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カテゴリー: 日本史(戦後)

インターネットによる郷土史の発信(2)

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者  樋口 明男 、 出版  久留米郷土研究会
 筑後部会の樋口明男弁護士は郷土史を丹念に調べて写真とともにインターネットで発信しています、一冊の冊子になっています(2冊目です)。大変小さな活字ですし、たくさんの情報が詰まっていますので、読みにくいという難点はありますが、その豊富な情報と写真に思わず圧倒されてしまいました。
 久留米には、第一次世界大戦に日本軍が参戦し、中国の青島(チンタオ)にあったドイツ軍の要塞を攻略したあと日本に連れてきた、ドイツ兵捕虜を収容していた収容所がありました。全国5ヶ所に4800人のドイツ兵を分散収容したのですが、久留米には、そのうち1300人がいました。
そのドイツ兵たちはスポーツ大会をしたり、コンサートを開いたりしていました。また、ビールを飲み、ハムを製造したりしていたのです。その様子を伝える写真がたくさんあります。収容所には2つの楽団があったというのも驚きです。日本軍は第二次世界大戦での北京大虐殺のような残虐行為をしなかったということですね。相手がドイツ人(白人)だったというのも大きいような気がします。
この青島要塞攻略戦には、私の亡母の異母姉の夫(中村次喜蔵。終戦時に師団長・中将)も参加していて、宮中に呼ばれて天皇へ進講しています。久留米市史にも載っている話です。高良内には今も石碑が建っています。
大牟田の三池炭鉱の歴史についても豊富な写真つきで解説されています。三井港倶楽部は今もレストランとして残っていて、大牟田支部の裁判官の送別会の会場としてよく利用しています。そこに暗殺された団琢磨の小さな銅像があります。新大牟田駅前には巨大な全身像がそびえています。これは少し違和感があります。
三池炭鉱には、私も一度だけ坑底におりて採炭現場まで行ったことがあります。三川鉱の坑口から坑内電車に乗り、マンベルトに乗ったりして採炭現場までたどり着くのに1時間ほどかかりました。もちろん周囲は漆黒の闇です。その怖さといったらありません。ずっと生きた心地はしません。二度と入りたくはありませんでした。
大きな炭鉱災害がいくつも起きていますし、大小さまざまな事故が頻発していました。炭鉱存続というのは、人命尊重の立場からは簡単には言えないことだと、実際に、ほんのわずかの体験から考えています。
著者はまだまだ発信中ですが、こうやって冊子にまとめられると、一覧性があり、身近な郷土史の記録集として歴史をひもとくのに便利で活用できます。
樋口弁護士の今後ますますの健筆を期待します。
(2017年10月刊。非売品)

いくさの底

カテゴリー:ヨーロッパ / 日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 古処 誠二 、 出版  角川書店
 福岡県に生まれ、自衛隊にもいた若手の作家です。前に『中尉』という本を書いていて、私はその描写の迫力に圧倒されました。それなりに戦記物を読んでいる私ですが、存在感あふれる細やかな描写のなかに、忍び寄ってくる不気味さに心が震えてしまったのでした。
 『中尉』の紹介文は、こう書かれています。「敗戦間近のビルマ戦線にペスト囲い込みのため派遣された軍医・伊与田中尉。護衛の任に就いたわたしは、風采のあからぬ怠惰な軍医に苛立ちを隠せずにいた。しかし、駐屯する部落では若者の脱走と中尉の誘拐事件が起こるに及んで事情は一変する。誰かスパイと通じていたのか。あの男は、いったい何者だったのか・・・」
 今度の部隊も、ビルマルートを東へ外れた山の中。中国・重慶軍の侵入が見られる一帯というのですから、日本軍は中共軍ではなく、国民党軍と戦っていたわけです。そして、山の中の小さな村に駐屯します。村長が出てきて、それなりに愛想よく応対しますが、村人は冷淡です。そして、日本軍の隊長がある晩に殺されます。現地の人が使う刀によって、音もなく死んだのでした。犯人は分かりません。日本兵かもしれません。
 そして、次の殺人事件の被害者は、なんと村長。同じ手口です。
 戦場ミステリーとしても、本当によく出来ていると感嘆しながら一気に読みあげました。だって、結末を知らないでは、安心して眠ることなんか出来ませんからね・・・。
(2017年11月刊。1600円+税)

集団就職

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 澤宮 優 、 出版  弦書房
集団就職というと、上野駅におりたつ東北地方から来た学生服姿の一群というイメージです。実際、1967年(昭和42年)に私は東京で学生生活を始め、すぐにセツルメント活動で若者サークルに入って一緒になった若者は青森や岩手から来ていた集団就職組でした。彼らのなかには仲間を求めたり、楽しくいきたい、真剣に語りあう場がほしという人も少なくなかったので、大学生と一緒のサークルに飛び込んでくる若者がいて、また、労働学校で社会の仕組みを学びたいという若者たちがいました。もちろん、そこは男女交際の場、男女の貴重な出会いの場でもあったのです。
ところが、この本は、集団就職は決して東北の専売特許ではなくて、西日本、つまり九州や沖縄からも主として関西方面に集団就職していたことを明らかにしています。はじめに取りあげられたのは大牟田市です。関西方面へはバスで行っていたとのことです。
大牟田市の集団就職のピークは昭和38年(1963年)だった。昭和39年3月23日に大牟田市の笹林公園から中学卒の集団がバスで関西方面へ出発する風景の写真が紹介されています。これは私と同世代です。私は1964年4月に高校に入っています。ちっとも知りませんでした。関東方面へは、大牟田駅から夜行の集団就職列車で旅立ったといいます。
行った先で、彼らがどんな処遇を受けたのか、そして、その後、彼らの人生はどのように展開していったのか、それを本書は追跡しています。
集団就職者とは、高度経済成長が始まった昭和30年前後から、原則として地方から集団という形をとって列車や船などの輸送機関によって都会などに就職した少年、少女などの若者をいう。
昭和52年(1977年)、集団就職は、労働省によって廃止された。
集団就職した人の多くは著者の取材を拒否した。応じた人も、氏名を明かさないことを求めた。それが集団就職の一つの真実を物語る。
歌手の森進一も鹿児島からの集団就職組の一人。まず大阪の寿司屋に就職し、それから17回も職を変えている。
「わたぼこの唄」が紹介されています。わたしもセツルメント時代によくうたった、なつかしい歌です。
フォーク歌手の吉田拓郎の「制服」(昭和48年)という歌が、まさに、この集団就職の状況をうたっているということを初めて知りました。一度きいてみたいものです。
若者たちの大変な苦労を経て日本の経済は発展してきたことを改めて思い知らされました。私にとっても、ありがたい労作です。
(2017年5月刊。2000円+税)

明仁天皇と戦後日本

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者  河西 秀哉 、 出版  洋泉社歴史新書ソ
天皇の生前退位を想定していない皇室典範でいいのでしょうか・・・。
先日の天皇のビデオレターは国民に問いかけました。この発言を天皇の政治的行為とみるのは人道的に許されないことだと思います。天皇に基本的人権の保障はありませんが、天皇という肩書の生身の人間にまで基本的人権を認めないというのには無理があります。
私自身は、天皇制はいずれ廃止してほしいと考えています。生まれただけで差別(優遇)するのは良くないと思うからです。貴族制度の復活なんかしてほしくありませんし、同じように皇族という特別身分もなくしてほしいと思います。
それはともかくとして、現在の明仁天皇夫妻の行動には畏敬の念を抱いています。パラオとかペリュリュー島にまで出かけていって戦没兵士、そして現地で犠牲になった人々を慰霊するなんて、すごすぎます。心が震えるほど感動しました。
明仁天皇がまだ皇太子だったとき、戦後すぐの4年間、クエーカー教徒だったヴァイニング女史(アメリカ人)が家庭教師をつとめていたのですね。クエーカー教徒とは平和主義を標榜する人々なのでした。
1953年に皇太子としてヨーロッパへ外遊したとき、明仁は戦争の記憶が消え去っていないことを実感で認識させられた。
明仁が平民である正田美智子と結婚するのを、母の香淳皇后は反対し、皇族からも強い反対の声があがった。それは、旧来の秩序のなかで天皇制を思考するグループにとっても同じだった。
今回の生前退位に向けた流れに反対しているのは、本来、天皇を敬愛しているはずの「右」側の人々です。要するに、天皇を手玉にとって利用したい人々にとって、国民に親しまれる天皇なんて邪魔者でしかないのです。ですから、今回の天皇の率直な声については耳をふさいで、聞こうともしません。
明仁は、象徴なので政治的な発言をすることは許されていないことを自覚しつつ、問題を質問形式でとりあげて気がついてもらうようにしていると発言しています(1969年8月12日)。
これって、すごいことですね。さすが、です。なるほど、と思いました。
今も、天皇は現人神(あらひとかみ)であるべきだと考えている人たちがいます。つまりは、奥の院に置いておいて自分たちの「玉」(ぎょく)として利用するだけの存在にしようと考えている人たちです。戦前の軍部がそうでしたが、今も同じ考えの人間が少なくないのです。
そんな人々が「開かれた皇室」を非難します。古くは美智子皇后への「批判」であり、今の雅子妃への非難です。天皇や皇太子を直接批判できないので、その代わりに配偶者を引きずりおろそうというのです。
平成の象徴天皇制を特徴づけているのは二つある。戦争の記憶への取り組みと、国民との距離の近さ。どちらも、天皇を「玉」として手玉にとって思うままに動かしたい勢力の意向に真向から反するものです。
天皇制度の存続の是非についても、この際、徹底的に議論したらいいと思います。
そして、それは女性天皇の可否というだけでなく、歴代天皇陵の発掘解禁へすすめてほしいと思います。それこそ、本当に「万系一世」だったのか、科学的に議論したいものです。
(2016年6月刊。950円+税)

三池炭鉱・宮原社宅の少年

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 農中 茂徳 、 出版 石風社 
戦後生まれの団塊世代が昭和30年代の社宅生活を振り返った本です。
炭鉱社宅は筑豊だけではなく、三池炭鉱をかかえる大牟田にもありました。著者の育った宮原社宅は私の育った上官町のすぐ近くです。三池工業高校の表(正門)側と裏(南側)という関係にあります。
私の実家は小売り酒屋でしたから、宮原社宅へ酒やビールを配達した覚えはありませんが、子どものころ、きっとどこかですれ違っているはずです
炭鉱社宅は、基本的に閉鎖社会でした。石塀で囲われていて、出入り口は世話方の詰所があります。その代り、このなかには共同風呂があり、巡回映画もあって、ツケのきく売店(売勘場。ばいかんば)があるので、炭鉱をクビにならない限り、生きていけました。
三池争議の前は、社宅内の人間関係は濃密でしたが、争議が始まり、労働組合が分裂して、第一組合と第二組合とが激しくいがみ合うようになると、大人社会の対立抗争が、子ども社会にまで悪影響を及ぼしてきました。
著者の語る少年時代の思い出話は、社宅生活をしたことのない私にも、十分に理解可能です。というか、そのほとんどを見聞きしています。
 ラムネン玉やパチというのは、この地方独特の呼び方です。それぞれ同じ枚数のパチを高く積み上げ、一番上に狙いを定めて、その一枚だけをフワッと返す(飛ばす)。すると、積み上げた相手のパチを総取りできるのです。これはもう、見事なものです。今も鮮やかに思い出せますが、ここまでくると一級の芸術だと子ども心ながら驚嘆していました。
 六文字、長クギ倒しなど、たくさんのなつかしい子どもの遊びが紹介されています。ただ、なぜかカン蹴りがありません。馬跳びは、中学1年生のとき、学校で休み時間にやって担任の教師に叱られました。まだまだ小学生気分だったのです。
中学生になると、上級生からの脅しに直面したこともあります。それでも、あまり大問題にならなかったのは、1クラスに50人以上いて、13クラスもあったからでしょう。一つの中学校に2000人からの生徒がいると、もう「不良」連中の統制も効かないのです。それでも、同級生のなかから傷害事件を起こして少年院に入ったとか、成人して暴力団に入ったという話をいくつも聞きました。
この本には、父親がウナギ釣りによく行っていて、夏の保存食がウナギのかば焼きだとか、弁当のおかずが毎日ウナギだったという話が出ていますが、信じられません。私にとって、ウナギは夏に大川のおじさん宅に行ったとき、堀(クリーク)干しで捕まえたウナギを食べた記憶があるくらいです。そのとき、じっと見ていたおかげで、私は弁護士になってから、娘が祭りで釣り上げたウナギをさばいて蒲焼をつくることが出来ました。
チャンバラごっこで使った木の枝がハゼの木だったので、ハゼまけ(ひどく皮膚がかぶれる炎症を起こします)にかかったというのは、私も同じ体験をしました。1週間、学校を休みました。だって、顔がお化けのようになってしまったのです。
炭鉱社宅の子どもたちがあまりに勉強していなかったように書かれていますが、実際には、子どもの教育に熱心な親は多かったのです。そろばん塾や寺子屋みたいな学習塾がたくさんありました。住んでいる地域によって階層格差が歴然としていることから、なんとか子どもだけは底辺から上がってほしいと考える親が少なくありませんでした。
昭和30年代の子どもの目から見た炭鉱社宅の生活を生き生きとえがいた貴重な本です。
(2016年6月刊。1800円+税)

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