法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 日本史(江戸)

旗本夫人が見た江戸のたそがれ

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:深沢秋男、出版社:文春新書
 江戸時代を生きた女性が、いかにたくましかったかをよく知ることのできる本です。日本女性は古来、男から虐げられてきたという説が誤っていることを、この本も実証しています。弱い女性はたしかにいましたが、それは同時に同じように弱い男性もいたということです。むしろ、日本女性の特徴は、昔から男なんて気にせず、のびのびと生活していた人がとても多いということです。この本の主人公である井関隆子もその一人でした。日本の女は昔からすごかったのです。ただし、この本のタイトルは感心しませんね。なんだか本の内容とイメージがちがいます。
 井関隆子日記12冊は、隆子の56歳から60歳までの日記。天保11年から14年というと、ちょうど天保の改革(老中水野忠邦による)が始まり、失敗したころのことです。
 井関家は年収3千万円程度はありましたし、大奥づとめでしたので、大奥からの下され物も多くて、家計と生活を助け、潤していました。隆子は江戸城のすぐ近く、清水御門と田安御門の近くに350坪の屋敷に住んでいました。
 井関家は、四季折々の花を眺めたり、また月を眺めたりしながら、よく酒盛りをした。隆子自身もお酒が大好きだった。
 江戸時代のお見合いは、お互いに芝居などの席で、それとなく相手を見て、お互いによければ話をすすめるということも多い。ええっ、そうなんですか。現代日本にもありそうなスタイルです。
 主席老中・水野忠邦は、11代将軍家斉の死を機に、天保の改革に着手した。家斉は 50年ものあいだ将軍の座にあった。
 上知令(あげちれい)は、天保の改革の末期に幕府が発令した、江戸と大坂近郊の大名・旗本の領地を幕府の直轄地にしようとする、一連の命令である。しかし、これは実行されることなく撤回された。そして、水野忠邦は罷免された。ここにも幕府の実行力の衰退をみることができる。
 水野忠邦が罷免されたとき、世間は歓呼の声を上げた。
 このまま政権の座にあるなら、さらに世の乱れを招きかねないと、嘆かない人はいなかった。このたびの処置に天下の人々は万歳を唱えて喜んでいる。
 数知れぬ人々が水野家の屋敷を取り囲み、大きな石を雨あられのように投げつけて、つらい目にあった恨みをいいつのるのが、まるでトキの声をあげるように響いた。この騒ぎを見物しようと集まった群衆の数もものすごかった。
 すごくリアルに水野忠邦の屋敷を人々が攻めている情景が描かれています。
 隆子の日記によると、将軍家斉の死は、本当は1月7日だったという。公式発表の1月29日ではなかった。そこには、水野忠邦と家斉側近とのあいだの権力抗争が隠されていた。なーるほど、ですね。
 それにしても、再婚して後妻に入った家で、夫の死後も、隆子は女主人としてのびのびと過ごしていたようです。血のつながらない息子たちも、隆子を母親としてうやまったのでした。今度は、「井関隆子日記」そのものを読んでみようと思います。
 私にとって列車の中は貴重な読書タイムです。ひととき没頭して本の世界(いわばアナザーワールド)に浸っていたいのです。ところが、それがときどき邪魔されてしまいます。車中検札です。無用に声かけられないように、前のテーブルに見えやすいように切符をおきます。それでもわざわざ声をかけてくる車掌さんがいるのです。先日などは、切符を手にとっているのに、なお「お客さん、いいでしょうか?」と何回もしつこく声をかけてきました。かなり偏屈なところのある私は、つい「うるさいですよ」と言ってしまいました。本当は、「その切符に何か問題もあるのですか?」と聞き返せば良かったと後で思ったことでした。検札するなとは言わないのです。検札の目的は切符を正しく買って乗っているかどうかを確認することだと思います。なにも、わざわざ車中で一人静かに読書している人に声かけて邪魔してほしくないのですが・・・。
 いま咲いているチューリップは360本ほどです。雨が多いので、真っ先に咲いていた花はもう散りはじめました。先日、山で出会った面白い形をした花を図鑑で調べたらツクシマムシグサでした。ちょっと怖い名前がついていて、びっくりしました。
(2007年11月刊。730円+税)

江戸人のこころ

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:山本博文、出版社:角川選書
 江戸時代の人が書いた手紙が自由自在に読めたら、どんなにいいかと思うのですが、私にはアラビア文字と同じで、さっぱり分かりません。それをスラスラ読み解く学者って、やっぱり偉いですよね。
 遊女がイギリス商館長のカピタンであるリチャード・コックスに宛てた手紙が紹介されています。江戸時代の平戸に1623年(元和9年)までイギリス商館があったのですね。この遊女の手紙は大英図書館の東洋・インド部に所蔵されているものです。
 優美なかな書きの手紙なので、大坂の陣で没落した武士の妻女出身とも考えられる。かなりの教養をもった女性だろうと著者は推測しています。
 さてさてあいたいぞ、見たいぞや・・・という文言があり、胸をうちます。
 多摩地方の上層農民(名主クラスの裕福な農家)の娘が、江戸城大奥や御三卿などの奥へ奉公に出ていた。これは、貧乏な家庭を助けるための「口減らし」ではなく、いわば田舎から都会の女子大へ行くような、行儀見習いのための奉公だった。
 多摩地方は、江戸城大奥の下級女中の供給源となっていた。その中の一人、御殿女中だった吉野みちの手紙115通が残されていて、紹介されています。
 みちは、奥奉公がやたらとお金がかかったため、実家の父親によく小遣いをねだっている。うーん、なんだか、今もよくありそうな親子のあいだの手紙です。ぴんときますね。
 滝沢馬琴の手紙も紹介されています。八犬伝の定価は、1冊あたり、1分3朱。金1両を現在の物価で換算すると、20万円になるので、八犬伝は1冊あたり8万7500円。初版500部で、江戸で300部を売り出し、上方へ200部を発送する。江戸ではすぐに増刷し、年末までに累計600部は確実。発売して半年で800部の売上げがあった。350両になる。経費を差し引いた純益金は300両なので、6,000万円のもうけだ。ところが、馬琴の手にしたのは、原稿料は1冊わずか2両が相場だった。なーるほど、江戸時代の出版事情って、そういう仕組みだったんですか・・・。
 赤穂浪士の何人かの手紙も紹介されています。大石内蔵助の手紙から、内蔵助は、たしかに祇園や伏見に踊りを見に行ったが、それは息子の主税と一緒だった。したがって、内蔵助の遊興は、こうした物見遊山が中心で、祇園の茶屋で派手に遊んだということではなかったのだろう。ふむふむ、そうなんですか・・・。
 すでに自分の命はないものと決め、盟約に加わった者たちの首領になっている内蔵助の手紙は、穏やかで、妻の身体を気づかい、周囲の人の気遣いに感謝し、妻への思いやりに満ちている。
 なぜ討ち入りをしたのか。武士が面子をつぶされることは、死に勝る屈辱である。これを回復するためには、吉良を討って喧嘩両成敗法を自らの手で実現しなければいけなかったのだ・・・。
 江戸人の心の奥底を少しだけのぞいたような満足感を与えてくれる本でした。
(2007年9月刊。1400円+税)

田沼意次

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:藤田 覚、出版社:ミネルヴァ書房
 田沼意次の父の意行(おきゆき)は、紀伊藩の徳川吉宗に仕えていた。吉宗が将軍になったため江戸へ出て、幕臣となり旗本になった。いわば吉宗子飼いの家来であった。意次は意行の長男として、吉宗の長男である家重の小姓になった。蔵米300俵をもらった。父意行の知行600石を受け継いだ意次は23年に1万石の大名に出世した。600石の旗本が1万石という大名になるのは異例の大出世である。
 田沼意次は、徳川家重の小姓から御用取次、ついで徳川家治の御用取次を経て側用人、さらに老中格からから老中に昇進したが、なお側用人の職務をそのままつとめた。老中と側用人とを兼任したこと。これこそ、意次がまれにみる権勢を手に入れた理由であった。
 1684年、当時の大老堀田正俊が江戸城で若年寄の稲葉正休(まさやす)に刺し殺された。この事件をきっかけに、将軍の身の安全から、老中以下の諸役人と将軍とが直接に接する機会を制限した。その結果、将軍と諸役人との間に、側用人や側衆を介在させる仕組みになり、老中といえども、側衆や側用人を仲介しないと将軍に会えなくなった。その結果、側用人など奥づとめの役人たちの役割が大きくなっていった。
 側用人は、将軍に近侍して政務の相談にあずかるとともに、将軍の命令を老中に伝達し、老中の上申を将軍に伝えるという、将軍と老中との間を取り次ぐのが主な職務である。側用人は将軍の意思を体現する存在である。側用人が幕政に強い権勢をふるうには、将軍の特別な恩顧のほかに、個人的な野心や能力が必要だった。
 側用人政治を否定したとされる吉宗は、幕府政治の改革にあたり、みずから新設した御用取次をつかって、側用人政治とよく似た政治運営をしていた。
 田沼意次が活躍したときの将軍家重と家治は、いずれも幕府政治に積極的に関わろうとしないタイプの将軍だった。
 田沼意次が幕府政治と直接関わるようになったのは、美濃郡上一揆の処理から。この一揆は、宝暦4年から8年にかけてのこと。幕府は、老中、若年寄という重職を罷免し、若年寄を改易、大名金森の改易という、まれにみる厳しい処罰を断行した。これを果断に処理したのが御用取次の田沼意次だった。
 町奉行や勘定奉行など、幕府の重要ポストには、田沼意次と直接の姻戚関係もふくめ、何らかのつながりをもつ役人たちが配置されていた。田沼意次は、子弟や姪らを介して、老中2人、若年寄1人、奏者番2人、勘定奉行などと姻戚関係をがっちり結んでいた。
 重要な政策は、その発議が意次か奉行であるかは別にして、意次と担当の奉行が事前に協力して立案し、そのあとで老中間の評議にかけていた。意次は幕閣の人事を独占しただけでなく、幕府の政府を主導していた。
 意次時代には、幕府の利益を追求する山師が跋扈し、田沼意次こそ山師の頭目であった。しかし、これは、田沼意次の政策が革新的であったとも言えるものだ。
 耕地を増加させるため、新田開発策をとった。意次にとってもっとも大きな問題は、幕府の財政をどうするか、だった。
 明和7年(1770年)、江戸城の奥金蔵や大阪城の金蔵にはあわせて300万両もの金銀が詰まっていた。これが天明8年(1788年)には81万両にまで急減していた。
 この時代の山師中の山師は平賀源内である。源内のパトロンが田沼意次だった。
 意次は、銅と俵物の増産に取りくんだ。また、白砂糖の国産化もすすめた。
 印旛沼の干拓をすすめ、ロシアとの交易、蝦夷地の開発もすすめようとした。
 田沼意次が清廉潔白とは言えないが、当時、賄賂は義務的なものでもあった。
 田沼意次は「はつめい」の人と言われた。「はつめい」とは、かしこい、という意味。家来の下々にまで目を配り、家来たちが気持ちよく働けるようにするための配慮や心づかいのできる人物であり、人心操縦の術にたけた人物でもある。
 意次の長男である意知が殿中で切られて死亡すると、意次もたちまち失脚してしまう。それほど反感を買っていたということでしょう。
 出世や優遇を期待して田沼家と姻戚関係をもった大名家や、意次の家来と姻戚関係をつくった旗本家は、かなりの数にのぼった。しかし、田沼家が凋落したとき、櫛の歯を挽くように離縁が相ついだ。その節操のなさには、呆れるほどだ。
 しかし、意次は、「御不審を蒙るべきこと、身をおいて覚えなし」という書面を書いています。意次にも反論したいことが山ほどあったようです。
 意次の素顔を知ることのできる本です。
(2007年7月刊。2800円+税)

侍の翼

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:好村兼一、出版社:文藝春秋
 いやあ、たいしたものです。まいりました。フランスのパリに長く住む剣道の達人である日本人が、江戸時代の侍の生きざまを見事に描き出したのです。剣道8段の腕前です。なんと私と同世代。大学生のときに剣道の指導員としてフランスに渡り、それ以来、フランスで剣道の指導をしているというのです。これまで、『日本刀と日本人』などの本があるようですが、この小説によって作家としてデビューしたというわけです。その勇気と努力に対して心から拍手を送ります。私も遅ればせながら作家を目ざしていますが、道はるかなり、というところです。まあ、それでもあきらめずにがんばります。ぜひ応援してやってください。
 大阪城の陣に参戦し、やがて天草の乱に出動します。そこで、我が子が戦死してしまいます。そのうえ、藩主が自害して、武士を失業。行くあてもなく、江戸に出て、侍の誇りを失わないようにしながらも人夫として働きに出ます。
 妻は労咳、今の結核にかかって、病の床にふせっています。死に至る病いです。夫に心配をかけないように表面をとりつくろった無理がたたったのか、早々と亡くなり、主人公は自暴自棄の心境となります。そこへ由比正雪と知りあい、その謀反の手伝いをさせられようとします。一夜、悶々とした主人公はある決断をします。
 子を失い、妻を亡くした主人公は天涯孤独の身となり、生きる意義を見失ってしまいました。あとは、いかに死ぬるかだけを考えて過ごします。
 天雷无妄(てんらいむぼう)という言葉を私は初めて知りました。无妄とは、妄(みだ)り无(な)し、つまり偽りも迷いもない、ありのままの状態をいう。天の運行は晴曇風雨と、さまざまな象となって現れ、そこになんら天の作為はないのに、地上の我々はえてして慌てふためき、作為をもってそれに反応してしまう。ありのままの天に対して作為はいらない。ありのままに応ずるだけだろう。
 自然の摂理に従う限りは、天に背くことはない。その先に待っているのは、きっと平安であろう。著者の言葉です。味わい深いものがあります。
 この本は12月31日に読み終わったものです。私の読書ノートによると、昨年1年間で読んだ単行本は556冊でした。これからも、いい本にめぐりあうために私はせっせと乱読を続けます。速読の秘訣を尋ねられました。私の答えは、ともかく本を読むことです。好奇心をもって本を読めば、どんどん速く読めるようになるものです。
(2007年11月刊。1667円+税)

アイヌの歴史

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:瀬川拓郎、出版社:講談社選書メチエ
 アイヌと言えば、すぐに思い出すのが『コタンの口笛』です。どんな話だったか、すっかり忘れてしまいましたが、子ども(小学生)のころ、ラジオから主題歌とともに流れてくる話にじっと耳を澄ましていたことを思い出します。
 その昔、この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児のように、美しい大自然に抱擁されて、のんびり楽しく生活していた彼らは、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず、山また山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白いカモメの歌を友に、木の葉のような小舟を浮かべてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久にさえずる小鳥とともに歌い暮らして、蕗(ふき)とり蓬(よもぎ)摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とるかかりも消え、谷間に友呼び鹿の音を外に、円(まど)かな月に夢を結ぶ。ああ、なんという楽しい生活でしょう。
 これは、『アイヌ神謡集』の序文です。アイヌにこのような楽園が実在していたのではなく、あるべき理想形のものとしてうたわれていた。著者は、このように断じています。なるほど、そうなんでしょうね・・・。
 アイヌとは、アイヌ語で神に対する人間を意味する。アイヌ人口は、1804年に2万人ちょっと、2006年でも同じく2万人ちょっといる。アイヌ語と日本語は語順が同じなど、似かよったところもあるが、言語学では同系関係は認められていない。
 アイヌは、日本列島に住んでいた縄文人の子孫。つまり、東南アジアや東アジアから日本列島にやってきた後期更新世人類の子孫。ということは、日本人とは先祖を同じくしているということでしょうか。
 江戸時代(1669年)に、シャクシャインの戦いと呼ばれる、アイヌ対和人(日本人)の戦争が勃発した。当時の松前藩の和人人口は1万5000人、アイヌは2万人。やがて、和睦に応じた首長シャクシャインは和人に謀殺されてしまった。
 この戦いの発端は、サケの漁業権をめぐる争いだった。
 アイヌで首長は、富をもつ者(ニシパ)であり、ウタレという従者・下僕・奴隷と訳される男女をかかえていた。首長は世襲だが、相続した者が適格でないと判断されたときには、長老会議で首長の血統のなかから代わりの者が選ばれた。
 サケはアイヌの保存食であり、交易品でもあった。そのサケは沿岸や河口付近でとれるものではない。それは、脂肪分が多くて酸化しやすいので、長期保存が難しかった。産卵場まで遡上し、脂肪分のすっかり抜けたサケを天日に干して乾燥させて保存食にしていた。
 アイヌはオオワシの尾羽を尊重した。オオワシの尾羽を「命と等しき財」と認識し、最上の「宝」物とアイヌは扱っていた。
 アイヌの由来と歴史、そして現状について知ることができました。
(2007年11月刊。1600円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.