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カテゴリー: 日本史

『偽史と奇書の日本史』

カテゴリー:日本史

著者:佐伯 修、出版社:現代書館
 この本を読むと、日本人は古くから歴史を愛する一方で、歴史の偽造も好む民族なのではないかという気がしてきます。
歴史を愛するという点では、佐賀の吉野ケ里遺跡が発掘されるや、年間数十万人もの見物客が押し寄せますし、青森の三内丸山遺跡もすごい集客力を持っています。
そして、邪馬台国はやっぱり九州にあったという本を立て続けに2冊読んで、九州説を信奉する私は心躍る思いがしています。やっぱり、日本の文明は九州の地で発祥したのですよ・・・。
 偽書といえば、私にとっては、まず第一に戦国時代の裏話を描いたという『武功夜話』が衝撃的でした。なにしろ、昭和34年(1959年)に発見されたというものです。戦国時代の先祖の体験にもとづいて江戸時代に書かれたというものの、明治や昭和の知識にもとづいて書かれた記述があるという指摘があり、後世の偽作であることは間違いないようです。ところが、あまりにもよく出来ているため、これを事実としてたくさんの小説が書かれています。
 たとえば、津本陽『天下は夢か』、遠藤周作『男の一生』、秋山駿『織田信長』などです。私が最近読んだ本にも、この『武功夜話』を史実とする前提のものが何冊もあります。そのたびに、もっと勉強してよねと疑問を感じるのです。
 『武功夜話』を史実だとして紹介するのなら、少なくとも、これらの偽書説についての合理的な反論を示すべきではないでしょうか。
 もう一つは、『東日流外三郡誌』です。「つがるそとさんぐんし」と読みます。戦後も戦後、1975年(昭和50年)に、青森県五所川原市の和田氏宅の天井裏から古文書が発見されたという触れ込みでした。
古代の東北に、西の邪馬台国や大和朝廷とは別の王国があったという内容です。今やとんでもない偽書だったことは明らかですが、小説家の高橋克彦などが、これを事実として小説を書いたりして大反響を呼んだのでした。
 まことに日本人は古来より歴史を愛する民族なのだと思わせる、面白い本です。
(2007年4月刊。2300円+税)

三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭国

カテゴリー:日本史

著者:石野博信、出版社:新泉社
 三角縁神獣鏡は、単なるおまじないの鏡だったという説が紹介されています。驚きです。古墳のなかに置かれていた位置と数からして、本当に値打ちの高い良い鏡だったか疑問だというのです。うーん、そう言われても・・・。
 この本では邪馬台国・九州説がコテンパンにやっつけられています。福岡県南部に生まれた私としては、もちろん昔から心情的には九州説なので、大変悲しいことです。山門郡のある瀬高(女山。ぞやま)あたりだという本居宣長(もとおりのりなが)の説に共感してきました。しかし、瀬高だったら船で30日かかる距離ではないし、遺跡も多くはないとバッサリ切り捨てられています。
 それでは、最近有名な、あの吉野ヶ里ではどうでしょうか・・・。これもダメというのです。民家が密集しているようなところは、広大な王宮と矛盾するとされています。
 そして、戸数5万戸あるという投馬国が九州説ではどこに位置するのか、説明されていない。ここが最大の弱点だと指摘されています。
 著者は、投馬国は吉備国(今の岡山)、邪馬台国は大和だとしています。大和国山辺郡を想定しています。
 奈良盆地には、古くから山辺(やまのべ)の道と上(かみ)つ道がある。そこらあたりに邪馬台国はあった。私も、この2本の古道を現地で歩いてみたいと考えています。
 卑弥呼は魏王から銅鏡100枚を贈られました。このとき倭国使節団は、別に2000〜3000枚もの鏡をつくらせて倭国へ持ち帰ったと著者は推定しています。
 三角縁(ふち。えん)神獣鏡は日本に500面が見つかっているが、中国では一枚も見つかっていない。そうなんですよね、なぜなのでしょうか・・・。
 「卑弥呼以死」とあるのを、卑弥呼は殺されたとする新しい解釈が提起されています。そして、卑弥呼は、自分の生きているうちに墓(寿墓)をつくっていたのだ、というのです。松本清張が言い、それを支持する学者もいるそうです。「以死」というのは自然死のときには使わない用語だというのです。
 前方後円墳というのは、幕末の勤王志士・蒲生君平(がもうくんぺい)が名づけたもの。しかし、長突円墳と呼ぶべきだとの主張が紹介されています。そして、これは壺の形に似せてある。蓬莱山をあらわしているというのです。
 最新の学説の状況が分かる面白い本です。

蒙古襲来絵詞を読む

カテゴリー:日本史

著者:大倉隆二、出版社:海鳥社
 熊本の武将・竹崎季長(すえなが)が蒙古襲来のときの自分の戦功を鎌倉幕府に訴え、恩賞をもらうために絵師に合戦状況を再現するよう描かせ、この絵巻物をもって鎌倉まで出かけて直訴した。私も、いつのまにか、そう思いこんでいました。いわば証拠写真をもって政府にかけあったというイメージです。
 ところが、それはまったくの誤解なのでした。むしろ、竹崎季長は、蒙古合戦における自分の働きや見聞したことを再現するだけでなく、この合戦で活躍しながらも、その後の鎌倉幕府上層部の内紛で非業の死を遂げた恩人たち、たとえば安達泰盛(季長の手柄を認めた)、菊池武房(二度の蒙古合戦で数々の武功をたてた)、河野通有(一緒に戦った)などを回想し、鎮魂の意味をこめて、この絵詞を絵師に制作させた。
 文永11年(1274年)10月、元と高麗の連合軍2万3000が対馬・壱岐を襲撃し、10月20日に博多湾岸に上陸した。このときは1日だけの戦闘で、夜には元・高麗軍は軍船に撤退し、翌朝は、博多湾から姿を消していた。
 弘安4年(1281年)5月、元・高麗連合軍4万(東路軍)と、南宋の降兵10万(江南軍)が押し寄せた。このときの戦闘は、5月から7月にかけて2ヶ月あまりに及んだ。閏7月1日の台風によって遠征軍は壊滅状態となり、日本の将兵は、逃げ遅れた遠征軍を掃討した。季長は文永の役のとき29歳、弘安の役のとき36歳だった。
 季長の戦功を認めた安達泰盛と、その子盛宗は、弘安8年(1285年)の霜月騒動で滅ぼされてしまった。だが、正応6年(1293年)、旧泰盛派は復権した。
 絵詞は、通説によると永仁年間(1293〜99年)に制作された。しかし、著者は、もっと遅く、正和3年(1314年)に制作されたとします。このとき、季長は69歳になっていた(死亡したのは79歳のとき)。
 絵詞に、赤坂という地名が出てきます。日本の将兵が蒙古軍と戦った場所です。今の裁判所あたりの高台が蒙古合戦の舞台だったというのを知ると、なんとなく感慨深いものがあります。
 絵師は京都で修行を積み、博多に住んでいた一派ではないかと著者は推測しています。一人ではなく、何人かの腕の良い絵師が分担して描いたというのです。
 季長は少し離れたところ(たとえば肥後)に住んでいて、気に入らないところは絵師に手直しを求めていたようです。それもあって、いったん描かれた将兵の足や着物などが訂正されているのです。
 全部の絵がのっているうえ、詞も原文だけでなく、現代語の訳文がついているのもうれしい本です。

イエズス会の世界戦略

カテゴリー:日本史

著者:高橋裕史、出版社:講談社選書メチエ
 天正遣欧少年使節の原マルチノ、中浦ジュリアン、伊藤マンショ、千々岩ミゲルの4人はローマで教皇グレゴリウス13世に謁見した。その教皇グレゴリウス13世は、イエズス会に日本布教の独占を認める小勅書を発布した。
 16〜17世紀の日本でキリスト教を布教していたのは、ほかにフランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティノ会がいた。しかし、日本における活動の長さや重要性を考えると、イエズス会を抜きにして日本のキリスト教史は語れない。ザビエルを筆頭として、大勢のイエズス会宣教師が来日して教勢を拡大していった。
 イエズス会は上長(じょうちょう)への服従、会の目的達成のためには手段を選ばない、戦闘的な集団意志をもつという特色がある。その入会希望者には厳格な選抜と訓練を課していた。
 1549年のザビエルによる日本開教以降、日本イエズス会は着実に日本における地歩を確立していった。1570年までに3万人の信者を獲得し、九州から畿内までの西日本各地に40もの教会をたてた。ヴァリニャーノが来日した1579年までに信者は10万人となっていた。在日イエズス会員の人数も、1565年に12人だったのが、1579年に55人、秀吉による宣教師追放令が発布された1587年には111人となっていた。
 キリスト教徒領主は、大村も有馬も、有事の際に宣教師を保護するどころか、逆に教会からの保護を受けなければならなかった。そこで、長崎を軍事要塞とする方針がヴァリニャーノによって打ち出された。
 イエズス会は、竜造寺隆信とたたかっていた有馬晴信を援助するため600クルザドを出費した。
 ヴァリニャーノによる長崎を軍事拠点とする指令は、長崎に弾薬や大砲などの武器の配置、そして長崎の住民とポルトガル人の武装兵士化を意味していた。長崎の町を2重の柵で囲み、砦を築き、そこにいくつかの大砲を置いた。また、港内のフスタ船も大砲で武装していた。
 こうした教団の世俗化に反対する日本人イエズス会員が教団を去り、徳川幕府に教団の内実を報告した。それで、イエズス会は、実際の軍事力を行使しないまま、キリスト教勢力による日本の軍事征服という、一面では信憑性をともなった風評によって日本を追われることとなった。軍事的に自らを守ろうとする方針は、同時にイエズス会自体の存続に危機をもたらす両刃の剣でもあった。
 イエズス会が、この戦国の時期に軍事にかなり深く日本の武将も肩入れしていたこと、自らも武装拠点をつくりあげていたことを初めて知りました。キリスト教宣教師の恐るべき役割を認識した思いです。
 現在の日本でイエズス会は、上智大学、エリザベト音楽大学、栄光学園、六甲学院、広島学院などを展開している。
 イエズス会って、昔も今も、日本で活動しているのですね・・・。

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