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カテゴリー: 朝鮮・韓国

満州国軍朝鮮人の植民地解放前後史

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 飯倉 江里衣 、 出版 有志舎
大変貴重な労作です。韓国軍トップの過去の黒い背景、そしてそれは日本帝国主義の負の遺産そのものだということを痛感させられました。
大韓民国政府が解放直後から朝鮮戦争期間までに韓国の人々に加えた暴力は、日帝強占期の暴力以上のものだった。それは日帝警察と同じ、あるいはそれ以上に残酷なものだった。
何が彼らにそれほど残忍な行動をとらせたのか…。果たして、同胞、同じ民族という事実は、人々の残酷な行動を抑制することができなかったのか。同じ民族であるにもかかわらず、否、同じ民族であるからこそより残忍であった。いかなる状況で、これほど残酷になれるものなのか…。
その答えは…。日本軍による虐殺イデオロギーのもと、中国の河北省で抵抗する民間人を「共匪(きょうひ)」とみなして虐殺した朝鮮人たちは、解放後の南朝鮮においても「共匪」は殺さなければならないというイデオロギーを持ち続けた。つまり、解放後の満州国軍出身朝鮮人たちにとって、同胞であるかどうかは重要でなく、「共匪」であるかどうか(「共匪」とみなせるかどうか)が決定的な意味をもっていた。
満州国軍出身の朝鮮人にとっては、麗順抗争時の鎮圧作戦を経て初めて、共産主義者が殺さなければならない存在に変わったのではなく、「共匪」は殺さなければならないという日本軍による虐殺イデオロギーが、その思想として解放後まで引き継がれていたのだ。
済州島事件に連動する麗順抗争のとき、満州国軍出身の金白一は、鎮圧作戦下の虐殺にもっとも積極的に加担した人物の一人だった。そして、このとき、「戒厳令」下の「即決処分」(処刑)は、何ら法令の根拠をもたなかったが、「緊急措置」として正当化されてしまった。
アメリカ軍は、このようにして進行する虐殺の一部始終を見ていたが、一貫して傍観者であり続け、民間人への多大な暴力を「秩序の回復」過程としてとらえていた。また、この虐殺は、韓国軍にとっての良い経験になると認識していた。
韓国軍の根幹は、日本軍そして満州国軍出身の朝鮮人によって構成されていて、日本軍の虐殺イデオロギーが引き継がれていた。これは歴史的事実である。
ところで、関東軍(日本軍)は、根本的に朝鮮人を信用していなかった。最後まで、朝鮮人に対する不信感を払拭できなかった。朝鮮半島を軍事的に支配していたとしても、日本軍は心の底で日本からの独立を願っている朝鮮人を恐れていて、いつかは裏切られるかもしれないとビクビクしていたということなのでしょうね…。
そこで、関東軍が満州国軍内に抗日武装闘争を展開中の東北抗日聯軍と対峙する間島特設隊を創設したとき、指揮官には多くの朝鮮人を登用したが、最高指揮官である隊長と、その下の連長の大半は日本人をあてた。朝鮮人兵士たちと、彼らを管理・指揮する朝鮮人を常に日本人が監視できる体制をつくった。日本の軍事教育を受けた人々が、いつ団結して日本人に銃口を向けるか分からないという恐怖心が朝鮮人指揮官は最小限に留めるという方針になった。
間島特設隊は、1938年9月に創設され、中国の河北省において、部落の民間人と八路軍を区別するどころか、いかに中国人部落の民間人の抵抗を抹殺して自分たちに服従させ、人々から八路軍についての情報を得るかに奮戦していた。そして、そのためには民間人の虐殺もいとわなかった。そこには、「共匪」は民間人かどうかを問わず殺さなければならないという日本軍の虐殺マニュアルがあり、それを実践し、身につけていた。
大変に実証的な研究の成果だということがよく分かり、とても勉強になりました。引き続きのご健闘・健筆を心より期待します。少し高価な本ですので、図書館に注文して、ご一読してみてください。
(2021年2月刊。税込7480円)

囚人Ⅱ

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 黄 皙暎、 出版 明石書店
現代韓国を代表する作家として、ノーベル文学賞候補と言われる作家の自叙伝の後半(続き)です。
高校在学中に新人文学賞をとったというほどの早熟の作家なのですが、ともかく、その社会生活の多様さに圧倒されます。国内の無賃乗車の旅は韓国の若者特有の冒険旅行のようです(日本でも、かつて若い人がリュックひとつを背負って旅行してましたね。バックパッカーとして…。今は、聞きませんね)が、きつい肉体労働を若いときから何回もしていますし、出家しようと決意して、お寺での僧坊生活も体験しています。
さらには、徴兵に応じて海兵隊員としてベトナムへ行って1年半ものあいだの実戦経験があります。帰国してからも肉体労働しながら著述をすすめ、ついに専業作家となるのですが、民衆文化運動に加わるなかで民衆による光州事件を支援し、北朝鮮訪問も敢行しています。書斎にとじこもった作家というのではなく、歩きながらペンもとるという行動派の作家として歩んできました。
ベルリンとニューヨークで亡命生活を送ったあと韓国に帰国し、5年にも及ぶ刑務所生活を余儀なくされたのでした。1998年に金大中政権が誕生して、ようやく赦免されたのです。
まさしく波乱万丈の人生です。そのことが著作に深味というか重味をもたらしているのでしょう。大河歴史小説『張吉山』は完結するまで10年かけているとのことですが、その間、作家業に専念していたのではなく、韓国民主化運動のなかで発出された宣言の起草もしていたというのです。まさしく民衆のなか足で行動する作家と言えます。
ひょうきん者として知られていたが、実際は内気で内向的な性格なのを、他人は知らない。おどけたふりをするのは、自分を傷つけないための一種の防衛策なのだ。先手を打つとでも言おうか。先にこちらは騒ぐと、たいてい相手は私がどう考えているかを知ってしまう。そうならないために身についた「策略」なのだ。
小説家は天職と考えるようになった。それでも、小説家は、「学識者」ではなく、もともと市場(いちば)の物売りのような市井(しせい)の「商売人」であるべきだとの思いに変わりはない。
生きていくとは、それ自体は手応えのある喜びで、苦しい人生もすべてが自分の人生の一部なのだ。
刑務所の独房には話し相手がいない。なので、言葉を忘れがちになる。真っ先に消えるのは固有名詞。朝起きると、自分に話しかける。一日中、ぶつぶつ、つぶやく。国語辞典を借り出して、収録されている用語を大声で順番に読み上げることもある。だけど、監房での読書は正しい読書ではないと悟った。書籍も、他人と意思を伝えあいながら読むことで、きちんと消化される。独房での孤独な身での読書では、読んだ本の内容は観念の柱のように、壁の前に耐えて立っているだけ。
コロナ禍の下でのズームによる会議も、終わったあと頭に残りません。そのときは分かったつもりでいても、ズームが終了すると、それこそたちまち雲散霧消してしまって、ほとんど何も頭の中に残っていません。
著者は刑務所を出たあと妻とのあいだで数年にわたって離婚訴訟をたたかったようです。離婚訴訟というものは、長引けば長引くほど、お互いを傷つけるもので、まるで一生を賭けているように譲歩の余地もなくもつれ、汚物や泥沼の上を転げまわり、最終的に残ったのは、呵責(かしゃく)の念、申し訳なさ、相手に対する憐憫の情などをまったく持っていない(としか思えない)、すっかり消し去るほどの威力をもつものだった。
監獄では、外部世界のように春夏秋冬という四季はなく、寒い冬と寒くない季節の二つに分かれる。誰かが面会に来ると、しょぼくれた姿を見せまいと、わざとジョークを飛ばしていた。活気あふれる声で話すようにしていた。なので、周囲からは、あまり同情してもらえなかった。
ベトナムの戦場では、生死の境は常に身近にあった。「両足で歩いているすべてのベトナム民間人は敵と思え」。これがアメリカ兵のなかに流行していた警句。ということは、アメリカはこの戦争には勝てないということ。
ベトナムの戦場でゲリラの死体を見ても、人間としての憐みの感情をもてなかった。それは、ただ異様な物体でしかなかった。そして、何より、彼らにも同じように未来に対する夢があったことだろうが、そのことに気がつかなかった。
ベトナム人の蔑称「グック」は韓国語の「ハングック」から来ているのだそうです。初めて知りました。ともかく、すごい行動派作家がいたことに圧倒され、頭がクラクラします。
(2020年12月刊。税込3960円)

囚人(黄晳暎自伝)

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 黄 晳暎 、 出版 明石書店
現代韓国を代表する作家です。ノーベル文学賞候補と言われているとのこと。
私は韓国軍がベトナム戦争に参戦した状況を描いた『武器の影』(上・下)を1989年に読んで圧倒されたことを記憶しています。アメリカの要請を受けて韓国軍はアメリカ軍によるベトナム侵略戦争に加担したのでした。そのおかげで韓国経済は立ち直ったと言われていますが、ベトナムの罪なき人々を残虐に殺したことで韓国軍の悪名が高かったのも事実ですし、韓国人兵士もかなり戦死しています。心身に故障を抱いた元兵士が今も存在するようです。
このように著者は韓国内で名前の売れた作家なのですが、なんと北朝鮮に何回も行っていて、金日成とも会食をともにしたり親しかったとのことです。もちろん、フツーの韓国人がそんなことをしたら反共法違反で逮捕され、有罪なるのは間違いありません。
この本では韓国に帰国して南企部で肉体的な拷問こそ受けなかったものの、眠れないようにされたうえで、延々と尋問が続くという、一種の拷問は受けています。
そして有罪(実刑)となり、教導所と呼ばれる刑務所生活を余儀なくされました。その囚人としての生活が具体的に紹介されているところも興味深いものがあります。
著者は共産主義者ではなく、北朝鮮に何回も行ったからといって北朝鮮を美化することもない。北朝鮮のような社会体制を思想的に支持することはできないと明言しています。平和主義者として、統一を願って行動してきました。韓国が真に民主化されたら、その力で北朝鮮を変えられると信じています。
眠らせずに尋問する程度のことは、拷問のうちには入らない。
ソウル市長として実績をあげていた人権派弁護士の朴元淳も著者の弁護人(3人)の1人でした。セクハラ事件が明るみに出たあと自殺したのはショックでしたし、残念でした。
刑務所(矯導所)には当時、驚くべき肩書の人がたくさんいました。国会議員、高検の検事長、前国防長官、前・現の参謀総長、海兵隊司令官、銀行頭取など…。
食パンを水に着けて、カビを生やさせて、マッコリ(焼酎)をつくっていたというのも初耳でした。そして、隠れてタバコも房内で吸っていたそうですので、こちらも少しばかり驚きました。
著者は、国家保安法上の罪で逮捕され有罪となって下獄したわけですが、この国家保安法は本当にひどい法律です。戦前の日本の治安維持法をそっくりまねて導入した悪法です。広く知られている事実であっても、北朝鮮を利するなら「機密」にあたるという判決が出たのでした。
金日成からプレゼントとしてもらった白頭山産の朝鮮人参を3本も一度に食べたというエピソードが紹介されています。要するに、当局から没収されてしまうくらいなら、食べてしまえと思ったとのことでした。大変読みごたえのある自伝です。
(2020年10月刊。税込3960円)

「パチンコ」(上)

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 ミン・ジン・リー 、 出版 文芸春秋
アメリカで100万部突破した本だということです。オバマ元大統領も読んで推薦したという話題の本です。
いやあ、なるほどなるほど、前評判どおりの重厚なストーリー展開です。四世代にわたる在日コリアン一家の苦闘を描いていますが、上巻ですから、まだその半ばです。
舞台は、韓国の港町・釜山(プサン)のすぐ近くの影島(ヨンド)の漁村に始まります。
ときは、日本が大韓帝国を併合して植民地として支配していたころのこと。
主人公のソンジャは、働き者の父を早くに亡くし、母とともに下宿屋を営んでいる。そこに独身の若い牧師がやってきた。日本の大阪へ旅する途中に病弱の身を休ませようというのだ。やがてソンジャは年上の男性に気に入られ、妊娠する。ところが、そのときになって初めて男性は日本に妻子がいると告白した。韓国社会では、父なし子を産むことへの偏見、制裁は強い。ソンジャは男性に裏切られたと絶望する。それを承知で牧師が結婚を申し出る。そして、二人は無事に日本へたどり着き、大阪に腰を落ち着ける。
戦前の日本と朝鮮の社会状況が活写されていて、その置かれた状況に抵抗なく入っていける展開です。
戦前の日本はついに無謀な戦争に失敗し、敗戦を迎える。ソンジャは2人の子をかかえて、さあどうする…。下巻が待ち遠しくてなりません。
(2020年12月刊。2400円+税)

朝鮮半島を日本が領土とした時代

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 糟谷 憲一 、 出版 新日本出版社
「日本は朝鮮を支配したというが、日本は朝鮮でいいことをしようとした。朝鮮の山には木が一本もないということだが、これは朝鮮が日本から離れてしまったからだ。もう20年、日本とつきあっていたら、こんなことにはならなかっただろう。…日本は朝鮮に工場や家屋、山林などをみな置いてきた。創氏功名もよかった。朝鮮人を同化し、日本人と同じく扱うためにとられた措置であって、搾取とか圧迫というものではない」
今でも戦前の日本が朝鮮半島を植民地として支配していたことを美化しようとする人がいますが、とんでもない歴史の歪曲(わいきょく)です。
冒頭の発言は1965年(昭和40年)1月、日韓会談における日本側主席代表(高杉晋一・三菱電機相談役)が日本の外務記者クラブで語ったものです。
この本は、この発言がいかに事実に相違したものなのかを詳細に論証しています。
日本が朝鮮を植民地化したのは、1868年以降、要所要所で武力示威、武力行使を加えて、朝鮮半島における勢力を拡大し、一方的に押し付けた結果であるのは明らか。
合意にもとづいて「韓国併合」がなされたというような虚偽の議論をすべきではない。「韓国併合」を「国際社会が認めた」として正当化するのは、植民地を領有した国、しようとした国が互いに依存しあったことをよしとするものにすぎないので、それで正当化できるものではない。朝鮮の独立を保証すると言いながら、日本は独立を奪ったのであって、その背信は深く反省すべきもの。
戦時下の労働動員に際して、数々の非人道的な行為が日本政府、朝鮮総督府、動員先企業によってなされたことは否定しがたい事実である。非人道的な行為に対する慰謝料は当然に支払われるべきものだ。
日本が朝鮮に日本軍を常駐させる口実をなったのは、日本公使館の護衛だった。もともと、公使館護衛は朝鮮側がするべきことで、日本軍隊の配備は主権の侵害となる。しかし、日本は壬午(じんご)軍乱(1882年7月19日)で反乱軍の兵士が日本公使館を包囲・襲撃し、そのとき花房公使以下がようやく脱出できたという事情を利用して、武力を背景に朝鮮側に認めさせた。いったん認められた駐兵権は、日本の軍事力が朝鮮内に浸透していく足場となった。
その後の天津条約(1885年4月)で日本と中国(清)の双方が軍隊を朝鮮から撤退する合意が成立したときも、わざわざ公使館護衛兵の駐兵権は除くとされた。
1910年8月の「韓国併合に関する条約」では、韓国皇帝が日本天皇に統治権を譲与する形式で、韓国を日本に「併合」するとされた。これは、「韓国併合」が合意によるものであると装うための虚構である。このとき、日本は、日本が一方的に施行する法令を遵守するものだけは保護すると宣言した。いやはや、まさしく植民地支配そのものですね。
朝鮮に施行する法令の制定権は、天皇、帝国議会、朝鮮総督の三者がもった。朝鮮人は代表を帝国議会に贈ることはできなかったので、立法権にはまったく参与できず、統治の客体にすぎなかった。
朝鮮人を「同化」するとは、日本人と同等・同権に扱うことではなかった。
1918年の3.1独立運動は朝鮮人の多数が日本の武断政治に不満をもっていて、植民地支配の継続を望んでいないことを明確に示した。その参加者は空前の規模であり、旧来の地方有力者である両班(ヤンバン)や儒生、郡参事、郡書記、面長など総督府の支配機構の末端を担う者も含まれていた。
日本の安保法制法が成立する前、国会前では空前の規模の反対行動が展開していましたが、その参加者のなかに文科省のトップ(事務次官)になる直前のエリート官僚(前川喜平氏)も参加していたことを急に思い出しました。
私と同じく団塊世代の著者による丁寧な歴史叙述です。ぜひとも多くの人に読んでほしいと思いました。日韓関係が一刻も早く改善することを心から願っています。
(2020年8月刊。1800円+税)

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