘の行方を探り当てたという話があります。すごい執念です。

 著者は30年ものあいだベトナムで何をしていたのか…。初めは日本語教師としてのスタートです。たまたまベトナムで日本語教師を求めるという張り紙を見て応募して赴任したのでした。そして「ベトナムの声」放送(VOV)に関わって暮らしていたのです。すると、日本からベトナムへやって来る人々の接待要員としても活躍しています。天皇夫妻や皇族のベトナム訪問のときにも対応しています。たいしたものです。

 越後に住んでいた母親が認知症になったとき、居場所のない母親を引き取ってベトナムに一緒に住むようになって、「スパイ」容疑から、晴れて「親孝行の娘」に昇格したという話は笑えます。やはり、どこでも「よそ者」は警戒されるのですよね。

 認知症といっても当初は軽症だったようで、言葉の通じないベトナム社会にたちまち母親は溶け込み、幸福そうな笑顔が見れたのは良かったと書かれています。人と人との密接で、温かい社会環境のなかで母親は天寿をまっとうされたようです。13年間もベトナムで一緒に生活したとのことで、本当にハッピーエンドでした。

 それにしても著者の疲れを知らない行動力とタフさには驚嘆させられます。

 30年ぶりに日本に帰ってきて、戸惑いもあるようですが、3年たたないうちに、こんな見事な半生記をものにしたという文章力にも敬意を表します。

 文中のイラストも素敵です。

(2025年10月刊。1760円)

幕末維新変革史(上)

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 宮地 正人 、 出版 岩波書店

 幕末のころ、帆走船から蒸気機関で走行する戦艦へ進歩した。はじめは外輪蒸気船だった。しかし、外輪だと砲撃されたら弱いし、大砲もたくさん載せることができない。そこで外輪のかわりにスクリュー船とした。エンジンは大量の石炭を消費するので、石炭供給基地を各地に必要とする。木造戦艦だと標的にされたら弱い。そこで、まず鉄板で装甲し、次に鉄艦となった。

 戦艦に載せる大砲の『砲弾』は、初めは破裂しない丸弾だったが、円錐筒型の破裂弾が開発された。1858年、イギリスはアームストロング施条式後装18ポンド砲を導入した。このアームストロング砲を初めてイギリスが実戦で使用したのは、1863年の薩英戦争、そして翌1864年の下関戦争だった。射程距離4000ヤードの巨大砲は威力を発揮した。ただし、当初は事故も頻発した。

 中国大陸の清帝国の林則徐は、アヘンを没収して焼却した。1839年9月、イギリスから軍艦が到着し、ついに戦争が勃発した。イギリスは中国などとの不平等条約を大英帝国海軍が力で維持していた。アヘン戦争が一応の終結をみると、天保12(1841)年、江戸ではイギリスが戦艦を日本に差し向けるという噂(うわさ)が広まった。アヘン戦争で清帝国が敗退すると、日本人の眼は一挙に世界に拡大した。

 ペリーは、アメリカからミシシッピ号で出帆し、喜望峰廻りでシンガポールを経由して香港に入り、まず沖縄に向かう。那覇に寄港して、必要なものを入手した。ペリーは、まずは沖縄を拠点としたのですね…。

 日本においては、ペリー来航という情報は瞬時に日本全国に伝播した。人々は、それを記録し、心配ながら見守っていた。人々は情報を求め、あらゆる手段を用いて収集し、記録し、冊子にまとめて回覧した。

日本では、あらゆる政局の背後に、その展開を凝視する3千数百万の日本人の眼があった。つまり、衆人監視の政治舞台において幕府は自らを国家として振る舞わざるをえなかった。江戸時代(幕末)の日本の人口は3千数百万人だったのですね。そして、情報が全国的に素早く伝播していったというわけです。まだ新聞はありませんが、瓦版がありました。木板摺りで、捕まる前に売り抜けてドロンという形で広まったとのこと。

そして、全国を情報に伝達する手段の一つが飛脚屋。情報を早く知りたいときには、人々は飛脚屋に出かけて確認するという習慣があった。たとえば、江戸でつくった狂歌集を毎月、各地の狂歌組織に送って広めていた。

13年前の本ですが、広い視野で幕末期の動きをとらえることが出来ました。

(2012年10月刊。3200円+税)

商人たちの明治維新

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 大島 栄子 、 出版 花伝社

 大変面白い本でした。そして幕末という時代情勢のなかで、商人がどのように行動していたのか、とても参考になりました。というのも、私はちょうど幕末の久留米の商人の動きを調べて書いているからです。

何が面白いかというと、有名な島崎藤村の『夜明け前』に出てくる「牛方騒動」の話を、その「強欲(ごうよく)」な荷問屋を主人公とする話だからです。

 藤村の話は、「牛方騒動」の調停者となった馬籠の問屋が書いた日記「大黒屋日記」をもとにしている。それに対して、この本は、「強欲」な荷問屋が書いた「永代日記」を読み解いて、ストーリー展開にしたノンフィクションなのです。あの難解としか言いようのない古文書を読み解くと、こんなに状況・心理が分かるのかと驚嘆しました。

 ところは、中山道(なかせんどう)の中津川宿(岐阜県中津川市)です。主人公は中津川宿では大店(おおだな)だった間(はざま)家に婿入りしました。ところが、この間家は、内情は放漫経営で火の車というか、1100両もの大変な借金をかかえていたのでした。ところが主人公は逃げることなく、店の建て直しを図り、見事に成功するのです。要するに、店の収支状況を数字で明らかにして、儲けを出す商売にしていったのでした。

たとえば、塩商売です。中山道を京都の公家から将軍家へ嫁入りするときは、大変な行列になるので、大量の塩が必要になると聞いて、早速、塩を大量に仕入れて大きく儲けたのでした。なんで大行列だと大量の塩が必要になるかというと、食品の保存用として塩漬けにするためと、調味料としての味噌・醬油に使うためです。そして、荷問屋として、「牛方騒動」に関わるのです。これには、主人公も言い分はあったようですが、牛方(うしかた)たちも字が読めるので、明朗取引を求めてきたということのようです。

調停人も入って、結局、主人公の荷問屋は撤退することになりました。このときの、双方の言い分、そして調停人の意見が詳しく紹介されています。日記に書いてあるのです。

そのあと、主人公は質屋、つまり金融業に力を入れ、そこで儲けていきます。幕末ですから、政治がまさしく激動しています。そこを主人公が乗り越えていく状況も詳しく紹介されていて、状況がよく分かります。

主人公自身は政治に直接関与はしなかったようですが、中津川宿の属する尾張藩からは特別に上納を命じられたりしています。儲けのための必要経費みたいなものでしょうか…。

個人の日記を読み解くと、当時の政治その他の経済を含めた状況がよくつかむことが出来ます。参考になりそうなところに、いつものように赤エンピツでアンダーラインを引きましたら、ほとんど全頁が真っ赤になりました(少しオーバーです)。

(1998年5月刊。1650円)

古代東アジア外交の玄関口・鴻臚館

カテゴリー:日本史(古代)

(霧山昴)

著者 菅波 正人 、 出版 新泉社

 六本松に裁判所が移る前は、城内に裁判所がありました。その隣には平和台球場があり、子どもを連れてナイター見物をしたこともあります。

 その平和台球場は今はありませんが、そこに鴻臚館(こうろかん)がありました。発掘が進み、今は立派な「鴻臚館跡展示館」が出来ています(なんと入場料は無料です)。

 鴻臚館は11世紀まではあったようで、そのころは大宋国商客宿坊と呼ばれていたとのこと。

鴻臚館跡からの出土品のなかに、アッパース朝時代のイスラム陶器がある。中国陶器にはないコバルトブルーです。青緑釉陶器の大型壺の陶器片が見つかっているのです。中国でイスラム商人による交易活動が盛んだったことを物語るものです。

 鴻臚館は全国に一つしかなかったのではなく、平安京・難波津(なにわづ)、筑紫に置かれていた。平安時代の初めから11世紀に焼失するまで、新羅や唐などからの外交使節や遣新羅使や遣唐使そして商人などが行きかう、東アジアと日本の結節点だった。

 鴻臚館跡が発見されたのは、平和台球場の改修工事のすすんでいる1987年12月のこと。最近だというのに驚きました。

朝鮮半島にあった新羅との交流は盛んで、遣新羅使の来朝は、779年までに51回、日本から遣新羅使としての派遣は24回に及ぶ。

この本を読んで驚いたのは、鴻臚館は丘陵の上にあり、その両側は入江となっていたということです。その入り江は水深が深いので、大型船の停泊が可能でした。両側を入り江ではさまれるという立地は、隔離性と防備性にすぐれ、外国からの施設を迎えるのにふさわしい場所だった。

 鴻臚館跡では、トイレ遺構も6基ほど見つかっている。いずれも堀の外側にあった。このトイレ遺構からのお尻をふくための荷札木簡が出土した。これらの木簡には、品物の人名や地名が書かれていた。木簡は用済みになったら、お尻をふくのに使われていたのですね。

 模様の入った軒瓦など、数々の出土品には圧倒されます。

(2025年8月刊。1870円)

ヒトの意識の進化をたどる

カテゴリー:人間

(霧山昴)

著者 ジョン・パリングトン 、 出版 丸善出版

 この本のテーマに直接は関わりませんが、紀元前1153年のエジプトで、ピラミッドをつくる作業に従事していた職人たちが報酬の小麦の支払いが遅れていることからストライキをしたこと、長いストライキをうったあと、要求はすべて認められたとのこと。そんな記録があったなんて知りませんでしたし、驚きました。それから3千年後の現代日本ではストライキは完全に死語となっていて(フランスではそうではありませんし、あのアメリカでも、最近、スタバの労働者が全国でストライキを敢行しています)。なんと日本は遅れていることかと嘆くばかりです。

 さらに、この本ではもう一つ、イギリスの炭鉱労働者のストライキがJGBTコミュニティと連帯したことも紹介しています。私も映画をみて知りましたが、1984年のサッチャー首相のときです。日本の高市首相はサッチャーを手本としているようですので、日本でも、そんなストライキを実現したいものです。

狩猟採集社会は、何よりも、協力すること、争いを最小限に抑えること、そして全員の役割を尊重することを保証するのを重視する傾向がある。そこでは、年配者は、技術と経験から愛情と尊敬をもって扱われるが、特権はもっていない。争いを少なくすることが重視されている。

 この本で主張されている主なものは、人のもっとも内なる思考は、「内言」とは、内心のつぶやきのことでしょうか…。内言は発話とは重要な点で異なる。ヒトの内的意識は言語で構成されている。

ヒトは他の動物とどこが違うのかが、この本で一貫して追求されています。生物学的にもっとも近縁な類人猿であっても、人のように周囲の世界を変える能力をもっていない。

ヒトの自己意識は、人にユニークな二つの特徴の結果として生じている。一つは言語能力、二つ目は道具を設計し使用することによって周囲の世界を絶えず変容させる能力。そして、もう一つ。ヒトの脳は、サル類の脳よりはるかに大きいというだけでなく、構造も機能も根本的に異なっている。

人類進化の正しい流れを初めて明らかにしたのはエンゲルスだ。

ヒトの言語は、抽象的表像の相互連絡システムであり、複雑な意味を伝えられるように文法で結びつけられている。ヒト以外のチンパンジーやゴリラには文法の能力がなく、抽象的な表象で概念的に世界を表す能力がない。

地球の生命には、生存と繁殖という2つの原理がある。

ヒトの言語は、単なるコミュニケーションの手段ではない。ヒトの思考過程には言語が中心的な役割を果たしている。

ヒトの脳は、単なるワープロでも電気回路でもない。脳は、ニューロンからなる電気的回路で構成されているだけではなく、グリアが脳機能に基礎的な方法で貢献している。そして、異なる周波数の脳波が脳領域内や脳領域間における重要な相互作用を介在させている。

脳は中央処理装置をもっていない。

脳には興奮性と抑制性のニューロンがある。通常は、興奮性のニューロンは興奮性ニューロンだけでなく、抑制性ニューロンからも入力を受けていて、ニューロンのインパルスが制御できないほど広がることを防いでいる。入力は、興奮と抑制のバランスが絶えず変化する非常にダイナミックのものである。

全部理解できたとは、とても言えませんが、重要な指摘があると思いながら、脳の働き・意識との関係を知りたくて、ともかく読みすすめました。

(2025年7月刊。2750円)

 日曜日、チューリップを植えました。ちょうど近所の子が遊びに来ていたので手伝ってもらいました。チューリップの球根は生協に予約して余るほど買っておいたつもりなのですが、まったく足りません。

 球根を植えるときは、白内障の手術のあとなので、ゴーグルをしています。眼科医によると、あと1ヶ月ほどはメガネをつくらないほうがいいというので、前に使っていたのを引っぱり出して使っています。

 自動車の免許証更新のとき、それで大変な目にあいました。視力検査でひっかかったのです。0.6が見えませんでした。検査官から白内障の手術を受けたのなら裸眼で見えるでしょ、と言われましたが、すっきりは見えますが、視力が良くなったわけではありません。なんとか合格して新しい免許証をもらうことができました。

 車なしでは動けません。ありがたいことです。

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