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カテゴリー: 日本史(戦後)

米軍が見た東京1945秋

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者  佐藤 洋一 、 出版  洋泉社
 敗戦前後の東京を写したアメリカ軍の写真が公開されています。
 東京が焼野ヶ原です。これじゃあ100年は復興できないだろうな、日本人は全滅したんだな、そう思える写真のオンパレードです。
 私のすんでる町も、戦後に残ったのは三つのコンクリート造りの建物だけでした。市役所と化学工場のビルとデパートです。私の父は、化学工場のビルに身を寄せていました。
 ところが、100年どころか、戦後まもなくから東京にワラワラとひとが集まってきて、たちまち建物をたてはじめ、住みついていき、あっという間に復興していくのです。
 この写真は、日本敗戦の前後をよく撮っています。戦前の写真はアメリカ軍による空襲の効果測定のために撮られています。
アメリカ軍による東京への空襲は105回。これによって10万人が亡くなり、286万人が罹災した。
東京への空襲には、延焼効果を狙った焼夷弾(しょういだん)が使われ、犠牲者の大半は火災による焼死だった。空襲にあたって、アメリカ軍は衝撃中心点を定めて計画的にことをすすめた。
コンクリートビルが焼け残っても、内部は焼失した。だから、「焼けビル」と呼んだ。
9月18日の東京駅プラットホームで撮られた写真があります。日本人は男は復員軍人、そして女性はモンペ姿なのですが、アメリカ兵が何人もいます。天井がありません。青天井なのです。雨が降ったら大変だったでしょうね。それでも、10月6日の有楽町駅のプラットホームには天井があります。燃えなかったのでしょうか・・・。
どこもかしこも見渡す限り焼野ヶ原なのですが、それなのに9月から10月に入ると、人出があるのです。まさしく地中から地上に人々がはい出てきたという様相です。
戦争に負けるとは、こういうことなのか、改めて、それを実感させてくれる貴重な写真集です。
(2015年12月刊。2400円+税)

原節子の真実

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 石井 妙子 、 出版 新潮社 
原節子主演の映画って、実はほとんど観たことがありません。テレビで『東京物語』をみたくらいではないでしょうか・・・。
団塊世代の私にとって、憧れの女優といえば、なんといっても吉永小百合ですね。今なおサユリストを自称しています。反戦・平和の声をあげているのを知るにつれ、ますます尊敬し、崇拝してしまいます。
原節子は、昭和10年(1935年)、わずか14歳で女優になった。そして、昭和37年(1962年)、42歳のときに銀幕を静かに去っていった。
28年間の女優人生で、出演した映画は112本。彼女の存在は他を圧している。画面に出るだけで、すべてを静かに制してしまう。
終戦を25歳で迎えた原節子は、もっとも美しかったころ、日本は戦争に明け暮れていた。戦意高揚映画にも原節子は出演している。
原節子が本当に女優として認められたのは戦後のこと。敗戦に打ちひしがれている日本人を慰撫し、鼓舞した。清く、正しく、美しい女優。それが原節子だった。
会田昌江として大正9年(1920年)に生まれ、平成27年(2015年)11月25日、その死亡が報道された。原節子は、50年以上も人前に姿をあらわさず、95歳で亡くなった。
小学生のころの原節子は、色が黒くて、やせていて、眼だけが大きくてギョロギョロしていた。美貌の姉の隠れて目立つ存在ではなかった。勉強は出来て、成績は常に一番だった。 
原節子が女優の道に入ったのは、実家が経済的に苦しくなり、家計を助けたり、親孝行をしたいという気持ちからだった。だから、女優を長くやる気持ちなどなかった。
原節子は、撮影が終わると、まっすぐ帰宅し、家事をやっていた。映画人との付き合いもほとんどしなかった。
16歳の原節子は、ドイツ人の映画監督に見出されて、ドイツ人向けの日本紹介のような映画に出演した。この映画は成功し、ドイツ国内2600の映画館で上映され、600万人のドイツ人がみた。
原節子は、監督にもスタッフにも媚びなかった。無駄口を叩かず、人と飲食をともにせず、まっすぐ家に帰るので、「愛想がない」と言われた。監督への「付け届け」もしなかった。
育ちの良さからくる気品、理性と知性、思慮深さがあり、おとなしい外見の下に隠された強固な自我があった。
「女学校をやめて14歳からこういう仕事をしてるでしょ。だから勉強しなくてはいけないの・・・」
トルストイ、ドストエフスキー、チェホフなど、原節子は手あたり次第に本を読みふけった。
戦後の食糧難の時代には、原節子も自ら買い出しに出かけた。
『青い山脈』によって、原節子は、まさに国民的女優となった。2週間に500万人が映画館に詰めかけた。
原節子は、代表作は何かと訊かれる、「まだありません」と答えた。それでは、「好きな作品は?」と問われると、『わが青春に悔なし』などをあげた。小津作品をあげることはなかった。
『東京物語』を撮ったとき、原節子は33歳だった。
昭和35年ころ、原節子は、時代が変わったことを知り、映画界への失望をはっきり口にするようになった。なるほど、そんなことから、映画界、そして人々の前から姿を消したのですね。それにしても、すごく意思強固な女性だったんだと改めて識り、驚嘆させられました。
(2016年5月刊。1600円+税)

「昭和の消えた仕事図鑑」

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 澤宮 優(文)、平野恵理(絵) 、 出版 原書房   
 弁護士にも平成生まれの人がいますので、昭和時代は既に歴史になってしまいました。
 この本に紹介されている仕事のイラストの多くは、私にとって、子ども時代によく見かけたものです。東京に行くと、国鉄の駅には、赤帽さんがいました。手荷物を運んでくれるおじさんです。戦前には、女性がつとめる「白帽」というものもあって、幼児や病人の世話をしたとのことです。どちらもボランティアではなく、有料です。
 朝夕のラッシュのときには、山手線には押し屋がいました。学生アルバイトが多かったようです。電車の扉が閉まるように乗客を中へ押し込むのです。先日、朝の東京で山手線に乗って、久し振りに殺人的ラッシュアワーを体験しました。息がつまりそうです。とりわけ若い女性には耐えられませんよね。
 蒸気機関車も昭和51年まで全国を走っていました。黒い煙は息が詰まりそうで、乗客には大迷惑でした。
 昔は、バスは路線バスを乗り合いバスと呼び、前方にボンネットが突き出ている格好で、若い女性の車掌さん(バスガール)が乗っていて切符を車内で売っていました。この車掌の仕事が人気を失ったのは、抜き打ちで服を脱がされて身体検査されるからだというのを初めて知りました。
 エレベーターガールが「消えた仕事」として紹介されていますが、最近のデパートでは復活しているところも珍しくありませんよね・・・。
 ニコヨンとは、日雇い労働者のことです。1日240円つまり百円札2個と十円札4個が支払われることから来ています。公共の失対(失業対策)事業に従事する人をさすものとばかり思っていました。全日自労は、この現場で働いている人を組織した労働組合です。かつては、とても人数が多く、勢いがありました。今は名前も「建交労」と変わりましたね。
豆腐売りや納豆売りも路地裏までまわっていましたが、今は見かけなくなりました。なんでもスーパーとコンビニばかりというのでは本当に困ると思うのですが・・・。
ひととき、なつかしく子ども時代を思い出すことができました。
 
(2016年4月刊。2200円+税)

戦争孤児

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者  本庄 豊 、 出版  新日本出版社
終戦(敗戦)直後、雨や夜露をしのぐため、孤児たちは京都駅構内で寝た。京都では、彼らを「駅の子」と呼ぶ人もいた。大阪の人々は、彼らに「駅前小僧」という名前をつけた。
厚生省が1948年2月に実施した全国孤児一斉調査によると、沖縄県を除いて、全国に12万3512人の孤児がいて、その1割の1万2202人が孤児院に入っていた。
日本占領から2年たった1947年、マッカーサー司令官は、アメリカのカトリック神父、エドワード・ジョゼフ・フラナガンを来日させ、助言を求めた。
1947年4月、フラナガン神父は来日し、戦争孤児救援のための共同募金「赤い羽根」を提唱し、全国の孤児施設をまわった。
戦時中の空襲直後に発生したのが戦争孤児であり、片隅に隠れていた孤児たちの姿が誰の目にもふれるようになったのが敗戦後だった。
駅の捨て子だから、「江木捨彦」(えぎすてひこ)と命名された小さな男の子がいた。
戦争孤児施設は、現在は、そのほとんどが児童養護施設になっている。DVなどのため、親と一緒に暮らせない子どもたちが生活する場である。
「戦争は弱い立場の子供やお年寄りが必ず辛い思いをする。どうか戦争反対と叫んでください」
戦争孤児として、姉と二人で「駅の子」として暮らした体験をもつ人が中学生に向かって、このように訴えました。
 戦争に備えると称して、戦争を招いている人たちがいます。そして、美名のかげで金儲けを企んでいるのが軍事産業です。
 曇らぬ目で、真実を見抜き、平和の声をあげたいものです。
(2016年2月刊。1600円+税)

昭和の子どもブック

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者  ロコ・まえだ 、 出版  辰巳出版
私と同じ団塊世代の著者が、私たちの子どものころをマンガで再現しています。舞台は北海道の釧路なんですが、九州の私とほとんど状況は変わりません。なつかしさ一杯で頁をめくっていきました。
ぼくが小学校のころは、こんな時代環境だったんだよと子どもたちに教えてやりたいと思って、本屋ですぐ買い求めました。
小学校はオンボロの木造校舎です。一学級50人以上の生徒がいました。中学校に入ると、校舎が足らずにプレハブ校舎まで出現しました。
でも、木造校舎もいいものですよ。少し前に小豆島に行って、映画『二十四の瞳』の舞台となった島の分教場に入って、なつかしく往事をしのびました。
 私はランドセルを買ってもらって得意でした。きっと買ってもらえなかった子もいたのではないでしょうか、そこまで頭はまわりませんでした。それでも、小学生のころには、なぜか午前中の休憩時間に泣いて家へ帰ってしまい、あとで恐る恐る授業中のクラスに入っていったという苦い思い出もあります。いじられっ子ではありませんでしたが、なんとなく人見知りはしていたのです。
ガリ版でテスト用紙をつくる絵があります。私が大学生のころまで全部ガリ版印刷でした。鉄筆でかりかり刻む音がなつかしいですね。私の字も、このガリ切りで、すこしはまともに読める字になりました。
給食はコッペパンに脱脂粉乳です。私はどちらも残さず食べました。このミルクが嫌いだったという人は多いようですが、私は美味しいと思って全部飲み干していました。
昔も今も、ほとんど好き嫌いなんかありません。クジラの竜田揚げなんて大好物でした。
私は、いつだって真面目な生徒でしたので、学級委員長をずっとしていました。クラス討論の時間に、みんなが意見を言ってくれないので困りました。
 休み時間に馬とびをしていましたが、中学校に入ると、なぜか禁止されるのです。それでも一学期はまだ小学生気分ですから、みんなでワイワイやっていて先生に叱られてしまいました。
秋の運動会は楽しみでした。広い校庭に大勢の人がつめかけてきて、昼休みに弁当を食べる場所を確保するのが大変なほどでした。
 父さんの床屋という絵があります。私も男三人兄弟は父がバリカンで頭を刈ってくれました。といっても、バリカンはときどき髪の毛がはさまって痛いので、実は、苦痛のときだったのです。それでも、文句も言わずに耐えました。なにしろ床屋代の節約になるのですから、仕方ありません。
 夏休みのラジオ体操は欠かしませんでした。だって、ほかの選択肢はないのです。ですから、夏休みに絵日記を書こうと思っても、毎日同じことのくり返しなので、書くことがなくて困っていました。
 でも、そんな日々もあっというまに過ぎてしまったのです。しばし、昭和30年代の今思えば幸せな子ども時代を思い出せてくれました。
(2015年9月刊。1200円+税)

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