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カテゴリー: 日本史(江戸)

江戸の病

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 氏家 幹人、 出版 講談社選書メチエ
 新型インフルエンザの大流行が心配されています。明治23年に流行した日本初のインフルエンザを、当時の人は「お染(そめ)風(かぜ)」と呼んだ。浄瑠璃の主人公のお染と久松である。そして、東京ではインフルエンザつまりお染風にかからないように、家の軒に「久松留守」と書いた紙札を張り付けるのが流行った。「お染さん、お前さんが惚れた久松さんは、この家には居ないから、通り過ぎておくれ」というこころである。いやあ、現代の日本人も、血液型占いのように迷信深いですけど、同じなんですね。
 日本人は眼病大国。そして、梅毒が蔓延していた。杉田玄白の収入は年に250~643両もあった。曲亭馬琴は年収40両ほどだったから、けたはずれに大きい。これは、梅毒の蔓延によるもの。城崎(きのさき)温泉が繁盛したのは、梅毒に効果的という評価を得ていたから。江戸の成人の半分が梅毒に感染していた可能性がある。このころ、梅毒は、まだ感染症だということが十分に認識されていなかった。
 幕末の日本にいたオランダ人医師ポンペは、日本人は夫婦以外のルーズな性行為を悪い事とは思っていない。しかし、厳重な対策が必要だと強調していた。これも、現代日本と同じようなものですよね。
 吉原の花魁(おいらん)を見物に来たのは、男だけではなかった。女たちは、今日の女性アイドルやセレブに抱くような羨望と感嘆の情を抱いて見ていた。そのとき、憐れみとか蔑みより、まあキレイと率直に賞嘆していたのである。うむむ、そうだったのですか……。
 60歳以上で亡くなった人の平均死亡年齢は73歳。18世紀の江戸は、今日の日本人が想像するほど短命社会ではなかった。ただし、60歳になるまでに亡くなる人が想像以上に多かった。
 江戸で男女の別なく、若者の最大の敵は肺結核(労咳)だった。ただし、20代の女性についていうと、出産に伴う体調不良が原因で死亡したケースの方が多かった。
 江戸時代は、頼まれたらこちらの乳が不足しない限り、乳をやるのが常識だった。自分の子だって、いつ母乳が出なくなって空腹を訴えて泣き叫ばないとも限らないからだ。幕臣の間での乳の繋がり、乳縁は重要な役割を果たしていた事実がある。
 医者と坊主は、一人前の人間が就く職業ではない。これは、比里柴三郎が父親から言われた言葉(明治4年)だそうです。うむむ、信じられませんね。
 江戸時代、医者になるのは今日と比べものにならないほどやさしかった。
 江戸時代には、老若男女の別なく、お灸が日常的に行われていた。
 江戸時代の病気の状況と医療界の実相が紹介されていて、面白く読みました。医師って、ホントに大変な職業ですよね。毎日毎日、日常的に死と直面し、本人や家族と言葉を死を意識しつつ交わさなければならないのですから、いやはや大変なことです。
 
(2009年4月刊。1600円+税)

赤穂浪士の実像

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 谷口 眞子、 出版 吉川弘文館
 師走半ばの14日。これは私の誕生日です。そうなんです。赤穂浪士の討ち入りの日は私の生まれ月日と一致するのです。それだけで何となく親近感がわくのですから単純なものです。
 この本は浪士たちが書いた沢山の手紙を元に事実関係を丹念に追跡しています。よくぞ手紙が大量に残っていたものです。
 内匠頭が上野介に切りつけるとき「この間の遺恨覚えたるか」といったかどうか実ははっきりしていない。この2人の人間関係が前から良くなかったことは想像されるが、その原因ははっきりしていない。
 内匠頭について「昼夜を問わず女色に耽っており、政治は家老に任せたまま」とし、家老(内蔵助)は「若年の主君が色に耽るのを諫めないような不忠の臣」と評価されている。その真偽は不明である。
 事件の後、赤穂藩の江戸上屋敷から家臣たちが退去すると、深夜に町人が4~50人が舟に乗って裏の水門から邸内に忍び込んで、奉公人たちの道具を持ち出していた。それを知って現場に急行した堀部安兵衛たちがその狼藉を叱責したところ、町人たちはたちまち姿を消した。
 江戸の町人たちが火事場泥棒を働いていたわけです。たくましいと言えばたくましい町人の姿です。
 赤穂浪士による吉良邸襲撃は、幕府のみならず世間の人々の耳目を驚かせた事件だった。浪士が切腹して12日目には早くも歌舞伎『曙曽我夜討(あけぼのそがのようち)』が江戸の中村座で上演された。ただし、興行3日にして奉行所より公演中止命令が出された。
 討ち入りを当初から考えていたのは、浪士のうちの数人に過ぎなかった。討ち入りが決定したのは、内匠頭の切腹から1年4ヶ月たった元禄15年(1702年)7月28日、京都円山での会議だった。
 赤穂城の明け渡しの際には城付き武具のほかは売り払って良いとの許可が出たため、様々な武具、武器が売り払われた。その状況を岡山藩が派遣した忍びの者が書き付けたリストが残っている。
 内蔵助は古参の藩士として、浅野家に恩義があった。これに対して新参者の堀部安兵衛には「家」が代々仕えてきたという意味での恩義はなかった。
 赤穂浪士にとって転機は二つあった。
 第一は上野介の隠居と義周の家督相続、第二は浅野大学の広島藩差し置きである。これによって、内蔵助の御家再興論に同調していた者も、自分のとるべき道を真剣に考えなければならなくなった。
 円山会議の頃、討ち入りの行動を共にするという神文(しんもん)を提出していたのは120人ほどいた。126人から46人になる段階で比較的高禄の者が離脱していった。
 当初から多くの下級武士が行動を共にしなかったのは、武士をやめて町人になって生計を立てたり、他で奉公できる可能性があったから。
 江戸にいた元「家臣」の浪士の方が圧倒的に比率が高い。討ち入った浪士の半数、24人が刃傷事件のときに江戸にいた。討ち入りに参加した者のほとんどは、江戸で主君の刃傷・切腹から江戸藩邸の収公までを体験するか、内匠頭と空間的、精神的に近い関係を持っていたか、あるいは、参加者の中に親族がいるかどれかの要素を持っていた。
 浪士たちは、討ち入りを武士の名誉と信じていた。吉良邸に討ち入って、吉良家や上杉家の家臣と戦い、そこで討ち死にすると予想していた。そこで死地に赴く心境で遺言を残している。
 赤穂浪士の実像がよくよく分析されていると感心しながら読み進めました。
 関西国際空港(かんくう)から、パリのシャルル・ドゴール空港までは12時間。長いです。朝、かんくうを出発して、すぐに昼食をとり、やがて夕食をとり、ひと眠りして起きたころパリに着きます。パリには、時差の関係でその日の午後に到着します。ちょうどいい按配です!今回は、そのままスイスのチューリッヒへの飛行機へ乗り換えました。
 シャルル・ドゴール空港は、何しろ広かったです。かんくうも広かったですが、それより何倍も広い気がしました。ターミナルの2Gを探して、急ぎ足で歩きます。2Fは見つかりましたが、2Gは標識らしきものはあっても、なかなかたどりつけません。おかしい。どこにあるんだ。空港の係員に尋ねて、あっちだと指差す方向を目指しました。しかしそこにはありません。おかしい。あっ、これはバスに乗っていくところかな。バス乗り場の係員に訊くと、やっぱりそうでした。乗り換え時間は2時間近くあり、余裕たっぷりだったはずが、現実には広い空港内を歩き回っているうちに、なんと30分前になってしまいました。
 ターミナル2Gは、バスに乗って5分以上も離れた所にポツンとありました。やれやれ、チューリッヒ行きの飛行機に、これで乗れます。やっと安心しました。これに乗れなかったら、かんくうでチューリッヒまで送ったスーツと泣き分かれるところでした。
 教訓その1。シャルル・ドゴール空港は果てしなく広いと思うべし。教訓その2。ターミナルが建物内にあるとは限らない。シャトルバスで行くターミナルもある。ヨーロッパ内の国外へ乗り換えるときには要注意。教訓その3。旅では何事も初めてのことに出会うと心得ておくべし。
 いやあ、これでまた人生の勉強になりました。
   (2006年7月刊。1700円+税)

ひょうたん

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 宇江佐 真理、 出版 光文社時代小説文庫
 うまいですね。この人の本って、いつ読んでも感心させられます。しっとりした江戸の人情話に、敵味方で争うなかでガチガチになった身と心が、知らず識らずのうちに溶け出していく思いです。そして、下町で夕食を準備する匂いが漂ってきます。
 いえ、本当に、書き出しから店の前に七厘(しちりん)を出して大根を煮る風景が登場してくるのです。米の研ぎ汁で下茹でした大根を、昆布だしでさらに煮る。箸を刺して煮崩れるほど柔らかくなったら、さっと醤油と味醂で味をととのえる。それを昨夜からつくっておいた柚子味噌につけて食べる。うむむ、美味しそうですね。思わず舌舐めずりしてしまいます。
 五間掘沿いの道を行く人々も、いい匂いを漂わせている鍋に恨めしそうな視線を投げて通り過ぎて行く。うまそうな匂いには勝てませんからね……。
 主人公は、しがない古道具屋を営む夫婦。この夫婦をめぐる市井の人々の愛憎つながる話題が転々と展開していくのです。そこには切ったはったの血なまぐさい話はありません。今の日本でもありそうな、身につまされる人情話が繰り返し登場してきて、物語にひきずりこまれてしまうのです。
 そして、その気分に浸ると、それがまた浮世風呂にでもつかったようないい按配なのです。そうやって江戸情緒をしっかり味わっているうちに、やっぱり、いい本に出会えるって仕合せだなと思ってくるわけです。
 あとがきの解説に、次のような文章があります。
 けちな道具屋をしていても、心は錦だ。こんな江戸っ子の矜持(きょうじ)と心意気が表れている。
 そうなんです。気風のよさも感じられますので、読後感はあくまで高山の稜線にある草原を吹き渡る涼風のような爽やかさです。
 
(2009年3月刊。552円+税)

江戸の絵師、暮らしと稼ぎ

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 安村 敏信、 出版 小学館
 この本の初めに、カラー図版の絵があり、江戸時代の豊かな文化を堪能することができます。ここでは、上方と江戸の元禄期を代表する2人の絵師、尾形光琳と英(はなぶさ)一蝶(いっちょう)が紹介されます。
 尾形光琳は、その生涯のうちに正妻をふくめて6人の女性に7人の子どもをもうけた。2番目の子を生んだという女性から、光琳は認知を求める訴えを起こされた。それで、家屋敷1ヶ所と銀10枚のほか、前年の「飯料」として銀500匁、諸道具・畳などを差し出して示談にし、そのかわり子が成人しても光琳の息子と主張しないことを認めさせた。
 うむむ、江戸時代にも認知請求の訴が起こされていたのですね。
 英一蝶は47歳から12年間、三宅島に流罪となった。しかし、江戸での人気は高く、江戸商人が島へ画材を送り込んで、さまざまな風俗画を描かせて、江戸で売りさばいた。
 江戸では流人となった一蝶の絵を求める人々がいた。絵具や紙・絹は江戸から送り込まれた。利にさとい江戸商人は、三宅島に一蝶画を買い付ける手を伸ばしていた。
 一蝶は江戸に戻ると、最上層の町人である樽屋新右衛門の字での振舞いに招かれ、また、お大尽の奈良屋茂左衛門の吉原遊興につきあい、幇間として完全復帰している。さらに、伊紀国屋文左衛門にも取り入っていた。
 すごいですね。江戸の町人文化のたくましさを改めて実感させられます。
 円山応挙(まるやまおうきょ)も日銭を稼ぐため、見世物小屋の眼鏡絵(めがねえ)を描いた。ふむふむ、武士も町人もそれなりにのびのび活動していたのです。
 江戸時代、女性も多くが絵筆をとっている。そうなんですか……。
 葛飾北斎は、生涯に93回の引っ越しをした。身なりも気にせず、粗末な家に住んだ。江戸時代の私生活を知る上で、視覚的にも参考になります。江戸時代の人々が必ずしも生活に窮々としていたわけではないというイメージを具体的に持つことのできる本です。
(2009年2月刊。1600円+税)

島津久光・幕末政治の焦点

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 町田 明広、 出版 講談社選書メチエ
 島津久光こそ、幕末の中央政局に絶大な影響をあたえ、回天の梃子を演じていた。
 この本は、このスタンスで島津久光にスポットライトを与え、その実像を浮き彫りにしています。
 江戸幕府創世記を除き、三代将軍家光以降の将軍家は、御台所を基本的には皇族ないし摂関家から迎えており、大名からの入輿は2例しかなく、そのどちらも外様大名である薩摩藩・島津家からである。この事実は、薩摩藩の勢威・家格を著しく高めた。島津斉彬の権勢の源泉は、将軍家との縁威にあった。
 文久期以降、薩摩藩が幕府以上に調停工作を得意としていたのは、近衛家との濃密な関係を前提として、絶対的な利益代表を有していたからである。
 島津久光は、藩主の座に就いたことはなく、藩主茂久の実父でしかなかった。つまり、久光の政治的基盤は、実は非常に脆弱だった。当時の薩摩藩は、島津家一門が家老職を頂点とする要路を占めており、必ずしも宗家の意向通りに反省は動いていなかった。斉彬といえども、彼らの意向を完全に無視して藩政をすすめることはできなかった。
久光は国父となって人事権を掌握すると、藩内基盤強化に向けて島津豊後派、日置派要路の更迭を繰り返した。その一方、久光四天王を登用し、側近体制の確立につとめた。なかでも、小松帯刀(たてわき)は驚異的な出世を続け、家老となり、御側詰となって、薩摩藩の軍事・外交・財政・産業・教育等の指揮命令権が小松に集中した。
小松28歳、青年宰相が誕生した。小松は幕末期、大久保・西郷以上の存在であり、両雄は小松の指揮下にあった。中央政局においては久光の名代として活躍した。
 文久2年(1862年)、久光は1000人の兵、野戦砲4門、小銃100挺とともに京都に上った。無位無官で、藩主でもなく、対外的には無名に近い久光自身の権威発揚の意図もあった。藩主の参勤交代並みの威儀を正して、しかも江戸ではなく京都を目指したことに特異さがあった。
 久光の京都滞在を許すにあたって、朝廷は浪士鎮撫を条件とした。寺田屋事件(1862年4月23日)は、久光を擁して統幕挙兵を西国志士らと画策する有馬新七らの薩摩藩尊王志士を、久光によって派遣された鎮撫使が寺田屋において鎮圧した事件であり、これによって朝廷における久光の声望は大いに高まった。
 寺田屋事件は、単なる薩摩藩内の抗争事件でも、久光による示威行動でもない、非常に重要な要素をさまざまに含んだ幕末政治史そのものである。
 西郷隆盛は、久光が上京する直前に久光に会っている。復職が認められたうえでのことではあるが、このとき久光に対して、「地五郎」(田舎者)であると言い放った。殿様育ちの久光が、この無礼で歯に衣着せぬ西郷の言動に堪えたのは、西郷の誠忠組における声望の高さ、誠忠組のリーダーでもある側近・大久保の推薦を無視することは、誠忠組の勢威を利用しようとする久光にとって得策ではないこと、それ以上に率兵上京そのものに悪影響を与えかねないとの判断によろう。
 長州藩にとっては、この寺田屋事件こそが藩是を破約攘夷に転換し、中央政局進出への発火点となったし、薩長両藩が反目する直接的起因ともなった。
 寺田屋事件を契機に、天皇の絶大な久光への信頼が確立し、中央政局におけるその存在感は一躍すべての勢力から無視できないレベルに達した。これ以降、久光の意向や動向を気にしなくては、どの勢力も政治的には身動きが取れなくなった。久光時代の到来である。
 しかしながら、久光は京都に長く滞在することはできず、江戸に行った。そして、同年8月、生麦事件が発生した。江戸から京都へ戻ろうとした久光一行の行列に対して、リチャードソンら英国人4人が、非礼であることを承知のうえ、乗馬のまま久光の駕籠近くまで乗り入れたことに起因する。当然のことながら、主君を守ろうとして、久光の家臣たちが英国人を斬りつけた。久光が命じるまでもなかった。しかし、このことによって、意に反して久光は攘夷の権化のように世間から祭り上げられることになった。
 そして、イギリス軍が薩摩を攻撃するとの情報を得て、久光は江戸にも京都にもおれず、薩摩に戻らざるをえなかった。文久3年(1863年)7月に、薩英戦争が勃発した。
 以下、省略しますが、久光に焦点をあてた幕末史として、目新しい視点があり、大変興味深く最後まで読みとおしました。
(2009年1月刊。1600円+税)

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