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カテゴリー: 日本史(江戸)

山岡鉄舟・高橋泥舟

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 岩下 哲典 、 出版 ミネルヴァ書房
私は、恥ずかしながら、「幕末三舟」というコトバ自体を知りませんでした。勝海舟はもちろん知っていますが、江戸城の無血開城を決めたのは西郷隆盛と勝海舟の二人ということになっていますが、実はその前に駿府会談というものがあり、西郷隆盛と対峙して重要なことを決めたのは山岡鉄舟だったというのです。著者は、世の中の人に、ぜひこのことを知ってほしいと声を大にして叫んでいます。
 「幕末三舟」は、3人とも旗本(幕臣)。鉄舟と泥舟は義理の兄弟。鉄舟の妻英子(ふさこ)は、泥舟の実妹。海舟は、鉄舟・泥舟とは婚姻関係はないが、お互いよく知っていていわば「戦友」。
 明治に入って、海舟は海軍卿や枢密院顧問をつとめた。泥舟は明治に入ってから、どこにも仕官しなかった。しかし、幕末のころは尊攘派幕臣として、泥舟はもっとも有名だった。
 徳川慶喜は、「大政奉還」しても、相変わらず自らが政権を担当するつもりだった。諸侯と朝廷の間を取りもつ役割を果たすつもりだった。諸侯会議を主宰するべく、側近に西洋の政治制度を学ばせて準備もしていた。ところが、鳥羽伏見の戦いに敗れてしまって、その目論見が外れた。
 泥舟は大阪から逃げて江戸城に帰ってきた慶喜に対して、江戸城を出て上野の寛永寺に退去することを献策し、その道中を護衛した。
 慶喜は泥舟をもっとも信頼していた。中奥に泥舟がいて、大奥には天璋院と和宮、表には勝海舟がいた。泥舟は慶喜の周囲にいた実行部隊の最高指揮官だった。泥舟は慶喜に駿府行きは鉄舟に命じるよう進言した。鉄舟は海舟宅にいた薩摩藩土の益満休之助とともに駿府城に出かけ、そこで西郷隆盛と会談した。
 西郷隆盛に対して、鉄舟は江戸を武力制圧することの愚かさを説いた。
 隆盛は、それを受けて5条件を示した。そのなかの一つ、慶喜の身柄を岡山池田藩お預けにするということは断乎として拒否、そのほかは応じたので、江戸城無血開城が決まった。
 江戸城での勝海舟と西郷隆盛との対談は、駿府会談の延長線上にあるもの。江戸城会談で初めて話し合いがなされたのではない。
 あとで、上野の寛永寺に立て籠もった彰義隊が官軍と戦闘した上野戦争について、慶喜たちは、せっかくの講和・無血開城がフイになると心配したようです。
 この上野戦争については、佐賀藩のアームストロング砲という最新式の大砲が大活躍しましたが、西郷隆盛の周到な準備があったから官軍は早期に完勝したと著者は強調しています。
 鉄舟は明治天皇の側近となったが、53歳のとき病死した。
 海舟だけでなく、鉄舟そして泥舟という「幕末三舟」の活躍を知ることができました。
(2023年8月刊。2800円+税)

賃金の日本史

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 高島 正憲 、 出版 吉川弘文館
 かつては、近世の百姓は厳しい年貢の取立てや飢饉(ききん)にさいなまれ、貧困にあえぐばかりだったという貧農史観が支配的だった。私も、すっかり信じ込んでいました。ところが、この20年から30年のあいだに、そのイメージは大きく修正されている。百姓たちは旺盛な消費意欲をもって、主体的により良い生活を求めて行動していたのだ。
 百姓一揆もその典型です。たとえば理不尽な領地替えは許さないという考えから、大規模な一揆を発動しました。ぜひ藤沢周平の『義民が駆ける』(中公文庫)を読んでみてください。
 天保の改革で有名な老中水野忠邦(ただくに)による三方国替(くにが)えに対して、羽州荘内の領民は「百姓たりといえども二君に仕えず」という幟(のぼり)を掲げて大挙して江戸に上って幕閣に強訴を敢行しました。そして、ついに将軍裁可を覆し、国替えをやめさせて藩主を守り抜いたのです。しかも、目的達成した百姓たちの処罰では、打ち首とか処刑(死刑)はありませんでした。それほど百姓たちは藩当局を圧倒していたのです。
 正倉院文書には、写経生が写経所に提出した借金証文「月借(げっしゃく)銭解(せんげ)」が100通ほど残っているそうです。このころ、借金の利子は月13%でした。
都市の活性化は、さまざまな職業を生み出した。そのなかには、今となっては想像しにくい、珍しいものも多数あった。その一つが、猫の蚤(のみ)取り。文字どおり猫に寄生する蚤を取り除く仕事。その方法は、狼などの獣の皮を猫にかぶせ、そこに蚤を移らせ、振るって捨てるというもの。近世も後半になって見かけなくなったとのこと。いやはや、想像できませんよね。
 耳垢(みみあか)取りもあった。これは、今でも銀座に店を構えています。入ったことはありませんが、いったい、いくらするのでしょう・・・。江戸時代には、耳かきの種類によって上中下の区別があり、上は金の耳かき、中は象牙の耳かき、下は釘の頭だった。ただし、これは落語家の志ん朝の話の「枕」に出てくるもの。
 安政の大地震のあった安政2年(1855年)には、それまでの大工賃金が上手間料4匁が45匁と10倍にもはね上がった。
いろいろ勉強になることの多い本でした。
(2023年9月刊。2200円)

剣術修行の廻国旅日記

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 永井 義男 、 出版 朝日文庫
 幕末のころ、佐賀藩鍋島家の家臣である牟田文之助高惇(たかあつ)は2年間かけて東北を含めて全国を武者修行の旅をした。文之助は訪れた藩のほとんどの藩校道場でこころよく受け入れられ、思う存分に他流試合をした。しかも、夕方からは、道場で立ち合った藩士たちと酒盛りしながら歓談し、さらには地元の名所旧跡や温泉に案内されることもしばしばだった。また、同じく藩士と知りあい、仲良くなって一緒に旅することもあった。
 他流試合といっても、「道場破り」ではなく、練習稽古の合同稽古みたいなものだった。
 文之助は、2年間に、全国31都府県を踏破している。北海道(松前藩)にも渡ろうとしたが果たせなかった。その代わり、松前藩から出てきた武者修行の藩士とは仲良くなっている。
 文之助の旅は、1853年(嘉永6年)から1855年(安政2年)までのこと。ペリーの率いる黒船が江戸湾に押しかけてきたころ。文之助の父親も佐賀藩の剣術師範のひとりで、鉄人流を教授していた。鉄人流は二刀流であり、異色だった。鉄人流は自分たちは宮本武蔵の流れにあると誇っていた。文之助が23歳のとき、鉄人流の免許皆伝を授けられた。そして翌年、藩から諸国武者修行の旅を許可された。
 このころ、多くの藩が藩士の教育に力を傾注していて、藩校で文武の教育をすすめていた。「文」では、各地の漢学塾や籣学塾に留学させていたし、「武」は諸国武者修行をさせた。修行人は他藩では修行人宿に泊まったが、そこは無料だった。その藩が負担する。なので、藩財政がピンチに陥った藩は修行人宿を閉鎖した。
 藩相互に修行人を優遇しあう慣例があった。修行人宿にとっても、修行人は年間を通じての大事な顧客だった。修行人が武者修行をしないときには、普通の旅人として扱われ、たとえば250文の宿賃を支払った。
 他流試合の実情は、他流との「合同稽古」だった。一対一の打ち込み稽古だ。勝負をして優劣が決まるというのではなく、自己評価・自己申告だった。
 他流との他稽古だったからこそ、遺恨が生まれることなく、終了後はともに汗を流した爽快感と相手に対する親愛感が生まれた。
 江戸時代の道場は、一般にはかなり狭かった。広さは10坪から30坪ほどが多い。しかも、床は板張りでないところが少なくなかった。屋外の青天井で、土間に筵(むしろ)を敷いている道場もあった。
 強い相手のいる道場は敬遠して、小さな町道場ばかりを選び、修行人同士の交際も避けて旅をする修行人を米食修行人と呼んだ。米の飯を食うのが目的の修行人という意味だ。
 同じように、道場側も何やかんや口実をかまえて修行人からの他流試合の申し込みに応じないところも少なくなかった。
 剣術修行という大義名分があれば、藩の垣根はほとんどなかった。
 全国を旅すると、各地の方言で意思疎通が困難になるはずだが、武家言葉は全国共通だったので、その限りで意思疎通に問題はなかった。
江戸時代は人件費は安く、物の値段は高かった。
文之助は手持ち金が不足すると、故郷に手紙を送って送金してもらった。すでに郵便網そして送金が確立していたのです。すごいことですよね、これって…。
江戸の藩邸では夜の門限は厳しかった。午後6時(暮六つ)には表門が閉じられた。
文之助と歓談した藩士たちは気前よく酒や料理を振るまった。なにかの見返りを期待しているわけではない。修行人との交流を楽しみ、江戸の話に聞き入ったようだ。
江戸時代、幕末のころ、武士の若者たちがぞろぞろと諸国を武者修行してまわり、酒食をともにして歓談していたというのです。江戸時代って、こんな大らかな時代だったのですよね。見直します。
10年前の本を文庫版にしたもので、内容も刷新されているようです。一読をおすすめします。
(2023年9月刊。1100円)

江戸のフリーランス図鑑

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  飯田 泰子 、 出版  芙蓉書房出版
 弁護士になってしばらくのあいだは、江戸時代って天下奉平、つまり変化がなく安定していて、人々は封建時代のしがらみにとらわれ、暗黒の時代に生きていたと考えていました。今では、その考えを根本的に改めています。
 江戸っ子はお金を貯めず(貯められず)、その日のうちに稼いだものを使い切ってしまう。明日は明日の風が吹くとばかり、気ままに生きていた人が少なくなかったのです。
私の固定概念を最終的に見事に粉々に砕いたのは『世事見聞録』という江戸の浪人が匿名で書いた本です。復刻版が出ていて、すぐ手に入りますから、未読の方には一読されることを強くおすすめします。ネットで検索してみて下さい。
 この本の延長線上にあるのが、戦前、熊本の農村(須恵村。今の球磨郡あさぎり町)に1年間、アメリカ人の若き人類学者夫婦が住み込んで(日本語が出来ますので通訳不要です)聞き取り調査をした結果をまとめた本『須恵村の女たち』(御茶の水書房)です。私は、この2冊を読まないで日本人論、とりわけ日本女性論を語るのは間違ってしまうと確信しています。
 この本に戻ります。この本のすばらしいところは、たくさんの働く人々が、写実的な絵と一緒に紹介されていることです。
 天秤(てんびん)棒の前後に荷を振り分けて、担いで打つのが棒手振(ぼてふ)り。「一心太助」の姿が絵描かれています。
江戸の魚市場は関東大震災のあと築地(つきじ)に移るまでに300年のあいだ、日本橋にありました。発祥は日本橋の北側で、南側に木材木町新魚市場が登場した。野菜を籠(かご)に入れて売り歩いた小商人を江戸では前栽(ぜんさい)売りと呼び、京坂では八百屋と呼んだ。
 松茸(マツタケ)は、京坂では秋冬には当たり前のごちそうだった。砂糖は、江戸時代には薬屋の高い品目で、庶民の料理にはまず使われなかった。醤油が普及したのは江戸期から。
 おかずは、江戸では惣菜(そうざい)といい、京坂では番菜(ばんさい)と呼んだ。「おばんさい」は、ここから来てるんですね。
 ウナギの蒲焼(かばやき)は、江戸では200文、京坂では銀3匁(もんめ)。
 鶏卵は高価で、ウナギの蒲焼より値が張った。ゆで卵は、江戸では20文で売られていた。屋台で食べる鮨(スシ)は文化期(1820年前後)にあらわれた。稲荷寿司も同じころの発明品。
 江戸でも京坂でも古着屋が大繁盛した。江戸には虫売りの屋台まで出現した。その一番の売り物は蛍(ホタル)だった。螢専門の蛍売りは、自ら螢狩りに出かけていった。
 手に取って眺めているだけでも、心が楽しくなってくる本です。
(2023年6月刊。2300円+税)

読み書きの日本史

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 八鍬 友広 、 出版 岩波新書
 よくリテラシーというコトバが登場します。もとは、読み書き能力(識字能力)のことでしたが、近年、大幅に意味内容を拡張していて、情報の内容を批判的に取捨選択する能力にまで高められている感がある。私はなかなかなじめなくて、使いこなせないコトバです。
話しコトバを獲得するには、学校に通ったり、特別な訓練を必要としない。しかし、文字の読み書きは、生得的な能力ではなく、長年にわたる習練の結果によって初めて獲得されるもの。
 そうなんです。私が毎日毎朝、フランス語を聴いて書き取りをしているのは、フランスで生活したいというよりも、フランスの文化に直に接したいという願望からなのです。
 かつての日本に角筆(かくひつ)というものがあることを初めて知りました。墨などをつけるのではなく、紙の表面に先の尖った棒状のものを押しつけて、へこみをつけるもの。
一文不通は「いちもんふつう」と読む。読み書きの能力が一定の水準に達していないことを指して使われたコトバ。
「往来物(おうらいもの)」とは、手紙文例集のこと。私は江戸時代の産物とばかり思っていましたが、実は、平安時代に始まるとのこと。平安期に続々と刊行され、鎌倉・室町に続いていったのです。かの敦煌(とんこう)石窟から発見された敦煌資料のなかにも手紙文の形式・文言を記載したものが大量に発見されているというのですから、驚きます。
日本の往来物は、学校で教科書が登場して、とって代わるまで、800年以上も継続した、世界でも特異なもの。「往来」は、一種の模範文例として、手紙を書くためのテキストブック。これに対して「消息」は、実際の手紙を指す。江戸時代の「商売往来」は、最大のヒット作だった。
近世から明治初期にかけてが、往来物の最盛期だった。現在、残っているものだけで7千種類ある。しかし、実のところ、1万をこえるのだろう。
『道中往来』は、仙台の書肆(しょし。本屋)が刊行し、きわめてよく普及した旅行記という往来物だった。
百姓一揆のときの百姓側の要望書が「目安」と呼ばれ、これらが往来物の一つになった。江戸時代、寺子屋が流行した。地方では「村堂(むらどう)」としていた。
寺子屋の師匠が亡くなったとき、千葉県内に建立された「筆子碑」は3000基もあった。寺子屋のなかには「門人張(もんじんちょう)」をつくっているところもあった。
近江国神崎郡北庄村(滋賀県東近江市)にあった時習斎寺子屋には4276人もの寺子が入門したという記録が残っている。ここで、女子の入門者は2割ほどでしかなかった。
江戸時代にやってきた、ロシアのゴローヴニン(軍人)やアメリカ人のマクドナルドやイギリスの初代終日公使オールコックは、いずれも日本人の識字能力の高さに驚いている。
村の男子の1割ほどが文通できたら、村請(むらうけ)制が実施可能だった。
昔は本を読むのは音読(おんどく)、つまり声を出して読みあげるのが一般的だと思っていました。しかし、この本では黙読もフツーにおこなわれていたというのです。そうなんですか…。
 世の中、知らないことは、ホント多いのですよね。
(2023年6月刊。1060円+税)

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