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カテゴリー: 日本史(戦後)

日本統治下の台湾

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  坂野 徳隆 、 出版  平凡社新書
この本を読んで、そうだった、台湾は戦前、日本が植民地として支配していた人だった、と思い出しました。
 ちっぽけな島国・日本が朝鮮半島のみならず、ロシアや中国に向けて侵略戦争を次々に仕掛けていったことは、私の頭のなかでしっかり認識していたつもりでした。ところが、そのとき、台湾のことがスッポリ抜け落ちていたのでした。
 この本には、戦前の台湾にいて新聞風刺漫画を描いていた国島水馬(すいば)の手になる漫画をもとに、現代日本人に侵略戦争について語り明かしてくれます。
 それにしても、小さい島国である日本が台湾を植民地にしてうまくいくなんて、本気に思っていたのでしょうか、大いにギモンです。
 そして、1930年(昭和5年)10月27日に有名な霧社事件が起きました。台湾の中央部に位置する山里の公学校で行われていた運動会のグラウンドに原住民が蕃刀や銃を持って乱入し、駐在所の警官をはじめとする日本人134人(霧社在住者の半分以上)、そして日本人と間違えられた台湾人2人が犠牲となった事件です。
 この霧社事件のあと、台湾の山地や原住民周辺における警察力は大幅に増強され、原住民の叛乱はなくなった。
 この事件のあと、親を日本人に殺された霧社の原住民の若者たちは、血判状を書いてでも日本軍兵士として太平洋戦争に参加を欲するなど、日本の皇民化政策によって洗脳されてしまった。
 戦前の日本軍占領下の台湾の様子がマンガで紹介されている貴重な本だと思います。
 そして、戦後、今度は中国本土から蒋介石の国民党軍が中共軍に敗退して渡ってきて、戒厳令を敷いたのでした。これは、なんと40年近くも続き、世界最長記録でした。
 1987年までに没獄・処刑された反政府活動家は20万人以上という苦難の時代が続きます。この点は、もちろんマンガで紹介されていません。
(2012年12月刊。780円+税)

宮中からみる日本近代史

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  茶谷 誠一 、 出版  ちくま新書
大久保利通の求める天皇像は、あくまで西欧流近代国家の建設が第一義で、天皇親政はそのための「道具」にほかならなかった。これに対して侍補グループは天皇自身に「徳」を修めさせたうえ、大臣や側近らと協力して施政にあたる「天皇新政」を志向しており、天皇を強制君主として「密教」的に扱うことに従うはずもなかった。
 要するに、両者とも、天皇を利用しようとしていたことでは共通していますね。
 戦前の天皇は「玉」(ぎょく。たま)として利用される存在だったわけです。
 内大臣職は、維新以来の功績者である三条を処遇するために設置された感があるものだが、この官職は、その後の日本近現代史において、重要な役割を担った。長年にわたって元老筆頭格として政界や宮中を牽引してきた山県有朋も、大正期に入ってからはその支配力を低下させていった。
 皇太子裕仁の婚約をめぐって、その破棄を主張していた山県有朋は政治的に敗北し、それ以降の政治的影響力と宮中支配力を大きく減退させた。
 山県の影響下にない牧野伸顕の宮相就任は、旧友であり、当時首相として政権運営にあたっていた原敬にとって、自身の思い描く立憲君主論を実現していくうえで、力強い味方を得たことになる。
 大正天皇のもとで、元老や政府首脳は、君主としての資質を欠くかのような大正天皇の言動に振りまわされていた。同時に、政界指導者らは、明治天皇のような政治的調整力を有しない大正天皇の言動を目の当たりにして、自らの意思を「聖意」に即せしめるべく、政争を呼びおこしていった。
 大正天皇に替わった昭和天皇は、政治的な言動を抑制していた感のある摂政時代と異なり、政局に強い関心を示し、積極的に関与していく姿勢をみせた。そして、昭和天皇の積極的な政治関与は、天皇を支える宮中をはじめ、政党や軍部、民間右翼などを政局の荒波に巻き込んでいった。
 昭和天皇は田中義一内閣の政権運営に何かと不満を抱き、施政の一つ一つに注文をつけようとしていた。牧野内大臣は、田中内閣の施政に不満を募らせる天皇をなだめつつ、田中首相に善処を求めていた。
 田中義一は張作霖爆殺事件のあと、二度にわたって天皇から叱責され、天皇の親任を失ったと判断して内閣総辞職した。しかし、この一件は、天皇や側近にとって一時的に望ましい結果をもたらしたかもしれないが、他方、天皇と側近が行政府のトップを罷免させたという行動に対して、批判的なまなざしを向ける動きも起こりはじめた。
 君主が天皇大権を行使して政変にいたったが、明確な政治意思をもつ天皇の存在はその後の政局に波紋を広げた。
 牧野グループを標的にした側近攻撃は、暗に昭和天皇の政治意思や政治姿勢をも対象とするものであり、特定の政治勢力にとって聖意とみずからの政治意思や政策論とが異なるとき、これを批判するような政治風潮が醸成されていった。満州事変のころから、軍部とくに陸軍は政治勢力化し、国務を担う内閣と統師を担当する軍部が対立し、「国務と統師の分裂」という構図を常態化させていった。
 満州事変の拡大は、天皇をひどく動揺させた。
 犬養首相たちは政党内閣の手に負えない統師事項につき、大元師・天皇の憂慮の念を伝達することで、陸軍側に自発的な行動抑制の枠をはめようとした。ところが、このような軍部統制の手法は逆効果をもたらした。
 陸軍は、政党内閣や宮中勢力に批判的であり、天皇の権威を利用して統師権に介入しようとする犬養首相の手法に不快感をあらわした。西園寺は、天皇に政治責任を及ぼしかねない御前会議にも反対だった。御前会議で決定されたことを陸軍が順守するかどうかも疑問視されていた。
 天皇はあくまでも政界のごたごたから超然としていることが必要だと考えられた。
このように、天皇は軍部や政治家たちから単なる利用しやすい持ち駒のような存在として扱われていたわけです。そこには天皇崇拝のかけらもありません。それにもかかわらず、国民には天皇崇拝を押しつけていたのです。いやになってしまいます。
(2012年5月刊。780円+税)

敗戦と戦後のあいだで

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  五十嵐 恵邦 、 出版  筑摩選書
大変教えられることの多い本でした。たとえば、私は40年前の大学生時代、毎日が暴力に向き合う日々でした。私自身も、ヘルメットをかぶり、角材を持ったこともあります。幸い、殴られたことはなく(飛んできた石が頭にあたってケガしたことはあります)、誰かを殴ったこともありません。でも、もみあいの現場にいたことは何回もあります。そして、その騒乱の1年が過ぎると、すっかり忘れてしまったかのように、誰もそのことを話さなくなりました。まるで、そんなことはなかったかのように話題にすらのぼらなくなりました。
 それを話題にしたら、そのとき、どちら側にいたのか、敵か味方か、そして、それは何を目ざしていたのかをはっきりさせなければならなくなります。でも、それは意外にも難しいことなのです。幸いにして、学内でのリンチ事件というのはほんの少ししかありませんでしたし、学生が殺されることもありませんでした(病死とか、精神的におかしくなってしまった学生はいました)。
 この本は、戦争というもっとも極限状態に置かれた元兵士の人々が、なぜ過去をそのまま語ることはないない理由を明らかにしています。
大多数の日本人は、戦後日本の債権のプロセスに敗戦直後から参加することによって、自らの日本人としてのイメージを修復する機会をもった。しかし、シベリア帰りのように遅れて還ってきた者たちには、そのような機会が与えられなかった。彼らが帰ってきたときには、既に、戦争全般だけではなく、復員、引揚げの体験についての国民的な物語がすでにできあがっていた。その結果、遅れて還ってきた者たちは、怖れ、好奇あるいは哀れみの目で見られ、その異質な戦後体験はメディアによって封じこめられてしまった。
 大日本帝国が崩壊したとき、688万人の日本人が外地に取り残されていた。内地の人口7200万人の9.6%にあたる。そして、そのうち367万人は帝国陸軍の将兵であった。
 引揚者は、劣った日本人として日本社会の周縁的な位置を与えられた。引揚者との対比で、本土を離れることのなかった日本人は、自らより恵まれた境遇を言祝(ことほ)ぎ、より純正な日本人として優越感をもつことができた。
 帰還者たちは、日本人の負の遺産を背負った周縁的な存在として差別されながらも、より純正な日本を照らし出す鏡として必要な存在となった。彼らは日本社会に受け入れられながらも、つねに懐疑の目で見られる両義的(アンビバレント)な存在であった。
 五味川純平は『人間の条件』全6巻を書くことで、過去を生き直した。何百万という同時代の読者も五味川の作品をとおして過去を再体験した。この再体験は、戦後という現在と戦時という過去との距離を確認するためのものとなった。
五味川は東京商科大学に入学したあと1年で退学し、東京外国語学校に入学し直した。唯物論研究会に参加していたため、西神田警察に1ヵ月拘留されたこともある。中国満州にある製鉄所で働いていたが、兵隊にとられ、日ソ会戦のあと、全滅に近い部隊で生き残った5人の一人となった。シベリアに送られる途中で脱走し、日本人による民主化運動に参加して、1947年暮れに日本へ帰国することができた。
 主人公梶のようなスーパーマンでさえ戦時下にあって効果的な異議申立ができないのであれば、誰にも歴史の流れを変えることはできないのであり、ただ生き延びて戦後にたどり着くことが最良の選択であったというのが妥当な結論となるだろう。
梶は、「俺が日本人だってことは俺の罪じゃない。しかも、俺の罪の一番深いのは、俺が日本人だってことなんだ」と嘆く。
 シベリアに抑留された日本人は80万人ほど。広大なシベリアに散在する2000ヶ所以上の収容所で長期に抑留された。そして、そこで10万人以上の日本人が亡くなった。この抑留体験は忌まわしい記憶であり、戦後日本の反ソ感情の核となった。
 1949年、ソ連の「民主化教育」によって熱心な共産主義者となった抑留者が日本各地でさまざまな騒ぎを起こした。多くのものは、日本に帰り着いてしばらくもしないうちに、その教育の成果を見捨ててしまった。メディアは帰還してきた「赤い」抑留者たちの攻撃的な行動を、あくまでも好奇の目で見た。
 抑留者たちの帰郷は、シベリアの収容所で思い描いたような、バラ色のものではなかった。さまざまな理由からその抑留体験は思い沈黙につつまれ、元抑留者たちの個人的な体験記も多くの読者を得ることはほとんどなかった。
日本語でよく使われるノルマが、シベリアでの元抑留者たちが日本に持ち帰ったロシア語だというのを初めて知りました。
 捕虜にとって、収容所で生きのびることの代償はあまりに高かったし、多くの者はシベリアでの非人間的な条件を生き抜くため、自らのそして仲間たちの苦しみに目を閉ざさねばならなかった。
苦境のなか、捕虜たちは二度打ち砕かれた。最初は肉体的に、そしてそのような状況をおとなしく受け入れなければならなかった屈辱のために。多くの抑留者にとって、戦後日本は居心地のよい場所ではなかった。抑留者の帰還が国をあげて祝われることもなかった。
 1972年1月、グアム島で発見された横井庄一の28年にわたるジャングルでの潜伏生活は理解をこえるものだった。
 1974年3月、フィリピンのルバング島からの元陸軍少尉、小野田寛郎が生還した。
 この二人が日本社会にどのように受け入れられたか。また、彼らがその後、日本でどんな生活をしたのか、大変興味深い論述がなされています。そして、なぜ彼らは30年近くジャングルに潜んでいたのか、本当に終戦を知らなかったのかという重たい問いかけがなされています。
 320頁の本ですが、読み終わったとき、戦後日本の負の重みが両肩にどっしりかぶさってきた気がしました。アメリカの大学で教える50代前半の日本人学者の本だと知って、その点でも驚きました。日本は、よそから眺めたほうがかえって、よく見えてくるのでしょうね。
(2012年9月刊。1700円+税)

治安維持法

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  中澤 俊輔 、 出版  中公新書
稀代の悪法と言われる治安維持法は戦前の軍部独裁政治のなかで規制されたものではなく、実は護憲三派内閣のときに成立したものでした。なぜ、そんなことになったのかを考えてみた本です。
ファシズムは、初めのうちはフツーの人間の顔をして近寄ってくるものなんですね。そして、その仮面の下のホンモノの怖い顔が現れたときには、もう手遅れなのです。
 治安維持法は、1925年、護憲三派の連立政権である加藤高明内閣のとき、「結社」を取り締まる法として成立した。なぜなのか?
 治安維持法の主管官庁は、内務省と司法省だった。内務省は、行政処分と重複する新しい取締法を設けることに消極的だった。内務官僚は、貧困や労働問題といった社会の矛盾を柔軟に受けとめようとした。
 明治政府の元勲・伊藤博文は1900年、立憲政友会を組織した。政友会は「万年与党」だったが、その成長の裏には原敬の内務省支配と利益誘導政治があった。
 ところが、1921年(大正10年)11月、原敬が暗殺され、政友会は突然にリーダーを失ってしまった。カリスマ亡きあとの政友会は内紛をかかえた。
 憲政会は「思想善導」を政策として打ち出し、内務官僚に人脈を築いていた。しかし、司法省には独自の人脈を築けなかった。
 立憲国民党は、犬養毅を総理として1910年に結成された。弁護士やジャーナリストが集まる、リベラルな性格を持っていた、犬養は、言論・出版・集会の自由を主張した。1922年に解党して革新倶楽部として再出発した。
 治安維持法を制定した加藤高明の護憲三派内閣は、政友会・憲政会・革新倶楽部の連立政権として誕生した。
 1900年の治安警察法は万能であったが、結社の禁止処分はあくまで行政処分であって罰則ではないという限界があった。
 1922年(大正11年)、政友会を与党とする高橋是清内閣は過激社会運動取締法案を閣議決定して国会に提出した。しかし、廃案となった。第一に、学者・新聞・言論人が反対した。第二に、与党が反対した。政友会の内紛も無視できない。第三に、主管官庁の司法省と内務省の歩調があわなかった。第四に、貴族院が反発した。司法省は、宣伝ではなく、結社を罰することで個人の言論活動には深く立ち入らないというスタンスを示そうとした。内務省は、ソ連とコミンテルンを警戒したことから、治安維持法の制定に賛成した。
国会での審議を通じて、治安維持法が「宣伝」取締法ではなく、「結社」取締法として成立したことには言論の自由を重視する憲政会の意向が反映されていた。
 成立した治安維持法の問題点は次のとおり。
 第一に、文言があまりにも漠然としている。「団体変革」は、融通無碍(むげ)に拡大適用された。
 第二に、暴力や不法行為の実態がなくても処罰の対象となることは、結社の自由な活動を萎縮させた。
 第三に、法成立時に「団体変革」を目的とする結社は存在していなかった。その結果、治安維持法は、次第に本来は対象外である「宣伝」へ適用を広げた。
 1928年3月15日、共産党員への一斉検挙が行われた。全国で1000名が逮捕されたが、起訴されたのは488名だった。押収された党員名簿によると、逮捕された党員は409名のみで、検挙者の4分の1にすぎなかった。
 1928年4月、治安維持法が改正された。目的遂行罪を導入し、死刑を法定刑の上限にふくめた。
 1929年4月16日、共産党への一斉検挙で700名が検挙された。
 1928年10月から始まった陪審制では、治安維持法違反事件は対象外とされた。陪審員が共産党の影響を受けることを恐れたためである。
 治安維持法違反の検挙者は1928年から40年までに6万5000人をこえた。1931年から33年までに3万9000人であった。そして、そのうち起訴されたのは5400人ほど。検挙者の9割は起訴されなかった。
 若手の学者によって治安維持法の実態を知ることのできる本でした。
(2012年9月刊。860円+税)

ここまでわかった日本軍「慰安婦」制度

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  日本の戦争責任資料センター 、 出版  かもがわ出版
日本軍が「慰安婦」制度を設置した理由は4つ。
 第一は、強姦の防止。しかし、これは失敗した。軍の中で、慰安所で性暴力で公認しておいて、外で防ぐのには無理がある。
 第二に、性病の蔓延防止。実際には、これも失敗した。戦地での性病の新規感染者は1万人をずっと超えていた。
 第三に、戦地にいる軍人に「慰安」を提供する。酒と女性を提供するということ。
 第四に、防諜。スパイ防止ということ。
日本軍「慰安婦」制度は軍が主体となってつくった施設である。
 慰安所の女性は、外出の自由がない、外出するのは許可制。ビルマで保護された20人の日本軍の朝鮮人慰安婦のうち、12人は連行されたとき未成年だった。21歳未満の女性については、本人が売春目的であることに同意していたとしても、国際条約によると違法であるとされている。
 1937年の時点で、大審院が、上海の海軍慰安所に女性をだまして連れていったことを犯罪として認定した。
 戦後、バダビア軍法会議の判決は次のように判示した。
 「はじめの抵抗のあと、この残忍で非人道的な行為の犠牲者である女性たちが無駄だと思って抵抗を止めたからといって、彼女たちが自発的に売春したとか、被告の将校や慰安所業者の責任を逃れるということを正当化するものではない。なぜなら、最初に加えられた暴力行使の効果として起こったものであり、そこでは基本的な行動の自由はまったく論外だったからである」
 日本軍が、軍隊の責任で「慰安所」を設置していたこと、多くの女性を日本だけでなく朝鮮半島や東南アジアからだまして連れて(拉致して)いたことは日本史の重大な汚点です。軽々しく否定するわけにはいきません。
 安倍首相がこの歴史的事実を否定する談話を出そうとしていますが、韓国・中国そして東南アジアからの反発は避けられません。ますます日本は孤立化してしまいます。
(2007年12月刊。1000円+税)

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