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カテゴリー: 日本史(戦後)

高橋是清暗殺後の日本

カテゴリー:日本史(戦後)

 著者 松元 崇、 大蔵財務協会 出版 
 
 著者には内閣府大臣官房長という肩書があります。大蔵省(財務省)のエリート官僚コースをたどっていますが、戦前の日本史もかなり勉強していて大いに勉強させられました。ただ、いくらか「陰謀史観」の悪影響も受けているように思われ、もう少し突っ込んで調べてほしいと思うところがありました。
 たとえば、第二次上海事変をソ連の陰謀によって発生したというのです(本を引用しています)。これには首を傾げました。また、1940年(昭和15年)8月の中国大陸における百団大戦について、これは、日本軍と極秘の協力関係を結んでいた毛沢東の意に反したものだったとしています(コン・チアン氏によれば・・・・)。ええっ、こんな話は聞いたことがありません。本当でしょうか。著者自身が、この百団大戦について、もっと調べたほうがいいのではないかと思いました。
そんな「弱点」はありますが、戦前の日本を国家経済そして財政学の観点からみたらどうなるのか、考える材料が提供されています。
 2・26事件当時、繁栄していた日本が突然、「持たざる国」になって窮乏化していったわけではない。経済原理を理解しない軍部の満州経営や華北経営が、経済的な負け戦となって、日本経済をジリ貧に追い込んでいき、日本を「持たざる国」にしてしまった。軍部による経済的な負け戦は、「贅沢は敵だ」と言わなければならないほどに国民生活を窮乏化させていった。それを英米の対日敵対政策のせいだと思い込んだ(思わされた)国民は英米への反感を強め、実はそれをもたらしている張本人である軍部をよりいっそう支持するようになっていった。そのような状況下で、本来なら戦う必要のなかったアメリカとの大戦争に突入し、国土を焼野原にされて敗戦を迎えたのが、あの第二次世界大戦だった。
 この指摘にはあまり異論はないのですが、果たして2・26事件当時、日本は繁栄していたのでしょうか。東北地方では娘の身売りもあったほど、貧困問題も深刻な社会状況があったと思いますが・・・・。
 戦前日本の急増する軍事費の大部分をまかなったのが公債と借入金だった。
賀屋興宣蔵相は、昭和17年1月の帝国議会において、「多くの公債を出して戦争生産が増大しうる状況が勝つために必要であります」と述べ、さらに、昭和18年2月の帝国議会では、「公債の信頼性は勝利によって獲得する敵産が裏付けとなります」と答弁して急増する軍事公債の発行を正当化した。
国民の食糧を安定確保することは、戦時中に政府の最重要の課題で、政府は米穀の売買を全面的に国家統制の下に置いた。その際、地主からの買い上げ価格と、実際の生産者からの買い上げ価格に差をつける二重価格システムが採用された。政府は、米一石あたり50円で買い入れたが、小作人(生産者)に対しては、生産奨励のための生産奨励金が上乗せされた。小作人への生産奨励金は、当初5円だったものが、最終的には200円にもなり、50円しか受けとれない地主の社会的・経済的基盤を掘り崩すことになった。この仕組みの結果、終戦時には、小作人が耕作する農地は、地主にとって、ほとんど価値のないものになり、それが戦後の農地解放を地主層に大きな抵抗なく受けいれさせる背景となった。
こんなことは私は知りませんでした。私の父の実家も少しばかりの地主で、いくらか農地解放で小作人のものになり、戦後、中国大陸から復員してきた父の弟のために田を回復してやったという話は聞いていましたが・・・・。
戦後の日本の金本位制は、実は、今日の管理通貨制度に近いもので、欧米のように金貨が流通することはなかった。日本では、江戸時代から金貨は一般に流通せず、藩札や銭が広く流通していた。
そして、商業上の決済には、為替や手形が用いられていて、金貨の利用は贈答用に限られていた。江戸では手形よりも金銀貨で商人間は決済していたが、京都では50%、大阪では99%が手形だった。為替手形は、17世紀から江戸でつかわれていた。その手数料は一両につき1~2%という低率だった。江戸時代の大阪で先物市場が創設された背景には、商人間の取引の99%が手形で決済されるという金融取引の実態があった。
大変勉強になった本でした。 
(2010年8月刊。1800円+税)
 親しい弁護士仲間と盛岡近辺を旅行してきました。一日目の初めは、猊鼻渓の舟下りです。天気予報によると雨の確率は高かったのですが、バスのガイドさんの名前が照美さんだったので、幸いなことに雨は降りませんでした。
 平底の大きな舟に乗り込みます。中央を含めて三列、60人も詰め込まれました。船外機はついておらず、船頭さんのこぐ櫓(ろ)だけで舟は進みます。しかも、舟はまずは川を上っていくのです。川の流れはゆったりしていますが、それでも60人乗りの平底舟をこいで進めるのには、相当の力が必要なはずです。私たちの乗った舟をこいだのは、唯一の女性船頭さんでした。30分ほども進むと上陸地点があり、そこから歩いていくとすごい断崖絶壁が対岸にそそりたっています。その対岸の壁に平たい穴があいていて、そこに小石を投げ込むと招福無病息災が約束されるというのです。30メートルは離れているでしょうか。東京の本林さんが、なんと一発必中しました。私たち仲間全員に招福・息災が保障されたと信じ、みんなで拍手しました。
 舟着き場に戻り、舟に乗って今度はゆるゆると川下りを楽しみます。両岸の森は紅葉にはまだ早く、緑の静けさに包まれています。
 上りのときには櫓をこいで、少し息の上がっていた感のある女船頭さんが、歌を披露して下さいました。とても息の長い舟歌です。トンビがヒュルルルと鳴いて合いの手を入れてくれました。静かな川面に歌が流れ、涼しい風が肺の奥底まで澄み切った緑の香りを吹き込んでくれます。
 舟の両側には大小の魚たちが伴走しています。小さいのはウグイ、大きい方はコイです。エサをなげると水面に大きな口をあけてひとのみです。このエサを目当てに伴走しているのでした。
 アオサギが頭上を静かに飛んでいきます。運がいいとカモシカにも出会えるといいます。
 往復1時間半ほど、山の中、川面を静かに楽しむことができました。まさに命の洗濯です。

草原の風の詩

カテゴリー:日本史(戦後)

 著者 佐和 みずえ 、 西村書店 出版 
 
 1903年(明治36年)、日本人の若い女性が中国大陸に渡り、万里の長城を越えて、モンゴルの王宮に出かけてのでした。
 実験にもとづく小説です。日本軍の中国そしてモンゴルへの侵略と支配の先兵となってしまうのではありますが、一人の日本人女性の勇敢な生き方が情感あふれるタッチで描かれています。その意味で、大変読ませます。
 そんなように紹介すると、おまえはいつから侵略日本の手先になったのかと、きついお叱りを受けそうです。まあ、そう言わずに、小説として、また、日本人女性の善意ある活躍が政治に翻弄される物語として読んでもいいかなと思います。
 それだけ、モンゴル国を取り巻く状況も描かれているということでもあります。
 侵略軍としての日本人の嫌やらしさも多少は描かれていますので、戦前の日本を知るきっかけになる本だと思いました。
               (2010年2月刊。1500円+税)

日本軍の治安戦

カテゴリー:日本史(戦後)

 著者 笠原 十九司 、 岩波書店 出版 
 
 ひき寄せて寄り添ふごとく刺ししかば声もな立てなくくづをれて伏す
 夜間、敵の中国軍陣中に潜入、遭遇した中国兵を抱え込み、自分の体重をかけて帯剣で突き刺し、腸をえぐるようにして切断する。中国兵は呼び声をあげる間もなく崩れるように即死する。
 このように人を殺している瞬間をうたった歌は、日本短歌史のなかでも類を見ない。これは、戦後短歌の代表的歌人である宮柊二の『山西省』という歌集におさめられている。
宮は、銃剣による中国兵の刺殺に慣れていた。
うむむ、なんということでしょうか・・・・。言うべき言葉も見当たりません。
落ち方の素赤き月の射す山をこよひ襲はむ生くる者残さじ
これまた、すごい歌です。これから八路軍(中国共産党の軍隊)の根拠地のある山村に夜襲をかけ、村民ふくめて皆殺しにしてやろうという短歌なのです。よくぞ、こんなことを短歌によんだものですね・・・・。
中国軍民の死者1000万人という被害者の規模について、日本人には想像できないし、受け入れがたい数字だと思っている人が多い。その主な理由は、中国侵略戦争の期間に、日本軍が中国各地でどのような加害行為・残虐行為をおこなったかについて、あまりにも事実を知らないからである。その典型が、華北を中心とする広域において、中国民衆が、長期間にわたってもっとも甚大な被害をこうむった三光作戦の実態がほとんどの日本人に認識されていないことである。
日中戦争において、中国大陸には、いつも日本軍に対する二つの戦場が存在した。中国では、この二つを正面戦場(国民党軍戦場)と敵後戦場(共産党軍戦場)と呼んでいる。日本軍は正面戦場では中国の正規軍であった国民政府軍と正面作戦を展開し、後方戦場では共産党勢力を中心とする八路軍・新四軍・抗日ゲリラ部隊が日本軍に対してゲリラ戦を展開した。
日本の戦争指導体制は、政府と軍中央が対立、軍中央も参謀本部と陸軍省の対立があり、陸軍に対抗して海軍拡張を目論んだ海軍が日中戦争を華中・華南に拡大させるのに積極的役割を果たした。陸軍は陸軍で、軍中央と現地軍との対立・齟齬があり、現地軍が軍中央の統制を無視して作戦を独断専行する、下克上の風潮が強かった。
軍部の暴走を天皇は追認し、むしろ激励する役割を果たした。国家の重要政策・戦略を最終決定した天皇臨席の御前会議は文字どおり会議であって、常設ではなく、戦争の最高指導機関とされた大本営や大本営政府会議も、軍事、外交・経済政策を統合して強力に指導する機能はなかった。しかも、戦争指導は、天皇の統帥権を利用した軍部の集団指導体制になっていたが、国家主権者であり、軍隊の統帥権をもつ天皇は「神聖にして侵すべからず」とされる存在であり、政治や軍事の責任を負わない仕組みになっていたから、天皇に近い軍中央の高級エリートほど天皇を騙(かた)って責任を問われず、回避できる構造になっていた。天皇制集団無責任体制と呼ばれるゆえんである。
富永恭次第一部長(小将)は参謀本部内の下克上の風潮を代表する軍人であり、熱狂的な興奮にかられて武力行使による仏印進駐を主張して独走した。東京からハノイへ出かけ、自分の命令をあたかも参謀総長の命令であるかのように装って、南支那方面軍参謀副長の佐藤賢了大佐とともに第五師団を動かして日本軍の北部仏印進駐を強行した。
ノモハン事件のときには、血気にはやる辻政信少佐(作戦参謀)や服部卓四郎中佐ら作戦参謀のソ連軍の戦力を軽視した作戦指導により、4ヶ月にわたる死闘が続き、2万人もの死傷者を出した。このようにして関東軍を引きずり無残な大敗を招いた実質的な責任者である辻政信は、敗北を導いた責任と罪を前線の連隊長以下になすりつけ、自決を強要した。
辻や富永のような、異常ともいえる強烈な個性と迫力をもった参謀エリートが、常に積極攻勢主義を唱えて周囲を引きずり、陸軍の方針決定に大きくかかわっていた。このようなことは、まさに天皇制集団無責任体制においてこそ可能だった。
1940年当時、中国に派遣されていた日本軍は65個師団、85万人に達していた。これは日本の動員力の限界に達していた。これだけの兵力を中国大陸に投入しても、日中戦争の膠着状況を打開できなかった日本の戦争指導当局は、ヒトラーの率いるナチス・ドイツの電撃作戦の予期以上の進展に引きずられた。
1940年8月から10月にかけての第一次、第二次の百団大戦という大攻勢による日本軍の被害は甚大だった。八路軍による百団大戦で甚大な被害を受けた北支那方面軍は、対共産党軍認識を一変させ、反撃と報復のための大規模なせん滅掃討作戦を展開した。
中国農民が中国共産党の指導を受け入れ、これを指示させたのは日本軍の報復の脅威だった。共産党は、日本軍を直接経験しなかった地域では、ゲリラ基地を建設できなかった。すなわち、日本の侵略による破壊と収奮が、北方中国人の政治的な態度を激変させたのである。華北の農民は、戦時中、共産党の組織的イニシアチブにきわめて強い支持を与え、共産党のゲリラ基地は華北の農村で最大の数を記録した。
多くの中国人は、言わないけれど、日本軍のしたことを決して忘れてはいない。
百団大戦は、北支那方面軍の八路軍に対する認識を一変させ、それまでの治安工作を重点にした治安作戦(燼滅掃討作戦)重視に転換させる契機となった。
共産党軍それ自体の軍事力はたいしたことないが、治安攪乱の立体は、共産主義化した民衆であり、これが主敵であるとみなすに至った。ここに抗日根拠地、抗日ゲリラ地区の民衆を主敵とみなして、殺戮、略奪、放火、強姦など、戦時国際法に違反する非人道的な行為をしてもかまわないという治安戦の思想と方針が明示されることになった。
日本軍の治安戦が統治の安定確保とは正反対の結果をもたらし、未治安地区を治安地区に拡大するどころか、略奪・破壊・殺戮など日本軍の蛮行によって生命・生活が極度の危険に追い込まれた中国農民が、共産党・八路軍の工作に応じて協力し、さらには抗日ゲリラ闘争に参加していったのは当然のことであった。
香川照之が熱演した中国映画『鬼が来た』は、まさにこの状況を活写していました。
大変勉強になる本でした。いつもながら著者の博識と迫力には感嘆します。 
(2010年5月刊。2800円+税)

昭和天皇、側近たちの戦争

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:茶谷誠一、吉川弘文館
 昭和天皇をめぐって、さまざまな思惑が微妙にすれ違い、天皇自身の意思も必ずしも貫徹してはいなかったという実情が詳細に、また実証的に明らかにされていて、大変面白く、興味深く読みました。著者はまだ30歳台の若手研究者です。学者ってやっぱりすごいなと思いました。
 遅くとも1946年1月までに、マッカーサーをはじめとするGHQは、日本占領統治の円滑化のために天皇制を利用することを決め、アメリカ本国にもその意見を伝えていた。つまり、GHQとアメリカ政府の日本占領統治方針として、天皇制の存続と昭和天皇の在位(退陣させないこと)が申し合わされていた。
 しかし、天皇の周囲には、天皇を戦犯・罪人として裁くべきだという声があり、少なくとも退位させようという声も強かった。
 昭和天皇は、即位直後から「統治権の総攬者」としての地位を自覚し、天皇大権の取り扱いについても、自分の意思を無視した恣意的な運用に厳しい目を向けていた。1927年に田中儀一内閣がおこなった中央・地方の官吏異動につき、天皇は牧野内大臣に対して反対の意思をもらした。
 張作霖爆殺事件が起きたのは1928年6月4日のこと。関東軍の謀略計画によってひき起こされた。翌1929年6月、田中儀一首相が張作霖事件の最終報告のため参内して昭和天皇に拝謁した。昭和天皇は、牧野内大臣らとの手はずどおり、田中首相に前回の上奏内容と矛盾していると叱責し、田中首相からの再説明を拒否して拝謁を打ち切った。結果として、田中内閣は総辞職した。
 牧野グループによる輔導の結果、積極的な政治介入の姿勢を見せる昭和天皇は、田中首相を叱責して内閣総辞職に至らしめるという事態までひき起こしたのである。
 田中首相叱責事件によって、天皇の政治意思の表明や親裁が抑制されていた大正時代とは異なり、あらためて天皇の意思が政局に重大な影響を与えることが各政治勢力に認識させる契機となった。そのため、天皇の意思と異なる政治思想や政策を抱く政治勢力からは、天皇の君徳輔導にあたる側近、とくに牧野グループへの批判が噴出するようになった。
 1930年7月のロンドン条約批准の際の惟幄(いあく)上奏阻止問題により、軍部や右翼から牧野内大臣、鈴木貫太郎侍従長ら天皇側近を批判する声が高まった。側近を批判する人々にとって、牧野や鈴木は、天皇の政治意思を独占し、自分たちに都合のよい聖意を形成させていると認識されていた。1930年代を通じて激化する側近攻撃は、いよいよ本格化のきざしを見せていった。
 1935年、国内では、天皇機関説排撃運動とそれに連動した天皇側近への排斥運動がおこっていた。なかでも、在職歴の長い牧野内大臣と美濃部達吉の師であった一木枢密院議長への批判が激しく、いわゆる重臣ブロック排撃が叫ばれた。
 牧野が内大臣の辞位を決意した背景には、軍部や右翼勢力になすすべなく追随していく時局への憂慮と側近間の意見対立から、それを阻止できないみずからの無力と孤立を感じていたことにある。
 1935年12月、牧野が内大臣を辞任した。これは昭和天皇にとっても衝撃であった。天皇は裁可したあと、声をあげて泣いた。
 1937年、日中戦争が勃発したあと、天皇は重要な外交問題が発生すると、御前会議の招集を主張することがあった。しかし、湯浅内大臣は、天皇の親裁や政治責任の波及という問題を避けるため、御前会議ではなく、閣議に親臨という形式にこだわった。失敗したときの責任追及が天皇に及ばないようにしたいということである。
 即位以来、天皇の大権意識は強く、輔弼(ほひつ)者による勝手な大権の行使には厳しい目を向けてきた。日中戦争以降も、天皇は輔弼者の施政に一任していたわけではなく、天皇大権にかかわる事柄には、とくに注文をつけ、適切な処理を求めていた。
 天皇は、防共協定強化問題に限らず、1939年5月から8月の平沼内閣総辞職までの期間において、天津租界封鎖事件と日英会談、ノモンハン事件、ナチス党大会への寺内寿一元陸相の派遣問題など、自身の信条とする強調外交路線に反する陸軍の行動全般について、不信感をいだいていた。
 天皇や湯浅内大臣の陸軍批判は痛烈となり、7月5日、天皇は板垣陸相に対し、陸軍内部の下剋上風潮や幼年学校からの軍事教育の偏重、板垣陸相の能力にまで言及しながら詰問した。湯浅内大臣は、陸軍は乱脈で、もうとても駄目だ、国を滅ぼすものは陸軍じゃないか、と憤慨していた。逆に、陸軍内では天皇の政治意思や権威が軽視されていた。
 天皇を、タテマエはともかく、ホンネでは単に利用できればいいと考えていた軍部。天皇に失敗した政策の責任が波及しないように汲々としていた側近など、さまざまな思惑が交錯していたことが、この本のなかで生き生きと描かれていて、大変勉強になりました。
(2010年5月刊。1700円+税)
フランスで日本のマンガが大人気であることを知り、大変驚きました。
 ディジョンの中央郵便局の前にはマンガ専門の小さな店があります。そこには日本のマンガ(もちろん、フランス語です)しか置いてありません。実は、2年前にエクサンプロヴァンスでも同じような店を見つけたのでした。ディジョンの店で私は『神の滴』を1冊買い求めました。フランス語にもワインの勉強にもなると考えてのことです。
 そして、中央郵便局の近くの大きな書店の2階にもマンガのコーナーがあり、そのなかには「少女」の棚までありました。こまやかなマンガのストーリーが好まれているようです。

母(オモニ)

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:姜 尚中、出版社:集英社
 戦後日本の実情が描かれています。著者は団塊世代の私より2つ年下ですので、そこで紹介されている在日朝鮮人の生活は私にとっても、身近な存在でした。
 舞台は熊本市内ですが、私も福岡県南部で生まれ育ったので、よく分かるのです。
 熊本と朝鮮人労務者との関係は、韓国併合よりも早い、1908年(明治41年)にまでさかのぼる。人吉─吉松間の鉄道ループ工事に数百人の朝鮮人労務者が使役された。三井系の三池炭鉱や阿蘇鉱山、三井三池染料、三菱熊本航空機製作所などで強制労働に従事していた。
 そして、朝鮮人の集落があり、そこではドブロクの密造もされていた。
 私の住む町にも、近くに朝鮮人の集落があり、豚が飼われ、ドブロクがつくられていました。たまに、警官隊が踏み込んで密造酒づくりを摘発したという話を、私も幼い子どものころに聞いていました。
 オモニは文字の読み書きが出来ない。ところが、不思議なことに、その口調にはナマリがなかった。朝鮮人を思わせるイントネーションはまったくなかった。
 総連と民団という言葉も、今となってはなつかしい言葉です。もちろん、今もこの二つの団体は存在しているのですが、30年前には、お互いに張り合っていました。どちらかというと、今と違って総連のほうが活動家に勢いがありました。同胞の面倒みの良さも上回っていたと思います。
 戦前の日本で憲兵となった著者の叔父は単身、韓国に帰った。そして、苦労して弁護士になり、大出世します。反発していた著者も韓国に渡って、祖国を見直すのでした。ただ、成功した叔父も、晩年は人に騙されて哀れだったとのことです。栄枯盛衰は世の常ですね。
 この本は母(オモニ)を主人公とした小説の体裁をとっていますから、すっと感情移入して読みすすめることができ、大変読みやすい本になっています。そのなかで在日朝鮮人の家族の歴史を理解できる本です。ますますのご活躍を祈念します。
 ちなみに、私も母の生きざまを描いてみました。やや中途半端で終わっていますので、この本のように、もう少し小説仕立てにしたほうが読みやすいのかなと思ったことでした。
 一読をおすすめします。
(2010年6月刊。1200円+税)

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