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カテゴリー: 朝鮮・韓国

朝鮮通信使の道

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 嶋村 初吉 、 出版 東方出版
江戸時代は鎖国していたということになっているけれど、実際には海外に向かって4つの口をもち、朝鮮と琉球とは通信の関係を保持していた。4つの口とは、琉球、出島(長崎)、対馬、松前(北海道)。江戸には、朝鮮通信使、琉球使節、出島の阿蘭陀(オランダ)カピタンが参府し、徳川将軍に海外の情報をもたらした。
江戸時代の朝鮮通信使は、薩長12(1607)年を皮切りに、文代8(1811)年まで12回、来日した。そのうち3回目までは回答兼刷還使(さっかんし)といって、秀吉軍によって日本に拉致・連行された朝鮮人を連れ戻すことを主目的とした。
通信使一行は漢城(ソウル)の王宮で国王から励ましの言葉をいただき、江戸城での図書交換のため8ヶ月から1年2ヶ月をかけて往復した。
通信使一行は、三使(正使、副使、従事官)を筆頭に300人から500人、国内一流の人材が抜擢された。迎える幕府側は年間予算100万両をこえる巨額を投入した。
朝鮮通信使が来日すると、宿泊先には求画求援の人波が押し寄せた。朝鮮の先進文化を学ぼうとしたのだ。また、庶民のあいだでは、「朝鮮人の家を得ておけば願い事が必ずかなう」という噂がたち、人々が宝を求めるように集まった。
通信使は、異文化に接触できる江戸時代最大の外交イベントで、使節が行く沿道には、人垣ができた。異国の風俗、音楽、舞踊を縁日を楽しむように民衆は鑑賞した。その影響は、牛窓(岡山県瀬戸内市)の唐子踊り、三重県の分部町や東玉垣町の唐人踊りなど、現在も継承されている。
そして、朝鮮通信使は、日本の技術の優秀さを認め、評価した。
著者は、この朝鮮通信使のたどった道を実際に歩いたのです。
ソウルが外国軍によって占領されたのは史上2回ある。豊臣秀吉の朝鮮侵略と中国・清軍の侵攻の2回。
朝鮮で開化思想をもっともはやく受け入れたのは中人階級だった。医術・天文・通訳のような技術職の人々である。両班でも商人でもない。官職についても一定以上の昇進はできず、四・六品以上には昇れなかった。
両班(やんばん)とは、高麗、朝鮮王朝時代、官僚を出すことができた最上級身分の支配階級。両班の本来の意味は、朝廷で儀式があるとき、そこに参席しうる現職の官僚を総称するものだった。両班は婚姻関係を通じて結合するとともに、学問を通じて結びつきを深めた。
釜山には「草梁倭館」があり、対馬藩士が交代で400人から500人も詰めていた。その面積は10万坪で、これは長崎・出島の25倍もの広さ。江戸の中期には、雨森(あめのもり)芳洲(ほうしゅう)、後期には、小田幾五郎が倭館につとめた。
秀吉の朝鮮侵略のとき、朝鮮軍のほうに投じた日本人の武将がいました。降倭と呼ばれています。そのなかでは「加藤清正の鉄砲隊長」だった沙世可(さやか)が有名ですが、その14代目の子孫がいるというのには驚きました。全在徳さんです。慶尚道の大邱(てぐ)に住んでいます。
朝鮮通信使が日朝交流の点で果たした役割はとても大きかったと改めて思いました。
(2021年11月刊。税込1980円)
 水曜日の午前中、雪がチラホラ降ってきましたが、すぐにやみました。
 いま庭は紅梅が満開です。今年はなぜか隣の白梅が咲いてくれません。
 庭のあちこちに白い水仙が咲いています。ところどころ、正月に植え替えた黄水仙が可憐な花を咲かせています。私はキリっと自己主張する黄色の黄水仙がお気に入りなのです。

ベトナム戦争と韓国、そして1968

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 コ・ギョンテ 、 出版 人文書院
アメリカがベトナム侵略戦争をすすめていたとき、韓国軍もベトナムに派遣され、ベトナムの人々と戦いました。韓国軍の兵士が5千人も亡くなり、1万人あまりが負傷したのですが、ベトナムの人々を5万人も殺したとのこと。
そのなかで、アメリカ軍がソンミ村で罪なき市民を大量虐殺したのと同じように、韓国軍も平和な村へ進攻して、何の罪もない非武装・無抵抗の村人たち(年寄りと女性・子どもがほとんど)を大量に虐殺したのでした。この事件は直後にアメリカ軍が駆けつけて証拠写真を撮り、アメリカ軍のウェストモーランド司令官が正式に書面で韓国軍に調査を要求したことで表面化しました。
1968年2月12日、ベトナム中部のフォンニャット村で74人の村人が虐殺された事件です。この本は、なぜ虐殺事件が起きたのかを、当時の韓国社会の状況、ベトナム戦争の実情、そして加害者である韓国軍元兵士、被害者のベトナム人遺族と生き残った人々へのインタビューによって多面的に構成されていて、とても読みごたえがありました。
韓国軍によるベトナム戦争時の民間人虐殺の犠牲者は9千人にのぼるといいます。韓国人兵士はベトナムの子どもたちに優しく接していたという報道があります。恐らくそれも本当のことでしょう。でも、ひとたび戦場に投入され、殺すか殺されるかの極限状況に置かれたら、タガが外れてしまって「動くものは皆殺せ」とばかり何も抵抗していない民間人に発砲していったのでしょう。恐ろしいばかりです。
1968年2月1日、南ベトナムの治安局長のロアン将軍がサイゴン(ホーチミン市)の街頭でベトコン将校の頭にピストルをつきつけて即決処刑した。この場面はあまりに有名です。何ら尋問することもなく、裁判によらず、カメラマンなどのマスコミもいる面前でベトコン容疑者の頭に向かってピストルを撃って殺すとは…。野蛮な行為そのものですが、それはベトナム戦争の本質をずばりあらわすものでもありました。
このときのテト攻勢によって、アメリカ大使館はベトコン特攻隊(19人)によって6時間も占拠されています。
このテト攻勢は、ベトコンと北ベトナム軍は3万人もの犠牲者を出し、軍事的には失敗したと言われている。しかし、政治的にみると、アメリカ国民のベトナム戦争に対する見方を根本的に転換させたという点で大きな意義があったことは間違いなく、軍事的失敗を上回る大きな成果を上げたと評価されています。私もそう考えています。なにしろ、強大なアメリカ軍の象徴であるアメリカ大使館がベトコンによって半日ほども占拠されたのですから、ベトコンの不屈の力をアメリカ国民に見せつけることに成功したのです。このあと、アメリカ国内にはベトナム戦争の行方に疑問をもつ国民が増え、ベトナム反戦運動が大きく盛り上がりました。私も大学2年生でしたが、ベトコンってすごーい、と驚嘆したことを今でもはっきり覚えています。
ちなみに、ベトコンというのは、アメリカ軍が南ベトナム民族解放戦線(NLF)を「ベトナム共産主義者」と軽蔑して表現するコトバです。日本でも韓国でも、マスコミが普通に使っていました。私も日常用語として深く考えもせずに当時は使っていました。
このロアン将軍は、3ヶ月後の5月5日に、ベトコンの狙撃手に狙われ足を撃たれたが、命だけはとりとめ、サイゴン陥落後にアメリカに渡って、1998年7月、68歳で亡くなった。
1968年1月21日(日)、北朝鮮の特殊部隊員31人が韓国の首相官邸である青瓦台を襲撃した。この襲撃は失敗に終わり、31人のうち1人だけが投降し、残る1人が北朝鮮に逃げ帰ったものの、残る全員が死亡した。
北朝鮮はベトナム戦争を支援するため、ミグ戦闘機とパイロット87人を北ベトナムに派遣した。うち14人が戦死したという。地上軍の派兵はしていない。
1月21日の青瓦台襲撃は、北朝鮮にとって、「南朝鮮革命」攻勢の一つであり、ベトコンへの側面支援でもあった。
朴大統領は北朝鮮への報復爆撃をアメリカに求め、ジョンソン大統領はそれを拒絶した。
「シルミド事件」は、このあとに起きた悲劇なんですよね…。
青瓦台襲撃事件で唯一生き残ったキム・シンジョは北朝鮮軍の特殊部隊の厳しい訓練状況を暴露した。その結果、韓国軍は服務期間が延長され、訓練内容も厳しいものに変えられた。
ベトナムに派遣された海兵第二旅団は4800人。対する敵兵力は8700人と想定されていた。これは北ベトナム軍第二師団7400人とベトコン地方軍1300人を加えたもの。
フォンニャット村はベトコンの解放区で、村長もベトコン。村の人口300人で、遊撃隊80人が活動していた。ベトコンの遊撃隊員は狙撃と監視が主たる任務であり、中隊規模の敵兵力に対峙するのは山中に身を隠す正規軍の役目だった。
韓国軍の海兵第二旅団は空軍に負けてはならなかったし、ベトコンに負けては、さらにいけなかった。
アメリカ軍司令官による調査要求に対して、韓国軍は、ベトコンが韓国軍偽装用の軍服を着て残虐行為をして、責任を転嫁して韓国軍についての悪宣伝に利用したものだと弁明した。
たしかに、朝鮮戦争のとき、韓国軍兵士が人民軍の服装をして北進し、人民軍の後方を攪乱することがあった。そのときの部隊長がベトナムに派遣された韓国軍司令官チェ中将だった。なるほど、自分の体験をもとに偽装事件をデッチ上げようとしたわけです。
戦争中に敵の軍服を着用して偽装するのは、ときにあったようです。第二次大戦中、ナチス・ドイツ軍がヨーロッパ戦線(たしかアルデンヌの森)で偽装してアメリカ軍の部隊を攪乱したことがあったと思います。
それにしても、ベトナムでベトコンが韓国軍兵士に偽装して村民を大量虐殺したというのには無理がありすぎます。わずかながら奇跡的に生存者もいたのですから、同じベトナム人が韓国軍兵士に偽装していたら、すぐに見破ったはずです。
ベトナムには自由射撃地帯と射撃統制区域があり、フォンニャット村は、何でも自由に撃ってよい自由射撃地帯ではなかった。なので、韓国軍の村民虐殺は許されることではありませんでした。しかし、韓国軍は兵士の士気低下を恐れて何も処罰しなかったのでした。
朴大統領が青瓦台襲撃事件の報復として対北軍事報復しようというのを、アメリカのジョンソン大統領は断固として阻止した。それは、北朝鮮の思うつぼにはまるだけのことだと考えたからです。
1968年2月というと、私が大学1年生の終わりころのことです。この年の6月から東大闘争が始まっていますし、ベトナム反戦のデモや集会にしばしば参加して、声を枯らしていました。1968年の1年を複眼的にみることのできる、いい本です。一読を強くおすすめします。
(2021年8月刊。税込3960円)

長東日誌

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 李 哲 、 出版 東方出版
私と同世代で、まったく同じ時期に東京で大学生活を過した著者が韓国の大学で勉強中に「北」のスパイとして捕まり死刑判決を受け、13年間の獄中生活を送った記録です。
この13年間というのは1975年から1988年までのことです。著者の27歳から40歳までですから、私は故郷にUターンして弁護士をしていました。
そして、著者は2015年に無罪判決を受け、さらには2019年6月、来日した文在寅大統領から大阪で国家を代表しての謝罪を受けています。それを受けてこの本にしたとのこと。いやあ、本にしていただいて良かったです。韓国の民主化運動の重たさが実感としてよくよく伝わってきました。
なにしろ、日本でアルバイトの仕事をしていた時期、そのアリバイもはっきりしているのに、北朝鮮に渡って指令を受けて韓国でスパイ活動していたという「自白」をさせられたのです。その「自白」にもとづいて死刑判決を受け、獄中で、処刑の日がいつに来るかビクビクして過ごしていたというのです。
韓国の死刑囚は、24時間、ずっと手錠をかけられているというのを初めて知りました。行動の自由を奪って、自殺を防止するという狙いもあるようです。
著者は1948年10月生まれで、人吉高校から中央大学理工学部に入学。そこで、コリア文研に入った。そのころ、北朝鮮は輝いているように見えた。
映画「キューポラのある街」(吉永小百合が上演)でも、北朝鮮が魅力的な国だという前提で、北朝鮮へ帰国しようという人々の話が出ていました。今のように、貧しい、ひどい独裁専制国家というイメージはなかったのです。
著者は韓国に渡り、高麗大学に留学しました。そして、婚約者となる女性に出会うのです。ところが、結婚式の直前の1975年12月11日、著者はKCIAに捕まります。拷問の始まりです。結局、耐えられず、求められるまま、すべてを「認める」のでした。
それからはドロ沼。北に行ってスパイ教育を受けたとか、調書の上では誰がみても完全な「北のスパイ」になったのです。KCIA(中央情報部)の地下室は、人間を人間ではなくならせる悪魔の空間であり、ある日突然連行された無防備な人は拷問の専門家である彼らには、いとも簡単に料理できる獲物だった。
検事は求刑のとき、こう言った。
「李哲のような人間は社会にとって極めて危険。なので、社会から永遠に抹殺しなければならない。よって死刑を求刑する」
同じく捕まっていた婚約者には懲役10年が求刑された。そして、一審判決は著者に死刑、婚約者に6年の実刑判決。次の二審判決も、著者に日本にいたことのアリバイが証明されても、変わらず死刑判決でした。婚約者のほうは3年6ヶ月の実刑に減軽。1977年に上告棄却で著者の死刑が確定した。その年の12月、著者は洗礼を受けてカトリックの信者になった。
刑務所の中の生活の大変さが、かなり伝わってきます。
著者も次第に元気を取り戻していき、職員の暴力に耐えるようになっていきました。
「あんなに殴られて、痛くないのですか?」
「変なこと言いますね。生身の人間ですから、痛くないわけがありません」
身体の節々が疼(うず)いて動くのも不自由だったが、心の中で大声で叫んだ。
「勝ったぞ!」。初めての勝利の味をかみしめていた。傷だらけの勝利だ。勝利したという思いで、心は爽やかだった。勝利するためには、傷を負うことも実感した。
いやあ、実に痛そうな勝利です。下手に生きようとするから負けるのであって、死のうと思ったら勝てるのだ。貴重な悟りを得た、と言います。大変ですよね…。
大邸七・三一事件は1985年7月31日に起きた。地下室で著者ら18人がひどい暴行を受けた。これに対して、断食闘争を始めた。
刑務所内でたたかう有力な手段・方法に断食するというのがあるのですね。イギリスでもアイルランド独立闘争の闘士が刑務所内で断食闘争を始め、ついに餓死してしまうというのがありましたよね。ただ、これも、外部と連絡をとって、社会に知らせるというフォローがないと容易に勝てるものではないとのこと。
ところが、ここで、著者の婚約者が大きく動くのです。すでに刑務所を出ていたので、著者への面会に来ていて、また、外部の教会も動かしたのでした。韓国では、日本と違って教会の力は大きいようです。婚約者は、まさしく猪突猛進して、世の中を突き動かしました。ついに保安課長が土下座し、次に副所長が泣きを入れ、勝利したのでした。断食闘争が勝利をおさめるという画期的な成果をおさめたのです。
1988年10月に著者は出所に、婚約者と13年遅れの結婚式をあげます。場所は明洞聖堂、結婚ミサは金森煥枢機郷。そして、結婚式のあとは、3000人の参加者による明洞一帯の結婚式デモ行進。横断幕を先頭に、鼓手たちが太鼓を叩きながら進む。新郎新婦と母親と牧師夫妻を乗せた花飾り車が続き、そのうしろから多くの祝賀客が続いて行進する。明洞聖堂の街中を一周して明洞聖堂に戻って解散。
いやはや、こんなすばらしい結婚セレモニーなんて聞いたことがありません。
そして、1989年5月に著者は日本に戻ったのでした。
日本と韓国の深い関わり、そして韓国民主文化闘争の苦労をまざまざと知らせる貴重な良書です。心ある日本人に広く読んでほしいと強く思いました。この本を読んだ翌日、毎日新聞に大きな記事になっていました。
(2021年6月刊。税込3850円)

ある北朝鮮テロリストの生と死

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 羅 鍾一 、 出版 集英社新書
1983年10月9日、ビルマ(ミャンマー)の首都ラングーンにある国立墓地アウンサン廟を韓国の全斗煥大統領が訪問することになっていた。全斗煥大統領がビルマ側の都合から泊まっていた迎賓館を出発するのが4分ほど遅れた。先発の黒塗りのベンツが駐ビルマ韓国大使を乗せてアウンサン廟に到着し、行事の開始を告げるラッパの音が響いたとき、現場一帯に閃光が走り、すさまじい爆発音とともに猛烈な爆風に包まれた。
このラングーン事件によって、韓国政府の副総理、外相、商工相、動力資源相という4人の主要閣僚、大統領秘書室長、また報道関係者17人が亡くなった。ビルマ側も同じく4人の主要閣僚が亡くなった。負傷者は両国あわせて46人。
犯人は北朝鮮の特殊任務を遂行する偵察局に所属する精鋭部隊であるカン・チャンス部隊。3人組のテロリストは、ジン・モ(キム・ジンス)少佐をトップとし、シン・キチョル(キム・チオ)大尉とカン・ミンチョル(カン・ヨンチョル)大尉の3人。
ジン・モは事件後に逃亡するなかで腕を切断し、失明したがビルマで死刑に処せられた。
シン・キチョルは逃亡中に射殺された。残るカン・ミンチョルはビルマの刑務所で獄死した。
使われた爆弾は、対人地雷(クレイモア)2個と焼夷弾の3個。うち対人地雷の1個は不発で残り、ビルマ捜査当局に回収された。焼夷弾は、現場における証拠隠滅のためのもの。
この本を読んで、ひどいと思ったのは、北朝鮮は3人の特殊工作員を工作船でビルマに派遣しながら、この3人を安全に脱出させ保護することをまったく考えていなかったということです。
3人組は、自分たちが北朝鮮から乗ってきた工作船に戻るつもりで、そのために快走艇が川まで迎えに来るはずだった。ところが、工作船はビルマ政府から上陸・接岸を認められず、インドに向かっていたのです。なので、迎えの快走艇なるものも来るはずがありません。それで、3人は、バラバラと見知らぬ土地でビルマ語も話せずに、川の茂みに隠れて快走艇を求めているうちに捜索隊に見つかり銃撃戦を演じ、負傷して捕まったのでした。
北朝鮮の工作というのは、失敗したら自己責任、死ぬしかないのですね。まさしく、かつての日本帝国の軍隊と同じ体質としか言いようがありません。人命尊重なんて、カケラもないのです。ひどすぎますよね…。
そして、カン・ミンチョルは、ビルマの刑務所で25年間、じっとすごして、ついに2008年5月に病死してしまったのです。
この本の著者は学者出身で、国家情報員の要職にもあった人です。本件も朝鮮半島の分断状況がもたした悲劇の一つです。思い出すべき事件、忘れてはいけない事件だと思いました。
(2021年5月刊。税込968円)

帝国大学の朝鮮人

カテゴリー:朝鮮・韓国

(霧山昴)
著者 鄭 鍾賢 、 出版 慶應義塾大学出版界会
植民地朝鮮から日本の帝国大学に留学した青年たちのその後をたどった本です。人数にして1000人もいた彼らの多くは、日本の植民地支配機構にエリートとして組み込まれていったようです。
彼らは長い日本における留学生活を通して、日本式の近代化の理念を内面化して帰国し、植民地朝鮮と戦後の南北朝鮮で社会の中枢となった。
帝国大学の教授陣のなかにも、朝鮮留学生に厚意を示した良心的な知識人もいた。たとえば、吉野作造、河合栄治郎、河上肇、そして藤波鑑(私は、この人を知りません。すみません)。
植民地朝鮮にも1926年に開校した京城帝国大学があった。ところが、この京城帝大には日本人学生が多数であり、朝鮮人入学者が半数をこえたことはなかった。そもそも、この京城帝大は、当時の朝鮮人たちが自力で民立大学を建てようとするのを阻止する手段でもあった。
玄界灘を渡って日本へ行った青年たちは、「志士か、出世か?」の問いが投げかけられた。そして、帝国大学の卒業生は結果として、多数が「出世」を選択した。多くの学生が、日本での留学期間に、帝国日本が先に成し遂げた文明に圧倒されてしまった。
しかし、帝大出身のなかには、反日運動を展開し、労働運動を指導した青年たちも少なからずいた。その青年たちは検挙され、拷問を受け、そして獄死する人がいた。
京城帝大を卒業した朝鮮人青年は629人だったのに対して、日本内地の7つの帝国大学を卒業した朝鮮人留学生は784人、途中放棄などをふくめると1000人をはるかにこえる青年が帝国大学で教育を受けた。
これらの帝国大学の留学生は、朝鮮総督府の植民地統治を維持する官僚となり、官立・公立・私立の教育機関、植民地の言論、出版、そして経済界で中心的に活動した主要人物だった。そして、解放後には、南北朝鮮の国家建設の重要な人的資源となった。このように、帝国大学は、日本本土だけでなく、植民地および南北朝鮮においても国家のエリート育成装置だった。
東京帝大の朝鮮人留学生のなかには、日本帝国の民間有力者たちが設立した「自彊(じきょう)会」から奨学金をもらった人たちがいた。いわば「アカの正体を隠して」奨学金を「タダ乗り」でもらっていた。
帝国の奨学生のなかの少なからぬ人々が、解放後の南北朝鮮で、自らが習得した知識で各自の共同体に貢献する生涯を生きた。
河上肇は、自宅で毎週木曜日、雑誌「社会問題研究」を中心とするセミナーを行ったが、これには、日本人8人と韓国人学生3人が参加していた。
藤波鑑教授は京都帝大医学部の教授であり、朝鮮人留学生(尹 日善)の授業料を出してやったりした。藤波教授は、毎週水曜日の昼は、学生と一緒に昼食をとって歓談した。
うむむ、これはすごい教授ですね・・・。
ニックネームが「熊」だった朴英出は京都帝大経済学部で学ぶなかで反日運動の闘士となり、警察に逮捕された。知力も体力も強かったのに、激しい拷問にあって、その後遺症として4年の刑期を待たずして獄死した。
大変な労作です。少なくない前途有為な、志の高い青年たちが日本の特高警察による残忍な拷問で殺されてしまったことを知ると、同じ日本人の一人として大変申し訳なく思います。これらの人々が解放後に平和裡に個性を発揮したらどんなに素晴らしかったことでしょう…。もっとも、本人が一番残念だったでしょうね。
(2021年4月刊。税込3740円)

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