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カテゴリー: 日本史(戦後)

朝鮮戦争を戦った日本人

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 藤原 和樹 、 出版 NHK出版
朝鮮戦争が始まったのは1950(昭和25)年6月。当初は進攻してきた北朝鮮軍に米韓軍は一方的に敗退していた。それは、アメリカ軍(マッカーサー)が、北朝鮮軍の実力を過小評価し、自国軍を過大評価していた過信によるもの。
中国人民義勇軍は90万人、北朝鮮軍は52万人が死傷した。国連軍として死傷した40万人のうち3分の2は韓国軍と警察。市民の死傷者は300万人以上。
この本は、アメリカの国立公文書館にある極秘文書(1033頁)が開示されたものを丹念に掘り起こしている。アメリカ軍が、朝鮮戦争に従軍していた日本人を日本本土に送り返して尋問した記録(調書)を紹介している。
70人以上の日本人が朝鮮戦争にアメリカ軍と一緒に従軍していた。彼らは在米日本人でも日系人でもなく、生粋の日本人。日本国内でアメリカ軍基地でボーイとして働いていたような人たち。たとえば、両親を失った孤児。アメリカ軍から見捨てられたら、たちまち失業して、生活の目途が立たなくなる20歳前後の青年たちだった。
アメリカ軍の下で働く日本人の給料は良かった。日当450円、月に1万3500円になった。このころ(1951年)の公務員の初任給は6500円なので、倍以上。
アメリカ軍と一緒に朝鮮半島に渡り、朝鮮戦争の最前線に投げ込まれた。そこでは、前線も後方兵站もなく、周囲の全部が敵(北朝鮮軍だったり中国軍)だった。なので、銃をとって戦ったが、あえなく敗退して、アメリカ兵と一緒に捕虜になった日本人もいた。
朝鮮戦争の初期の激戦地がいくつか登場します。日本人たちもその戦場にいたのです。
たとえば大田の戦い。1950年7月14日から21日にかけた戦闘。国連軍(アメリカ軍)の劣勢を象徴するもの。この大田の戦いで第19歩兵連隊(3401人)は650人の死者を出した。そして、ディーン少将まで捕虜となった。あとで捕虜交換でアメリカに戻ったディーン少将には、戦場でがんばったとして名誉勲章が授与された。ここが、旧日本帝国軍との圧倒的な違いです。
多富洞(タプドン)の戦いは、1950年8月1日から9月24日まで55日間にわたって続いた激戦。9月15日の仁川上陸作戦によって、一気に形勢が逆転した。『多富洞の戦い』(田中恒夫、かや書房)という430頁の本に戦闘の推移の詳細が紹介されています。その過程での「架山(カサン)の戦い」においても日本人が戦死したのでした。
日本人を朝鮮戦争に参加させることは、日本人の出国を原則として禁じていたGHQの占領政策に違反している。それで、日本に送還した。兵士だった日本人を尋問したのは、アメリカ軍に従軍した理由を記録して、日本人の口を封じることで、従軍を許可したアメリカ軍の部隊司令官を守るためだった。
公文書館の尋問記録とあわせて、アメリカまで生存している元米兵にインタビューしています。朝鮮戦争の地上戦に日本人の青年が70人ほども参加していたこと、強制ではなく、いわば食べるために志願していったことなどの事実を知ることができました。世の中は、本当に知らないことだらけです…。
(2022年12月刊。税込2090円)

神々は真っ先に逃げ帰った

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 アンドリュー・バーシェイ 、 出版 人文書院
日本の敗戦時、満州にいた日本軍のうちソ連軍の捕虜となったのは61万人、文民で捕縛された抑留者は7千人だった。
敗戦直後、朝鮮にあった挑戦神宮の宮司たちは、御神体を直ちに東京へ空輸した。
8月16日(もちろん1945年)、朝香宮(鳩彦王)、閑院宮(春仁王)、竹田宮(恒徳王)の3人は東久邇宮(稔彦王)とともに皇居内に呼び出された。そして、閑院宮は南太平洋に、朝香宮は中国に、竹田宮は満州に出向き、天皇の「聖旨」を伝え、武装解除に応じるよう説得に行くことになった。
竹田宮は家族を新京に残していたので、8月10日、家族を東京に呼び戻していた。竹田宮はシベリア抑留を紙一重の差で免れた。
ソ連が参戦したとき、関東軍の大半は通信遮断によって戦闘に入らないか、入っても遅すぎた。ソ連軍は、155万人の地上軍、戦車5千両、航空機5千機で侵入してきた。ソ連軍が攻撃を開始して1週間のうちに日本軍5千人が死に、終了までに4万8千人が亡くなった。
関東軍は、「根こそぎ動員」によって、「中抜け」であり、大多数は古兵としての10代、30代そして40代から成る25万人だった。人員の穴埋めでしかなかった。
戦争終結時、ソ連は400万人の捕虜をとった。ドイツ兵200万人、日本兵60万人、ハンガリー兵60万人…。すなわち、ソ連の人口の7分の1にあたる2300万人が戦争で亡くなっていた。それを穴埋めした。
元日本兵の日本送還は1946年5千人、1947年2万人、1948年17万人、1949年8万人、1950年7500人だった。
著者はアメリカの大学教授であり、画家の香月泰男、評論家の高杉一郎、詩人の石原吉郎という3人のシベリア抑留体験者を論じながら、シベリア抑留とは何だったのかを論じています。
(2020年5月刊。3800円+税)

従軍看護婦

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 平松 伴子 、 出版 コールサック社
従軍看護婦は、戦後、兵士とちがって「軍人恩給」は支給されなかった。なぜか…。
問題が表面化して、1978年から支給されるようになったが、それは恩給ではなく、慰労給付金。これは国庫補助による日本赤十字社から支給された。そして、支給対象者は、従軍した日本赤十字社の看護婦の5%にもみたなかった。うひゃあ、それはひどい、ひどすぎますよね。
恩給を出せない理由を厚生省(当時)は、次のように説明した。
従軍看護婦の勤務実態がよく分からない。何人がどこに従軍したのか、どこで何人死んだのか、それは本当に戦死だったのか…。厚生省には詳しい記録がないから…。
いやはや、なんということでしょう。しかも、厚生省は、従軍看護婦には招集令状ではなく、招集状が出ていただけ、つまり天皇の命令ではなかった、断ることもできた、つまり、自分の意思で戦場に行った、自ら進んで、戦地に赴いたのだ…。それは、なるほど、一面の真理だった。
男は兵士に、女は従軍看護婦に行って、お国のために戦う。若い人の多くがそう考えていた。なので、親が止めるのを振りきって女性たちは戦場へ出ていった。しかし、それでも兵士とちがうと、差別するだなんて…。
戦場に行くのは男も女も当然だし、それはまた大きな「名誉」でもあるという心情がつくりあげられていたのだ…。もし従軍看護婦がいなかったら、傷病兵の治療や世話は誰がしたのか。従軍看護婦の名簿がつくられず、その勤務状況を把握しなかったというのは国の怠慢ではないのか。日本赤十字社は、国の命令で看護婦を戦場に送り出したはず。だったら国が責任をとらないのは、おかしい…。
そして、敗戦後、中国大陸に残っていた従軍看護婦のなかからソ連兵の慰安婦として供出されていった。それは病院長(陸軍中尉)と事務長(陸軍少尉)が、自分たちの命を守るための命令だった。そして、慰安婦とされた女性の多くは病死し、自死した。ところが、陸軍中尉と少尉は無事に日本に帰国し、やがて警察予備隊に入り、そして自衛隊の幹部に出世していた。
戦後、従軍看護婦のなかに慰安婦になることを拒否して集団自決した人たちがいたなんて、初めて知りました。小説という形をとって、その状況が詳しく再現されています。真実をもっともっと知るべき、知らされるべきだと痛感しました。
(2020年8月刊。1500円+税)

女たちのシベリヤ抑留

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 小柳 ちひろ 、 出版 文芸春秋
戦前の満州にいた日本兵がソ連軍によってシベリヤに連行され、極寒の地で過酷な労働を強いられたことはよく知られていますが、この本は、シベリヤに連行・抑留された日本人看護婦など日本人女性も多数いたことを発掘しています。
1945年8月、満州にいた日本軍兵士60万人がソ連の収容所に連行され、強制労働に従事された。これが、いわゆるシベリヤ抑留だ。そして、実は、そのなかには数百人もの日本人女性がいた。たとえば、チャムス(佳木斯)第一陸用病院の看護婦150人。
看護婦は二つの系統があった。陸軍看護婦と日赤看護婦。日赤看護婦になるのは非常に難しく、合格倍率は、ときに100倍をこえた。当時の軍国少女たちにとって、憧れの存在だった。
この本には「独ソ戦の直後に満州に攻め込んだソ連のしたたかさ」という間違った歴史記述があり、また、シベリア抑留された元日本兵のなかの「民主化」グループについても偏見にみちた記述としか言いようのない決めつけがあったりして、歴史認識に欠けるところが気になるのが残念でした。しかし、それでもシベリヤに抑留されていた日本人女性の存在、その生活状況を掘り起こした点は高く評価したいと思います。
シベリヤで日本人女性はたくましく生きのびたことを紹介しているのには目を開かされました。やはり、女は強しです。
男性が栄養失調になってフラフラしているときにも、同じものを食べているのに女性はやせなかった。同じものを食べて、男性は下痢したり病気したりしたが、女性は病気しなかった。食べる量が少なくてもガマンできた。女性は、体力も気力も男性に比べて強かった。男性は、気持ちでも体力でも、ポキッと折れてしまった。ただし、男性は、「あの食事で、あの重労働じゃ、耐えられない」のもあたりまえだった。
班単位でまとまってシベリヤに抑留されたのはチャムス第一陸軍病院467班だけだったが、少なくとも450人以上の看護婦が満州でソ連軍の捕虜とされた。
引揚第一便は1946年11月に日本に帰国したが、そのなかにはチャムス第一陸軍病院の看護婦20人もふくまれていた。ソ連は国際社会からの非難をかわすために、人道的姿勢をアピールすべく女性を第1号帰還者リストに加えたのだった。
NHKのBS番組を本にしたものです。シベリヤ抑留に関心のある人には欠かせない本だと思いました。
(2020年3月刊。1700円+税)
 雨上がりの日曜日、午後から庭に出て畑仕事をしました。朝のうちにアスパラガスを4本収穫していましたが、その隣に大きなアマリリスが見事に咲いていて、つい、「ややっ、キミもいたんだね」と叫びそうになりました。去年も咲いていましたが、今年ははるかに大きいのです。
 ジャガイモ畑の雑草を孫と一緒に取り除きました。隣の畑のジャガイモは地上部分が盛大に葉を大きく伸ばしていますが、私の畑は、それに比べると、いかにも貧相です。でも、それは去年もそうでした。それでも、地中のジャガイモは、ちゃんと大きくなってくれましたので、今年も、きっと地中では大きな実をつけてくれることと固く信じています。
 畑仕事を終えようとすると、梅の実がいくつか落ちていました。来週は梅の実ちぎりをしなくてはいけません。梅酒用です。
 夕食のとき、2歳の孫がアスパラガスをむしゃむしゃ食べてくれました。
 夜7時半、ようやく暗くなりましたので、毎年恒例のホタル探索に出かけました。歩いて5分足らずのところの小川にホタルが出るのです。いるかな…、あっ、いた、いた。いました。ほのかに明滅するホタルが、フワリフワリと飛びかっています。今年は、コロナのせいか、「ホタルの里」の手入れがされていないため、そこより、むしろ近辺の小川あたりにホタルをたくさん見かけることができました。
 歩いて5分もかからないところにホタルを見て楽しめるのは、田舎暮らしの良さのひとつです。

朝鮮戦争に「参戦」した日本

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 西村 秀樹 、 出版  三一書房
日本の戦後復興に朝鮮戦争が大きく寄与したことは歴史的な事実です。
その朝鮮戦争に、実は、日本人が兵士として、また後方支援(掃海活動)などに参加していた事実が詳しく紹介されています。
そして、アメリカ軍の朝鮮での軍事行動を妨害すべく、日本国内で若者たちが起ちあがったのでした。それが吹田事件であり、枚方(ひらかた)事件でした。
1905年、セオドア・ルーズベルト大統領と桂太郎首相は秘密協定を結んだ。これは、日本はアメリカがフィリピンを統治することに同意し、アメリカは日本が韓国に対して保護監督権をもつことを承認するというもの。まさしく、帝国主義の時代だった。
韓国併合条約は、形式としては韓国の皇帝が日本の天皇に併合を申し出て、日本の天皇がこれを受け入れたという「任意」を装っている。しかし、その実態は、日本が軍隊や警察をつかって徹底的に弾圧した結果であった。
1895年、日本は明成皇后(閔妃・ミンピ)暗殺事件を起こした。一方的に宮廷に押し入り、皇后を殺害したうえ、その遺体を焼却したのですから、日本人の行為は残虐そのものです。立場を逆にして、もし明治天皇の皇后が隣国人に暗殺されたら日本人はどう思うだろうか・・・。本当に、そのとおりです。加害者の子孫は忘れても、被害者の遺族は忘れることができるはずはありません。
日本政府は、日本人が朝鮮戦争にどのように関わったのか正式に質問されたとき、「正確に事実関係を示すことは困難」だとして、きちんと回答しなかった。
たとえば、朝鮮戦争のときに日本人がかかわった海上輸送は、その指揮官はアメリカ人であって、その実情を明確にされていない。乗組員の日本人には、作戦の全容は教えられなかった。少なくとも8000人もの日本人が朝鮮戦争時に、海上輸送に従事していた。
朝鮮戦争に参加していたイギリスは1万4000人、タイとカナダがそれぞれ6000人。そうすると、日本人が8000人いたのは、比較すると、とても多いことになる。
在日韓国人のなかでは、自願軍644人が結成された。それに対抗するようにして、6月29日、北九州では若者70人が日本兵を望んだ。
日本の特別掃海隊は、2か月間で作戦を終了した。任務である機雷処理は27個を遂行した。
そして、2隻の掃海艇を失い、死者1人、重軽傷者という大惨事があった。
日韓関係がきわめて悪化している今日の状況を考えても、大変時宜にかなった本だと思います。ぜひ、ご一読ください。
(2019年6月刊。2500円+税)

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