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カテゴリー: 日本史

海軍の日中戦争

カテゴリー:日本史

(霧山昴)
著者  笠原 十九司 、 出版  平凡社
 目からウロコが落ちる、とはよく言われますが、まさしくこの本のことです。私も、すっかり騙されていたのですね。しかも、大山事件という謀略事件のあったことを初めて知りました。満州某重大事件というのは、張作霖爆殺事件でしたが、こちらは、帝国海軍が大山中尉にオトリになって死んで来いと命令していたというのです。
 そして、戦後、帝国海軍は、陸軍が悪かったのだ、海軍は戦争に反対していた、善玉だという事実に反するキャンペーンを展開して、それに成功したのでした。私も、それに騙されていたというわけです。安倍政権と防衛省幹部の危険性がますます明らかになりつつありますが、軍部独走を許したら、とんでもないことになることが、よく分かる本です。400頁、2500円という大作ではありますが、私はぜひ一人でも多くの人に読んでほしいと思いました。
陸軍は暴力犯。海軍は知能犯。
 戦後、海軍は陸軍の東條英機に次いで開戦責任のあった海軍の嶋田繁太郎の死刑判決を免れるために口裏あわせの工作をした。
 東京裁判にあわせて、海軍は陸軍に引きずられて太平洋戦争に突入したのであり、海軍は本来、「平和的、開明的、国際的」であったという「海軍、善玉論イメージ」を意図的に流布した。そして、マッカーサーと会い、天皇の免責とあわせて海軍の免責をも勝ちとった。
 マッカーサーも、古領政策を容易にするため、陸軍の東條らに全責任を負わせることにし、ここに「談合」が成立した。
 うむむっ、なに、なに、そういうことだったのか・・・。まったく欺されていました。恐るべき海軍の知能犯。
帝国海軍は、国の命運や国家利益、さらには国防よりも海軍という組織の利益を優先させる、強いセクショナリズム集団だった。
 国防という本来の任務から乖離し、組織を肥大化させることを自己目的にした。海軍あって国家なしだった。
 海軍の首脳部は、陸軍に対抗して、いかに多くの海軍の軍事費を獲得し、軍備を拡張するか、海軍組織のことばかりを考えていて、国家の存亡や国民の命は二の次に考える組織だった。戦争は軍がやるものだ。軍にまかせておけ。軍のことには干渉するな。
  開戦前の昭和16年11月5日、海軍は、次のような命令を発した。
「帝国は自存自衛のため、12月上旬、米・英・蘭に対し開戦を予期し、諸般の作戦準備を完整するに決す」
客観的には明らかな侵略戦争を始めるときでも、このように「自存自衛」だというのですよね。安倍政権による集団的「自衛」権の行使のための戦争立法案と同じ論理です。
 ところで、開戦前の和平工作にあたっていたはずの広田弘毅外務大臣について、部下である外務省の局長が次のように評しているのを知りました。広田弘毅は戦犯として処刑されましたが、福岡県弁護士会の3階にその書が掲げてあったため、故諌山博弁護士が問題にしました。
 「広田外務大臣が、これほど都合主義な、無定見な人物であるとは思わなかった。非常時日本に、彼のごとき外務大臣をいただいたのは日本の不幸であるとつくづく思う」(7月17日)
 「広田外相は時局に対する定見も政策もなく、まったくその日暮らし、いくら策を説いても、それが自分の責任になりそうだと逃げをはる。頭がよくて、ずるく立ちまわること以外にメリットを見いだしえない。それが国土型に見られているのは不思議だ」(8月18日)
 「ご都合主義、無定見」というのは、いまの安倍首相そのものですね。このような首相をいただいたのは、日本の不幸だとつくづく思います。
 大山事件というのは、1937年7月7日の廬溝橋事件の直後におきた大山勇夫中尉が8月9日夜に中国軍の飛行場付近で射殺された事件のことです。これによって海軍は和平工作を破綻させて第二次上海事変に突入し、日中戦争が全面化していったのでした。
大山中尉は、大川内伝七・上海海軍特別陸戦隊司令官から、口頭で「お国のために死んでくれ」と命令され、現地に赴いたことが証明されています。
 「名誉の殉職を遂げ」た大山中尉は、すぐに大尉となり、正七位に叙せられ、遺族にはそれなりの補償金が支給されています。
 それにしても、軍隊とは、むごいことをするものですね。26歳の独身男性に対して、侵略戦争の口実をつくるために死んでこいと命令するのです。これが軍隊なんですね。
 本当に恐ろしいところです。
 軍隊では、威勢のいいのが幅を利かす。国家の前途を憂えるとか、軍縮とか、そういうことを考え、口に出すような軍人は軍中枢から次々にはじき出されていった。
開戦前、海軍が「アメリカとは戦えない」と言ったらどうなったか。海軍は今まで、軍備拡張のためにずい分な予算をつかってきたじゃないか。それでいながらアメリカと戦えないと言うんだったら、海軍の予算を削って、陸軍によこせと言われてしまう。だから、陸軍からそんなことを言われないように、負けるとか、戦えないとか、一切言わないようにした。
 海軍は「対米航空決戦」に備えることを口実として膨大な予算を獲得し、航空部隊の軍備を拡充し、兵員の大増員をはかり、日中戦争を利用して、十分な戦闘訓練を重ねてきた。それでいながら、「今さらアメリカと戦争できないとは何事だ」という陸軍の批判・攻撃をかわすために戦争をはじめた。陸軍に非難され、けなされた海軍の面子を保つために日米戦争を始めたわけである。「身内の論理」そのものと言ってよい。
 そこでは日本という国の運命よりも、陸軍と海軍というセクショナリズムの対立と張りあいの果ての対米戦争突入なのである。
 悲惨な結果をもたらす戦争というものが、このような馬鹿馬鹿しい「論法」の下で始まることに呆れ、かつ怒りを覚えます。自民・公明の安倍政権の戦争立法の成立を許してはなりません。
 まさしくタイムリーな出版です。ぜひ、あなたも早めにお読みください。
(2015年6月刊。2500円+税)
 ことしの夏はどこにも行かず、安保法案の廃案を目ざす取り組みに汗を流しました。日本の行く末を誤らせないため、引き続きがんばります。
 この夏の楽しみは孫に遊んでもらったことでした。来たときには生後4ヵ月で、寝返りもちゃんとできなかったのに、1ヵ月ではいずりまわるまでになりました。
 赤ちゃんの顔の百面相は見飽きることがありません。目線があってニッコリしてくれるのも可愛いいし、甘え顔もすぐ分かります。そして、激しく泣いて自己主張するときは強烈です。まさに全存在をかけて叫びます。
 赤ちゃんは早寝早起きですから、私も朝6時には起きて、一緒に遊んでいました。
 1ヵ月間、わが家にいて赤ちゃん中心の生活でしたが、その顔を思い出すだけでも、自然に笑みがこぼれ出します。小さな赤ちゃんの威力は絶大なものがありますね、、、。

平城京の住宅事情

カテゴリー:日本史

                              (霧山昴)
著者  近江 俊秀 、 出版  吉川弘文館
 奈良の平城宮跡に立ったことがあります。もう20年ほど前のことになりますが、広大な平地が広がっていました。
 ここが長屋王邸跡という表示も、町なかに見かけたような気がします。そこから大量の木簡が出てきたのでした。
 平城京に住んでいた役人たちは、律令の規定に従って、正一位から少初位まで30に分けられた位階に与えられ、それぞれの役所に勤務していた。
 平城京に住む人の数は5万人から20万人まで、推定の幅は広い。
 木簡に見える役所は、大蔵省とか宮内省とか、現代日本でもついこのあいだまであったものもあります。
 平城京の宅地の3分の1強(37%)が役人に与えられていた。
奈良時代、妻も相続できる場合があった。夫が既に死亡していて、男の子がおらず、死別後も婚家にとどまっているときには妻の相続が認められていた。
 結婚したとき、当然に夫婦の財産の共有にはならなかった。結婚しても、夫の財産は夫個人のもの、妻も妻個人の財産が認められた。その子が相続することによって初めて一つの財産として扱われた。
 財産には、個人の財産とウジの財産の二者があった。個人財産は処分できるが、ウジの財産は管理者であっても勝手に処分はできなかった。
平城京の宅地は、一般的に自由に売買できた。つまり、当時の土地取引は、純然たる売買ではなく、今の借地に近いものだった。
 そして、建物は不動産ではなく、動産として考えられていた。
 平城京での当時の人々の生活の一端を知ることができました。
(2015年3月刊。1700円+税)

歴史の「常識」をよむ

カテゴリー:日本史

                               (霧山昴)
著者  歴史科学協議会 、 出版  東京大学出版会
 聖徳太子は実在しなかったというのは、これでまでも有力な学説でしたが、この本も、聖徳太子の実在性を証明するものは皆無だとしています。聖徳太子関係の史料は、すべて後世につくられたものなのです。
 飛鳥時代は、蘇我王権の時代だった。飛鳥の支配者は蘇我氏なのである。
 壬申の乱(672年)は、王位継承の争いではなかった。その頃、朝鮮半島では、すでに滅んだ百済と高句麗の旧領をめぐって唐と新羅が交戦状態に入っていた。そのとき、天智の子の大友皇子が唐に加担して出兵を企てたのに対し、白村江のトラウマをもつ諸豪族が反発したのが乱の真相である。天武(大海人)は、単に旗印として利用されたにすぎない。
平安時代末期の源平合戦について、源氏一門がはじめから政治的にまとまっていたわけではない。そして、最初から頼朝に一門の棟梁の地位が約束されていたわけでもない。
 むしろ、「源平合戦」は、分立する源氏諸氏のあいだにおける主導権争いでもあった。それを結果として勝ち残ったのが、源頼朝と彼が率いた鎌倉幕府だった。
 15世紀から16世紀にかけての戦国時代において百姓(農民)は農閑期の戦場稼ぎをしていた。戦場は、魅力ある稼ぎ場だった。できるだけ多くの百姓たちを雑兵として動員するには、農耕の暇になる季節を狙うしかなかった。戦場は、いつも「乱取り」、つまり奴隷狩りの世界だった。
 近世の百姓は、訴訟のために、多くの関係書類を作成し、大切に保管していた。それは、訴訟が今と同じく文書によって進められていたから。
 裁判には吟味筋(ぎんみすじ)と出入筋(でいりすじ)の二つがある。吟味筋は刑罰を科するもので刑事裁判を、出入筋は私権を争うので民事裁判である。
 公事宿は、近世の訴訟には必要な存在であり、訴訟を有利に運びたい人々にとって公事師(くじし)は心強い存在だった。
 百姓一揆においては、武器の携行、使用や、家屋への放火、盗みを自律的に禁じていた。江戸時代の村々には、日本刀や鉄炮などの武器は多数存在していた。しかし、百姓一揆のときに、これらの武器が使われることはなかった。百姓は自律的に暴力を封印していた。
 日本史の「常識」が大きくひっくり返される刺激的な本でした。
(2015年3月刊。2800円+税)

満蒙

カテゴリー:日本史

著者  麻田 雅文 、 出版  講談社選書メチエ
 ロシアのウィッテは、実力者(首相や大蔵大臣を歴任する)として中国や朝鮮に港と鉄道支線を獲得することに執念を燃やした。シベリア鉄道をヨーロッパをアジアを結び一大運送会社にするためである。
 大連の建設は、ロシア人のサハロフ市長が指揮した。当初はアメリカ風にするつもりだったが、地形が合わないことに気がつき、パリを参考にして中心の広場から放射状に通りがのびる案が採用された。
 中国の義和団戦争の一因は、中国人とロシアの支配する中東鉄道の土地をめぐる争いだった。
 ウィッテは、1903年8月に大蔵大臣を解任されてしまった。
 日本の参謀本部は、シベリア鉄道が完成し、ロシアの兵站能力が格段に上がるのを恐れ、先手を打つことを決意する。1904年2月のことである。
 日露戦争において、日本側は日露両軍は、それぞれ30万人の戦闘員を動員すると目算した。しかし、それは甘かった。戦中の20ヶ月間に、ロシアは130万人の将兵を鉄道で中国東北へ運び入れた。それに対して停戦時の日本軍は69万4千人だった。このとき、ロシア軍は、沿海州(中国東北部)に100万近い精鋭部隊を展開していた。
 1909年10月26日、中東鉄道のハルビン駅で伊藤博文が暗殺された。
 満鉄は標準軌だったが、中東鉄道は広軌なので、列車を乗り換える必要があった。伊藤博文は、このとき身辺警護を断った。身に迫る危険を感じていなかったし、ロシア側に配慮もしていた。
 暗殺犯の安重根は、1910年3月26日、旅順の監獄で絞首刑に処せられた。処刑は伊藤博文の月命日だった。
 シベリア出兵からの完全撤退を考えていた原敬首相は、1921年11月に東京駅で刺殺された。シベリア出兵は、ボリシェヴィキ政権、ソ連による全国統一を数年送らせて、現地の人々の恨みを買っただけで終わった。
 1939年5月からの4ヶ月間、日本の関東軍と満州国軍とが国境のほかに何もないところで戦争した。
戦中の中国東北部である満州の変遷をたどりつくことのできる本でした。
(2014年10月刊。850円+税)

明治日本の植民地支配

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著者  井上 勝生 、 出版  岩波書店
1995年8月、北海道大学の構内にある古河講堂で段ボール箱のなか、新聞紙に包まれた韓国東学党の首魁者と書かれた頭骨が発見された。明治39年(1906年)に北大に持ち込まれたというもの。この本は、誰が持ち込んだのか、果たして本当に韓国人の頭骨なのか、それは誰なのかを追跡するところから始まります。
 日清戦争は1894年に始まった。同じ年に、韓国では東学農民軍が蜂起した。朝鮮の危機に直面した東学農民軍が日本軍に対して蜂起し、これが朝鮮全域に広がった。参加者は数百万人にのぼる一斉蜂起である。
 この頭骨を日本に持ち込んだ「佐藤政次郎」を調べた。ついに、札幌農業高を卒業し日露戦争(1904年)に召集され、終戦後、朝鮮に派遣された人物だと判明した。日本の綿花栽培事業のための木浦出張所の所長となった。そのころ、東学党の乱に遭遇し、処刑された人物の頭骨を得た。
 1905年11月、日本は第二次日露協約により、朝鮮を強制的に保護国とし、政治支配権の多くを奪う。翌1906年2月、アメリカから陸地綿種子をとり寄せ、日本の綿花栽培事業が始まった。
問題の頭骨が東学農民軍指導者の遺骨であることに間違いないことが確認されると、遺骨の奉還式が行われた。
 まず1996年5月29日、北大文学部で行われた。そして、韓国・全州で遺骨の鎮魂式が行われた。
 この本では、日清戦争と同じとき、日本軍が抗日東学農民軍を大量虐殺していた事実を暴き、それが戦史に隠されていないことを明らかにしています。それは、体験ないし目撃した日本軍将校が二人も自殺してしまうほど、ひどいものだったのです。
 掃討作戦は徹底した凄惨なものだった。日本軍は直接、大量殺戮に手を下した。
 自死した二人の日本軍将校は、精神に深い打撃を受けたのだ。東学農民軍を殲滅する作戦は、地獄絵のような戦場だったにちがいない。
 捕らえた、負傷した東学農民軍は拷問のうえ、焼き殺した。
東学農民軍をいかに日本軍が虐殺したのか、はるばる北大まで運ばれていった頭骨から調べていった本です。
 このような歴史を日本人は忘れてはいけないとつくづく思いました。
(2013年8月刊。2100円+税)

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