法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 日本史(戦後)

私記・白鳥事件

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  大石 進 、 出版  日本評論社
 白鳥事件と言えば、弁護士にとって再審の門を大きく開いた最高裁判決として有名です。というか、再審についてすこしでも関心をもつ人なら知らないはずがありません。私にとっては、白鳥事件とは網走刑務所に入れられて無罪を訴えていた村上国治氏であり、松川事件と並ぶ日本の冤罪事件でした。 
 村上国治氏は、その生前、私も元気な姿を何回も遠くから見たことがあります。出獄後は日本国民救援会の副会長として活躍していました。人の良さそうなおじいちゃんでした。
 白鳥事件が起きたのは、1952年1月21日の夜7時40分ころ。札幌市中央区南六条西16丁目の路上で、自転車に乗って走行中の白鳥一雄警部(札幌市警の警備課長)が、同じく自転車に乗った男によって射殺された。
この白鳥警部を射殺した犯人は、日本共産党の中核自衛隊員であり、それを命じたのは、日本共産党札幌市委員会の責任者である村上国治だった。このとき、村上国治は若冠28歳である。
 白鳥事件は、権力のデッチアゲではない。冤罪事件ではないのである。日本共産党は、白鳥事件の主犯格の3人と、幇助犯をふくめて事件を深く知る周辺の7人の合計10人を中国に密出国させた。
 7人のほうは、197年から順次、日本に帰国してきた。主犯格の3人は中国にとどまったままだった。
実は、この本の著者も日本共産党の中核自衛隊に誘われて、入隊していたのでした。1954年の初夏のころです。群馬県の山村で巡回映画を上映してまわったというのです。
16ミリ映写機と映画フィルムをもって妙義山中に点在する部落をまわって毎夜、上映会を開き、子どもたちに喜ばれた。1955年、六全協のあと、晩夏に武器を廃棄した。
 このように中核自衛隊にかかわっていた著者が、白鳥事件に関心をもつようなったのは必然のことですね・・・。
 「白鳥事件を、三鷹事件や松川事件と同列に論ずるわけにはいかない。この事件を冤罪と思っている人は北大には一人もいない」。これは1955年の北大生の言葉だった。
 岡林辰雄弁護士の言葉。「村上国治の無罪、共謀共同正犯の不成立は主張できるかもしれないが、彼の部下の誰かが白鳥を射殺したという事実は消えない。村上には組織の責任者として思い政治的責任がある。もし、実行犯が逮捕されて、重刑を課され、村上が無罪とされたら、村上は生きていない」
 岡林は、村上を英雄としてではなく、罪人として認識していた。岡林は、「幌美峠で発見されたという銃弾は、まぎれもなく偽造証拠だが、あの場所で彼(白鳥)の指示のもと、党員による射撃演習が行われたことは疑いのない事実だ」、そう語った。
 このように、弁護士は、いつの時代でも、表と裏との、合法と非合法の接点にいることを運命づけられる。
 著者は、射殺の実行犯は佐藤博だと断定しています。そして、佐藤博も村上国治も軍隊経験者なのです。人を殺すことを使命とする組織にいて、その訓練を受けてきた人間でした。
 この時期にとられた軍事方針は、日本革命のためというより、外圧によるものだった。日本共産党の「武闘」は、ソ連と中国共産党、すなわち事実上のコシンテルンに対する「見せかけ」、ないしアリバイづくりに過ぎなかった。派手なだけで、朝鮮半島の戦局に対する影響皆無の火炎瓶投擲でお茶を濁していた。
おそらく、学生・失業者・民族組織に根をもたない朝鮮人、元国際分派などが消耗品として軍事に投入されたのだろう。
「手記」と銘うってあるように、著者の実体験をふまえて白鳥事件の真相に迫った本です。
 いかなる組織も自らの誤りを率直に認めることは至難のことです。しかも、自分がやったわけではない先輩たちの誤りを自己批判するなんて、考えただけでも気が遠くなります。
 それでも、歴史の闇は明らかにしなければならないのではないか。この本を読みながら、そのように私は思いました。いかがでしょうか・・・・。
 (2014年11月刊。2000円+税)

浮浪児1945~

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  石井 光太 、 出版  新潮社
 終戦直後、12万人以上の戦災孤児が生まれた日本。その中心、焼け跡の東京に生きたら子どもたちは、どこへ「消えた」のか。
 これが、この本のオビのフレーズです。戦災孤児となった子どもたちのその後を追跡しています。
戦災孤児となり、生きていくのが辛くて、自殺してしまった子どもたちもたくさんいました。
 女の子はやはり男の子以上に大変だったようです。それでも、たくましく生きのびた子どもがいたことを知り、いくらかの救いも感じました。
 子どもたちにあたたかい救いの手を差しのべた人もいたようです。
 1945年10月。上野駅では2日に1人の行き倒れを処理していた。11月になると、浮浪者の餓死体は、多い日には6人もいて、一日2.5人が平均だった。1ヵ月にして、餓死者が7~80人も出た。浮浪児のなかでは、か弱い子どもが真っ先に命を落としていた。
上野の地下道に大勢の浮浪児が集中した。働き先は二つ。上野のヤミ市と浅草の商店。
 ヤミ米の担ぎ屋を一部で担う浮浪児もいた。
 浮浪児たちは、靴みがきと並んで新聞売りに従事した。新聞を1部10銭で仕入れて、通行人に1部20銭で売る。1日に50部から100部売れたら食べていくことができた。
 地下道暮らしでも、仕事をしている限りは三食を十分に食べていけた。
孤児院に収容されると十分に食べられず、施設の職員に殴られる。だから、浮浪児たちは孤児院に収容されることを嫌がり、警察に保護されても、脱走して路上に戻ろうとした。
浮浪児にはお金を貯めるという発想がなく、あまった分は地下道の友人や知人におごったりして使い果たしてしまうのが常だった。
 浮浪児たちは傷痍軍人たちと仲良くしていた。
 浮浪児は一日の仕事が終わると、ホンモノの傷痍軍人のところに行って食べ物をあげた。そのお礼に読み書きや英語を教えてくれた。戦争に駆り出されて傷害を負う前は普通の社会人だったから、頭の良い人もたくさんいた。だから、子どもたちに勉強を教えてやっていた。
 戦後になって地方から上野にやってきたワルたちは、家出組が大半だった。「ノガミ」(上野のこと)へ行って「一旗あげよう」と上野へやって来た。
ヤクザは不良少年を利用して、ショバ屋、ブーバイ、ダフ屋を営んだ。ブーバイとは、上野発の乗車券を買い占めて、高値で売る商売のこと。
 犯罪性が高く、人気があったのが集団スリ。スリの学校まであった。
 1946年から、警察は上野の浄化作戦にとり組んだ。1回の狩り込みで、冬だと4千人、春でも2千人ほどの浮浪者が検挙された。警察は、浮浪者を、大人、子ども、病人と分け、行き先別にトラックの荷台に載せて連行した。
この本を読んで、もっとも感銘を受けたのは、次の指摘です。これだけでも、この本を読んで良かったと思いました。
 戦災孤児は、空襲で両親が死ぬまでは普通の家庭で育っていた。親に愛され、兄妹と仲良く遊び、おじいちゃん、おばあちゃんに可愛いがられた。だから、人間としての根っこがしっかりしている。たとえ戦争のせいで何年か上野で浮浪生活をしたとしても、施設に住まわせて、ちゃんとした環境さえ与えれば、それなりにがんばって生きていける。
家庭の愛情でなくたっていい。友人や見知らぬ大人からでもいいから、子ども時代に多くの愛情をきちんと受けてきた記憶があるということが大切。そういう経験があるからこそ、浮浪児だった子どもたちは、学がないのに社長になって社員に愛情を注ぎながら引っぱることができていたし、収入も乏しいのに結婚して努力に努力をつみ重ねて、子どもをきちんと育てることができた。
 ところが、現代の虐待を受けた子どもたちは、どこかで心が折れ、何もかも投げ出してしまっているので、最後までやり遂げることができない。
 子どもは家族から愛され、周りの人に恵まれることによって初めてしっかりとした自我が生まれる。人を愛し、自分を制御し、生きるということに向かって進んでいくことができる。
このことが実証されている本として一読に価すると思いました。
(2014年10月刊。1500円+税)
イチョウについての本を読みながら上京したところ、日比谷公園の大銀杏は見事に黄変していました。黄金色というのか、山吹色というのでしょうか、壮観でした。
 憲法改正を許さない取り組みをすすめていくための会議に参加したのですが、総選挙の投票率が低くなることをみんなで心配していました。小選挙区制というマジックもありますが、選挙で信任を受けたとして集団的自衛権を認めるための法改正は許せません。
 国の根本のあり方が問われている選挙でもあります。投票所に足を運びましょうね。

原爆を背負って

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  久 知邦 、 出版  西日本新聞社
 16歳のとき、郵便配達員として働いていたとき、長崎で原爆に被曝した谷口稜曄(すみてる)氏から聞き書きした本です。
 大変分かりやすい平易な文章で谷口氏の苦難の人生が淡々と語られていて、涙なくしては読ませませんでした。谷口さんの背中全体が真っ赤になっている有名な写真は、残酷すぎるとして、あちこちで(先日も日弁連会館で)掲示が断られてしまいます。でも、谷口さんは、戦争とりわけ原爆被害の残虐さを目からそらさないでほしいと訴えています。目を背けてしまえば被害がなくなるというものではないからです。
 それにしても、よくぞ今日まで長生きされたものです。たくましい生命力とあわせて、全世界に向かって被爆の実情を訴えることに人生の意義を見出したことも、谷口さんの元気を支えてきたのではないかと思いました。
 1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下された。郵便配達中に熱戦で焼き尽くされた背中は通常の皮膚ではない。汗腺も皮脂もなく、背中を覆っているのは、瘢痕という薄い膜。汗もかけない背中には、徐々に石炭質が沈着し、大きくなるとそれが瘢痕を突き破って出てくる。
 背中の痛みは、一日に何度も変化する。殴られているようにずきずきしたり、針を刺されているようにちくちくしたり。布団に寝ていても、背中の下に硬い石ころを敷いているようで、あおむけでは眠れない。
 体温調節も難しい、夏は熱が体にこもって焼けるように熱く、冬は何枚上着を着ても震えるほど冷える。
 太ると、背中の膜が引っ張られて裂ける。酒を飲むと、血管が膨脹して背中が痛む。
被爆して1年9ヶ月間、ずっとうつぶせで過ごしたため、胸の肉は床ずれで腐って落ち、肋骨のあいだから心臓の動きが見える。思い切り息を吸うと胸も背中も痛み、大きい声が出せない。
 生きることは、苦しみに耐えることにほかならない。
被爆したあとの入院中、背中や胸の肉は腐ってどぶどぶと流れ落ち、体の下に敷いたぼろ布にたまった。
夏になると、左肘にうじがわいた。次々に卵がかえり、氏は骨と骨の間に食いこんでいき、ぎりぎりと痛む。大きくなったうじが見えても、動けない身ではどうしようもない。
 ところが、こうやって寝ているときに、身長は30センチも伸びていった。
これは驚くべきことです。よほど、看護体制が良かったのでしょうね。
 著者には、配達中の災害だったので、入院中も給与がずっと支払われていて、それが家族の生活を支えた。
 3年半の入院費用は全く負担しないですんだ。不思議だった。
おかしいと思うことは声をあげる。これは、戦争を止められなかった大人たちへの怒りの裏返しでもあった。
 結婚することができ、子どもが生まれた。原爆の影響を心配したが、二人の子は大きな病気をすることなく育った。今では、4人の孫と2人のひ孫がいる。
 被曝者として訴えるとき、怒りだけでは相手に伝わらない。この苦しみは私たちだけで十分だと辛抱強く訴えてこそ、相手の胸に響く。
 著者は、原水禁運動が分裂し、被爆者団体まで分裂したことを残念がっています。本当にそうですね。一刻も早く大同団結して、ノーモア・ヒロシマ・ナガサキの叫びをさらに強く、核兵器の全廃を急ぐべきです。
 日本がアメリカの核の傘に守られているなんて、嘘ですし、幻想です。
 その原点を思い起こさせる、いい本です。あなたにも一読を強くおすすめします。
(2014年8月刊。1500円+税)

もう10年もすれば・・・

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  中国引き揚げ漫画家の会 、 出版  今人舎
 敗戦時、中国にいた大勢の日本人が命からがら日本に引き揚げてきました。
 たとえば、中国の大連には敗戦のとき、20万人もの日本人がいたのです。そして、旅順から退去させられた人や奥地からの難民6万人が、これに加わりました。
 大連からの引き揚げは、敗戦した翌年の昭和21年12月3日から始まりました。
 赤塚不二夫は母親を先頭に奉天駅まで歩いて行った。母のリュックに不二夫がしっかりつかまり、その不二夫に妹の寿満子がつかまって、綾子を背負った寿満子に弟の宣洋がつかまって歩いた。マンガに描かれた子どもたちの必死の顔つきは見事です。
 ちばてつやもまた歩いていった。お腹がすいてたまらず、思いきりバンドでお腹を締め付けて、お腹のすいたのをまぎらして歩いた。
 日本へ帰る引揚船を見たとき、そのでっかさに圧倒された。
 さすがに漫画家たちの描いた絵ですので、迫力があります。真に迫っています。
 赤塚不二夫、ちばてつやのほか、森田拳次、北見けんいち、古谷三敏、山内ジョージなどたくさんの有名な漫画家がいます。
 中国(満州)は日本の生命線だと政府にだまされて渡っていった大勢の日本人がいました。そして、敗戦のとき、日本軍は日本人を見捨て、高級幹部は一目散に日本へ逃げ帰ったのです。
 軍隊は国民を守るためにあるというのは、昔も今も、真っ赤な嘘なのです。
 2002年に発行された本の復刻版です。一見、一読の価値があります。
(2014年6月刊。1800円+税)

検証・法治国家崩壊

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  吉田敏浩・新原昭治・未浪靖司 、 出版  創元社
 タイトルからは何が論じられているのか不明ですが、砂川事件の最高裁判決、つまり田中耕太郎長官がアメリカとの共同謀議で在日米軍を合憲とした司法の汚点が今なお尾を引きずっていることを、その歴史的位置づけを明らかにしつつ暴いた本です。
 アメリカのいいところは、30年たったら秘密文書が公開されるところです。著者たちは、アメリカの公文書館で公開資料を読みあさって、「宝の山」を掘りあてたのでした。
 それにしても、おぞましい最高裁の汚点です。吐き気すら催してしまいます。
 そして、これが55年前の古証文の汚点を暴いたというのに留まらず、現代日本においても、その桎梏が私たちを苦しめているところが問題です。
 まずは、田中耕太郎の犯罪的役割を確認しておきましょう。
 1959年12月16日、日本の最高裁が砂川事件で出した判決は、アメリカ軍の治外法権を認めた。そして、この裁判所は、実は、その最初から最後まで、アメリカ政府の意を受けた駐日大使のシナリオどおりに進行していた。
 田中耕太郎長官は、アメリカからの内政干渉を受け、唯々諾々とアメリカの意向に沿って行動した。日本の最高裁は、憲法の定める司法権独立が侵された大きな歴史の汚点を背負っている。
 米軍駐留は憲法違反だと明快に断じた伊達判決はアメリカにとって大打撃だった。マッカーサー大使は、表向きの記者会見では、「コメントするのは不適切だ」としつつ、裏では素早く日本政府に介入した。
 最高裁への跳躍上告をすすめたのもアメリカだった。
 1959年から1960年にかけて安保条約改定の秘密交渉と砂川事件裁判への政治的工作が、こっそり同時併行で進められていった。それは、日比谷公園に面した帝国ホテルが会場とされた。
 1959年4月、今の天皇が結婚パレードをするころ、田中耕太郎は、マッカーサー大使に最高裁の合議の秘密を全部バラしていた。判決時期、最高裁の内部事情など、裁判の一方当事者と言えるアメリカ政府を代表とするアメリカ大使にすべてを教えていた。
 いやはや、とんだ男が長官でした。呆れはてて、声を失います。
 1959年11月、安保改正の秘密交渉が大詰めを迎えていたころ、マッカーサー大使は、田中耕太郎と再び密談した。その場所までは書かれていないが、アメリカ政府あての報告書に内容が紹介されている。
 「田中最高裁長官との最近の非公式の会談のなかで、砂川事件について短時間はなしあった。長官は、時期はまだ決まっていないが、来年の初めまでには判決を出せるようにしたいと言った。田中耕太郎長官は、下級審の判決が支持されると思っているという様子は見せなかった。反対に、それはくつがえされるだろうが、重要なのは、15人のうちの出来るだけ多くの裁判官が憲法問題に関わって裁定することだと考えているという印象だった。
 田中長官は、こうした憲法問題に伊達判事が判決するのはまったくの誤りだと述べた」
 マッカーサー大使は、田中の話を聞いて、さぞかし満足し、安心したことだろう。
 同時に、心の中では田中耕太郎を軽蔑したのではないでしょうか・・・。まことに、田中耕太郎とは唾棄すべき存在です。
 憲法の番人と言われる最高裁。その長官で、全国の裁判所・裁判官のトップに立ち、率先して裁判所法そして、評議の秘密を、なにより法律全般を守らなければならない人物、日本の司法の最高責任者ともいうべき人間が、評議の秘密をもらしていた。これこそ「法治国家崩壊」と呼ぶべき大事件ではないのか・・・。私もまことにそのとおりだと思います。
ところが、田中耕太郎は、裁判所内部の訓示では、「裁判の威信を守れ」などと言っていたのでした。典型的な二枚舌です。
 最高裁判決には、きわめて大きな矛盾がある。東京地裁の伊達判決について、「米軍駐留は違憲だ」としたのを、裁判所の司法審査の範囲の逸脱だと非難している。しかし同時に、最高裁みずから「米軍駐留は事実上合憲だ」と判断した。これこそ典型的な矛盾であって、両立しえないところである。
 田中耕太郎は判決後、記者に取り囲まれ、次のように述べた。
 「裁判所は、いかなる意味でも、政治的意図に動かされてのものではない」
 本当に、そらぞらしい嘘を平気で口にしています。聞いているほうが恥ずかしくなります。
砂川事件最高裁判決と日米密約交渉は、戦後日本の進路を対米従属のレールに固定化する役割を果たしたと言える。「安保法体系」という日本の主権を制限する法体系に優越性をももたせ、密約と情報隠蔽の構造で米軍優位の不平等な日米関係を容認したのだ。
 米軍機の騒音公害問題、米軍基地の強制収容の問題など、1959年の最高裁判決が半世紀以上にわたって厚い壁となって住民や地方自治体の前に立ちはだかっている。
 本年(2014年)6月、砂川事件最高判決を失効させるため、東京地裁に免訴を求めて再審請求した。この再審請求を認めてこそ、日本の裁判所には救いがあることになります。却下するようだったら、日本の司法は暗黒そのものに陥ってしまうでしょうね、残念ながら・・・。
 著者の一人である末浪靖司氏より贈呈されましたので、ここにあつく御礼を申しあげます。
 再審が認められ、田中耕太郎という人物を日本人、とりわけ司法関係者は恥ずかしくてその名を口にも出来ないという事態を早く迎えたいものです。
(2014年7月刊。1500円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.