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カテゴリー: 日本史(戦後)

テレビは戦争をどう描いてきたか

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:桜井 均、出版社:岩波書店
 第二次大戦と日本人の関わりをテレビがどう映像で取りあげたのかを後づけた貴重な本です。ハーバート・ノーマンは次のように語った。
 みずからは徴兵制軍隊に召集されて不自由な主体である一般日本人は、みずから意識せずして他国民に奴隷の足枷をうちつけるエージェントになった。
 なーるほど、言い得て妙の指摘だと思います。
 中国戦線に配置された兵士たちの多くは劣勢の太平洋(南方)戦線への転戦を命じられた。そこでの苛酷な転戦と敗北の過程で、被害体験を蓄積して生還した兵士たちは、中国大陸での加害の記憶をすっかり相殺していた。
 うむむ、そういうことだったのですかー・・・。
 井上ひさしが『父と暮らせば』で書いた言葉が紹介されています。すごい言葉です。
 他者の犬死にの上に生きのびた人間が、犬のように生きることは許されない。
 犬死にを強いたもの、これから犬死にを強いるかもしれないものに立ち向かうしかない。
 そうなんです。平和憲法をなくして、日本を戦争できる国にしたら、またぞろ徴兵制が復活します。若者があたら犬死にさせられるなんて、まっぴらごめんです。今のうちに憲法9条2項を守れと叫んでたたかいましょう。
 レイテ島の戦いで、日本兵8万4000人のうち8万1500人、97%が戦死した。軍上層部は、無謀な命令を出しておきながら、部下に抗命権を一切あたえず、兵に武器弾薬食糧を補給せず、投降する自由を認めなかった。
 そして、司令部と第一師団の主力800人は隣のセブ島に転進した。1万人以上の兵がレイテ島に置き去りにされた。私はレイテ島に行ったことがあります。密林なんてどこにもありませんでした。苛烈な戦火にあって、密林が消えてしまったのです。こんなところで多くの日本人の若者たちが餓死、病死そして殺されていったのかと、不思議な気がしました。いま日本企業がレイテ島にも進出しています。私は弁護士会の調査団の団長としてODAでたてられた三菱重工業の地熱発電所を視察しに行ったのです。
 大岡昇平の『レイテ戦記』には、フィリピン人に日本軍が何をしたのかという視点が欠落している、そんな指摘もなされています。なるほど、と思いました。
 昭和天皇は戦争の原因として次のように述べたそうです。
 わが国民性について思うことは、付和雷同性の多いことで、これは大いに改善の要があると考える。かように国民性に落ち着きのないことが、戦争防止の困難であった一つの原因であった。軍備が充実すると、その軍備の力を使用したがる癖がとかく軍人の中にあった。
 つまり、付和雷同する国民と軍部の独走、この二つが結合したところに戦争の原因があったというわけです。そこには、天皇自身の戦争責任の自覚というものはありません。さらに、次のような天皇の言葉には驚かされてしまいます。
 負け惜しみと思うかもしれぬが、敗戦の結果とはいえ、わが憲法の改正もできた今日において考えてみれば、わが国民にとっては勝利の結果、極端なる軍国主義となるよりも、かえって幸福ではないだろうか。
 何千万人という多くのアジアの人々を侵略していった日本軍が殺し、また何百万人もの日本人が死んでいった戦争の悲惨さを自らの問題としてまったく自覚していない、いわば単なる傍観者的評論家としての言葉でしかありません。呆れ驚きます。
 昭和天皇を戦犯としなかった功績から、アメリカ軍のフェラーズ准将に対して1971年、日本政府は勲二等瑞宝章を贈った。この事実を知ると、日本が戦争責任をいかにあいまいにしているか、改めて実感させられます。質量ともに大変ずっしりとボリュームのある本でした。

「聖断」虚構と昭和天皇

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:纐纈 厚、出版社:新日本出版社
 戦前のジャーナリズムには、天皇、革命、セックスという三つのタブーがあった。このうち、戦後に残ったものは天皇のみであった。
 たしかに、革命なんて今どきありふれた言葉になっていますね。もっとも、それは社会主義革命というものではなく、単なる変化をオーバーに言ったに過ぎないつかわれ方のようですが・・・。セックスなんて、どこまで隠されているのか、今やまったく分かりません。では、天皇タブーは続いているのか。
 毎週のように週刊誌では今も雅子さんバッシングが続いていますよね。病気になった雅子さんを、もっと温かく見守ってやったらいいと私なんか思うのですが、毎回毎回、容赦なく暴きたて、叩いています。あれって、女性天皇、女帝を認めないためのキャンペーンだという指摘がありますが、まさしく意図的なものですよね。皇室が自分の意のままに動かないときには断乎許さないぞという右翼の一潮流のキャンペーンなのでしょう。これも、やはり天皇タブーの変形の一つなのでしょう。
 このところ、昭和天皇の「聖断」によって軍部の独走を抑えて終戦にもちこむことが出来た。昭和天皇は平和を愛する平和主義者だったのだという論調がマスコミの一部にすっかり定着した感があります。しかし、それって本当でしょうか・・・。
 この本は天皇の「聖断」なるものが、まったくの虚構であることをしっかり暴き出しています。格別目新しい事実ではありませんが、昭和天皇を平和主義者とあがめる昨今の風潮に水を差すものであることは間違いありません。
 昭和天皇がしたことは、「聖断」でも英断でもなく、国体護持つまりは自己保身のために不決断を繰り返したということ。これが本書の結論です。この本を読むと納得します。
 アジア太平洋戦争は、天皇の戦争として開始された。天皇とその周辺によって、その最初から最後まで、統制された戦争であった。天皇の意思と命令によって開戦し、天皇の意思と命令によって「終戦」、つまり敗戦した。ただし、終戦決定過程における天皇の不決断は、大いなる戦争犠牲者をうみ出した。
 昭和天皇は敗戦後の回想において、東條英機の「憲兵政治」について、「軍務局や憲兵が東條の名において勝手なことをしたのではないか。東條はそんな人間とは思わぬ。彼ほど朕(ちん)の意見を直ちに実行に移したものはない」
 東條は数多くの高級軍事官僚のなかでも、天皇への忠誠心が際だって厚く、その東條に昭和天皇は最後まで深い信頼感を抱いていた。
 東條に日米開戦時の戦争指導内閣を担わせ、この忠実な軍事官僚であった東條を通じて政治指導および戦争指導を進めてきた昭和天皇は、最後まで東條に未練を残していた。昭和天皇は、原則的には明確な戦争維持論者であり、これまでと同様に東條内閣の下で進められることを期待していた。
 昭和天皇は、レイテ海戦における海軍特攻機の投入とその過大に伝えられた戦果について、「そのようにまでせねばならなかったのか。しかし、よくやった」と感想を述べた。
 昭和天皇は、特攻機による攻撃など、捨て身の戦法までつかって米軍に一撃を与え、少しでも有利な「終戦」工作条件づくりのなかで戦争終結にもちこもうとしていた。
 米軍が沖縄に上陸したあとの4月3日、昭和天皇は、参謀総長に対して、「現地軍はなぜ攻勢に出ないのか。兵力が足らなければ逆上陸もやってはどうか」と、持久戦法ではなく、積極攻勢に出るよう要求した。
 昭和天皇が終戦工作に関心をもち始めたのは、5月に入って、沖縄で日本軍の敗北が決定的となり、5月7日にドイツが連合軍に無条件降伏してからのことである。
 「聖断」のシナリオは、日本の国土と国民を戦争の被害から即時に救うために企図されたものではない。ただ、戦争における敗北という政治指導の失敗の結果から生ずる政治責任を棚上げにするために着想された一種の政治的演出にすぎない。
 もし国民のためだったのなら、即時の戦争終結が実行されてよかった。日本政府は、国体護持の確証を得ようとして、その一点だけのために2ヶ月以上の時間を費やした。
 昭和天皇の「聖断」が8月13日ではなく、もっと早くされていたら、4月1日の沖縄への米軍上陸と沖縄戦はなく、「鉄の暴風」と呼ばれた壮絶な戦いのなかで15万人もの死者を出すことはなかったはず。昭和天皇は「もう一度戦果を挙げてからでないと」と周囲からの終戦のすすめを一蹴してきたのだった。昭和天皇の戦争責任は重い。
 私は、今の平成天皇は昭和天皇の戦争責任を十分に自覚しているのではないかと受けとめています。しかし、周囲がそのことを率直に認めさせないようです。

硫黄島の兵隊

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:越村敏雄、出版社:朝日新聞社
 硫黄島は、「いおうじま」と呼ぶと思っていましたところ、昔は、「いおうとう」と呼んでいたそうです。アメリカによる占領を経て、アメリカ軍の呼び方が広まった、というわけです。
 1945年2月からの1ヶ月間の戦いで、日本軍は2万1000人のうち助かったのは1000人のみ。戦死者2万人です。今も、その遺骨の大半は島に眠っています。日本政府は技術的困難を理由として本格的な遺骨収集を放棄しています。
 対するアメリカは参加した将兵は11万人、上陸したのは6万1000人。そのうち戦死者6800人、戦傷者2万1800人、死傷者の合計2万8000人でした。
 アメリカ海兵隊の168年間の経験のなかで、もっとも苛烈な戦いだった。
 穴掘り作業は、まさしく噴火口の中で穴を掘るようなものだった。熱気をおびた亜硫酸ガスが、十字鍬で掘り起こした窪みから、猛烈に噴き出した。
 この島は、全島、どこを掘っても、強い熱気と亜硫酸ガスが噴き出た。海中に浸って、足の爪先で砂を掘ってみても、熱い地熱を感じた。
 1000人ほどしか島民が住めなかった理由の一つは水にあった。雨はきわめて少なく、4、5月にくる雨期が終わると、雨はめったに降らない。
 ウグイスとメジロは島にふんだんにいた。人が近寄っても、まるで無視する。気ままについばみ、気のはれるまで歌って生きている。
 断崖の岩盤はおそろしく硬い。下痢患者の打ち込む十字鍬(くわ)は、はね返って歯がたたない。岩の割れ目を見つけて十字鍬を打ち込み、わずかずつ切り崩した。のみもつかって石屋のように岩を剥がした。削岩機も何もないから、すべて人の手で作業する。
 硫黄と塩が身体に蓄積されてくると、猛烈な下痢が蔓延した。やせこけた身体は恐ろしい速さで衰弱した。重労働と不眠が容赦なく拍車をかけ、この島独特の栄養失調症になる。
 夜となく昼となく残忍に苦しめるのは、すさまじい喉の渇きだった。しかし、それを癒すものは、塩辛い硫黄泉しかない。
 異様な臭いの立ちこめる生ぬるい塩水を飲むしかない。それを飲んでも清涼感は味わえない。どろりとして後味が悪く、口腔から鼻にかけて、強い吐き気を誘う硫黄の臭みがむんと籠もって、いつまでも離れようとしない。それが染みついた喉や舌が、飲みこむ瞬間に拒絶反応を起こして震える。そのあとは、通りみちに刺すような辛みが、震えるような吐き気と一緒に残る。これがまた、喉の渇きをかきたてる。
 どの兵隊も、目尻や鼻や唇の両端が食い入るようにへばりついたハエの塊で黒い花が咲いたようになった。盛ったばかりの飯と味噌汁は一瞬のうちに真っ黒になった。全島がハエの島と化した。明るい間じゅう、真っ黒に渦巻くハエのなかでの生活である。日がくれると、島を覆うすさまじいハエの群れは一斉に木の葉や草葉の裏にとまり、姿を消す。
 37度あまりの熱で、日に10回ほどの下痢症状は、この島では健康体である。それより健康なものは、ここでは異常だった。
 硫黄島に補給などのために飛んできた飛行士が見たのは、まさしく人間ではない、火星人だった。どの兵士もまっ黒で、皮膚につやがなく手も足も骨と皮ばかりにやせ細っていた。そのため頭が大きく見え、眼がギョロギョロと輝いていた。
 この本の著者は、まさしく奇跡的に助かっています。日本の飛行機が補給物資を島に届け、本土への帰路に負傷兵をのせていったのです。著者がなぜそのなかに選ばれたのかについては何も書かれていません。
 最後に、著者の次のような言葉が紹介されています。
 戦争を知らないで一生を終えたら、これほど幸せなことはない。これから同じような死に方をくり返すとすれば、彼らの死は徒労でなくて、何でありましょう。
 まったく同感です。強い共鳴を覚えました。

十七歳の硫黄島

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:秋草鶴次、出版社:文春新書
 硫黄島の戦闘が体験者によって刻明に再現されています。地獄のような地底で凄惨な逃避行を続けていく執念を読んで、腹の底から唸り声がわきあがってきました。感嘆、驚嘆、なんと言うべきでしょうか。よくぞここまで思い出して書きとめたものだと感心するばかりです。なかでも、地底の臭いの描写が私にはもっとも印象的でした。
 出征の前の晩。祖母はこう言った。
 死ぬでないぞ。死んで花実が咲くものか。咲くなら墓場はいつでも花盛りだ。
 著者は17歳の通信員。薄暗い壕内に寝起きする。通信科の隅にはバケツの水が用意されている。水番がいつも見張っている。一度に小さな茶碗に一杯だけ飲める。これは雨水。しかし、硫黄ガスの臭気と室温を溶かしこみ、ゴミや微生物も見え隠れしている。そんな水を一度でいいから思い切り飲みたいと願っていた。
 壕内の衛生状態は日一日と悪化した。微生物や虫の繁殖はものすごい。蚊とハエ、蛾は昼夜なくとび回り、のみとしらみもどんどん増えている。排泄物の累積に厠もたちまち満杯となる。
 アメリカ軍は上陸本番の前、2月18日に海岸線に緑、赤、黄、碧(あお)の小旗を立てた。部隊ごとの上陸地点を示す目印だ。
 アメリカ軍が本格的に上陸したのは2月19日。午前10時までに1万人が上陸した。それまで日本軍は一切反撃しなかった。突如として日本軍のラッパが鳴って反撃が始まった。著者は、この様子をずっと見ていたのです。
 彼我の距離は1キロ足らずの地に、双方あわせて5万をこす人間の殺戮戦がくり広げられた。10時間に及ぶ膠着戦だった。1分経過するごとに3人が死に、1メートルすすむたびに1人が死んだ。
 2月24日、早朝摺鉢山の山頂に再び日章旗が翻っていた。
 そして翌25日早朝、またもや摺鉢山に日の丸が朝日を浴びて泳いでいた。
 ええーっ、本当でしょうかー・・・。
 硫黄島攻防戦におけるアメリカ軍の総被害の7割は2月27日までのもの。あとは局地戦に移った。
 日本軍は、この1週間、飲まず喰わずで、兵器以外に手にしたものはない。
 壕内に霊安所がある。眼前に青紫色のあやしげな炎のようなものが立ち昇った。そしてすぐに消えた。ローソクのような燃え方に似て、ボボーッと燃えては消え、ボボーッと燃えては滅している。自分のまわりで消えては燃え、灯っては消えている。まるで蛍の一群のようだ。燐に取り巻かれてしまった。
 死が近い者はうわ言をいった。
 「今日は休みだよな。面会人が来ることになっているんだ。もう駅に着いているかなあ」
 「まだ戦争、やってんのかい?もうやめようって、みんなが言ってるよ」
 そうなんですよね。私は、このセリフを紹介するだけでも、この本の書評をのせる価値があると思いました。
 著者は、短かく見ても一週間、長くみたら半月は水一杯も口に入れていませんでした。それでも運よく、缶詰をあけて食べ、サイダーを飲むことができました。
 自分の傷口に丸々と太った真っ白い蛆(うじ)がいた。口中に入れると、ブチーッと汁を出して潰れた。すかさず汁を吸いこんだ。皮は意外に強い。一夜干しでもあるまいに。しばらくその感触を味わった。
 うえーっ、そ、そんなー・・・。これって正気の沙汰ではありませんよね。まさしく地獄のような地底での話です。
 木炭も食べました。軟らかそうで、うまそうだ。急に甘味を思い出し、思わずかじりついた。・・・。すごーい。
 5月17日まで島内を逃げまわり、気を失っているところをアメリカ軍の犬に見つけられ、捕虜収容所のベッドに寝ているところで目がさめたのです。まさしく九死に一生、奇跡的に助かったわけです。
 あの戦争からこちら60年、この国は戦争をしないですんだのだから、おめえの死は無駄じゃねえ、と言ってやりたい。
 著者の言葉です。本当にそのとおりです。この60年の日本の平和を守ってきた日本国憲法(とりわけ9条2項)を変えるわけにはいきません。

「特攻」伝説

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:原 勝洋、出版社:KKベストセラー
 第二次大戦中に、日本軍のカミカゼ特攻隊がアメリカ軍の艦船に体当たりしていった事実はよく知られています。この本は、アメリカ・メリーランド州にあるアメリカ国立公文書館?にある太平洋方面における戦闘記録と写真を掘り起こした写真集です。
 日本軍の陸海軍機がアメリカ軍の艦船に体当たりしていく状況をとらえた写真360枚が紹介されています。まさしく迫真の状況です。
 アメリカ軍は、カミカゼ特攻機が飛来し、爆弾を抱いて突入する姿、艦に体当たりする瞬間、被害箇所を克明に撮影し、記録していたのです。
 61年前の若い日本人青年たちが、体当たりの一瞬に人生のすべてを燃焼させていった記録写真です。彼らの出撃前のあどけない顔写真もあわせて紹介されています(こちらは日本軍がとった写真です)。
 この本によると、特攻機の命中率は語られていた以上に良かったようです。アメリカ軍の作成した資料によると、1944年10月、特攻機の命中率は42%、至近弾として損害16%で、合計58%。これによる損害として、命中した艦船は17隻、沈没したのは3隻。1944年10月から1945年3月までの間に、特攻が356回実施され、命中したのが140回で39%、命中と至近弾損害をあわせると56%にもなっている。命中した艦船は130隻で、沈没したのは20隻。沈没した船は1944年12月に11隻だったが、1945年に入ると、1月3隻、2月1隻、3月にはゼロとなっている。
 著者は、この写真と記録を見て、平和の時代に生きて良かったと実感させられたと述べていますが、私も本当にそう思いました。あたら有能な青年の前途を奪った戦争をくり返させてはなりません。
 アメリカ軍艦船「イントレピッド」の飛行甲板に突入した体当たり機操縦の特攻壮士の遺体写真について。人間の生命を犠牲とすることを前提とする特攻。この現状を知ってなお、「特攻攻撃は操縦する特攻壮士の崇高な意志を信頼してはじめて成立するもの」などと言えるだろうか。遺体写真のキャプションとして、著者は、このようにコメントしています。同感です。
 特攻は特別攻撃隊の略語であり、これは確実な死を意味していた。まだ一縷の生還の望みがある決死隊とは、まったく違うもの。
 それにしてもよく撮れたと思える写真です。はるか上空にいる日本のカミカゼ特攻機。艦に体当たり寸前の特攻機。本当に鬼気迫るものがあります。見上げるアメリカ軍兵士の顔が恐怖でひきつっているのまで判読できます。
 この特攻攻撃の自己犠牲は、アメリカ海軍の将兵にとっては理解のできない、身の毛もよだつ行為だった。アメリカ軍の検閲当局は、体当たりカミカゼによる被害関係情報を一切禁止した。
 出撃直前の特攻隊士の集合写真のなかには笑顔の青年も認められます。緊張した顔つきの兵士が大半ですが、それほど自己犠牲を当然視できていたのでしょう。教育の効果とは本当に恐ろしいことです。
 この本にはアメリカ側の記録だけでなく、日本側の出撃記録によって、いつ、どこから、誰が出撃していったのか、その氏名も明らかにされています。ですから、この写真にうつっているカミカゼ特攻機にのっているのは誰だろうという推測も書かれています。
 亡くなった日本人青年の冥福を祈ると同時に、こんな時代(事態)を再び招かないためにも、平和憲法を守り抜きたいと決意したことでした。
 いずれにせよ、手にするとずしりと重たい写真集です。

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