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カテゴリー: 日本史(戦後)

戦場の軍法会議

カテゴリー:日本史(戦後)

著者   NHK取材班・北博昭 、 出版  NHK出版 
フィリッピンで死刑になった日本兵の裁判(軍法会議)がインチキそのものだったことを奇跡的に明らかにした本です。NHKスペシャルで放映され、大きな反響を呼んだ番組が本になっています。NHK取材班の執念が見事にみのった貴重な労作です。
 日中戦争が始まった1937年(昭和12年)以降、軍法会議で処罰される兵士が急増した。太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)には、1年間に5500人をこえる兵士が処罰された。
 軍法会議とは、罪を犯した陸海軍の軍人、軍属といった軍の構成員を裁くために、軍の中に特別に設けられた軍事法廷のこと。
戦前の法務官は、司法資格をもち、軍の中で法の遵守をチェックする「法の番人」とされる存在だった。
 軍法会議は通常の裁判所とは別の「特別裁判所」だ。軍法会議の仕組みは、裁判官、検察官、弁護人、被告という構図であり、通常の裁判と変わらない。特徴的なのは、日本の軍法会議では、通常5人いる裁判官のうち4人を軍人が占めていること。軍人の中で階級が一番上の兵科将校が裁判長をつとめた。
 裁判官の階級は、必ず被告人と同等か、それ以上の階級のものが選定された。そして、5人の裁判官のうち必ず1人は「軍人」ではない「文官」の法務官が担当することが法律で定められていた。
 明治42年生まれの馬場東作は東京帝大法学部を卒業し、司法試験に合格できずに海軍法務官となった。馬場は大学生のころマルクス主義を学び、不正義を怒り、軍に不信感をもつ反戦主義者だった。
 中田という海軍上等兵は奔敵(ほんてき)未遂、窃盗、略奪で死刑に処せられた。
敵前逃亡に死刑があることは知っていましたが、奔敵という罪名は聞いたこともありませんでした。
 軍法会議で死刑判決を受けた兵士は、護国神社にも靖国神社にも祀られていない。兵士の逃走は飢えによるもの。日本軍上層部の「現地調達」という無茶で無謀な作戦、食糧を送りこまずに現地で調達せよというのはバカな、無責任な考えである。
 日本軍は、アメリカ軍と違って、前線に行けば行くほど食糧がなかった。
 そもそも食糧さえ満足に与えず、戦わせた軍に逃亡兵を処罰する権利があるのか・・・・。
 食糧難の軍にとって、兵隊の数が減れば、口減らしにもなる。餓死寸前の兵士のなかに、夢遊病者のようにフラフラと部隊を離れる者が続出した。餓鬼道の積み重ねのように、まったく軍とか人の集団というようなものではなかった。
「平病死」とは、軍法会議で死刑になったことや、自殺したことを意味する呼び方。
戦後になって、軍の法務官だった人の大半が弁護士になりました。私が35年前に故郷にUターンしたとき、軍の法務官だったという人が何人も弁護士として活動していました。もっと、いろいろ話を聞いておけばよかったと思いますが、時すでに遅し、です。軍法会議というものの本質がいいかげんなものであること、しかし、死刑になった兵士の遺族が汚名を挽回するのはとても困難なことを伝えてくれる良書です。
(2013年9月刊。1900円+税)

抗日・霧社事件の歴史

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  鄧 相揚 、 出版  日本機関紙出版
1930年(昭和5年)10月27日、台湾の山岳に住む原住民は反乱を起こし、運動会に参集していた日本人を皆殺しにしたのが霧社事件です。
 3冊シリーズの第1冊目を紹介します。霧社という地名は、このあたりは霧が深いために名付けられた。海抜1148メートルある。
 1930年当時、霧社の町には、日本人が36戸157人、漢人が23戸111人住んでいた。
 樟脳(しょうのう)製造に従事する従業員と家族は700人にのぼった。
 日本の植民地政府は、日清戦争後に台湾を支配し、武力討伐で原住民を包囲し、それぞれの部族に「和解」や「武装解除帰順」を迫った。日本人は、原住民族を野蛮民族とみなして、大日本帝国の民族主義の優位のもとに、彼らの人間性を尊重することはなかった。
 タイヤル族は、代々、狩猟と粟、陸稲の栽培で暮らしをたててきた。日本人は、それに対して焼畑工作をやめさせ、水稲の定地工作を強制した。タイヤルの人々にとって、水稲農耕への転換はつらい道のりだった。
 タイヤル族の銃器も押収され、伝統的な狩猟は制限された。出草して敵の首を狩ることは、本来タイヤル族の大切な祖霊崇拝の習俗だった。
 首狩りは、部落の行事に加わる手段であり、男性の武功と栄誉の象徴でもある。敵の首を狩ったことのないものは、顔に刺青を入れることができないし、顔に刺青がないものは結婚することができない。刺青は、成人のしるしでもあった。
 タイヤル族の風習では酒をすすめるのは、その人への尊敬の気持ちをあらわす。ところが、逆にタダオ・モーナは酒をすすめた相手の日本人警官から殴打され、侮辱されてしまった。
 10月27日に霧社事件が始まり、全部で134人の日本人が殺され、26人が負傷し、日本の服を着ていた漢人2人が殺された。
 10月31日、日本軍が総攻撃を始めると、抗日6部落の人々は山深く潜入して、長期抗戦に入った。
 日本陣営への参加を迫られたタイヤル族には「戦地勅令」が適用され、命令にそむいたり、警察の指摘に従わず、戦地から逃亡したものは、即刻銃殺あるいは拘留して厳罰に処した。その一方、勇猛果敢に戦功をあげた原住民には褒賞を与えた。
日本人によって育てられた花岡一郎と二郎は、民族の感情と恩義の葛藤のなかで矛盾におちいり、一族21人を連れて小富士山に行き、そこで首を吊ったり、切腹自殺をして、部族の人々と日本人の両方への忠誠心を表明した。
 タイヤル族は、祖先は巨木(ボソコフニ)のなかから生まれたと信じ、死の苦しみに直面すると、巨木のしたて首を吊って死ぬことをえらび、霊魂を自ら祖霊のもとにかえす。そのため、タイヤル族が日本軍の討伐や包囲懺滅に対抗するとき、徹底的に闘うか、さもなくば自ら首を吊って殉死する。
 事件が発生したとき、抗日6部落の住民は1236人。戦死者85人、飛行機による爆死者137人、砲弾による死者34人、「味方蕃」による死者87人、自ら首を吊って死んだ者290人(45%)。いずれにしても日本人とタイヤル族の双方に大惨事となった事態です。
(2000年6月刊。2095円+税)

少年口伝隊1945

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  井上 ひさし 、 出版  講談社
8月末に広島に出張してきました。昼食は、原爆ドームから遠くないところにある広島ガキ専門店でかきフライ定食(1000円)を食べました。真夏なのに、丸々肥えたカキを美味しくいただきました。夕食には広島名物のお好み焼きを買って、我が家で電子レンジで温めて食べました。期待以上の美味しさでした。
 この本は、そんな広島出張の車中で読んだのでした。平和公園、そして原爆ドームを訪れました。豪雨のあとでしたから、猛暑も少しやわらいでいて、助かりました。
 青空が裂けて、
 天地が砕けた。
 爆発から1秒あとの火の玉の温度は1万2000度だった。
太陽の表面温度は6000度だから、街の上に太陽が二つ並んだことになる。
 その熱で、地上のものは人間も鳥も虫も建物も、一瞬のうちに溶けてしまった。
 火泡を吹いて溶けてしまった。
火の玉からは爆風が吹き出した。音の2倍の速さで、畳一畳あたり10トンの圧力をかけて、地上のものを一気に吹き飛ばした。
 火の玉は殺人光線も出していた。内臓や血管や骨髄などの人体の身体のやわらかなところに、殺人光線がこっそり潜り込んでいた。
 このようにして・・・・数十秒のうちに広島市の半分が消え失せ、その日のうちに12万人が亡くなって、20万人の人々が傷ついた。このときから、漢字の広島は、カタカナのヒロシマになった。
 原爆病にかかって死ぬ人は・・・。
 まず、熱が出る。次に、だるくなる。それから、ものを食べなくなる。髪の毛がごそっと抜けて、からだじゅうが痒くなる。おしまいに足首に紫の斑点が出る。さもなければ、唇や歯茎から血が流れ出る。そうなると、人は死ぬ。
 私のもっとも尊敬する作家である井上ひさしの本です。それなりに井上ひさしの本は読んでいると自負していましたが、この本はまったく知りませんでした。小学高学年向きの本ということですが、大人が読んでいい本です。
(2013年6月刊。1300円+税)

私の従軍・中国戦線

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  村瀬 守保 、 出版  日本機関紙出版センター
1937年(昭和12年)7月に招集されてから1940年12月に日本に帰国するまで、2年半のあいだ中国大陸を兵站自動車中隊の一員として転戦した兵士のとった写真です。
カメラ2台を持っていたので、中隊の非公式の写真班員として認められていた。召集兵ばかりの中隊だったので、古参兵によるいじめはなかった。
 天津市内に入ると、すっかりさびれていた。日本軍の爆撃で目ぼしい建物はほとんど崩壊していた。
 続いて上海へ。上海戦線は、日中両軍が2ヶ月間も死闘を尽くした激戦だった。
逃げ遅れた中国人の老人と子どもをとった写真があります。いかにも脅えた表情のあどけない子どもは痛々しいばかりです。キャプションには80にもなる老婆がつかまって、2人の日本兵に犯され、ケガをしたとあります。
南京大虐殺の現場をうつした写真も何枚かあります。今でも、「幻の大虐殺」などという日本人がいるのは信じられないことです。
 そのあと、有名な徐州作戦に参加しました。ところが、中国軍の主力は逃げたあと。待ちうけていたのは、待ち伏せ攻撃だった。
 狭い路地を通過しているときに、真ん中の車両が攻撃され、分断される。怪しい中国人は、日本刀の試し切りとして惨殺される。そんな写真が何枚もあります。
 漢口に行き、山西省へ八路軍の討伐に向かう。そして、従軍慰安婦に出会います。日本軍の公設の慰安所が各地にありました。河野談話を否定するなんて、歴史のねじ曲げでしかありません。
 ノモンハン戦線に向かって、もうダメかと思っていると、休戦協定が成立。これで、無事に日本へ生還できたのでした。
くっきり鮮明な戦場写真は、それだけ余計に戦争の悲惨さ、残酷さを浮きぼりしています。
(2005年3月刊。2400円+税)

軌跡

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著者  宮崎 静夫 、 出版  熊本日日新聞社
前にシベリアでの収容所生活を描いた著者の本を紹介しました。
 満蒙開拓青年義勇軍に熊本(小国町)から参加し、関東軍に志願して兵隊となり、敗戦後はソ連軍によってシベリアに連行され、そこできびしい収容所生活を過ごしたという過酷な体験記です。
 それでも、芸は身を助けるということで、うまく絵を描けるということで収容所生活がなんとか過ごせた面もあるようです。
 著者の絵は、無言のうちにも悲痛な叫びに満ちていますよね。
 8人兄弟の中の6番目でしたから、満蒙開拓青年義勇軍に志願したのも分かりますよね。
 教科書は、ススメ、ススメ、ヘイタイススメというもので、軍国少年そのものだったのです。
満州の現地に着いたのは昭和17年の6月のこと。辛い毎日を過ごすことになります。そして、昭和20年5月に関東軍に志願して、兵隊になるのでした。ドイツが降伏し、沖縄戦が終末期のころです。そして、2等兵のまま終戦を迎えます。
 それから、4年間のシベリアでの捕虜生活を過ごすのでした。よくぞ、生き残ったものと思いますが、やはり若さでしょうね。
帰国してから絵を本格的に描きはじめるのでした。
 一度、本物の絵を拝見したいものです。熊本県立美術館には飾ってあるのでしょうか・・・。
(2013年3月刊。1000円+税)

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