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カテゴリー: 日本史(戦後)

治安維持法とわたし(戦前編)

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:桑原英武、出版社:日本機関紙出版センター
 明治45年(1912年)生まれの著者の、血わき肉おどるような自伝です。
 旧制三高の2年生のとき(昭和4年、1929年)、夏休みのある日、特高警察が自宅にやってきて、有無を言わさず京都・川端警察署に連行されます。非公然の三高社研(社会科学研究会)の読者会が警察にバレていたのです。
 若い著者は、マルクス主義に魅せられ、天皇制打倒と侵略戦争反対を親に向かっても高言してはばからなかった。黒田了一元大阪府知事は三高の一年先輩だった。
 工場の門前でビラまきをして著者は警察につかまった。29日までの勾留は警察署長が即決でできた時代である。
 昭和5年(1930年)、19歳のときに警察に捕まって拷問を受けた。
 20歳になって徴兵検査を受けたが、陸軍大佐の徴兵司令官は思想上の過ちがあったとして、「第2乙」とした。現役徴兵はされないことになった。
 治安維持法違反で、1931年(昭和6年)と1933年(昭和8年)の2回、法廷に立たされた。弁護人は、2回とも井藤誉志雄弁護士だった。
 著者は今の平成天皇の誕生によって減刑されたものの、合計4年半の刑期で大阪刑務所に入った。弁護人であった井藤弁護士も、1933年11月に治安維持法違反で懲役2年、執行猶予1年の判決を受けた。
 先に紹介した『永遠の青春』の桟敷よし子は、日銀総裁であった深井英五と父が懇意にしていたことから、よし子が逮捕されたとき、深井英五は200円もの更生資金をカンパしたという。桟敷よし子は1992年(昭和67年)2月、89歳で亡くなった。
 著者は青春まっただなかの、22歳から26歳までの4年間、大阪刑務所で独房生活を強いられた。1937年(昭和12年)4月に仮釈放されるまでのことである。
 著者は、貴重な青春時代の4年間を刑務所のなか、独房生活を過ごしています。22歳から26歳までのことです。なんとむごい仕打ちでしょうか。私でいうと、司法試験の合格を目ざし、司法修習生になり弁護士生活をスタートしたという激動の年齢です。そのとき、狭い部屋でずっと拘禁生活を余儀なくされて耐えていたというのですから、私はそれだけでも著者を大いに尊敬します。
 戦前の治安維持法による検挙者数が、紹介されています。
 1930年(昭和5年)に6877人、31年に1万1250人、32年に1万6075人、33年(昭和8年)に最高の1万6397人。34年には、5900人あまりと激減してしまいました。これは、ほとんど対象者がいなくなったということです。小林多喜二が特高警察の拷問によって死亡したのは1932年2月のことです。
 著者は1933年2月に2度目の逮捕を受けました。
 特高警察による犠牲者について、政府の公式発表は今もってありません。被害者側の調査によると、明かな虐殺死は80人、拷問・虐待が原因で死亡した人は144人、病気その他による獄死は1500人、逮捕され、送検された人は7万6000人、送検された人は数十万人ということです。驚くべき特高警察の威力です。
 獄中生活は、1日に15分前後の運動時間、週に1回の入浴時間というものだった。
 著者は短歌をつくっていました。
 独房に書(ふみ)読みおれば 合唱の君が代の声は聞こえ来にけり
 この歌が見事に入選し、その賞としてぜんざい一椀が支給されました。甘味品に渇していた著者にとって、何よりありがたい賞でした。
 著者は刑務所を出たあと、医師として再出発します。その勉強は、刑務所にいるときから始めたのです。人脈にも恵まれたのでしょうが、著者の人徳にもよるのでしょう。岩手医専を受験して、成績トップで合格したのでした。すごいですね。刑務所のなかの不自由な受験生活だったわけですからね。
 過去の経歴が知られないように心配しながら岩手医専の4年間を過ごしたといいます。でも、ずっと総代をつとめ、成績トップで卒業しました。30歳にして医師になったのです。戦争中は、軍医として働いています。前科2犯、懲役5年間の実刑を受けた身でありながら将校(軍医)に任ぜられました。まさに奇跡ですよね。
 大阪の石川元也弁護士の推薦で読みました。すごいお医者さんがいるものです。単なる自伝というより、戦前の日本の状況を実感で知ることのできる本です。
 博多駅近くの小さな映画館でハンガリー映画『君の涙ドナウに流れ』をみました。1956年に起きた「ハンガリー動乱」(日本人の私にとってはこのように言うしかありません)を描いた映画です。はじめのプールで繰り広げられる水球試合から息をのむほどの迫力で、ソ連と秘密警察によるすさまじい一斉射撃と、それへの市民の反撃が始まって展開する市街戦も迫真の映像であり、息をこらして画面に見入って、2時間があっというまにたってしまいました。ハンガリーの人々がソ連の支配のくびきから逃れようとして立ち上がったのです。そして、その先頭に大学生たちが立っていました。私の大学生のときの学園闘争は、この映画のシーンに比べるとまるでオモチャの世界です。ただ、それでも真剣ではありましたが・・・。やはり、歴史は正しく伝えられる必要があり、また、それは広く知られる意義があるとつくづく感じたことです。ぜひ大勢の人にみてほしい映画です。
(2007年9月刊。1429円+税)

永遠なる青春

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:桟敷よし子、出版社:青春社
 明治35年に生まれた著者の自伝です。母方の祖父は黒田藩士でしたが、博多を出て、北海道に移住しました。著者の父はキリスト教の信者であり、教師をしていたが、日露戦争に反対し、札幌で幸徳秋水らの平民新聞社グループの一員であった。明治41年、つとめていた学校の校長と意見があわず、開拓農民となった。
 結婚して15人の子どもをもうけたが、みなメアリーとかナポレオンなどの外国名をつけた。著者はジョセフィンと名づけられた。著者の15人兄弟15人のうち8人が乳児のときに亡くなった。ほかの兄弟も病気につきまとわれた。
 すごい名前ですよね。近ごろは、とても日本人の名前とは思えない名前の赤ちゃんばかりですが、なんと明治35年ころに自分の子どもに外国の名前をつけていた人がいたなんて。しかも、一応インテリなのですからね・・・。
 著者の父親は、貧しい開拓農民の身でありながら、著者を札幌の女学校に入れた。第一次世界大戦が始まったころのこと。
 著者は、女学生として、日曜学校に教えにも出かけた。やがて、関東大震災後の東京へ出て日本女子大に入学した。そこで、社会科学研究会(いわゆる社研)に入り、野坂竜に出会った。野坂参三の妻となった女性だ。この研究会で英文のレーニン『国家と革命』を読んだ。
 昭和2年、大学3年生のとき、授業で英文の「共産党宣言」を学んだ。卒業論文として、徳永直の『太陽のない町』で有名な文京区氷川下の人々の状態を調査するため戸別訪問した。この氷川下には、私の大学生のころ氷川下セツルメントが活動していました。
 そして、昭和3年に日本女子大学を卒業すると、倉敷紡績の工場に入った。今は大原美術館で有名な大原孫三郎のいた会社であり、寮の教化係として働いた。そこでのオルグ活動が成果をあげ、600人の女子労働者がストライキに突入した。すごいですね。昭和5年(1930年)のことです。大原社長の恩を仇で返す結果となったわけです。
 資本主義社会での階級的矛盾は、個人ではどうすることもできない鉄則で回る歯車である。資本家個人の善意とか温情などは、もうけ主義の恥部をおおう「いちじくの葉」にすぎない。著者は、このように述べています。なるほど、ですね。
 このストライキのあと、会社を首になった著者は大阪で地下活動に入ります。その実情はすさまじいものがあります。小林多喜二の『党生活者』を思い出します。ついに警察に捕まります。特高の拷問は、若い女性を裸にし、後ろ手にしばって、あおむけに寝かされ、口の中に汚ない手ぬぐいをつめこむというものでした。
 治安維持法違反で警察に3回検挙され、3つの留置場と4つの拘置所で4回の正月を送り、4年間の刑務所生活を過ごし、昭和11年5月、札幌大通刑務所を満期出所します。昭和9年に刑務所に連行されるときには、青服に深あみ笠の姿で、腰縄をうたれていました。当時の写真によく出てきますね、あれです。そして、大阪に出て、さらに東京に戻り、看護学の勉強をし、昭和13年8月、37歳のとき看護婦試験に合格した。そして、保健婦として活動するようになった。
 昭和20年3月、著者は中国大陸に渡った。満州開拓団の結核予防に取り組むためである。やがて8月に日本敗戦を迎える。日本への引き揚げが大変だった。開拓団難民3万人のなかで、発疹チフスが発生し、90%の患者を出し死亡者が続出、1日100人の死者を出したこともあった。そして、中国共産党の人民解放軍に加わり、後方病院に配属された。
 やがて、中国共産党が中国大陸全土を支配した。1958年5月、ついに日本に帰国することになった。中国で13年のあいだ生活していたことになる。
 そして、大阪で民医連の病院で保健婦として働くようになった。昭和46年、黒田了一革新府政が誕生。 
 古稀という体にねむる青春を きみ起こしたもう 永遠の青春。
 今から32年前の1975年に、著者73歳のときに発刊された本です。戦前の苦難のたたかいが偲ばれます。こんな古い本をなぜ読んだのかというと、いま、私も母の伝記をまとめているからです。話は母の曾祖父、明治時代の初めから始まります。だから、戦前どんな時代だったかというのは当然知っておかないといけないのです。
 私の敬愛する大阪の石川元也弁護士からお借りしました。ありがとうございました。
(1975年12月刊。750円)

となりに脱走兵がいた時代

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:関谷 滋、出版社:思想の科学社
 ベトナム戦争があっていた時代の日本です。始まりは1967年10月。えっ、私が東京で寮生活を始めた年のことではありませんか。もちろん、私もベトナム戦争反対の集会やデモに何度となく参加しました。夜遅い銀座で、大勢の人々と一緒に手をつないでフランス・デモをしたときの感激は今も覚えています。銀座の大通りを、デモ隊が完全に埋め尽くしていました。警察官も手を出すことができないほどの人数でした。もちろん、機動隊はいましたが、国会周辺と霞ヶ関あたりまでで、銀座にまでは手がまわらなかったのです。
 ベトナム戦争に反対する市民の会(ベ平連)は、その一部にアメリカ軍の脱走兵の日本国外逃亡を助ける活動をしていました。私は後になって、新聞報道で知りました。これには、東大生なども関わっていたようです。有名な知識人が何人も隠れ家を提供しています。あれから40年たって、その全貌が少しずつ明らかにされています。この2段組みで  600頁をこす大部な本は、大変貴重な歴史的記録です。
 ベトナム脱走米兵は、私と同じ世代です。「イントレピッドの4人」として有名なアメリカ脱走兵は、1947年と1948年生まれです。50万人以上のアメリカの青年がベトナムへ送られて5万8000人ものアメリカ兵ベトナムで死亡しました。もちろん、アメリカ軍によって殺されたベトナム人はケタが2つほど違います。
 ベトナム反戦のアメリカ脱走兵を助けたベ平連の幹部としてマスコミに登場したのは、小田実、開高健、鶴見俊輔、日高六郎です。いずれも有名な知識人です。
 アメリカ海軍の航空母艦「イントレピッド」から脱走してきたアメリカ兵4人は横浜港からソ連船バイカル号に乗って、日本を脱出した。そして、ソ連を出て、スウェーデンに亡命することができた。
 脱走兵は、決して品行方正な英雄ではなかった。いろいろ手を焼かせた脱走兵が何人もいた。だから、世話をした人たちはなかなか大変だったようです。
 日本人アメリカ兵も脱走したきた。日本人もベトナムで戦死している。1967年4月20日、LSTの乗組員(50歳)が銃撃されて死亡した。
 脱走米兵の逃亡を支援する組織を解明するため、アメリカ軍はスパイを潜入させます。いかにも怪しい脱走兵なのですが、疑いはじめたらキリがないので、彼を信じて逃亡の手助けをしていきます。その息詰まる様子が再現されています。釧路からソ連へ船で渡るコースだったのですが、スパイがたれこみ、脱走米兵は結局、逮捕されてしまいました。ジャテックは、そこから、苦闘の道を歩むことになります。
 当時30歳前後のサラリーマンから毎月500円のカンパを集めるのは、かなり大変なことだった。今なら1万円にでも相当する金額でしょうか・・・。
 ジャテックに関わっていた小田実は、この本の座談会で次のように発言しています。
 「全共闘運動を勲章にするだけで、何もしない連中がそこらへんに一杯いるじゃない。現在、どうしているか、現在にどうつながるか、それが問題だ」
 なるほど、そのとおりです。私は全共闘と関わりがないどころか、その反対でがんばっていましたが、今の9条をめぐる政治情勢をどう考え、どのようにしたらよいのか、小さな声であっても、上げていきたいと考え、少しずつ、やっています。
(1998年5月刊。5700円+税)

私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:高橋武智、出版社:作品社
 1967年。私が大学生になったのはこの年の4月。ベトナムでアメリカ軍が侵略戦争をしていました。ベトナムが共産化したら、インドシナ半島全体が共産化するので、それを止めるというのがドミノ理論(ドミノ倒しになるのを防ぐというものです)で、それがアメリカ軍のベトナムへの介入の大義名分でした。本当にとんでもない言い草です。ベトナムに派遣されたアメリカ軍は50万人。アメリカ軍の戦死者だけで5万5千人です。アメリカの私と同世代の若者たちが死んでいました。もちろん、ベトナムの人はそれより2桁も多い人々がアメリカ軍に殺されました。もちろん、というのは、近代兵器の粋を尽くしたアメリカ軍が無差別にベトナムの人々を殺しまくった結果がそうだったという意味です。アメリカ軍のなかにも嫌気をさして脱走する兵士が相次ぎました。そこまでの勇気のない兵士はアルコールと麻薬におぼれました。
 この本は、アメリカ軍から脱走した兵士を日本人グループが国外逃亡に手を貸していた事実を明らかにしています。もちろん逮捕されることを覚悟のうえです。
 ベ平連が誕生したのは1965年。解散したのは1973年だった。
 アメリカ軍脱走兵士を国外へ逃亡させるための組織、ジャテックに脱走兵を装ってスパイが潜入してきた。海のCIAの別名をもつ海軍犯罪調査局(NCIS)の特別捜査官だったという。
 それまでは北海道から海路、ソ連へ脱出させていた。しかし、ソ連が断った。そこで別のルートを開拓するためにヨーロッパに飛んだ。その苦労話がこの本のメインです。
 いろんな人に会い脱出路を探ってたどり着いたのがパスポートの偽造。本物のスタンプに似せたものをどうやってつくるかという点をプロに教わった。完璧すぎるものをつくらないこと。インクをつけたペンで、それらしく点を打っていけばいいだけ。適当に歪みをつける。うーん、そうなんですか・・・。驚きました。
 脱走兵を日本国内でかくまったとき協力してくれたのが知識人たちです。中野重治、日高六郎などの名前が出てきます。軽井沢の別荘を借りたりして過ごさせました。2年も日本国内に潜伏していたアメリカ人脱走兵がいたというのですから、たいしたものです。いえ、本人も辛抱したでしょうけど、それを支えたジャテックも偉いです。
 いよいよ大阪空港から他人のパスポートで出国させます。ハラハラドキドキです。無事にパリのオルリー空港に到着。
 アメリカでは、元脱走兵に対して今も公然とした嫌がらせがあっているそうです。クリントンのような兵役忌避者は大統領になれたわけですが・・・。
 脱走が、実は、軍隊を内部から掘り崩した空洞化させるのに最大限有効な行為であり、国家からみたら絶対に許し難い行為だから、なのです。
 スウェーデンには、そのころ、400人ものアメリカ人脱走兵がいたとのことです。
 アメリカ軍の脱走兵を助けたジャテックの活動の全体像を知るためには、『となりに脱走兵がいた時代』(思想の科学社、1998年)が資料集として、よくまとまっています。
 この本は、その中の一人が、さらに個人的体験をふまえて、運動の実情を明らかにしたものです。
 あれから40年たち、今こそ書き残しておくべきだという思いから書かれた本です。
(2007年11月刊。2400円+税)

清冽の炎・第4巻「波濤の冬」

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著者:神水理一郎、出版社:花伝社
 ついに第4巻が出ました。あれから40年。素敵なクリスマス・プレゼントです。
 いよいよ東大闘争はクライマックスになりました。本郷では、有名な安田講堂攻防戦が華々しく繰り広げられます。当時、日本国中をテレビにくぎづけにした市街戦さながらのショーを思い起こします。そして駒場では、全共闘が立て籠もっていた第八本館(通称・八本・はちほん)が、民青とクラ連の統一行動隊によって封鎖解除されます。
 この本では、攻める側、攻められる側、大学当局、警察と政府の動きが多元的に語られ明らかにされているところに画期的な意義があります。全共闘を一方的に賛美せず、逆に民青一辺倒ということでもありません。
 安田講堂の攻防戦の前、警察は内部偵察をします。建築会社のジャンバーを着て、修復工事の見積もりのためと称して、内部を全部みてまわりました。警察は安田講堂を攻めるために8000人の警察官を動員し、最新の防炎服を1万着もそろえるなど万全の装備を用意した。マスコミに派手に中継してもらうことが最優先された。
 安田講堂に立て籠もった全共闘の一人に当時の秦野警視総監の甥(この本では姪)がいました。学生に資金を提供し、軍事指導したアナーキストもいました。
 安田講堂内部では、革マル派が全員退去した。東大生もいるにはいたが、むしろ人数としては少なかった。全共闘は指導部を退去させて温存する方針をとった。攻防戦の前夜、女子学生が大講堂にあったピアノを静かに奏でた。
 加藤一郎執行部は安田講堂内の全共闘とのホットラインを2回線確保していて、光芒が始まってからも連絡をとりあっていた。
 民青は前夜のうちに本郷から完全に姿を消した。自民党は、そのことを知り、地団駄をふんで悔しがった。
 安田講堂攻防戦の前、駒場では12月13日と1月11日に代議員大会が開かれた。12月13日の代議員大会は駒場寮の寮食堂で開かれ、全共闘の一部が突入して乱闘になったが、すぐさま再開された。代表団10人が選出された。1月11日の代議員大会は全共闘の乱入を恐れて駒場寮の屋上で開かれた。
 1月10日、秩父宮ラグビー場で七学部集会と称する公開団交が開かれ、東大当局と学生との間で確認書がとりかわされた。
 東大闘争の最終局面の息づまる展開が詳細に明らかにされます。大変な迫力です。
 東大のなかで連日の息詰まるようなゲバルトがあっているなかでも、地域におけるセツルメント活動は続けられます。授業で学ぶだけではない、そこにはまさしく生きた学問の場がありました。
 1巻、2巻、3巻と売れないまま続いてきたこの大河小説も、ついにクライマックスを迎えました。全国の書店で発売されています。書店にないときには、ぜひ花伝社へ注文してください(FAX03−3239−8272)。インターネットでアマゾンへ注文もできます。
 第5巻は、1996年2月と3月。そして、第6巻は登場人物の20年後、30年後の姿を描きます。そこまでたどり着くためには出版社に出版しようという意欲をもたせる必要があります。ぜひ応援してやってください。
 新年(2008年)は、東大闘争が始まって40年という記念すべき年なのです。
(2007年12月刊。1800円+税)

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