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カテゴリー: 日本史(江戸)

本の江戸文化講義

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 鈴木 俊幸 、 出版 角川書店
 大学でゼミの先生から講義を受けている気にさせる本です。
 江戸時代が進むなかで、江戸だけではなく、全国的に無学文盲の人がいなくなり、みんなが本を読むようになりました。そして、本は買う本と借りて読む本の2つがありました。借りて読むほうの本はたくさんの人が読むため、本の表紙は厚い紙で出来ている。
 なるほど、なるほど、そうなんですね。
そして、本を読むのは黙読ではなく、声を出して読みます。素読と同じです。ほら、「し、のたまわく…」というやつですよ。
 戦国時代と江戸時代の大きな違いは、強力で安定的な政権が生まれ、長期にわたって戦争のない時代が誕生したこと、260年あまり一つの政権によって一国が保たれていたのは、世界史上ほかにないこと。
 ええっ、そ、そう言い切っていいんでしたっけ…??
 この長期にわたる安定の最大の要素は、民衆の幕府への信頼。平和の時代をもたらし、維持していることを民衆は素直にありがたく思っていた。
 民衆が平楽を享受していたことは私も間違いないと思いますが、さすがにここまで言い切っていいのか、やや、ためらってしまいます。
 江戸時代の人々は、日本が「鎖国」していたとは思っていなかった。「鎖国」というのは近代になって貼られたレッテルにすぎず、実態のない幻想だ。
 なるほど、朝鮮通信使は何十年かに一度、大行列を仕立てて国内を巡行しましたし、オランダのカピタンたちも江戸まで出かけていますよね…。
 生活の隅々にまで及ぶ厳しい農民統制を示す「慶安の触書」なるものは、今では教科書から一掃されている。これは幕府によって全国的に出されたものではないことが分かったから。
 江戸時代、身分は固定されたものではなかった。有力町人は、お金の力で名字帯刀(みょうじたいとう)を許された。検地にしても農民が自由に売買するため、農民のほうから実施するよう願い出ることもあった。
 江戸時代の百姓は、かなり自由に、したたかに生きていた。
西洋諸国とは違って、民衆が文字を手に入れ、文章を理解することを江戸時代の為政者は怖れなかった。むしろ、触書を理解し、道徳を身につけるのに有用だと判断して、民衆が文字知を獲得することを阻害しなかった。
 寺子屋が全国各地にあった。都市部では「女寺屋」といって女子だけを受け入れるところもあった。千葉県東金(とうがね)の寺習塾の記録によると、文政4年(1821年)に男子59人、女子27人、天保2年(1831年)に男子33人、女子24人。天保9年(1838年)に男子40人、女子33人だった。授業料(束脩。そくしゅう)は半年500文。
江戸時代、本に定価はなかった。売値は、客と交渉して決まった。
日本近世は、パロディの時代。男色を「アブノーマル」として排除しようとするのは明治になってからのこと。江戸時代には、マイノリティでもなんでもなかった。武将に稚児はつきものだったんですよね。
井原西鶴を現代の小説家のように考えてはいけない。江戸時代にそんな職業はない。十返舎一九は初めて原稿料だけで生活できた。たいてい「副業」をもって、それによって生活していた。
「南総里見八犬伝」は発売1年間にせいぜい500部ほどの発行部数でしかなかった。
蔦屋重三郎は、時代の動きを敏感にとらえて、それに対応する天才的な能力のあった希有(けう)な本屋。惜しいことに脚気(かっけ)のため、寛政(1797年)に48歳で亡くなった。ビタミンB1の不足。白米の食べすぎかな…。
江戸時代の本屋と書物そして文化人の動向を詳しく知ることが出来ました。
(2025年1月刊。2200円)

雪夢往来

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 木内 昇 、 出版 新潮社
 江戸時代、雪深い越後の国に住む鈴木牧之(ぼくし)は郷土のことを江戸の人々に知ってもらおうと、郷土の風景、民話そして雪深い冬の景色を書きつづった。書き上げたからには書物として売り出さなくてはいけない。そこで、江戸の書き物問屋にあたり、作家に頼った。
 本書で出てくるのは、山東京伝、十返舎一九そして滝沢馬琴と、今も高名な作家たち。そんな作家たちは、果たして越後の無名の民(たみ)が書いたものに注目し、それを書物として世に出してくれるだろうか…。
 鈴木牧之の書いた『北越雪譜』は今なお語り継がれる高名な書物です。ところが、刊行されるまで、なんとなんと40年もかかってしまったのでした。これでは刊行するまで著者が生きていたというのが不思議なほどです。私も先日、30年ぶりに亡父の歩みを本にまとめ直しました。30年前は自費出版でしたが、今回は出版社から刊行することが出来ました。やはり、うれしいものです。
 書本(かきほん)にして江戸で配ればそれで十分だったのに、山東京伝に送ったことから、話が大きくなり、板本(はんぽん)という、思ってもみなかった夢が手の届くところに立ち現れた。迷走は、おそらくそこから始まった。
夢というのは、一度見てしまうと、そこから逃れられぬものかもしれぬ。必ず板本にしなければならない。妄念に取りつかれて、ここまで来てしまった。いつしか、書く楽しさや良いものを書きたいという純粋な衝動から大きく逸(そ)れて、ただただ己(おのれ)の筆力を証したい。みなに認めさせたい、名を上げたい、という欲心で、ここまで走ってきた。いやあ、よく分かりますね、この気落ち。田舎(地方都市)に住んでいながらモノカキと称して東京の出版社から本として刊行するというのは、みなに認めてもらいたい、あわよくばモノカキとして名声を得たいという欲心からのことです。間違いありません。
 「雪中の洪水の話、熊捕(くまとり)の話、雪の中で、飛ぶ虫の話、雪崩(なだれ)に巻き込まれた人の話…。気がつけば、ずい分と多くの綺談(きだん)を書いたものにございます。この地のことを書いておるとき、私は心くつろいでおりました」
 天保8年の秋、『北越雪譜』初編3巻が板行された。初めこそ、さして話題にもならなかったが、雪深い国の慣習や綺談は江戸の者に驚きをもって迎え入れられ、ふた月も経(た)つと、摺(す)るのが間に合わぬほどの評判となった。『北越雪譜』二編は初編同様、大きな評判をとり、鈴木牧之の名は江戸のみならず、広く知れ渡ることになった。越後塩沢の名士として村の者にも崇(あが)められ、わざわざ遠方から彼を訪ねてくる者まであった。
皐月(さつき)の、心地よい風が抜ける日の暮れ時に、鈴木牧之は静かに人生を終(しま)った。
一番最初に山東京伝の伝手(つて)で、二代目の蔦重(つたじゅう)のところで刊行しようとすると、50両がかかると言われたので、さすがの鈴木牧之も二の足を踏んだのでした。
 そうなんです。モノカキを自称するくらいで無名そのものが出版社から本を刊行しようとすると、現実には頭金を求められるのです。私も当然、毎回、負担しています。印税収入なんて、残念ながら夢のまた夢なのです。それでも、1回だけ福岡の本屋の店頭で私の本(「税務署なんか怖くない」)が並べられているのを見たときは小さな胸が震えるほど感激しました。
(2024年12月刊。2200円)

江戸の犯罪録

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 松尾 晋一 、 出版 講談社現代新書
 長崎奉行「犯科帳」を読む、というのがサブタイトルなので、出島があり、オランダとの貿易の窓口になっていた長崎ならではの密貿易犯罪が多く紹介されています。
ところで、「犯科帳」とは、そもそも何なのか…。
 この新書が扱っているのは長崎奉行所での審理にもとづく刑罰の申し渡し、不処罰の申し渡しが記録されている。期間は1666(寛文6)年から1867(慶応3)年までのもので、145冊ある。
長崎奉行は単独で判断を下すことはできず、必ず上級機関の指示を仰ぐことになっていた。刑事案件については、老中から幕府評定所に下付され、評定所において評議が行われ、その結論が老中にあげられるという手続きだった。
 そして、江戸に伺いを出すときには、長崎奉行は事件の経緯をまとめた報告書に加え、その判決案も添えていた。ほとんどの場合、判決案はそのまま採用されたが、なかには覆されることも時々あった。
 有名なジョン万次郎も日本に帰国したときは、長崎に送られ、揚屋(あがりや。上級身分の者が拘束された)に入れられて取り調べを受けている。
 長崎奉行は原則2人。1人が江戸にとどまり、1人が長崎に常駐する体制がとられている。奉行に伴われて江戸から長崎に派遣される武士は多くはなく、200人ほどで、年々、減っていった。
 通事は通訳するだけでなく、唐人関係の捜査権も付与されていた。
長崎は、幕府にとって「頭痛のタネ」だった。長崎で死亡した長崎奉行も数人いる。
 長崎では公事方御定書が軽んじられる土地柄だった。
長崎には、「ケンカ坂」と呼ばれる坂がある。1700(元禄13)年12月19日に発生した大ゲンカでは、28人が裁かれ、うち18人が死罪となった。これは、鍋島藩の家臣と長崎の町年寄をつとめる名家の下人との大乱闘事件。
 オランダ船を舞台とする抜け荷(密貿易)は多かった。
 1732(享保17)年秋から翌18年の春にかけてウンカ類が大量発生し、西日本は大飢饉となった。そこで、長崎奉行は諸国の米を長崎に送られ、なんとか一人の餓死者も出すことはなかった。しかし、住民の不満から米屋の打ちこわしが起きた。
 1667(寛文7)年には朝鮮への武器輸出が問題になった。
 1675(延宝3)年には、唐船を購入してカンボジアとの交易を図ったことが露見した。信じられないような密輸事件が起きていたのですね…。
 本来、抜荷は発覚したら死罪だったが、将軍吉宗は罰則を寛刑化した。罪人に自訴(自首)を促し、それで抜荷を抑制しようとするものに変わった。死を覚悟しても抜荷するのは、なんといっても利益が膨大だったから。元手の8倍もの利益が上がることがあった。
 1686(貞享3)年、オランダ人8人が関わる密貿易事件が起きた。このとき日本人が28人も関与していたし、日本人には死罪が命じられた。
 朝鮮へ渡海して、人参を買い求めて日本で高く売ろうとする人々もいた。仕入れ値の6倍で日本で売れた。偽(にせ)人参として、桔梗(ききょう)の根を売りさばいた悪人もいた。
「犯科帳」には、長崎で起きた事件であっても、必ずしもそのすべてを記録したものとは言えない。
 「犯科帳」は、現在の犯罪書のような、当時の長崎における犯罪とその処罰が整理され、系統書に記された記録だとは単純に言いきれない。
長崎の遊廊は、丸山町の遊女屋30軒、遊女335人、寄合町には遊女屋44軒、遊女431人いた。遊女は基本的に自由に遊郭を出入りできていた。
 長崎をめぐる犯罪、そして処罰の実例がよく分かって勉強になりました。
(2024年10月刊。1200円+税)

朝鮮通信使にかける魂の軌跡

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 嶋村 初吉 、 出版 東方出版
 通信使とは、朝鮮王朝が派遣した外交使節。通信とは、信(よしみ)を通(かわす)という意味。
 徳川家康が豊臣秀吉の朝鮮侵略で断絶した国交修復に乗り出し、通信使の派遣を要請した。これに応え、朝鮮王朝は1607年から1811年まで12回、300人から500人もの使節団を派遣した。
 江戸城で国書を交換する。使節団は漢城(現ソウル)から江戸までの2000キロを踏破した。通信使が来日するたびに、日本では朝鮮ブームがまき起こり、大きな文化交流がなされた。
 与謝(よさ)蕪村(ぶそん)の句。
高麗船(こまぶね)の よらで過ぎ行く 霞(かすみ)かな
瀬戸内海を往く6隻の朝鮮通信使船をうたった句。
朝鮮通信使は100人ほどで、それに航海士などが加わるので、総勢は300人から500人になる。船は6艘。正使船、副使船、従事官船という3艘に、貨物船が加わる。対馬藩の船が先導する。朝鮮通信使絵巻や船団図などに描かれている。
馬上才は、日本にはない、朝鮮ならではの馬上の曲芸。徳川将軍家光が来日を熱望し、江戸城馬場で馬上才が披露された。馬上横臥、馬上立倒といったいろいろな曲芸が演じられている様子が『馬上才図巻』に残っている。
朝鮮通信使を饗応(きょうおう)した料理が再現されていた。ツバメの巣、カラスミ、焼きウズラなどの山海の珍味10種類の料理が、7つの饗応膳に盛り付けられた。
江戸時代の対馬藩の朝鮮貿易は仲介貿易だった。博多商人を通して国内産を、琉球を通して南方産を入手し、それを釜山にある草梁倭館で売買した。
宗義智に嫁いできたマリアは小西行長の娘。関ヶ原の戦いでの敗戦後、マリアは義智から離縁されて長崎へ下っていった。
国書は朝鮮国王から日本の将軍へ送る書面。書契は朝鮮国王から対馬島主にだけ出している書面。
朝鮮通信使に関する記録は、2007年10月、ユネスコ世界記憶遺産に登録された。この登録は日本政府を通してではなく、日韓の民間団体が共同しての申請だった。
今では、文科省のHPにも紹介されている。
この朝鮮通信使は、日本が朝鮮を植民地支配するなかで意図的に消した大きな友好の歴史だった。
ドキュメンタリー映画『江戸時代の朝鮮通信使』というのがあるそうです。ぜひ観てみたいものです。テレビで放映されたのでしょうか…。
朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会が1995年に第1回が対馬市で開催されて以来、2023年まで既に30回も開かれている。いやあ知りませんでした。たいしたものです。
釜山市では、その三大祭りの一つに朝鮮通信使祭りがなっているそうです。
厳原(対馬)と博多を結ぶ海運学を生業とする松原一征氏の通信使復興を目ざす歩みが紹介されている本でもあります。
(2024年10月刊。2500円+税)

蔦屋重三郎、江戸を編集した男

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 田中 優子 、 出版 文春新書
 法政大学の元総長である著者は江戸文化の研究者で、NHKの大河ドラマ「べらぼう」の主人公として蔦屋(つたや)重三郎が目下、売り出し中なので、急きょ書き下ろしたのです。
蔦屋重三郎は「地本(じほん)問屋」の一人。文字と絵が合体した本をつくるのが仕事。江戸には146軒の地本問屋が存在した(1853(嘉永6)年)。1850年ころの江戸の寺子屋への就学率は70~80%。
 江戸時代の浮世絵は肉筆画ではなく、その中心は印刷物。そして、1765(明治2)年ころ、「見当(けんとう)をつける」という技法が完成し、浮世絵は突然、あざやかな色彩を帯びた。画期的なカラー浮世絵を始めたのは鈴木春信。
 浮世絵は多色刷りの時代となり、下絵師、彫師、摺師という分業でつくられた。
 中国版画のきわめて高い技術が導入された。多色にするには、色ごとに重ねて刷る。
 平賀源内は高松藩の武士だった。源内はゲイだったから吉原には出入りしなかったが、吉原細見の序文を書いた。
1777(安永6)年、蔦屋重三郎は洒落本(しゃれほん)を刊行した。道陀楼(どうだろう)麻阿と名乗る著者の正体は、秋田藩江戸留守居役・平沢常富だった。そして、この洒落本から黄表紙が生まれた。洒落本を絵本にしたもの。
 1785年、蔦屋重三郎は、山東京伝の洒落本を刊行した。
 1791年、蔦屋重三郎は身上半減(財産の半分を没収)、山東京伝は手鎖(てじょう)50日の刑を受けた。これは、老中・松平定信の寛政改革に逆らったから。手鎖は庶民のみに科せられる刑だった。
天明時代、狂歌師たちが集まり、活躍した。この集まり(連)には、武士も町人も職人も、そして版元も役者も参加していた。そのほとんどが20代から30代。
 蔦屋重三郎は、天明狂歌という文学運動を粘り強く編集・出版して歴史に残した。
 東洲斎写楽が活躍したのは1794(安政6)年から1795年にかけての10ヶ月間のみ。おおざっぱで乱暴なアマチュアの絵。しかし、緊迫感がある。
 役者の舞台における劇的な瞬間がとらえられている。写楽は誰にも師事しておらず、挿絵や表紙のプロセスもなく、いきなり出現した。
 写楽は浮世絵の素人。なので、繊細で精密な線は描けない。毛髪も着物も大雑把。写楽の芝居絵は、人間が登場人物のキャラクターを化粧や鬘(かつら)や衣装や表情や身体全体で表現して成り立っている。そうなんですか…、ちっとも知りませんでした。
 遊里、吉原を含む江戸の文化の奥深さを感じさせる新書でした。
(2024年12月刊。1100円)

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