法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 日本史(江戸)

江戸のフリーランス図鑑

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  飯田 泰子 、 出版  芙蓉書房出版
 弁護士になってしばらくのあいだは、江戸時代って天下奉平、つまり変化がなく安定していて、人々は封建時代のしがらみにとらわれ、暗黒の時代に生きていたと考えていました。今では、その考えを根本的に改めています。
 江戸っ子はお金を貯めず(貯められず)、その日のうちに稼いだものを使い切ってしまう。明日は明日の風が吹くとばかり、気ままに生きていた人が少なくなかったのです。
私の固定概念を最終的に見事に粉々に砕いたのは『世事見聞録』という江戸の浪人が匿名で書いた本です。復刻版が出ていて、すぐ手に入りますから、未読の方には一読されることを強くおすすめします。ネットで検索してみて下さい。
 この本の延長線上にあるのが、戦前、熊本の農村(須恵村。今の球磨郡あさぎり町)に1年間、アメリカ人の若き人類学者夫婦が住み込んで(日本語が出来ますので通訳不要です)聞き取り調査をした結果をまとめた本『須恵村の女たち』(御茶の水書房)です。私は、この2冊を読まないで日本人論、とりわけ日本女性論を語るのは間違ってしまうと確信しています。
 この本に戻ります。この本のすばらしいところは、たくさんの働く人々が、写実的な絵と一緒に紹介されていることです。
 天秤(てんびん)棒の前後に荷を振り分けて、担いで打つのが棒手振(ぼてふ)り。「一心太助」の姿が絵描かれています。
江戸の魚市場は関東大震災のあと築地(つきじ)に移るまでに300年のあいだ、日本橋にありました。発祥は日本橋の北側で、南側に木材木町新魚市場が登場した。野菜を籠(かご)に入れて売り歩いた小商人を江戸では前栽(ぜんさい)売りと呼び、京坂では八百屋と呼んだ。
 松茸(マツタケ)は、京坂では秋冬には当たり前のごちそうだった。砂糖は、江戸時代には薬屋の高い品目で、庶民の料理にはまず使われなかった。醤油が普及したのは江戸期から。
 おかずは、江戸では惣菜(そうざい)といい、京坂では番菜(ばんさい)と呼んだ。「おばんさい」は、ここから来てるんですね。
 ウナギの蒲焼(かばやき)は、江戸では200文、京坂では銀3匁(もんめ)。
 鶏卵は高価で、ウナギの蒲焼より値が張った。ゆで卵は、江戸では20文で売られていた。屋台で食べる鮨(スシ)は文化期(1820年前後)にあらわれた。稲荷寿司も同じころの発明品。
 江戸でも京坂でも古着屋が大繁盛した。江戸には虫売りの屋台まで出現した。その一番の売り物は蛍(ホタル)だった。螢専門の蛍売りは、自ら螢狩りに出かけていった。
 手に取って眺めているだけでも、心が楽しくなってくる本です。
(2023年6月刊。2300円+税)

読み書きの日本史

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 八鍬 友広 、 出版 岩波新書
 よくリテラシーというコトバが登場します。もとは、読み書き能力(識字能力)のことでしたが、近年、大幅に意味内容を拡張していて、情報の内容を批判的に取捨選択する能力にまで高められている感がある。私はなかなかなじめなくて、使いこなせないコトバです。
話しコトバを獲得するには、学校に通ったり、特別な訓練を必要としない。しかし、文字の読み書きは、生得的な能力ではなく、長年にわたる習練の結果によって初めて獲得されるもの。
 そうなんです。私が毎日毎朝、フランス語を聴いて書き取りをしているのは、フランスで生活したいというよりも、フランスの文化に直に接したいという願望からなのです。
 かつての日本に角筆(かくひつ)というものがあることを初めて知りました。墨などをつけるのではなく、紙の表面に先の尖った棒状のものを押しつけて、へこみをつけるもの。
一文不通は「いちもんふつう」と読む。読み書きの能力が一定の水準に達していないことを指して使われたコトバ。
「往来物(おうらいもの)」とは、手紙文例集のこと。私は江戸時代の産物とばかり思っていましたが、実は、平安時代に始まるとのこと。平安期に続々と刊行され、鎌倉・室町に続いていったのです。かの敦煌(とんこう)石窟から発見された敦煌資料のなかにも手紙文の形式・文言を記載したものが大量に発見されているというのですから、驚きます。
日本の往来物は、学校で教科書が登場して、とって代わるまで、800年以上も継続した、世界でも特異なもの。「往来」は、一種の模範文例として、手紙を書くためのテキストブック。これに対して「消息」は、実際の手紙を指す。江戸時代の「商売往来」は、最大のヒット作だった。
近世から明治初期にかけてが、往来物の最盛期だった。現在、残っているものだけで7千種類ある。しかし、実のところ、1万をこえるのだろう。
『道中往来』は、仙台の書肆(しょし。本屋)が刊行し、きわめてよく普及した旅行記という往来物だった。
百姓一揆のときの百姓側の要望書が「目安」と呼ばれ、これらが往来物の一つになった。江戸時代、寺子屋が流行した。地方では「村堂(むらどう)」としていた。
寺子屋の師匠が亡くなったとき、千葉県内に建立された「筆子碑」は3000基もあった。寺子屋のなかには「門人張(もんじんちょう)」をつくっているところもあった。
近江国神崎郡北庄村(滋賀県東近江市)にあった時習斎寺子屋には4276人もの寺子が入門したという記録が残っている。ここで、女子の入門者は2割ほどでしかなかった。
江戸時代にやってきた、ロシアのゴローヴニン(軍人)やアメリカ人のマクドナルドやイギリスの初代終日公使オールコックは、いずれも日本人の識字能力の高さに驚いている。
村の男子の1割ほどが文通できたら、村請(むらうけ)制が実施可能だった。
昔は本を読むのは音読(おんどく)、つまり声を出して読みあげるのが一般的だと思っていました。しかし、この本では黙読もフツーにおこなわれていたというのです。そうなんですか…。
 世の中、知らないことは、ホント多いのですよね。
(2023年6月刊。1060円+税)

江戸の岡場所

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 渡辺 憲司 、 出版 星海社新書
 幕府に公認された吉原とは違って、江戸市中に60ヶ所以上もあった「岡場所」は、その始まりから終わりまで、非公認の売買春地域だった。
 盛り場、寺社の門前、宿場の至るところに岡場所は根を張っていて、その風俗や流行は江戸市民に吉原以上の甚大な影響を与えた。岡場所ナンバーワンの深川は、吉原の2倍の売上金を計上していた。
 岡場所は、庶民とりわけ町人階級の法に背(そむ)く自立的覚悟の上に成り立っていた。
 吉原を遊里文化のメインカルチャーだとすると、岡場所はサブカルチャーだった。
 明治以前、江戸時代まで、公娼・私娼という言い方は使われていない。
「岡場所」というコトバは平賀源内も使っている(1763年)ので、18世紀中ころ、非公認の遊里として世間一般の人々から認知されたということと考えられる。
 初め、岡場所は黙認されるだけの時期があった。次に、岡場所禁圧の時代が到来した。江戸時代、遊女町を城下町に置くのは、多くの地域で禁止されていた。
多くの日本人女性がキリシタン商人によって奴隷として海外に流出していった。キリシタン貿易は、人身売買をしていたという疑いがある。
年季(ねんき)によって、郭(かく)の中に女性たちを閉じ込めたのだった。それは中国の遊郭にも前例がないもの。
 初期の岡場所の主役は「湯女(ゆな)」と呼ばれた。湯女を抱えた風呂屋は、昼夜の営業だった。まるで、現代日本のコンビニですね…。
 遊女の細見(カタログ)には15歳から18歳が多いけれど、なかには12歳の例もある。最高齢は42歳だった。
 岡場所では、年季・外出も自由だった。岡場所は宝暦(1751~1764年)の時代に最盛期を迎えた。品川宿全体で500人もの飯盛女が幕府の公認を得た。
 吉原では客のほうから遊女屋に出かけ、深川では、芸者や遊女を料理屋に呼んだ。遊女は、吉原に2000人、深川には600~700人いた。
 
 品川の客には、「侍」のように「にんべん」のある「侍」と、人偏のない寺が多かった。品川の貸座敷というのは、名を変えた遊郭のこと。
京都で辻君、大阪で惣嫁(そうか)、江戸は夜鷹と呼んだ。また、江戸では夜発(やはつ)とも言った。夜鷹は、独立的流れ仕事の売春ではなく、組織に組み込まれた売買営業だった。
 吉原が凋落の一途をたどったのは享保期から。
 慶応3(1867)年、吉原の売上金額は8万8両。深川は、その2倍の15万両もあった。岡場所の代表・深川のほうが吉原を完全に凌駕(りょうが)した。
 江戸時代の貴重な一断面を知ることができました。
(2023年3月刊。1400円+税)

江戸の絵本読解マニュアル

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 叢の会 、 出版 文学通信
 江戸時代については、それなりに知っているつもりでしたが、草双子(くさぞうし)は聞いたことがあるくらいで、詳しいことは知りませんでした。この本によって、草双子の魅力をたっぷり味わうことができました。
 京都・大坂の上方(かみがた)を追いかけ、文化を発展させてきた江戸は、上方とは異なる独自の性格をもつ「絵本」をつくり出した。それが草双子。
 草双子は版本(はんぽん)。1枚の桜の木の板に文字と絵を掘りつけた版木(はんぎ)を使って刷り、製本する。作者が文章を書き、画工が絵を書き、それを彫師が板に彫って版木をつくる。その版木に墨を付けて和紙に刷るのが刷師。刷り上がった紙を半分に折って丁合を取り、表紙と裏表紙を付けて和綴じ、袋綴じをする。こうした一連の作業をプロデュースしているのが版元。
 江戸時代前期には、近世文学の仮名草紙と浮世双子が絵入り本、上方絵本と武者絵本は全ページに絵が入る絵草紙として出版された。少し遅れて江戸時代の中期初めころ、江戸で草双子が出版されはじめた。
 赤小本、赤本、墨本、青本と、表紙の色で区別されて呼ばれている。やがて安永期に黄表紙群が登場し、草双子は転換期を迎えた。
 たとえば「桃太郎」の話。江戸時代にもよく知られた昔話だった。そして草双子では、桃太郎のライバルとして柿太郎を登場させ、両者は鬼退治を競う。柿太郎のほうが一足先に鬼退治に向かうが、鬼にやっつけられてその子分となり、やってきた桃太郎と戦う。桃太郎にはかなわず、桃太郎が鬼を退治すると、柿太郎は桃太郎の家来になった。
 草双紙では、登場人物が誰なのか、顔立ちや着物の紋様で描き分けるか、袖や着物の裾に文字を書き込んで人物を示す手法も多用される。これは分かりやすいですよね。
 江戸中期、初期の草双紙に登場する化物(ばけもの)たちは、子どもから大人まで親しみやすい存在、「愛されキャラ」の化物だった。
 普段から身の回りで使用している器物に手足をつけ、顔を描いたりもしている。化物を擬人化して、当時の風習や流行を取り入れ、紹介している。続く黄表紙の時代では、化物の世界を面白おかしく想像し、ユーモアたっぷりの笑いのタネとして、化物のパロディーが描かれた。
 坂田金平(きんぴら)や鎌田又八は、当時の歌舞伎でも演じられる人気の勇者であり、こうした人気ヒーローが巨大な化物を退治していく話が草双紙で人気を呼んだ。これは最近の「鬼滅の刃」と同じようなものだ。
 草双紙には、読者の旅行への「お出かけ心」をくすぐる仕掛けがしつらえられているものが少なくなかった。日本人は昔から旅行が大好きなんですよね…。
 江戸時代は、人々が古典文学に出会い、求めた時代だった。それまで貴族や学者など、一部の人々のあいだで書き写され伝えられてきた作品が、出版文化が花開いたことから、広く人々が手に取れるようになった。
 『源氏物語』は、その代表作であり、リメイクやパロディーものなど、二次創作も盛んで、原作同様に楽しまれた。福岡の小林洋二弁護士も『源氏物語』オタクのようです。
 中国の『三国志』も江戸で大人気の作品でした。
 江戸時代の人々の豊かな活字文化の一端を知ることができました。
(2023年4月刊。2100円+税)

江戸の実用書

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 近衛 典子 ・ 福田 安典 ・ 宮本 裕規子 、 出版 ペリカン社
 江戸時代は寺子屋が繁盛していたことで知られるように識字率はとても高かった。なので、人々はたくさんの本を読んでいた(買う人より借りて読む人のほうが多かった)。
江戸時代を代表する百科辞典は『和漢三才図会(さんさいずえ)』(寺島吉安、1712年)。中国の『三才図会』にならって漢文の解説文で図解されていて、105巻もある。
江戸時代の国語辞書は『節用集』といい、室町時代に成立したものが、増補されていった。日常語を「いろは」に分け、さらに部門別に言葉を配列し、用字や語義、由来を説明している。
驚くべきことに、江戸時代はパロディ本がブームだったのです。「仁勢物語」(伊勢物語)、「尤之双紙(もっとものそうし)」(枕草子)、「偽紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」(源氏物語)が有名…。
江戸時代はガーデニング(園芸)が大人気でした。なかでも朝顔は、3回もピークを迎えるほど人気を博しました。その朝顔は、変化(へんげ)朝顔を主としています。花や葉や蔓(つる)が変化したものです。今や、まったく見かけません。私も毎年、朝顔のタネを店で買ってきて、植えています(夏の日の毎朝の楽しみです)。でも、昔ながらの鮮やかな赤い朝顔が一番です。
 浮世絵にも、変化朝顔が描かれています。たとえば、1本の苗から赤色と青色の花が咲いているというものです。
 江戸時代の男子が身につけるべき教養として、読み書き学問は当然として、謡(うたい)、漢詩、和歌、連歌、俳諧、茶の湯、生け花、囲碁将棋があった。茶の湯や生け花は、江戸時代には、しかるべき家柄の男性に求められた必須の教養だった。
 江戸時代の女性が使用する文字と男性の使用する文字は異なっていた。女性は大部分が「かな」で、一部に漢字が混ざった「和文体」を用いる。男性は主に漢字による「準漢文体」を使用した。なので、往来物には女性を対象とした女子用往来物がある。
世の中には、いかに知らないことが多いものか…。呆れるほどです。
(2023年7月刊。3300円)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.