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カテゴリー: 日本史(戦後)

ここまでわかった日本軍「慰安婦」制度

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  日本の戦争責任資料センター 、 出版  かもがわ出版
日本軍が「慰安婦」制度を設置した理由は4つ。
 第一は、強姦の防止。しかし、これは失敗した。軍の中で、慰安所で性暴力で公認しておいて、外で防ぐのには無理がある。
 第二に、性病の蔓延防止。実際には、これも失敗した。戦地での性病の新規感染者は1万人をずっと超えていた。
 第三に、戦地にいる軍人に「慰安」を提供する。酒と女性を提供するということ。
 第四に、防諜。スパイ防止ということ。
日本軍「慰安婦」制度は軍が主体となってつくった施設である。
 慰安所の女性は、外出の自由がない、外出するのは許可制。ビルマで保護された20人の日本軍の朝鮮人慰安婦のうち、12人は連行されたとき未成年だった。21歳未満の女性については、本人が売春目的であることに同意していたとしても、国際条約によると違法であるとされている。
 1937年の時点で、大審院が、上海の海軍慰安所に女性をだまして連れていったことを犯罪として認定した。
 戦後、バダビア軍法会議の判決は次のように判示した。
 「はじめの抵抗のあと、この残忍で非人道的な行為の犠牲者である女性たちが無駄だと思って抵抗を止めたからといって、彼女たちが自発的に売春したとか、被告の将校や慰安所業者の責任を逃れるということを正当化するものではない。なぜなら、最初に加えられた暴力行使の効果として起こったものであり、そこでは基本的な行動の自由はまったく論外だったからである」
 日本軍が、軍隊の責任で「慰安所」を設置していたこと、多くの女性を日本だけでなく朝鮮半島や東南アジアからだまして連れて(拉致して)いたことは日本史の重大な汚点です。軽々しく否定するわけにはいきません。
 安倍首相がこの歴史的事実を否定する談話を出そうとしていますが、韓国・中国そして東南アジアからの反発は避けられません。ますます日本は孤立化してしまいます。
(2007年12月刊。1000円+税)

兵士たちの戦後史

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  吉田  裕     、 出版  岩波書店   
 兵士体験者の生存数は2008年7月時点で40万人とみられている。大激減しています。それはそうですよね。終戦時に20歳の兵士であっても、今なら85歳ですからね。
 私の叔父は90歳を過ぎていますが、中国で八路軍としばらく行動をともにしていました。そんな戦争体験を早いこと聞き出しておかないと、歴史の闇に埋もれてしまいますよね。
 戦場の現実。第一に、戦病死という名の事実上の餓死者が大量に発生した。餓死者は140万人、餓死率は61%という推定がある。第二に、多数の将兵・軍属そして船員が船の沈没によって戦没した。40万人近くが溺れ死んだ。第三に、特攻死が初めて登場した。航空特攻だけでも、陸軍1327人、海軍2616人の戦死者を出している。
 戦艦「大和」が沈没したとき、アメリカ側は12人が死んだだけで、日本側は3700人もの戦死者を出した。
 硫黄島で死んだ日本軍の将兵のうち、敵弾で戦死したのは3割。残り7割の日本兵は、自殺が6割、1割が他殺、残りは事故死によって死んでいった。むむむ、これは実にむごい比率です。
日本への復員船のなかで、上官に対する吊るし上げやリンチが公然と行われた。階級による厳格な軍隊内秩序に対する兵士たちの怒りが爆発した。そして、社会全体の復員兵に対する態度は冷ややかなものだった。巨大な政治勢力と化して権力を乱用した軍部や権力的地位にあった軍上層部に対する反感・反発が復員兵全体に向けられた。とりわけ戦前にはヒーローだったパイロットたちへの反動には大きなものがあった。
私たちは民族自身のために戦ったのではなかったから、祖国の土を踏んでも、祖国の人たちと、まるで他人同士のようにしか接しなかった。これは、ある復員兵の述懐した言葉ですが、やはり戦争目的が他国への侵略だと、こうなるのでしょうね。
 中国からの帰還兵には、自分たちは負けていなかったとして、襟章を外そうとしない者が多かった。決着のつかなかった中国戦線の兵士たちには、日本軍の襟章・階級章は、むしろ誇りであった。
1961年に、軍人恩給に加算制が復活した。これによって在職期間が割り増しされた。その結果、1960年の軍人恩給を受けている47万人から1970年には126万人近くにまで増えた。
 1972年1月、グアム島のジャングルに28年間潜伏していた元日本兵の横井庄一・陸軍伍長が島民に発見された。また、1974年には、フィリピンのルパング島で30年にわたって潜伏活動を続けていた小野田寛郎・陸軍少佐が発見された。
 1974年12月には、インドネシアのチロタイ島で元日本兵の「中村輝夫」(台湾の高砂族出身。実名はスニョン、中国名は李光輝)が発見された。
軍隊のなかでは、私的制裁つまりリンチが横行していた。中隊長は父、班長は母、古年次は兄というのが建て前で、実際には会話なんてない父、継母、また暴力団の兄というのが真相だった。
元兵士たちは、残虐行為などの戦争犯罪に関して証言しても性暴力、とりわけ自分自身が行った性暴力については語ろうとはしないのが一般的である。性犯罪について話すのは、殺人よりも精神的に辛い。それは「命令でやった」という免罪符のつかえない犯罪だからでもある。
戦友会は、会員の高齢化のため、次々に解散し、活動を停止しているとのことです。
 日本軍の将兵の実態を知るうえでたいへん貴重な労作でした。
(2011年7月刊。2800円+税)

ヒロシマ

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 ジョン・ハーシー、   出版 法政大学出版局
 
 この本の初版が発行されたのは1949年4月のことです。全世界に原爆の惨禍を知らせ、ピュリッツアー賞を受賞したのでした。広島に原爆が投下された、その瞬間にいあわせて生き残った6人の戦後史が淡々とした筆致で描かれているので、かえって原爆のむごさ、非人道性が浮き彫りになっていきます。もちろん、何十万人もの罪なき人々を一瞬のうちに殺戮した残酷さはもっともっとひどかったことでしょうが、全世界の人々に原爆の惨禍を知らせた点に大きな意義のある本です。
50年たった2003年に7月に刊行された増補版を読んでも、まったく古臭さを感じさせません。それどころか、テロリストへの核拡散の脅威まである今日、ますますその意義は大きくなっています。
原爆投下前、何週間にもわたって、毎夜のようにB29が広島上空を飛んできた。その警報が頻繁なくせに、「Bさん」が相変わらず広島を敬遠しつづけていることが、かえって広島市民をびくびくさせ、アメリカ軍には広島向けの何かとっておきがあるらしいという噂が立った。日本の主要都市のなかで、京都と広島だけが、まだ「Bさん」、日本人は尊敬と不本意ながらもなれなれしさとをこめて、B29をこう呼んでいた、の大挙訪問を受けていなかった。
 投下の直後、驚くべき景観を見た。にごった大気越しに眺めうるかぎりの広島市街から、恐ろしい毒気がもうもうと立ちのぼっていた。やがて、おはじき玉大の水滴が落ちはじめた。
ただの一撃で、人口24万5000人の都会で、即死もしくは致命傷が10万人、負傷者も10万人以上にのぼった。少なくとも1万人の負傷者が、広島市中随一の日赤病院に押しかけてきた。病床は600にすぎず、それも全部ふさがっていた。道路を何百、何千という人が逃げてくる。一人残らず何かしら怪我をしているらしい。眉は焼け落ち、顔や手の皮膚はむけて、ぶらさがった人もいる。痛さのあまりに、両手で物を下げたようなかっこうで、両腕をさしあげたきりの人もある。たいてい裸か、着ていてもボロボロだ。素肌の火傷が、模様のように、シャツの肩やズボン吊の形になった男もいる。白いものは爆弾の熱をはじき、黒っぽい着物はそれを吸収して皮膚に伝えたので、着物の花模様がそのまま肌に焼きついた女の人もいる。
 ほとんどすべての人が、うなだれ、まっすぐに前方を見つめ、押しだまって、何の表情も見せない。
負傷者を船で運ぶとき、どの人の背中も胸も、ねちゃねちゃする。朝みたときは黄色で、それがだんだん赤くふくれ、皮がむけ落ち、夕方には、ついに化膿して臭くなった。ぬるぬる生身を抱いて船から出し、潮のこない斜面にまで運び上げる。これは、みんな人間なんだぞ、と何度も何度もわざわざ自分に言いきかせなければとても我慢できかねた。
爆発後の数日間、あるいは数時間だけでも安静に寝ていた人々は、動きまわったものより発病がはるかに少なかった。
男子は精子を失い、女子は流産し、月経は閉止した。
 いま、弁護士会は国是と言われてきた非核三原則の法制化を検討しています。核兵器をつくらず、持たずについては罰則つきで定めるのは容易なのですが、問題は「持ち込ませず」です。例の核密約がありますから、万一のときは、いつでもアメリカは日本の基地に核兵器を持ち込んでくるのではないかという心配があります。
ただ、時代が変わったことも間違いありません。オバマ大統領のプラハ演説のあと、アメリカもそれなりに核兵器をなくす方向には動いています。沖縄そして岩国や三沢などにあった核兵器は今では、完全に撤去されているようです。そこで、「持ち込ませず」が実現している今こそ法制化のチャンスだということです。国会で承認・可決されるような案を日弁連としてまとめて上げることができたらうれしいのですが・・・・。
ヒロシマそして長崎に落とされた原爆の惨禍を追体験できる貴重な本です。
ちなみにアメリカは配置済みの核兵器を減少させながらも、核攻撃力の強化をはかる政策が巨額の予算で推進しているようです。そのため、アメリカには深刻な経済不況がうまれているわけです。
 いかなる状況であれ、いかなる目的のためであっても、核兵器の使用は重大な人道に対する罪であり、最終的には、いかなる紛争も軍暴力によっては解決できない。
本当に、そのとおりだと確信させられる本です。
(2003年7月刊。1500円+税)
福島の原子力発電所が地震が起きて10日以上にもなるのに依然として爆発の危機を脱していないのは恐るべき事態です。現場で懸命に復旧作業にあたっている東電の社員の皆さんには心から敬意を表しますが、「絶対安全」と言い続けてきた東京電力という会社自体はあまりにもひどいし、津波の規模が「想定外」だったという弁解は成り立ちません。格納容器が破損するなど、あり得ないはずの事態が目の前で今も進行しているのを知ると、身震いしてしまいます。ともかく一刻も早く放射能の拡散を止めてください。そして、政府は「心配ない」と言うだけでなくもう少し具体的に説明してほしいと思います。
この本を読んだのは今年はじめのことです。まさか、現代の日本でこれほど放射能被害を深刻に心配しなくてはいけないとは想像もしていませんでした。それこそ「想定外」の事態です。

ノモンハン航空戦全史

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 D.ネディアルコフ 、  芙蓉書房 出版 
 
 1938年6月、日本軍はソ連国境地帯に短期間のうちに進出した。それに対してソ連軍が反撃し、日本軍は500人の戦死者と900人の負傷者を出して撤退した。この戦闘でソ連軍が迅速かつ決定的な勝利を得た最大の理由は、ソ連空軍の活躍にあった。
 ところが、ソ連空軍の能力は、スターリンによる粛清の影響を受けて、最良の状態にあるとはいえなかった。その粛清によって、1973年には赤軍極東戦線のすべての指揮官ポストは交代し、若くて経験の少ない将校たちが新たに空席となった指揮官ポストに起用された。ソ連空軍は、このように指揮組織が痛手を受けていたにもかかわらず、紛争地帯の上空で完全な航空優勢を維持していた。唯一の脅威は、まばらに配備されていた日本軍の高射砲だけだった。
スターリンのうち続く圧政でソ連軍が弱体化していたことは、西欧諸国につとに知れ渡っていた。
 ベリヤの秘密警察は、モンゴルの指導者たちを粛清した。1937年の終わり、モンゴル首相プルジディン・ゲンデンは逮捕され、人民の敵として銃殺された。軍高官の多くも反革命分子として処断された。
ノモンハンにいたソ連空軍のパイロットには誰一人として実践を経験したものがいなかった。それに対して日本のパイロットは高いレベルの操縦技術を維持していた。日中戦争で多くの戦闘経験を積んでいて、士気も高かった。その多くは1000時間の飛行経験を有し、部隊の装備にもまったく問題がなかった。
ノモンハン事件が起きたときの日ソ双方の航空戦力に関する評価は、パイロットの準備状況と航空機の性能の観点から日本軍が優勢だった。
 1939年5月、日本の航空部隊は、70キロメートルにわたるノモンハン上空の覇者となった。わずか2日間で、日本軍は、その損失1人に対して、ソ連軍に戦闘機15機、パイロット11人の損害を与えた。
 ソ連軍は、「航空優勢は敵の手中にある。わが空軍は地上部隊を援護することができない」と報告した。この報告を受けたソ連空軍指導部にとってスペインでの敗北に引き続いての二度目の敗北は考えられないことだった。そこで、経験豊富なパイロット22人を招集した。1939年6月の戦闘において、ソ連空軍は燃料給油の手間によって空における主導権を失ったが、数的には優勢だったため、いくらか穴埋めすることはできた。そのため、ノモンハン事件の戦況は決定的に変化した。日本軍のパイロットたちがソ連機の攻撃から離脱を余儀なくされた。ソ連軍は限られた空域に大量の戦闘機を集中的に投入した。
 1939年7月、ソ連軍は「空のベルトコンベア」と名づけた戦術を用いた。これは航空戦力を絶え間なく投入するものであり、地上部隊を直接支援する戦闘機と爆撃機によって、敵の頭上に絶えず脅威が存在している状態を作為するものだった。
このときの航空戦には、日ソ両空軍あわせて300機以上の作戦機が参加した。そして、この日はノモンハン航空戦におけるソ連空軍最初の勝利だった。
1939年7月、ノモンハン航空戦域の航空部隊にバルチック艦隊や星海艦隊の航空隊から高練度のパイロットたちが次々に移動してきた。これらのパイロットたちは、実践を経験することだけを目的に、何の役職も与えられないまま転属してきた。
 1939年7月下旬になると、戦闘可能な日本軍の戦闘パイロットたちは戦刀を増強させ優勢となったソ連軍とのほぼ3ヶ月にわたる戦闘で疲れ切っていた。ソ連空軍戦闘機隊が大規模な戦力の集中を始めるや否や、日本軍は機数の不足を出撃数で補わざるをえなくなった。日本軍戦闘機パイロットたちは、1日に5回も7回も出撃することになった。
 1939年8月、ノモンハンは、ロケット弾の実証試験の場となった。ソ連空軍は、日本軍航空部隊に対して、3倍の数的優位を維持していた。この数的優位は、とくに爆撃戦力で顕著であり、ジューコフ中将たちはきわめて野心的な目的を設定していた。
 日本軍パイロットたちは、1日あたり6.5時間の戦闘時間であり、交代要員もいなくて、健康上の問題が生じていた。肉体的・精神的な極度の疲労は高級指揮官にも蔓延していた。9月の格闘戦でソ連空軍が勝利した原因は、高速性能、発射速度の高い機関銃の破壊力、そして「一撃離脱」戦術だった。
 航空優勢が逆転した主たる要因は航空機と人員の予備戦力を十分に確保できる能力にあった。そして、この予備戦力をタイムリーな方法で投入できる能力だった。作戦環境への対応について、ソ連軍は日本軍よりもずっと柔軟であり、かつ断固としていた。
 日本軍のパイロットは絶望的なほど不足していた。日本軍の飛行訓練学校で養成したパイロットはわずか1700人にすぎなかった。ソ連空軍の作戦機と補助機は250機。日本軍は164機だった。このうち、作戦行動中に喪失したのは207機と90機である。ソ連空軍が運用したのは900機で、日本軍は400機。これが80キロメートルの幅で戦った。
ノモンハン航空戦は、空中で始めて全面的な戦闘のあったところである。
ノモンハン事件を飛行機の戦いとして知ることのできる貴重な本です。
(2010年12月刊。2500円+税)

キャンバスに蘇るシベリアの命

カテゴリー:日本史(戦後)

 著者 勇崎 作衛、 集英社 出版 
 
 終戦後、多くの日本軍将兵がソ連軍によって中国からシベリアに強制連行され、抑留されて働かされました。
 著者は、中国で病院の衛生兵として働いていて、22歳でシベリアに送られました。幸い3年後に無事に日本へ帰国できたのですが、その3年間の苛酷な生活を、なんと65歳になってから油絵を始めて絵描きだしたのです。87枚の絵は酷寒のシベリアでの労働の苛酷さ、非人間的状況を如実にうつしとっています。
 寒冷期になると、収容所の周囲は雪だけで食べるものがなくなる。監視のソ連兵の残飯捨て場に出かけてガラの骨、キャベツの芯、芋の皮などを一所懸命に探してスープにして食べた。支給される食事で足りない分のカロリーをこうやって補った。
 日本兵は、ひどい消化不良と衰弱に加え、寒さのため身体は冷えきって全員が下痢を患っていた。ところが我慢できずに排便しようとして隊列を乱すと、ソ連兵がムチを鳴らして追い立てるのだ。
 冬のシベリアは零下40度。冷蔵庫の製氷室よりも寒い。外での作業で本気を出したら、生きて日本に還ることは出来なかった。
 日本兵の体力検査は、ソ連の女軍医が尻の皮をつまんで引っぱることで決まった。皮下脂肪の厚さで、重労働、軽作業の等級が決まった。シベリア抑留生活のむごさを描いた絵画集は前にも紹介しましたが、こうやってビジュアルになると、その苦労が視覚的にもよく伝わってきます。
 『夢顔さん、よろしく』という本に出てきた近衛首相の息子がシベリアで死んでいったことも改めて実感できました。後世に語り伝えられるべき悲惨な歴史的な事実です。
 
(2010年8月刊。2400円+税)

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