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君のためなら千回でも(下)

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著者:カーレド・ホッセイニ、出版社:ハヤカワepi文庫
 泣かせます。ここで紹介できないのが残念ですが、上巻で呈示された謎解きがすすんでいきます。人間の悲しい性(さが)が次第に解明されていきます。そして、それを人は簡単に受けいれることができないのです。
 アメリカは楽観主義のおかげで偉大な国になったが、おまえにも楽観主義を植えつけたようだな。それに比べて、私たちアフガニスタン人は、憂鬱な国民だ。悲観や自己憐憫の泥沼でのたうちまわってばかりいる。喪失や苦しみに屈し、人生の事実として受けいれ、必要なものとさえ見なしている。それでも人生はすすむ、と言って。だが、私自身は、この運命に屈したわけではない。現実を正視しているだけだ。
 人生には、何をやるか、何をやらないか、しかない。
 しょせんヒンディー映画は、人生とは違うのだ。それでも人生は進むと、アフガニスタン人はよく言う。成功者だろうと、落伍者だろうと、はじまりも終わりにも、危機もカルタシスも関係なく、人生は前に向かって進んでいく。ゆっくりと、遊牧民のホコリっぽいキャラバンのように。
 著者は、「親友」だったハッサンの息子であるソーラブをアメリカに連れてくることができました。アメリカでアフガニスタン人の集いがあったとき、凧合戦が久しぶりで企画されました。ソーラブは、当初、亡くなった両親もこんなことを認めないだろうと考えて消極的でした。ところが、ソーラブは、いつのまにか凧合戦に加わっていました。
 すごい本です。一読をおすすめします。
 ところで、この本とはまったく無関係なのですが、菅野昭夫弁護士(富山県)があるニュースに、アフガニスタンでアルカイダの容疑者として拘束され、キューバのグアンタナモ基地収容所に入れられている人々の救援活動に、アメリカの巨大ローファームで働く弁護士が多く関わっていることを紹介しています。
 プロボノ活動なのですが、ペンタゴンがそれを問題にして、そんな弁護士のいるローファームへの依頼をやめるように企業へ圧力をかけました。すると、弁護士側も企業側もはねかえしたというのです。アメリカにも見識ある人はいるということです。
 グアンタナモ基地収容所における無法な身柄拘束から釈放を求めるには、何百人もの収容者のために、身柄拘束の違憲性、違法性をつくばかりでなく、「不法敵戦闘員」には該当しないことを、中東やアフリカなどの親族、知人から宣誓供述書を集めて立証し、人身保護令状の申立を連邦地裁に行うという作業が必要である。
 そこで、全米の弁護士に「アメリカ憲法を守ろう」という呼びかけが行われた。その結果、今日まで、約500人の弁護士たちが、釈放を求める闘いに参加した。彼らは、プロボノワークとして、この闘いにはせ参じたのである。多数の弁護士たちが、グアンタナモ基地を訪れ、軍のさまざまな妨害を撥ね退けて収容者と面会し、人身保護令状の申立などの法廷闘争に取り組んでいった。その結果、ブッシュ政権は、五月雨式に収容者を釈放するようになり、収容者が275人にまで大幅に減った。
 こうした多数の企業法務弁護士の参加は、ブッシュ政権にとって、我慢のならないことであった。2007年1月に、軍事基地での収容所のペンタゴンにおける責任者であるチャールズ・スティムソンは、テレビのインタビューの中で、「わが国の一流の法律事務所が、こともあろうに、グアンタナモ基地の囚人の弁護をしている。依頼人の企業は、テロリスト弁護の資金源とならないために、これらの法律事務所への依頼をやめるべきである」と発言した。続いて、これら約120の法律事務所の名前が、ワシントン・ポストに発表された。これに対する反応は、政府の予想を超えるものであった。ABA(アメリカ法曹協会)は、「刑事事件において、全ての被疑者のために弁護活動を行うことは、弁護士の崇高な使命であり、これを妨害する試みは、弁護士職に対する挑戦と受け止められなければならない」との談話を発した。
 そのような中で、それら法律事務所の依頼人の一つであるGE(ジェネラル・エレクトリック)の副社長は、メディアに対し、「プロボノサービスと法の支配は、わが国法曹の偉大な伝統である。我々GEは、法律事務所がプロボノと公共奉仕の精神に基づき依頼人を選択し弁護したことで、その法律事務所を差別することに反対であり、またそうする意図はない」と表明した。同じくヴェリゾン・コミュニケーションの顧問弁護士は、「私の企業は、この法律事務所への依頼を継続する。その事務所が、私が嫌悪するものをプロボノワークとして弁護していても、この方針には何ら変わりはない」と述べた。結局、依頼を断る企業はなく、チャールズ・スティムソンは、ワシントン・ポストに謝罪の談話を発表して、ここでもブッシュ政権は敗北した。
 いやあ、すごい、すごーい。心からの拍手を送ります。パチパチパチ・・・。
(2007年12月。660円+税)

死都ゴモラ

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著者:ロベルト・サヴィアーノ、出版社:河出書房新社
 タイトルからは何をテーマとしているのやら想像もつきませんが、イタリアの暴力団のすさまじい実体を潜入ルポ形式で暴いている本です。
 カモーラは、ヨーロッパでもっとも実体をそなえる犯罪組織である。シチリアの各加盟組織は5つの地方を握っている。ンドランゲータは8つの地方を掌握している。
 ナポリだけで、50%の商人がカモーラと関わりをもっていた。
 ディ・ラウロは麻薬取引だけで1日に50万ユーロを稼いでいる。密売にたずさわる者の数は厖大で、数千人に達する。麻薬の輸送には、ごみ運搬用のトラックをつかう。上には廃品やクズ、下には麻薬。ごみを積んで夜間走るトラックなんか誰も検問しない。
 2004年4月。全員が警察の制服を着ている奇襲部隊がホテル4階に潜んでいたカモーラのボスを襲い、ピストルで射殺した。
 12歳から17歳までの少年たちは組織に入るとすぐに、忠実な兵士に仕立てあげられる。その多くは、組員の子どもか兄弟、あるいは何らかの関わりをもつ家の子どもだ。組織にとって重宝なのは、人数が多いこと。少年1人あたりの給与は、地位の低い成人の組員の半分以下ですみ、家族を養う義務はなく、時間の制約もなく、決まった給与も必要とせず、何より好都合なのは、いつでも街頭に出ていられること。仕事は一様ではなく、責任もさまざま。手はじめに、軽い麻薬、ハッシッシの密売をさせる。
 カモーラによる死者は、1979年に100人1989年に228人、1998年に 132人、2004年に142人だった。1979年以来の死者の数は、なんと3600人にのぼる。これはシチリアのマフィアやンドランゲータ、ロシアのマフィアによる殺人よりも、はるかに多い。
 カモーラが丁重に殺そうと思ったら、頭か腹に1発うち込む。車に100発、人体に 40発の銃弾をうちこむときは、地上から相手をきれいさっぱり消し去ろうとする絶対的方法である。カモーラは、長い長い記憶力と無限の忍耐力をもっている。カモーラは、裏切った者を絶対に許さない。無惨な仕方で、それを抹殺する。マフィアは、反政府や反国家的なポーズをとるが、カモーラは利得と金銭のみを追求する。
 組織内の一人の独裁は、決して長くは続かない。もし一人のボスの権力が長く続けば、物価は高騰し、独占が定着し、市場は硬直化し、投資は常に同じ部門に行われ、新分野の開拓が滞り、事業へのブレーキとなる。そこで、一人のボスが権力を握ったそのときから新顔が現れ、自身の力を蓄え、自らその拡大に力を貸した企業のあとがまに座ろうとするだろう。怖いですね。ボスだって、いつまでもボスではありえないというわけです。
 1993年から2006年のあいだ、カモーラのビドニッティ一家は、有毒廃棄物市場に乗り出し、フリーメーソンと盟約を結んでいた。そして、不正規に、しかも有利な価格で有毒廃棄物を横流ししていた。
 これって、怖いイタリアの話であって、日本には関係ないよな。そう思ったあなたは、おめでたい日本人だというほかありません。いま、筑後地方で二大暴力団の対立抗争が起き、何人もの組長・組員が殺されていますが、これも本質的には筑後地方の公共事業の利権(甘い汁)をどちらが握るか、という争いだと私は考えています。いろんな本などで大銀行や超大企業と暴力団の癒着の構造が暴露されています。警察自体もいろんな意味で暴力団とのもちつもたれつ関係にあるという指摘がしばしばなされています。残念ながら、かなりあたっているように思います。日本は、アメリカのようになってはいけないだけでなく、イタリアのようになってもいけないと改めて思いました。
 今、チューリップが7本咲いています。赤いチューリップが1本、あとは黄色いチューリップです。フリンジのついたチューリップや八重咲きのチューリップなど、変わりチューリップもありますが、いろいろ試したあと、昔ながらのチューリップに戻りました。小学1年生のときの教科書に「咲いた、咲いた、チューリップの花が」とありましたよね。あの気分を味わっています。
(2008年1月刊。2200円+税)

巨乳はうらやましいか?

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著者:スーザン・セリガソン、出版社:早川書房
 Hカップ記者が見た現代おっぱい事情、というサブ・タイトルのついた本です。男の私にはHカップと言われても、まったくピンときませんが、巨乳用なのでしょうね。
 Hカップに魅了されるのは人間ばかりではない。友人の飼う体重90キロの山羊は、著者が頭をなでると、右のおっぱいを夢中になってかみ、歯型を残した。ヒトと話しのできるメスゴリラのココは、おっぱいに目がなかった。女性トレーナーが訓練していると、ココは、しつこく乳首を見せろと身振りで女性に迫り続けた。
 人間のメスだけが動物王国のなかで唯一、乳房をもっている。ほかの哺乳類のバストは、妊娠したときと授乳しているときしか、ふくらまない。Hカップの巨乳は、類人猿のなかで突出している。巨乳は細身のからだを前提としている。
 よきにつけ悪しきにつけ、バストは女性であることをひと目で伝える器官であり、女らしさの象徴である。男性は女性の脚、目、お尻をほめて見とれる。しかし、男性の想像力のレベルを上昇させるインスピレーションを与えるのは、おっぱいである。
 最近の研究では、バストの大きさとウエスト・ヒップのバランスは、これは女の子を測る物差しと言われるが、つかう相手を探している男性が最重要事項として知っておかねばならないことだということが明らかになった。どの文化においても、それは真実で、流行にも左右されない。脂肪をたっぷり乳房に貯蔵している女性は男性にとって魅力的にうつり、彼女はもっとも食糧を得ることができた。栄養の行き届いた女性は、より多くの子孫を残すことができる。
 乳房という器官は、乳腺の束を脂肪で包みこんだものにすぎない。乳房の成長は、最大4年間にわたって続く。どれほど小さな乳房にも、乳腺葉と呼ばれる束が15〜20ある。乳腺葉には、ごく小さい腺房と呼ばれる粒が何千個とついている。
 腺房でつくられた乳汁を授乳期間中に乳首から出す。授乳期間中には、2ミリ以下の細い乳管に乳汁洞と呼ばれる小さな貯蔵場所ができることで、乳房は膨張する。乳房は乳房組織を保護するための脂肪と、それら全体を包みこむ皮膚の関連組織からできあがっている。それを胸部にくっつけているのが靱帯である。ほとんどすべての女性の乳房は左右非対称である。乳房の形は、遺伝子と体脂肪によって決まっている。
 アメリカだけでなく、世界中の女性が美容整形に夢中だ。美容整形手術の4分の1は世界30か国で行われていて、とくに豊胸手術に励む女性の多いのが、アメリカ、ブラジル、メキシコ、オーストラリア、フランス、ドイツ、ギリシャ、スペイン、そしてスイス。オーストラリアでは1日に100件の美容整形手術が行われていて、その大半が人工乳房を入れるもの。男の私からしても、その気持ちは分かります。
 豊胸手術は生理食塩水かシリコンを入れる。その合併症として、皮膜の拘縮として知られる、筋肉や結合組織の硬化。免疫反応が起きて、人工乳房を入れた疵痕組織周辺が収縮し、ときには岩のように固くなってしまう症状が出る。
 大半の豊胸手術は、生理食塩水を満たしたシリコンフォームをつかっている。3000ドルから6000ドルの費用がかかる。そして、年間6万人の女性が人工乳房を取り出している。副作用が出たら、やはり困りますよね。
 ところが、減胸手術もある。乳房が大きすぎて嫌だという女性もいるわけなんですね。この減胸手術は、完全に回復するまでに1年はかかり、かなりの苦しさをともなう。
 乳房は文化なのだ。たかが乳房、されど、乳房である。
 女性の気持ちが少しだけ分かったような気分になる本でした。
(2007年10月刊。1400円+税)

君のためなら千回でも(上)

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著者:カーレド・ホッセイニ、出版社:早川書房
 残念なことに映画はまだ見ていません。テレビは見ない私ですが、映画のほうは、できたら月に1本は見たいと思っています。でも、なかなかそうもいきません。見たい映画を見逃してしまい、残念な思いをすることもしばしばです。先日は、朴大統領暗殺を描いた『有故』を見にいこうとしたら、タッチの差で終了していました。そんなときにはDVDででも見たいのですが、1回しか見ないのに5千円もするのはもったいない気がして、ついに見ないままということも少なくありません。かといって、500円で見れるDVD映画というのは著作権切れの古いものですから、困ってしまいます。
 アフガニスタンを舞台とした切ない小説です。パシュトン人とハザラ人との民族差別がからんでいて、泣かせます。
 私も本を書いて出版したことがあるのですが、私の本を読んだ東京の女性弁護士から、文章を書けることはよく判ったけれど、もっと読者を魅きつけてやまない小説を書いてほしいという課題を突きつけられてしまいました。私も、なるほどと思いました。と言うのも、私の読者に対して訴えたいことは山ほどあるのですが、それをうまく読者の心の奥底深くに届ける努力に乏しいというか、配慮に欠けていることを自覚せざるをえません。その点、この本は、恐らく著者の体験をベースにしつつ、読み物として昇華しているからこそ、多くの人々を魅きつけたのだろうと思います。
 前置きが長くなりました。少し、この本についても紹介します。ことは、アフガニスタンがまだ平和な独裁国家だったころから始まります。著者は1963年生まれ。「友だち」のハッサンは1964年冬に生まれた。
 ハッサンはハザラ人の召使いの子どもで、学校に通わず、字も読めない。著者はハッサンと一緒に仲良く遊びながらも、ハッサンを馬鹿にしている金持ちのボンボン。しかし、父親はそんな著者をたしなめる。
 凧合戦はアフガニスタンにおける子どもの遊びのなかでも最大のお祭りだ。1975年冬の凧合戦で著者は優勝できた。しかし、凧を回収するときに、著者は人間として許されない過ちを犯した・・・。
 このあとは書きません。
 本のオビに書かれている言葉を紹介します。「君のためなら千回でも!」召使いの息子ハッサンは私にこう叫び、落ちてゆく凧を追った。同じ乳母の乳を飲み、一緒に育ったハッサン。知恵と勇気にあふれ、頼りになる最良の友。しかし、12歳の冬の凧合戦の日、臆病者の私はハッサンを裏切り、友の人生を破壊した。取り返しのつかない仕打ちだった・・・。
 なぜ、こんなひどい仕打ちを主人公がしたのか、私には理解できません。
 ハッサンをいじめた少年がこう言っています。アミールというのは主人公のことです。
 アミールのために自分を犠牲にする前に、よく考えろ。アミールのところに客が来たとき、おまえがゲームの仲間に入れてもらえないのか不思議に思ったことはないか。アミールは、なぜ、ほかに遊び仲間がいないときしかおまえと遊ばないのか。なぜなら、アミールにとっておまえはただの醜いペットにすぎないからだ。退屈なときにからかう相手、腹が立ったときに八つあたりする対象なんだ。自分をごまかして、それ以上の存在だなんて、うぬぼれるんじゃない。
 これを聞いて著者は思わず声をあげそうになった。このとき言葉を発していたら、残りの人生はまったく違ったものになっていただろう。だが、結局、なにも言えなかった。麻痺したように身体が動かず、目だけがじっと釘づけになっていた。
 いやあ、すごく重たい小説です。子ども心というのも、なるほど、馬鹿にしてはいけません。私は弁護士として離婚騒動のとき、子どもの親権者をどちらがとるか争われているときには、せめて子どもの真意を大切にするようアドバイスするようにしています。
(2007年12月刊。660円+税)

ケネディ

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著者:土田 宏、出版社:中公新書
 1963年11月22日、テキサス州ダラスでアメリカのケネディ大統領が暗殺されたことを知ったのは、私が中学3年生のときでした。暗澹たる気持ちになって、すぐ上の兄に「これから、世界はどうなるんだろう。また戦争が始まるのかな?」と、不安気にたずねたことをはっきり覚えています。兄の答えは覚えていませんが、そんなに心配することじゃないよと、私をなぐさめる言葉だったと思います。
 43歳でアメリカの大統領となり、ニューフロンティアを切り拓いていこうと呼びかけた大統領就任演説は、いまも名高い演説として語り継がれています。その3年後、わずか46歳で凶弾に倒れたわけですが、アメリカが今も昔も見かけ以上に、いかにも凶暴な国であることが、この本を読むとよく分かります。
 それにしても、清新溌剌としたケネディが、プレーボーイとしても名高いのにもかかわらず、実は虚弱体質で、何度も死にかけたことがあることを知って、私は大変驚きました。
 ケネディの母ローズは、17年間に男4人、女5人の計9人の子どもを産んだ。ほぼ毎年、妊娠・出産をくり返していた。敬虔なカトリック教徒の生活を実践したわけだ。しかし、夫婦の仲は、恋愛結婚と子宝に恵まれたことから想像されるほど親密ではなかった。父・ジョセフは、結婚直後から、出世欲と権力欲に取りつかれたように仕事に夢中で、家庭をかえりみなかった。夫は妻ローズに子どもを産むことだけを要求した。妻ローズは、夫が外で女をつくろうが、夫の富と社会的名声を共有して人生を楽しめばいいと割り切り、家庭にとどまるふりをした。
 ジョン・F・ケネディーは、兄ジョーに何ごとによらず勝つことができず、劣等感にさいなまれた。ジョンは、父親から期待されず、母親からも見捨てられていた。ジョンは体調を崩してしまった。精神的なストレスから来るものだったかもしれない。
 病弱なジョンに父親は期待しなかった。ジョンは、見捨てられたと感じていた。ジョンは、アーサー王伝説という哀しい話を好んだ。
 ジョンは、倦怠感と激しい下痢に悩まされ、体重は50キロほどしかなかった。
 ジョンがハーバード大学に入学できたのは、成績優秀な兄が在学していて、金持ちの父親が大学の有力なスポンサーだったことによる。
 ジョンは大学生のとき、政治的、社会的行動にまったく関心を示さなかった。
 ジョンの父親はルーズベルト大統領への政治献金の大きさから駐英大使に任命された。しかし、反ユダヤ主義、親ヒトラーそしてヨーロッパの戦争への非介入の主張がアメリカ国内で反感を買い、ルーズベルト大統領も抑えることができずに、1940年10月、解任された。
 1943年8月、ジョンは海軍に入り、PTボートの指揮官としてソロモン諸島に配属された。小さな魚雷艇に乗っていると、レーダーもないなかで日本の駆逐艦と衝突し、魚雷艇は沈没してしまった。13人の乗組員のうち2人が即死し、1人が重症を負った。ジョンは、残った部下と近くの島にたどり着き、なんとかアメリカ軍に救出された。これが、ジョンの英雄伝説をつくり出した。
 ジョンは、生涯を通じて、他人(ひと)と親しく接するのが苦手で、大勢の人のなかにいるのを嫌った。遠慮っぽくて、引っこみ思案だった。
 ところが、小さなグループのなかでは、そんなジョンの性格がすべて利点になった。ティー・パーティーに参加した女性の心をジョンはつかんでしまった。
 ジョンは、自分で考え、自分で結論する。あえて政治生命をかけてでも、守るべき自分がある。それが理想とする政治家だった。それはきわめて新しいタイプの政治家だった。
 反共主義の信念をもっていたジョンがユニークだったのは、ソ連と共産主義の武力による拡大を阻止するために武力を行使することを嫌ったことである。ジョンは、共産主義が貧困を栄養として拡大するなら、先に貧困をなくし、貧困が生じないようにすれば、その拡大は防げると考えた。
 1947年夏、ヨーロッパ旅行中にジョンは体調が悪化、カトリックの臨終の秘蹟までほどこされた。なんとか回復したものの、アジソン病と診断され、余命1年と宣告された。これは、長年にわたる多量のステロイド摂取による副作用の結果と思われる。
 朝鮮戦争のころ、ジョンはアメリカ国内での共産主義の拡大を恐れ、共産主義者の登録の義務化や国家の危機状況下での身柄拘束はやむなしと考えていた。マッカラン法に賛成した。
 ジョンは、大統領になって、アメリカ全土に核シェルターを設置する提案をした。
 私がアメリカを初めて訪問した20年前、ワシントンで、普通の民家の地下に核シェルターがあるのを知って大変驚いたことを思い出しました。こんなちゃちな核シェルターで核戦争の下で生きのびられると考えたアメリカ国民の無知を笑ったものでした(もちろん、笑ってすまされる話ではありませんが・・・)。
 ロバート・ケネディは、性格が母親ゆずりの真面目さで、恵まれない人々の苦しみを自分のものとして受けとめる優しさがあった。ロバートは、アメリカの敵は共産主義ではなく、むしろ国内に存在する貧富の差であり、社会が人々に強いる不平等であり、貧困と病気だという考えをもっていた。
 素晴らしいですね。ロバートの行動はこの考えにもとづくものだったのです。だからこそ、暗殺されてしまったのですね・・・。
 ジョンが上院議員に当選した1953年、ジャクリーンと結婚した。しかし、実のところジョンは結婚相手を選ぶ自由はなかった。父が相手の女性を認めない限り、ジョンは結婚できなかった。ところが、12歳という年齢差にもかかわらず、ジョンとジャクリーンは互いに強くひかれあっていた。2人とも、心の底では家族愛に恵まれなかった寂しさを抱えていたからだろう。
 結婚生活について、ジャクリーンはジョンに不満をもっていた。ジョンは新婚早々から女遊びをしていた。ジョンにも悩みがあったようです。
 ジョンは、このころ2つの問題をかかえていた。一つは、根拠のないアカ攻撃をしてきたマッカーシーを非難するかどうか、もう一つは身体の不調である。
 ジョンは、マッカーシーに対する非難にふみ切れず、民主党内のリベラル派の支持が得られなかった。また、黒人の地位向上に向けての行動にもジョンはふみ出す勇気をもてなかった。ジョンは自分と南部の白人を結ぶ絆を完全に断ち切れず、優柔不断だった。
 ジョンの大統領就任演説は、わずか15分間。1355語でしかない。歴代で5番目に短い。しかし、それは、時代を経ても高い評価の得られるように願ったジョンの思いがあふれた文章だった。ジョンは声に出して何度もくり返し読み上げる練習をした。
 それゆえに、わが同胞であるアメリカ国民諸君。国が諸君のために何ができるかを問い給うな。諸君が国のために何ができるかを問い給え。
 わが友である世界の市民諸君。アメリカが諸君のために何をしてくれるかではなく、我々がともに人類の自由のために何ができるかを問い給え。
 この部分だけが極端な文語調だった。うーん、そうなんですか・・・。この演説は誰が書いたのか、ということを問題にしています。スピーチ・ライターの文章を読み上げただけではないのか、という疑問に対して、著者は違うだろうと言います。
 臨機応変に即興の演説をすることのできる文章家だったジョンがスピーチ・ライターの下書きを修正・編集したものとして、やはり、ジョンの書いたものだと考えるべきだ。
 ジョンは大統領として、カストロの支配するキューバ侵攻作戦にゴーサインを出します。1961年4月のことです。ところが、この作戦はみじめな失敗に終わり、1189人もの上陸部隊が捕虜になってしまいます。その失敗を打ち消すために弟のロバート司法長官とともにカストロ暗殺計画にふみこみますが、これまた失敗してしまいます。カストロ暗殺計画は、5年間に8回も立案されたというのです。
 1962年にキューバ危機が発生します。ソ連がキューバに攻撃用ミサイルを持ち込んだというのです。軍人たちは、キューバへの軍事行動を強硬に主張します。
 お偉いさんたちの話を聞いて、そのとおりにした、お偉いさんに間違っていたことを指摘しようにも、誰も生きていないというときが来てしまうよ。これはジョンの言葉です。
 ジョンの戦争回避努力を非難した、ときのアメリカ空軍参謀のカーチス・ルメイは、日本から最高の勲章をもらった米軍人でもあります。ルメイは、ジョンに対して、史上最大のアメリカの敗北だと非難しました。
 ジョンを暗殺したのは、リー・オズワルドという24歳の元海兵隊員だということになっている。しかし、オズワルドの経歴が逮捕直後から詳しく公表されたのは、かえって不自然だ。しかも、オズワルドは、2日後にはマフィアと関係のあるジャック・ルビーによって警察本部の地下駐車場で射殺された。
 ジョンの脳の状態は2度の検視のときに大きく異なっていた。要するに、銃弾が回収されていたのだ。真犯人が誰かを隠すために、権力による工作がなされたということです。
 著者は、ジョンの暗殺の主犯はアーレイ・バーク提督だと指摘しています。この人物は、日本の自衛隊が発足するときに大きく貢献した人物だということです。このとき、厚木基地でオズワルドとも面識があったというのです。
 久しぶりにケネディ大統領を思い出しました。アメリカを知るうえでは欠かせない人物ですよね。
(2007年11月刊。840円+税)

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