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カテゴリー: 日本史(戦後)

ニッポンの海外旅行

カテゴリー:日本史(戦後)

 著者 山口 誠、 ちくま新書 出版 
 
 20代の海外渡航者が最多を記録したのは1996年(平成8年)であり、この年には463万人の20代が日本から海外へ飛び立った。12年後の2008年には、262万人となり、
43.4%も減少した。なかでも、20代前半の女性の減少率は5割であり、半減した。1972年(昭和47年)、日本人の海外出国者数は初めて年間100万人の大台を突破した。このとき、3.5人に1人は20代の若者であり、そのうちの女性の45%は20代だった。
 『地球の歩き方』は1976年(昭和51年)に初登場したが、そのときは文庫本サイズの非売品だった。市販されたのは1979年(昭和54年)のこと。300頁をこえる分厚い本だった。私は、今もこの本は参照しています。
 日本の観光旅行には二大特徴がある。第一に、伊勢参りのような団体旅行が主流であり続けた。第二に寺社参詣のような大義名分を掲げる旅行が主流である。なるほど、そうですね。当会でも、裁判所訪問を大義名分に掲げて海外旅行を重ねている弁護士グループがあります。
 1980年代の半ばに登場した旅行情報誌が、旅行業界の勢力図を一気に塗り替えた。1985年に495万人だった日本人の海外渡航者は5年後の1990年には、1100万人へと倍増した。平均して国民の11人に一人が毎年、海外へ旅行するようになった。多くの日本人にとって、海外旅行は一生に一度の大イベントではなくなり、国内旅行よりも安い海外旅行が語られるようになった。1990年には、大学生の3人に1人が卒業旅行で海外へ旅立った。
ところが、今やリクルートの旅行情報誌『ABロード』は2006年10月号で休刊となり、その機能をインターネット上に移した。インターネットは、「孤人旅行」を加速している。なぜか・・・・。
どこへ行っても同じような「買い・食い」体験をする、定番化した「歩かない」個人旅行は、どこでも同じことを繰り返す海外旅行でもあり、1~2回行けば飽きてしまう。
スケルトン・ツアーの一極化とカタログ型ガイドブックの躍進によって、「買い・食い」中心の孤人旅行が日本人の海外旅行の基本形となった。
「歩かない」個人旅行が主流となり、旅先の日常生活と接点を持たない孤人旅行が海外旅行の基本形となって久しい現状では、若者は魅力を感じないだろう。
「歩く」旅を改めて提起する必要があると著者は強調しています。
 この夏の私のブルゴーニュをめぐる旅は、まさに「歩く」旅でした。そのとき、いくらかフランス語を話せるのが最大の利点になりました。政治を語ったりするような難しい話はできませんが、ホテルやレストラン、そして、タクシーに乗るくらいは不自由しないのです。弁護士になって以来、36年も朝のNHKフランス語講座を聴き、年2回のフランス語検定試験を受けていますが、あきらめずにフランス語の勉強を続けていて良かったと心から思っています。
 
(2010年7月刊。780円+税)

手記・反戦への道

カテゴリー:日本史(戦後)

 著者 品川 正治、 出版 新日本出版社  
 
 松山への出張の帰りに読みはじめ、飛行機のなかでも涙を流しながら一心不乱に読みふけってしまいましたので、雨雲のなかでのひどい揺れを気にすることもなく福岡空港に無事着陸したのでした。
著者の講演は直接きいたことがありますし、別に書かれている本も読んでいましたが、戦前の学校生活そして中国大陸での生死紙一重の戦争体験記を読んでいると、身体中が震えてしまいます。
著者が擲弾筒を発射して敵の中国軍に命中させたとき、国を侵略軍(日本軍のことです)から守るために起ち上がった中国人を何人も殺したわけです。そして、ついに、著者は中国軍の砲撃を受け、直撃こそ免れたものの、血だらけとなり、部隊全滅と日本へ伝達される憂き目にあったのでした。しかし、砲の破片が身体に入ったままではあっても、なんとか生命だけは助かり、終戦を迎えることができました。この終戦時に、反戦思想の故に前線をたらいまわしにされていた隊長と一緒に行動するなかで、捕虜となって飢え死に寸前に日本へ無事に帰りついたのです。ところが、日本で著者の帰りを待ちわびていたはずの恋人は戦災で亡くなっていました。その嘆きは深いものがありますが、その日は著者が生死をさまよっていたのと同じ日だったというのも偶然とは言えない一致でした。
 著者が学征出陣するきっかけとなった京都の三高での生活も興味深いものがあります。18歳ころというのは、何も考えていないようで、深く人生を考えるものだということを、我が身を振り返っても言えることだと思いました。
 それにしても、西田哲学をはじめとして、いつ兵隊にとられて死ぬかもしれないという状況の下で、必死になって学問を深めようとするものなんだと痛感しました。私自身は19歳から20歳にかけて大学二年生として東大闘争を経験しています。そのころから、セツルメント活動をふまえて、それなりに人生をいろいろ考えていました。著者のように、いつ兵隊にとられて戦場で死ぬかもしれないという切迫感こそありませんでしたが、真剣に生き方を模索する学生は多かったものです。
 この本は、著者の青春そして多感な恋愛記でもあります。そちらのほうも大変興味深く読みすすめていきました。なかなか思い切った決断をしたものだと感嘆させられたことです。 一読に価する本としておすすめします。 
(2009年2月刊。1600円+税)

歩いて見た太平洋戦争の島々

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:安島太佳由、出版社:岩波ジュニア新書
 太平洋戦争を美化しようという声は戦後一貫してありますが、戦跡の写真と、その体験記を読むと、なんとまあ無謀な戦争に日本が突入したのか、信じられません。
 たとえば、クリント・イーストウッド監督によって映画になった硫黄島です。
 硫黄島にいた日本軍は2万1000人。そこにアメリカ軍7万人が上陸した。1ヶ月の戦闘によって、日本軍は2万人をこえる戦死者を出し、アメリカ軍は6800人の死者と2万人の負傷者を出した。
 そして、今なお、日本兵1万1000人の遺骨が地中にあり、回収されていないのです。
 兵隊さんを二度と殺してはいけない。一度目は戦死。二度目は、彼らの存在を忘れて見殺しにすることによって。
 水のない島で、地中深く、50度以上にもなるなかで潜んで殺されていった日本兵の無念さを思うと、涙が出てきます。
 最近も、慰霊祭に参加していた中学生が草むらで鉄のかたまりを見つけて放り投げて遊んでいたところ、それは不発弾でした。こんなことが、今も硫黄島には起きています。
 日本政府の責任でなんとかすべきではないでしょうか。幸い、少し動きが出ているようです。
 次はガダルカナル島。ここには、次のような生命判断があった。立つことのできる人間の寿命は30日間、身体を起して座れる人間は、3週間、寝たきり起きられない人間は1週間、寝たまま便をするものは3日間、ものを言わなくなったものは2日間、またたきしなくなったものは、明日。
 このようなガダルカナル島で悲惨な体験をした兵士の存在が日本人に知られることを恐れた軍部は、彼らを次の戦場へと送り込んだ。天皇陛下の皇軍は、最後まで勇猛果敢に戦い、お国のために戦死していったことにし、餓死などはなかったことにしたかったのだろう。
 ジャワの天国、ビルマの地獄、生きて還れぬニューギニア。
 このニューギニアの戦場は、生きて還れぬどころか、「死んでも還れぬ」場所だった。
 戦場では、死は特別のものではなく、日常ですらあった。
 一ヶ月近くのものは、すでに完全な白骨。全身にウジ虫がわいているのは数日前、まだ息があるのではと思えるものは、昨日、今日。
 ニューギニアのビアク島では、今でも、掘れば、すぐに日本兵の白骨死体が出てくる。割れた頭蓋骨に、白い歯がそのまま残る顎の骨が土の中から出てきた。
 なんということでしょうか。日本政府は直ちに遺骨収拾団を公費で派遣すべきです。そして、その結果を国民に報告する必要があると思います。人間の生命を粗末にしてはいけません。
 兵士といえども人間なのです。国の命令で仕方なく遠い戦場に行かされて亡くなった人々を放っておいていいわけがありません。読んでいて日本政府の無為無策にますます腹が立ってしまいました。
(2010年4月刊。940円+税)

靖国神社の祭神たち

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:秦 郁彦、出版社:新潮新書
 靖国神社は明治維新とともに誕生した。現在、祭神は246万余柱である。
 靖国神社は、国有国営の別格官幣社から単位の一宗教法人へ衣替えして今日に至っている。
 小泉首相(2001~2006年)は1年に1回のペースで参拝を続けたが、そのあとの安倍、福田、麻生、そして鳩山の各首相は公然たる参拝を控えている。
 昭和天皇も靖国神社へA級戦犯が合祀されてから参拝しなかった。1975年(昭和 50年)以降、天皇の参拝はない。
 西郷隆盛は、その死から12年後に罪名を取り消されて正三位を贈位されたが、靖国神社には合祀されていない。
 原則として天皇と天皇の統率する軍隊のために忠節を尽くした死者に限定され、反乱者や賊名を蒙った人々は対象外とされた。
 日清戦争直後までは、戦病死者は「不名誉な犬死」として合祀対象ではなかった。日清戦争の戦病死者の多くは、戦地における軍の衛生管理が不十分なことに起因するのは明らかだったから、救済する必要があった。しかし、民間人でも、日清戦争で軍に雇われ、「戦病死」した人夫(軍夫)は、合祀対象にならなかった。
 日露戦争のころは、捕虜と確認されるや、氏名が新聞発表されるほど、寛容だった。
 昭和10年までの女性の合祀者は累計で49人にすぎなかったが、支那事変以降は急増し、2006年末までの女性祭神は5万6161柱に達する。
 生存捕虜の情報を得ると、陸軍は将校の停年名簿から削除した。しかし、海軍は、終戦まで、士官名簿から外してはいない。
 戦後、遺族のあいだから靖国神社の存続を占領軍に請願する動きもあったが、インフレと食糧難の生活苦にあえいでいた一般国民の関心は急速に薄れ、年間の参拝者数は、ピーク時の192万人(1944年)から25万人(1948年)に落ち込んだ。
 私も一度は靖国神社に行ってみたいと思っています。それにしても、伊藤博文も、乃木希典も靖国神社に合祀されていないのですね・・・。
(2010年1月刊。1300円+税)

高橋是清暗殺後の日本

カテゴリー:日本史(戦後)

 著者 松元 崇、 大蔵財務協会 出版 
 
 著者には内閣府大臣官房長という肩書があります。大蔵省(財務省)のエリート官僚コースをたどっていますが、戦前の日本史もかなり勉強していて大いに勉強させられました。ただ、いくらか「陰謀史観」の悪影響も受けているように思われ、もう少し突っ込んで調べてほしいと思うところがありました。
 たとえば、第二次上海事変をソ連の陰謀によって発生したというのです(本を引用しています)。これには首を傾げました。また、1940年(昭和15年)8月の中国大陸における百団大戦について、これは、日本軍と極秘の協力関係を結んでいた毛沢東の意に反したものだったとしています(コン・チアン氏によれば・・・・)。ええっ、こんな話は聞いたことがありません。本当でしょうか。著者自身が、この百団大戦について、もっと調べたほうがいいのではないかと思いました。
そんな「弱点」はありますが、戦前の日本を国家経済そして財政学の観点からみたらどうなるのか、考える材料が提供されています。
 2・26事件当時、繁栄していた日本が突然、「持たざる国」になって窮乏化していったわけではない。経済原理を理解しない軍部の満州経営や華北経営が、経済的な負け戦となって、日本経済をジリ貧に追い込んでいき、日本を「持たざる国」にしてしまった。軍部による経済的な負け戦は、「贅沢は敵だ」と言わなければならないほどに国民生活を窮乏化させていった。それを英米の対日敵対政策のせいだと思い込んだ(思わされた)国民は英米への反感を強め、実はそれをもたらしている張本人である軍部をよりいっそう支持するようになっていった。そのような状況下で、本来なら戦う必要のなかったアメリカとの大戦争に突入し、国土を焼野原にされて敗戦を迎えたのが、あの第二次世界大戦だった。
 この指摘にはあまり異論はないのですが、果たして2・26事件当時、日本は繁栄していたのでしょうか。東北地方では娘の身売りもあったほど、貧困問題も深刻な社会状況があったと思いますが・・・・。
 戦前日本の急増する軍事費の大部分をまかなったのが公債と借入金だった。
賀屋興宣蔵相は、昭和17年1月の帝国議会において、「多くの公債を出して戦争生産が増大しうる状況が勝つために必要であります」と述べ、さらに、昭和18年2月の帝国議会では、「公債の信頼性は勝利によって獲得する敵産が裏付けとなります」と答弁して急増する軍事公債の発行を正当化した。
国民の食糧を安定確保することは、戦時中に政府の最重要の課題で、政府は米穀の売買を全面的に国家統制の下に置いた。その際、地主からの買い上げ価格と、実際の生産者からの買い上げ価格に差をつける二重価格システムが採用された。政府は、米一石あたり50円で買い入れたが、小作人(生産者)に対しては、生産奨励のための生産奨励金が上乗せされた。小作人への生産奨励金は、当初5円だったものが、最終的には200円にもなり、50円しか受けとれない地主の社会的・経済的基盤を掘り崩すことになった。この仕組みの結果、終戦時には、小作人が耕作する農地は、地主にとって、ほとんど価値のないものになり、それが戦後の農地解放を地主層に大きな抵抗なく受けいれさせる背景となった。
こんなことは私は知りませんでした。私の父の実家も少しばかりの地主で、いくらか農地解放で小作人のものになり、戦後、中国大陸から復員してきた父の弟のために田を回復してやったという話は聞いていましたが・・・・。
戦後の日本の金本位制は、実は、今日の管理通貨制度に近いもので、欧米のように金貨が流通することはなかった。日本では、江戸時代から金貨は一般に流通せず、藩札や銭が広く流通していた。
そして、商業上の決済には、為替や手形が用いられていて、金貨の利用は贈答用に限られていた。江戸では手形よりも金銀貨で商人間は決済していたが、京都では50%、大阪では99%が手形だった。為替手形は、17世紀から江戸でつかわれていた。その手数料は一両につき1~2%という低率だった。江戸時代の大阪で先物市場が創設された背景には、商人間の取引の99%が手形で決済されるという金融取引の実態があった。
大変勉強になった本でした。 
(2010年8月刊。1800円+税)
 親しい弁護士仲間と盛岡近辺を旅行してきました。一日目の初めは、猊鼻渓の舟下りです。天気予報によると雨の確率は高かったのですが、バスのガイドさんの名前が照美さんだったので、幸いなことに雨は降りませんでした。
 平底の大きな舟に乗り込みます。中央を含めて三列、60人も詰め込まれました。船外機はついておらず、船頭さんのこぐ櫓(ろ)だけで舟は進みます。しかも、舟はまずは川を上っていくのです。川の流れはゆったりしていますが、それでも60人乗りの平底舟をこいで進めるのには、相当の力が必要なはずです。私たちの乗った舟をこいだのは、唯一の女性船頭さんでした。30分ほども進むと上陸地点があり、そこから歩いていくとすごい断崖絶壁が対岸にそそりたっています。その対岸の壁に平たい穴があいていて、そこに小石を投げ込むと招福無病息災が約束されるというのです。30メートルは離れているでしょうか。東京の本林さんが、なんと一発必中しました。私たち仲間全員に招福・息災が保障されたと信じ、みんなで拍手しました。
 舟着き場に戻り、舟に乗って今度はゆるゆると川下りを楽しみます。両岸の森は紅葉にはまだ早く、緑の静けさに包まれています。
 上りのときには櫓をこいで、少し息の上がっていた感のある女船頭さんが、歌を披露して下さいました。とても息の長い舟歌です。トンビがヒュルルルと鳴いて合いの手を入れてくれました。静かな川面に歌が流れ、涼しい風が肺の奥底まで澄み切った緑の香りを吹き込んでくれます。
 舟の両側には大小の魚たちが伴走しています。小さいのはウグイ、大きい方はコイです。エサをなげると水面に大きな口をあけてひとのみです。このエサを目当てに伴走しているのでした。
 アオサギが頭上を静かに飛んでいきます。運がいいとカモシカにも出会えるといいます。
 往復1時間半ほど、山の中、川面を静かに楽しむことができました。まさに命の洗濯です。

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