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カテゴリー: 日本史(戦後)

盗聴二・二六事件

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:中田整一、出版社:文藝春秋
 2.26事件を新たな視点で掘り下げた本だと思いました。
 2.26事件が始まると、逓信大臣の命令のもとに電話の盗聴が開始された。これは陸軍省軍務局との協議のうえのことだった。しかし、実は、盗聴は憲兵隊によって事件の1ヶ月以上も前から始まっていた。そして、試作段階にあった円盤録音機をつかうことになった。戒厳司令部、陸軍省、逓信省が協力し、了解のもとで盗聴され、録音された。
 2.26事件のとき、戒厳令はすんなり施行されたのではない。この機に乗じて軍部が軍政を布き、政治的野望の実現を図るのではないかと警戒する人々がいたからである。たとえば、警視庁は強く反対した。海軍も当初は反対した。
 西田税は5.15事件(1923年)のとき、陸軍側の参加を阻止したことから、計画を他にもらす恐れがあるとして血盟団員からピストルで撃たれた。2.26事件については、計画から決行・終結に至るまで終始、部外者の立場にあり、むしろ事件を起こすのには反対だった。
 盗聴記録によると、誰かが北一輝の名を騙って電話をかけている。謀略が進行していた。偽電話をかけたのは戒厳司令部の通信主任の濱田大尉であった。
 陸軍上層部は、北一輝や西田税ら、外部の民間人が2.26事件の首謀者であるという図式に固執していた。2.26事件の軍事裁判にあたっては、青年将校に激励の電話を入れたにすぎない北一輝と西田税を極刑に処すというのが初めから陸軍中央の方針であった。北と西田が悪いんだ。青年将校は、単にくっついていっただけ、というわけである。裁判長は北と西田を首魁とするには証拠不十分であるとした。死刑に反対する裁判長と死刑相当という残る4人の判事とで見解が分かれた。
 そのため、10ヶ月も審理は中断し、昭和12年8月13日、弁論再開、証拠調べ終了、8月14日、判決宣告、8月19日に死刑が執行された。銃殺刑であった。北は54才、西田は36歳だった。同年9月25日、真崎甚三郎大将には無罪の判決が下された。
 これは、いかにもひどい政治的な裁判ですよね。判決宣告して、わずか5日後に死刑執行だなんて、まさしく日本は軍部独裁体制にあったのですね。おー怖い、怖い。
 陸軍は、事件処理に名をかりて、着々と軍部独裁の政治体制を確立していった。青年将校らのテロリズムは、軍国主義の暴走に格好の口実を与える結果となった。
 防衛庁が防衛省に昇格してしまいました。アメリカ軍に隅々まで統制されている自衛隊は、自民党の改憲案(新憲法草案)では自衛軍になるということです。軍部独走を果たして止められるでしょうか。軍事裁判所は司法権の独立を貫くことができるでしょうか。心配になるばかりです。

戦場に舞ったビラ

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:一ノ瀬俊也、出版社:講談社
 第二次大戦中、日本軍とアメリカ軍が戦場でまいたビラ、伝単と言います、を収集して、その効果を検証した異色の本です。
 日米両軍とも、伝単の作成には力を注いだ。日本は陸軍参謀本部に、アメリカはマッカーサー軍司令部に、それぞれ専門の部署をおいていた。
 アメリカ軍は1942年(昭和17年)4月、空母ホーネットから長距離飛行が可能な陸軍の双発爆撃機B−25を16機発進させ、東京・横浜を空襲して中国大陸に着陸させるという奇策を用いた。このとき、アメリカ軍は「桐一葉」伝単を日本上空にまいた。
 「桐一葉、落ちて天下の秋を知る」にちなんだ伝単であり、「落つるは軍権必滅の凶兆なり」などと書かれていた。この伝単を考案したのは、戦前のアメリカで対日反戦運動を展開していた、後の評論家・石垣綾子だったという。
 ソロモン諸島に取り残された日本兵は、日本の大本営の大げさな戦果発表よりもアメリカ軍のまくビラの方がよほど信頼性があることをよく知っていた。そこでは、無気力・不感症になったような兵たちがアメリカ軍のまく伝単を拾っては貼りあわせて花札をつくり、毎晩、賭博を開帳していた。
 日本軍の士気の衰えがよく分かりますね。
 グアムにいた日本兵は、終戦になっても日本が降伏したことを知らず、ジャングルのなかにいて、敵から奪った手紙やごみという「意図せざる伝単」を通じて正確な情報を手に入れ、それによって自ら情勢を判断して投降した。
 横井庄一もジャングルのなかにいてアメリカ軍による投降勧告放送を聞いていたが、捕虜をつかったアメリカ軍の謀略だと解釈して応じなかった。このとき、日本陸軍の参謀自らが放送していたら応じていただろう。横井庄一は 1972年、28年間のジャングル生活の末にやっと投降した。
 1972年のことは今も覚えています。驚きでした。日本の戦後は終わっていないというのを実感させられた瞬間でした。
 日本軍に投降をすすめる伝単には、投降の「作法」を絵で示すものもあった。投降する日本兵がふんどし一つの裸で出てくる場面を当時の記録映像で見ることがある。それは、こうした伝単や投降放送の指示にもとづくものなのである。
 なるほど、投降するにもお互い生命をかけていたのですね。伝単の意義をしっかり理解することができました。
 わが家の田んぼに水が張られ、田植えが始まりました。蛙たちが一斉に鳴きはじめ、夏到来を告げています。

ぼくは毒ガスの村で生まれた

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:吉見義明、出版社:合同出版
 毒ガスの被害が、現代中国で発生しています。日本軍が投げ捨てていったものが、何も知らない子どもたちに拾われたりして事故を起こしているのです。
 なぜか。マスタードガス(イペリット)は、吸い込んだり身体にふれても、すぐには影響が出ない。数時間たってやっと影響があらわれる。その場で毒ガスにふれたことが気がつかないため、大勢の人が被害にあってしまう。
 毒ガスに触れた皮膚のキズは治りにくいだけでなく、大きな跡が残ってしまう。呼吸によって肺に入ると、ひどい咳が出て、呼吸が困難となる。現代の医学では、毒ガスの被害を完全に治す薬や治療法は見つかっていない。
 日本には毒ガスを製造していた島があった。瀬戸内海の小さな島、大久野島。今ではテニスコートなどもある国民休暇村となっていて、毎年12万人がやって来る。ここに、従業員5000人という大工場があった。毒ガスをつくっていた。
 日本でも中国と同じような事故が発生している。茨城県神栖町、神奈川県の寒川町や平塚市など。というのは、毒ガス弾を日本軍は終戦時に別府湾などに捨てたから。また、銚子沖にも捨てられている。
 日本にとって、戦後はまだ終わっていない。このことを実感させられる本でした。

沖縄シュガーローフの戦い

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:ジェームス・H・ハラス、出版社:光人社
 沖縄戦初日のアメリカ軍の上陸日はL(ラブ)デイと名づけられ、1945年4月1日。日本軍の反撃はまったくなく、予定より早く目的地に到着していった。
 アイスバーグと名づけられた沖縄進攻作戦は、54万8000人の将兵と1500隻の艦船を動員する計算だった。攻撃実施初日の兵力18万2000人というのは、1年前のノルマンディー上陸作戦のDデイを7万5000人も上まわっている。
 日本軍の第32軍司令官は牛島満中将であり、その副官で参謀長の長勇少将は、短気で攻撃的な性格だった。大酒飲みで女好き、盲目的な愛国主義者で先導的な性格だったから、牛島司令官の手に余ることも多かった。
 ところが、1945年5月12日から18日までの一週間、沖縄の首里攻防戦の西端にある小さな丘をめぐる争奪戦で、アメリカの第六海兵師団は2000人をこえる戦死傷者を出した。最終的に丘を占領するまで、海兵隊は少なくとも11回の攻撃をおこなった。中隊は消耗して、すぐに小隊規模になり、さらに消耗して分隊規模になり、最後はシュガーローフ上で染みこむように消えていった。
 沖縄戦は太平洋戦争を通じてもっとも血みどろの戦いだった。82日間の戦闘でアメリカ軍の陸上兵力は7612人が戦死、行方不明、3万1312人が負傷、2万6211人が戦闘疲労症となった。海上兵力のほうも4320人が戦死、7312人が負傷した。
 第六海兵師団だけでも戦死傷者は8227人にのぼり、3人に2人が戦列を離れた計算になる。
 アメリカ海兵隊は高さ15メートルから20メートル、長さ270メートルしかないシュガーローフと名づけた貧相な丘を乗り越えることができなかった。この丘にはトンネルや坑道が複雑に張りめぐらされており、人員や物資を地上に出ることなく補給することができた。この丘にいた日本軍は一個中隊規模でしかない。しかし、すぐに豊富な予備兵力で増員できる体制にあった。しかも、陣地は重装備されていて、迫撃砲45門と擲弾筒29門が配備されていた。地形は防御側にきわめて有利。攻撃側は、さえぎるものが何もなく、丸裸で丘に接近しなければならない。
 太平洋戦線のアメリカ海兵隊には、夜間戦闘の絶対的掟があった。それは、動くものはすべて撃て、夜に動きまわるのは、すべて日本兵だ、というもの。
 シュガーローフの丘の上では、日本軍とアメリカ海兵隊の兵士たちの手榴弾合戦が続いた。メジャー一等兵は、戦車の残骸にいた日本兵の断末魔の悲鳴を聞いて、気分が少し楽になった。やつらも生身の人間だということが初めて実感できたからだ。
 日本兵は、アメリカ兵にとって生身の人間だとはおもわれていなかったわけです。爆弾をかかえて戦車に飛びこんでくる姿を見たら、たしかにそんな気になるのでしょうね。今のイラクと同じで、日本軍は自爆攻撃を常套手段としていたのです。
 食欲のある兵士は、ほんの一握りで、多くの兵士はタバコを吸いながら、Dレーションバーと呼ばれていた栄養食のフルーツ・チョコレートバーをかじっていた。そのため、前線勤務の兵士は例外なく体重が減り、平均7〜10キロはやせた。消化器系の不調にも悩まされ、下痢でげっそりするか、便秘でお腹がパンパンするか、どちらか。中間はなかった。
 シュガーローフでの前線勤務を経験すると、死は生きることよりも普通となっていった。死の多くは劇的ではなかった。ある兵士は突然、ベルトのあたりのシャツを手でまさぐり出した。そのまま座りこむと、ゆっくり横にもたれかかるようにして倒れ、そのまま死んだ。かなり遠方から飛んできた銃弾が背中にあたり、腹部から出ていったのだ。
 この本では、敵である日本軍の兵士を高く評価しています。次の狙撃兵の描写は、まるでスターリングラードの戦闘の様子を描いたような内容です。
 日本軍の狙撃兵は冷徹に選択された死の恐怖をアメリカ兵に味あわせた。狙撃兵は、きわめて忍耐強く、神業としか思えない選択眼で将校を見きわめていた。将校か通信兵を狙撃するため、一般の歩兵には目もくれずやり過ごした。そのため、将校は身につけている階級を示すあらゆる勲章や装備を隠した。将校で45口径の拳銃ストラップを肩からかけていたら、瞬時に射殺された。必ず眉間か胸のど真ん中を狙う。一発で即死した。狙撃兵による戦死傷者の中でもっとも多かった階級は中尉。ある将校は着任して15分で死んでしまった。シュガーローフ周辺での戦闘における将校の戦死傷率は平均60〜75%。大隊長3人と18人の中隊長のうち、11人が戦死ないし負傷した。当初から作戦に参加した中尉のうち、最後まで残ったのは、ごくわずかだった。
 多くのアメリカ海兵隊員は日本兵の姿を見ることなく死んでいった。日本兵はひたすらタコツボや洞窟、銃眼のなかで忍耐づよく待っており、アメリカ兵がその射界に入ってきたときだけ射撃した。
 日本兵はガニ股で飛びはねながら猿のように金切り声を上げたり、ブタのように鳴いたりするやつらだと思っていたが、実際に見ると目は落ち着きはらっており、まさにオレたち海兵隊員と同じ顔つきをしていた。これはアメリカ海兵隊の軍曹の言葉です。
 日本兵はきわめて統制のとれた集団だった。よく訓練され、統制のきいた陸軍兵士で、とくに士気の高さと身体能力の高さは特筆すべきだと海兵隊の活動報告書に書かれた。
 日本軍の兵士は、つねに頑強で機知にとんだ戦法で戦い、絶対に投降しなかった。
 この本が単なる戦記と違うところは、戦場でたたかえなかった兵士たちのことがきちんと描かれているところです。私なんか臆病者とののしられてしまうのは必至ですが・・・。
 精神の緊張状態は多くの兵士にとって、耐えられないものだった。
 頑強でたくましい大男の海兵隊員が、いざ最前線に行くと、泣き叫びながら戻ってくる。戦闘疲労症だ。あらゆる部隊が戦闘疲労症の渦に飲みこまれた。肉体的な極限状態のなかで、人間としての尊厳を守ろうとした場合に発症した。戦闘疲労症になる若い兵士は、とくに自責の念を感じているようだった。精神の崩壊は、肉体的な極限状態に、恐怖心と良心の葛藤が引き金となって発症した。相当数の兵士が二度と戦うことができなかった。
 日本軍はシュガーローフにおいて、反射面陣地と呼ばれる構築手法を多用した。これは、アメリカ軍側に相対する斜面には兵士を極力配置せず、反対側の斜面に主陣地を構築し、敵が頂上部に到達するのを待って攻撃する手法。この長所は、圧倒的な火力を有するアメリカ軍から直接的な攻撃を受けず、近距離に接近するまで兵力を温存し、かつ自軍の配備状況をアメリカ軍から察知されにくい効果があった。
 これって硫黄島でとられた戦法に似てますよね。沖縄戦において、圧倒的兵力の差があるアメリカ軍に対して局地的には互角以上の戦いをしていたというと意外な感じがします。硫黄島のような戦闘が沖縄本島でも繰り広げられていたことを初めて認識しました。
 ちなみに、シュガーローフというのは沖縄都市モノレールのおもろまち駅付近の小高い丘で、今は頂上に排水タンクがたっているところです。この本を読み、現地に立って激戦の状況を偲んでみたくなりました。戦争の残酷さを今の私たち日本人は忘れ過ぎているようです。

日本帝国陸軍と精神障害兵士

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:清水 寛、出版社:不二出版
 徴兵制とは、その時代の国家目的にそって、戦時あるいは平時の軍事的必要度にみあうだけの兵力を、国民の中の壮丁(兵役義務の年齢に達した男子)の中から、強制的に集めるための制度であった。
 徴兵制度の歴史とは、広範な免役要件に対して、いかに制限を加えていくかという過程であり、同時に、免役条項を活用しての徴兵忌避、さらには強制徴兵制そのものに反対する運動を強力に抑えこんでいく過程にほかならなかった。
 明治期の軍隊の中には、かなりの低学力の兵士が送りこまれた。日露戦争を経たあたりから、無(低)学力兵士の問題が軍隊内部でも顕在化しはじめていた。
 明治35年(1902年)、陸軍懲治隊条例が制定された。懲治隊に入れられた入営前の非行・犯罪のあった者の中に、実は、思想犯もいた。社会主義を鼓吹する言動が問題となり、改悛の情なき不良兵士とされたのである。
 その中の一人である森川松寿は、幸徳秋水・堺利彦らの平民社に共鳴し、社会主義宣伝の冊子を販売する伝道行商に従事していた。森川は、兵役は国民の義務ではない、兵役は恥とするところ、戦争は罪悪だと公然と述べていた。
 偉い人ですね。なんと、17歳のころから活動していたといいます。
 徴兵忌避をする者が少数ではあったが、存在した。身体を毀傷し、疾病を作為し、また詐称したとして摘発された者が1918年に578人、1931年に474人、1935年に145人いた。
 日本が敗戦したときの動員兵力数は716万人。当時17〜45の日本男子は1740万人だったから、その4割以上が軍に動員されていた。1945年6月、義勇兵役法が制定され、男子15〜16歳、女子17〜40歳の全員が義勇兵役の対象に組みこまれた。
 1923年、陸軍懲治隊は、陸軍教化隊と改称された。陸軍となっているが、海軍兵も対象としていた。教化隊のなかにも思想要注意兵がいた。総員778人のうち8人が該当者であり、一般教化兵と隔離された。
 教化隊に編入された兵士は累計で1000人。このうち原隊に復帰したのは、6.2%(55人)のみ。あとは、満期除隊した。
 この本は千葉県市川市にあった国府台陸軍病院という精神病院の患者の実情を明らかにしています。そこでは、戦争神経症が研究されています。当初、ヒステリー患者とされていました。大戦中、ヒステリー患者は、ほぼ一貫して全精神神経疾患患者の10%前後であり、平均すると11.5%と高率だった。
 たとえば、その発症原因として加害行為についての罪悪感というものがあった。
 山東省で部隊長命令で部落民を殺したことがもっとも脳裏に残っている。とくに幼児をも一緒に殺したが、自分にも同じような子どもがいたので、余計にいやな気がした。
 ヒステリー性反応としては、その場で卒倒するケースが多いが、夢遊病者のように動きまわり、無意識のうちに離隊・逃亡することも少なくなかった。
 医師が戦争神経症に接して驚いたことは、ヒステリーの多いこと。目が見えない、耳が聞こえない、立ち歩きができないといったあらわな症状をもっていた。
 日本陸軍兵士における戦争神経症を研究した貴重な労作です。自他ともに認める軟弱な私などは、徴兵されて戦場に駆り出されたとしたら、真っ先にヒステリー症つまり戦争神経症にかかり、足腰が立たなくなること必至です。誰だって突っこめという号令に従って行動して無意味に戦死するなんてことになりたくはありませんよね。

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