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カテゴリー: 日本史(戦後)

罪祭

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 山下 郁夫、 出版 創思社出版
 戦争中、大牟田にフィリピンでバターン死の行進をさせられたアメリカ兵捕虜を収容していた俘虜収容所があり、そこで捕虜を虐待したことを理由として極東軍事裁判で4人もの死刑判決が出て、巣鴨プリズンで実際に絞首刑が執行されていたことを伝える本です。
 私がある小集会でうろ覚えの話をしたところ、その場で私の話を聞いていた依頼者の一人からこの本を提供していただきました。実は、この俘虜収容所は、私が小学1年生のころまで住んでいた自宅の近くにあったのです。もちろん、今では跡形もありません。そもそも捕虜を駆使していた三池炭鉱自体もないのです。
 昭和18年8月から昭和20年9月まで、大牟田市新港町に福岡俘虜収容所第17分所があった。その初代所長が五島出身の由利敬少尉だった。ここに、バターン死の行進の生き残り捕虜505人を三池炭鉱で働かせるために連れてきた。この収容所は、最盛時には2000人もの捕虜がいて、敷地面積は1万1000坪あった。
 2代目の福原所長も絞首刑となった。その訴因は、捕虜に対する殴打だった。
 由利所長の死刑判決の理由は、逃亡常習癖のある捕虜を裁判にかけることもなく、部下に命じて背中から刺殺させたこと、盗癖のおさまらない捕虜を独房で死亡(餓死)させたことである。
アメリカ軍GHQは、横浜において軍事法廷を昭和20年12月から開始した。その第1号死刑判決が由利所長であった。また、衛兵だった軍属2人(33歳と40歳)も死刑になり、そのほか、福岡の俘虜収容所長(菅沢大佐)も死刑となった。
 由利所長の裁判は、翌21年1月7日に判決言い渡しで終わった。3対2で有罪、絞首刑が宣告された。そして4ヶ月後の4月26日に処刑された。戦犯として絞首刑となった第1号が由利初代所長で、第2号は福原2代目所長であった。
 戦前の日本に起きた捕虜虐待、そして戦犯としての日本人処刑という悲しい話を忘れるわけにはいきません。
(1983年7月刊。1800円+税)

多喜二の時代から見えてくるもの

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 荻野 富士夫、 出版 新日本出版社
 小林多喜二が『蟹工船』の執筆を始めたのは1928年10月のこと。翌年3月に原稿が完成した。この1928年3月15日に例の「3.15事件」が起きている。戦前の共産党一斉検挙事件である。多喜二は、この事件で逮捕された人々に対する取り調べのすさまじく凄惨な実態を知るにつれ、「煮えくり返る憎悪」をもって弾圧の実態暴露を優先させた。
 これら2つの小説の文学観は、「憎悪」から出発するという点で通底していた。なるほど、生半可な友愛というのではなかったのですね。
 多喜二の『蟹工船』を読んだ検事の報告書が紹介されています(1929年の『司法研究』遊田多聞検事)。
 この『蟹工船』は、もとよりそのすべてが事実だというわけではあるまいが、ただ、その持つ思想がいかに多くの人々の胸を打ちつつあるかと、また、いかに漁雑夫などが資本主義下において恵まれぬ地位に置かれつつあるかということをよく紹介し、資本主義の欠陥を暴露し、労働者の自覚と反省とを促しつつあるか、これを見逃すことができないのである。ふむふむ、見る人は見ていたわけですね。
 小林多喜二が警察官によって虐殺された理由の一つは、3.15の大弾圧の非道性を暴露したからだった。警視庁特高課の中川成夫警部は次のように高言した。
 小林多喜二のやろう、もぐっていやがるくせに、あっちこっちの大雑誌に小説なんか書きやがって、いかにも警視庁をなめてるじゃないか。いいか、われわれは天皇陛下の警察官だ。共産党は天皇制を否定する。つまりは、天皇陛下を否定する。おそれ多くも天皇陛下を否定するやつは、逆賊だ。そんな逆賊は、捕まえ次第ぶち殺してかまわないことになっているんだ。小林多喜二に、捕まったが最後、いのちはないものと覚悟していろと伝えておいてくれ。
 実際、この言葉の2週間後に多喜二は警察が共産党に潜入させていたスパイの手引きでつかまり、予告どおり中川警部らによる陰惨な拷問によって、その日のうちに殺されてしまいました。
 「やあ。おまえが小林多喜二か。おまえは、『3.15』という小説を書いて、おれたちの仲間のことを、あることないこと、さんざん書きたてやがって、よくもあんなに警察を侮辱しやがったな。こうしてつかまえたからには、お前が『3.15』で書きやがったとおりのことをしてやるから、そのつもりでおれ」と脅した。いやはや、なんとも非道い話です。こんな拷問死を実行した警察官も、それを命じた上部の警察幹部も、栄進したあげく戦後までのうのうと生き延びたわけです。ナチスの犯罪が戦後何十年も追及されたドイツとの違いを感じます。
 今の日本で、このようなひどい拷問が再現されないことを願うばかりです。それにしても、最近、人権無視の風潮が高まっている気がしてなりません。その典型が、なんでも死刑にしろといわんばかりのマスコミのキャンペーンです。ヨーロッパのEU諸国は、みな死刑制度を廃止しています。そして、EU加盟の条件に死刑廃止があります。日本がEUに入る必要はないと思いますが、入りたくても入れてもらえないという事実を日本人はどれだけ知っているのでしょうか。
 
(2009年2月刊。2500円+税)

不屈、瀬長亀次郎日記

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 瀬長亀次郎、 出版 琉球新報社
 読んでいるうちに、思わず背筋を伸ばし、襟を正して、真面目に生きていこう、元気に生き抜くんだ、そんな力の湧いてくる不思議な本です。
 カメジローの日記です。私も、若いころに一度くらい本人の演説を聞いたような気はするのですが、たしかではありません。雄弁というより、とつとつとした語りだったという印象をもっていたのですが、この本を読むと訂正しなくてはいけないようです。
 カメジローは、49歳のとき、当時、沖縄にあった地域政党である人民党(のちに共産党と合流しました)公認として那覇市長選に立候補し、保守が分裂していたこともあって、見事に当選しました。しかし、野党が圧倒的多数を占める那覇市議会は、アメリカ軍政府の強力な指示をうけて、「共産主義者」カメジロー追い落としを図ります。しかし、カメジローは粘りに粘り、ついに市議会のほうを解散し、市議会選挙で多数はとれなかったものの、大きく前進しました。
 アメリカ軍政府はやきもきしたあげく、ついに民主的に選挙で選ばれたカメジロー市長を一片の指令で追放してしまいます。このあたりの経緯が、当の本人のカメジローの日記、そして、情報公開制度で明らかになったアメリカ政府の動きをふまえて詳しく解説されています。ですから、当時の行き詰る状況が手に取るようによく分かります。沖縄そして日本を知るために、本当にいい本が出版されたと思いました。
 カメジローの演説。
 異民族の奴隷への道、西へ進むのか、祖国への道、東へ進むのか、の分かれ道に立っている。市民よ。死への道ではなく、日本国民の独立と平和と民主主義の繁栄を保証される道を進もうではないか。
 つい最近、赤嶺代議士(共産党)が国会で、アメリカ兵が飲酒運転して事故を起こしても、公務遂行中だとして日本に裁判権がないのはおかしいと追及していました。このことを河野代議士(自民党)が、そのとおりだとブログで紹介しているそうです。
 カメジローは、1万6591票を得て、対立候補に1964票差で那覇市長に当選したのです。すごいことですよね、これって。ワシントンのアメリカ国防当局は驚き、重大な関心を示し、ただちにカメジロー落としを指令したのでした。
 沖縄の銀行は、市にお金を出さない。アメリカ軍は市に水道を供給しない。まさしく、「火攻め」「水攻め」です。
 カメジローの演説。
 私は神を信じない。人民の力を信じている。神様は天には居ない。人民の中に、人間の心の中にいる神は、いかなる権力でも粉砕することはできない。
 市会議員選挙の演説会は深夜に及んだ。午後8時に始まり、終了したのはなんと午前1時過ぎ。うへーっ、そ、そんな演説会があったなんて、まるで、まったく信じられません。トホホの熱気ですね。沖縄県民の底力は、恐るべきものです。
 アメリカの報告書には、瀬長派の選挙活動は57回の政治集会に4万5000人も動員した。反瀬長派は、24回の集会でわずか1万人にとどまった。いやはや、なんともすごいものです。
 演説会会場は民主主義実践の場であった。瀬長派は人々の共感を集め、幅広い支持を取り付けることに成功した。
アメリカは、小さなハエをやっつけようとしては失敗する大男のようだ。大男が腕を振り回して失敗すればするほど、こっけいに見える。これはアメリカの新聞に載ったレポートです。
 カメジロー市長の在任期間は11ヶ月でしかありませんでした。しかし、大変なインパクトがありました。カメジロー市長の後任の市長を決める市長選挙でも、結局、カメジローの応援した候補が当選したのです。このときの立会演説会には、10万人が集まったのですから、まさに圧巻です。この本に掲載されている写真を見ても、それが嘘でないことはよく分かります。
 私が大学生のころ、沖縄を返せという歌をよく歌っていました。福岡の全司法の人たちが作った歌だということでした。オレたちが作ったんだという書記官が福岡におられました。
(2009年4月刊。2190円+税)

マンガ蟹工船

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 小林多喜二・藤生ゴオ、 出版 東銀座出版社
 30分で読める。大学生のための、という副題がついたマンガ本です。前から読んでみたいと思っていました。白樺湖に出かけたとき、やっと手に入れて読みました。
 もちろん、私は原作も読んでいます。でも、マンガって、すごいですね。よく出来ています。映画は前に見たようには思いますが、よく覚えていません。最近、リバイバル・ブームに乗って各地で上映されていますが、まだ残念ながら見ていません。その代わりにマンガを読んだのですが、それなりに視覚的イメージはつかめます。蟹工船のなかの悲惨な奴隷のような労働実態が、それなりに伝わってきます。解説をつけた人は、このマンガを読んでショックを受けた人は、ぜひ一度、一度読んだ人は、もう一度、原作小説をとくと味わってほしい、と注文をつけています。まさしく、そのとおりです。
 それにしても、今の日本で多くの若者が自分の置かれている状況は戦前の蟹工船で働かされていた労働者と似たようなものだと受け止めているという事実は、それこそ衝撃的な出来事です。それなのに、政府は、大企業の違法な派遣切りに対して、戸別の企業については論評を差し控えます、などと格好の良いことを国会で答弁して介入せず、野放しのままなのです。権力のやることって、戦前も戦後も変わらないというわけです。
 マスコミも、年越し派遣村こそ大々的に報道しましたが、企業で今やられていることについての追跡記事をまったく載せていません。本当に悲しくなります。ソマリア沖に派遣された自衛官の「活躍」ぶりを載せる前に、国内の若者の置かれている深刻な実態を紹介すべきではないでしょうか。そして、このことを総選挙の争点として大きく浮かび上がらせてほしいと思います。日本の若者が将来展望を持てなかったら、日本という国に将来はないと思いますよ。皆さん、ぜひ、このマンガを読んでみてください。
 
(2008年7月刊。571円+税)

重慶爆撃とは何だったのか

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著者 戦争と空爆問題研究会、 出版 高文研
 第2次大戦中、日本は全国66都市がアメリカ軍によってナパーム攻撃を受けたが、その5年以上も前に、日本軍は中国・重慶市民の頭上に200回をこす間断ない空中爆撃を行い、2万人あまりの死傷者を出した。日本は、戦略爆撃の作戦名を公式に掲げて、組織的・断続的な空襲を最初に始めた国なのである。
 1937年8月に始まった南京空襲は、12月13日に日本軍が南京を占領するまで繰り返された。日本軍は、空襲36日、回数にして100回をこえ、飛行機はのべ600機、投下した爆弾は300トンだった。
 8月26日、南京に駐在していたアメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア各国の外交代表が日本政府に爆撃中止を求めた。宣戦布告していない国の首都を爆撃し、しかも民間人を死傷させていることに抗議したのである。
 南京爆撃は、民衆の戦意を崩壊させ、中国軍の早期降伏を誘発するためのものであった。しかし、そうはならなかった。日中戦争の行き詰まり打開策として、戦略爆撃に重点が移動した。
そのとき、毒ガス弾の使用も軍当局は認めていた。ただし、目立たないように注意しろという但し書きがついていた。毒ガス弾の使用を認めたのは、中国軍の激しい抵抗を受けて日本軍にも多大な犠牲者を出した上海戦のようにならないためであった。1941年11月、日本軍機はペスト菌を中国にバラまいた。ペストが蔓延して、数千人の死者が出た。しかし、日本軍の毒ガス戦について、戦後、アメリカ軍はそのデータと引き換えに関係者を免責した。
 重慶爆撃で最大の死者を出したのは1939年5月のこと。2日間だけで死者は4000人にのぼった。日本軍は武漢を基地として、300機以上を動員した。このとき使われたのはナパーム弾の性質に近い焼夷弾である。日本軍は重慶を無差別・絨毯爆撃した。
 ドイツや日本と違って、中国側にはわずかな防空能力しかなかったので、日本軍はほしいままに攻撃できた。
 この作戦を主導したのは海軍参謀長の井上成美(しげよし)中将である。井上は「海軍リベラル派」の人物として、ともすれば「反戦大将」の面が強調されるが、重慶爆撃においては一貫して積極派であった。
 中国軍ではソ連の飛行機と飛行士が実は活躍していた。1937年から1939年にかけて、ソ連は中国に対して、1000機の飛行機と2000人の飛行士、500人の軍事顧問を送り込み、大砲・高射砲そして石油などの軍需物資を供給していた。しかし、ソ連はドイツとの関係が緊張した1941年7月に派遣を中止して引き上げた。
 日本人は、その受けた東京大空襲のみを思い出しますが、実は空襲の点においても無差別・民間人殺傷を始めたのは日本軍であったのです。その意味で忘れることは許されません。
 私も一度だけ、武漢そして重慶に行ったことがあります。夏は40度を超す炎暑の土地です。重慶では真っ赤な色をした火鍋をすこしだけ食べました。ともかく辛いのなんの、口が火傷しそうなほどとんでもなく辛いのです。
 この本を読んで、日本人はドイツと違って、今なおきちんと戦争責任に向き合っていないことを痛感させられました。
 
(2009年1月刊。1800円+税)

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