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カテゴリー: 日本史(戦後)

もう日は暮れた

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  西村 望 、 出版  徳間文庫
1930年10月、台湾中部の山岳地帯の霧社で発生した事件を忠実にたどった小説です。
 小説ですので、登場人物の名前は史実とは異なりますが、事件の背景、事件の推移については史実のとおりです。
 霧社は台湾中部の中央部にそびえる、能高山脈の山麓にある台湾原住民・高山族の村である。高山族は、終戦直後まで、高砂族と呼ばれていた。そして、霧社は、高砂族のなかの一部族である、アタヤル族の村である。アタヤル族は高山族のなかでも剽悍(ひょうかん)をもって知られ、首狩りの習慣を持っていた。事件当時、3万人余の人口を有し、高砂族のなかでは最大の部族だった。
 日清戦争で清朝から台湾を割譲された日本は、植民地経営を平穏に行うためには、アタヤル族をはじめとする山岳民族の慰撫懐柔が不可欠と考えた。これを理蕃(りばん)と読んだ。この施策実行の先兵となったのが警察だった。理蕃事業の成否は、配置された警察官の人柄や気質に大きく左右された。
 霧社は、理蕃のなかで、もっとも成功した場所のひとつとして知られていた。
 そんな霧社で、盛大な運動会の当日、集まっていた日本人のほとんど全員(134人)が皆殺しの憂目にあったのでした。
 日本人による植民地経営の苛烈さを知ることのできる本でもあります。現地の風習の違いは、次のようなところにも見られます。
 蕃社では、死者は埋葬するが、外には埋めない。みんな屋内に埋めてしまい、その場所は聖なる一隅として、いっさい使わない。死者はオットフとなってそこに坐っていると信じられている。
霧社事件の起きる前の状況、殺戮の様子、そして日本軍の鎮圧作戦の推移を小説として知ることのできる貴重な文庫本です。
 でも、史実に即していますので、重たい気分で読み進めました。少し骨が折れるものではありました。
(1989年10月刊。520円+税)

戦後史の汚点、レッド・パージ

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  明神 勲 、 出版  大月書店
レッド・パージとは何だったのか、誰が何のためにやったのか、くっきり明らかにした画期的な労作です。
 GHQの指示という「神話」を検証する。こんなサブ・タイトルがついていますが、そんな「神話」が事実に反していることが鮮やかに論証されていくのです。小気味よさすら感じます。
 日弁連は、レッド・パージについて、今から60年も前に起きたものではあるが、現在においても依然として職場における思想差別が解消されたわけではない。現在も形を変えて類似の被害が繰り返されている。職場における思想・良心の自由、法の下の平等が保障されるべきことは、過去の問題ではなく現代的な人権課題である、と指摘した。
まことに、そのとおりですよね。
 最高裁に対するGHQの「解釈指示」なるものは、政治的虚構であり、その存在は認められないこと。1950年のレッド・パージがGHQの指示によるものとする従来の通説は誤りである。
 GHQ文書を読めば、レッド・パージにおいて日本政府と最高裁、企業経営者が果たした役割は、単なる「指示」の実行者、加担者という控え目なものではなく、積極的なものであり、ときにはマッカーサーやGHQの動きを上回るものであった。彼らはGHQとの「共同正犯」と呼ぶべきである。
レッド・パージに対して抵抗すべき労働組合のほとんどが、これを黙認し、事実上の「共犯者」となった。なかには、電産のように、これに積極的に荷担する「共犯者」の役割を果たした恥ずべきケースもあった。
 1949年から51年にかけてのレッド・パージによって追放された人は3~4万名と推定される。レッド・パージされた人の多くは、青年であった。彼らは二度と帰らぬ青春をレッド・パージによって奪われた。
 1949年1月の総選挙で日本共産党は10%近い得票率で35議席を得た。しかし、レッド・パージ後の1952年10月には2.5%に落ち、議席はゼロとなった。
 1949年7月、吉田茂首相の政府は閣議で、公務員のレッド・パージ方針を決定した。
田中耕太郎・最高裁長官は、マッカーサー書簡によってだけではレッド・パージを遂行するための法的根拠が与えられていないことを認識していた。
 GHQ(ホイットニー)は、指示を出さなかった。それは、あくまで田中最高裁長官の「助言」の求めに応じたホイットニーの「助言」に過ぎなかった。田中長官は、マッカーサー書簡とGHQの権力にもとづきレッド・パージを実施したいと要請したが、ホイットニーは、これに同意せず、GHQの権力に頼らず日本側から自ら工夫して有効な策を考えるべきだと応じた。
 田中耕太郎長官は、裁判の秘密をかなぐり捨てて、駐日アメリカ大使に最高裁判所の内情をぶちまけていたのです。なんて破廉恥な裁判官でしょうか。当然、厳しく弾刻して罷免すべきものです。今からでも、決して遅くはありません。日本の最高裁の恥を隠してはいけません。
 GHQがレッド・パージの指示を出さなかったのは、なぜか?
 それは、レッド・パージが、憲法違反・違法な措置を指示した責任者という非難」を受けるのを回避したかったことにある。自らが必要とする違憲・違法の非難を受ける可能性のある政策を、示唆や勧告によって日本側に実施させ、その責任を転嫁するというのは、GHQの常奪手段であった。それは、責任を回避しつつ、目的を達成するという狡猾な奸計だった。
 そして、日本側は、レッド・パージの単なる被害者、犠牲者というのでもなかった。政府も司法当局も、ともに違憲・違法を十分に認識したうえで、GHQの示唆を「占領軍の指示」とか「絶対的至上命令」として利用し、責任をGHQに転嫁しつつ、あらゆる抵抗を無力化させて年来の念願を果たした。
 このように、責任を相互に転嫁しあい、相互に相手を利用しつつ、両者の密接に連携した共同作業という形でレッド・パージの実施は強行された。
 なるほど、そうだったのか、よく分かりました。戦後史を語るうえでは欠かせない本だと思います。
(2013年10月刊。3200円+税)

血盟団事件

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  中島 岳志 、 出版  文芸春秋
 昭和史の闇を暴いた感のある、読みごたえたっぷりの本でした。
1932年2月、大蔵大臣の井上準之介が小沼正(おぬましょう・20歳)によって暗殺され、3月には三井財閥の総師団琢磨が菱沼五良(19歳)に暗殺された。小沼も菱沼も、ともに茨城県、大洗周辺出身の青年だった。彼らは幼馴染みの青年集団で日蓮宗の信仰を共にする仲間であり、日蓮主義者である井上日召(にっしょう)に感化されていた。
 いま、九州新幹線の新大牟田駅前には団琢磨の巨大石像が建立されています。
 その暗殺者、菱沼五郎は無期懲役の判決を受けたが、結婚して小幡五郎となり、戦後は茨城県議会議員となり、ついには県議会会議長までつとめる地元の名土となった。
 この本は、この血なまぐさい暗殺事件の社会的背景、軍部との結びつきを解明し、「一人暗殺」というのが当初からの方針というより偶然、そして仕方なくとられた手法であることを明らかにしています。
 結局、政財界の要人を暗殺したあとの展望は何もなかったのでした。これでは無政府主義と同じようなものですよね・・・。
当時の日本社会は、世界恐慌のあおりを受け、深刻な不況が続いていた。第一次世界大戦が終結したあと1919年以降、経済は悪化の一途をたどり、貧困問題が拡大していた。とくに地方や農村部の荒廃はひどく、出口の見えない苦悩が社会全体を覆っていた。
 彼らはそんな閉塞的な時代のなかで実在する不安をかかえ、スピリチュアルな救いを求めた。また、自分たちに不幸を強いる社会構造に問題を感じ、大洗の護国堂住職だった井上日召の指導のもと、富を独占する財閥や既得権益にしがみつく政治家たちへの反感を強めていった。
 井上日召は、中国に渡って諜報活動をしていた。つまり、日本のスパイだったわけです。井上日召は、東京帝大の憲法学者、上杉慎吉を「つまらんものだ」と切り捨てた。
 上杉慎吉は井上に言い負かされ、「いやしくも私は博士だ」と言ったとのこと。なるほど、つまらん「博士」です。
井上日召は、対機説法の名人だった。青年たちに難題を投げかけ、答えに窮したところを一気に畳みかける。不安にさいなまれる著者に対して断定的な見解を述べ、明確な答えを与えた。この繰り返しによって、相手との主従関係を築き、自らのカリスマ性へと転化していった。
井上日召は天皇を戴く日本団体を強調し君民協同の精神を説いた。そして、国民の多くが幸福から疎外されているのは、資本家が私利私欲をむさぼっているからで、彼らを排除する「改造」を行わなければ苦悩からは解放されないと説いた。井上日召の中に自己犠牲による国家への献身があると感じられた。
四元義隆は、当時23歳の東京帝大法学部生だった。偶然なことから、暗殺犯にならずに逮捕された。戦後は、政治のフィクサー的役割を果たした大物となった。中曽根、福田越夫、大平正芳、細川護熙などの首相に影響を与え、政界の指南役と言われた。
血盟団というのは、自称ではない。事件のあとで、マスコミが名付けたもの。
 井上日召にとって重要な存在は「破壊」であり、「建設」は二の次だった。血盟団のメンバーは、誰もテロ後の政権構想や具体的計画をまったくもっていなかった。彼らは、ただ自己犠牲をともなう破壊に生きようとした。テロ後をあれこれ想定しはじめると、世俗的な欲が湧き出してしまうからだ。
 1932年の2月、3月というと、その直後の五・一五事件を思い出します。五・一五事件を起こした海軍の青年将校たちは一部で英雄視されました。裁判が始まると、100万通をこえる減刑嘆願署名が集まったのでした。
 この世論の熱狂を巧みに利用したのは、軍部の指導層だった。彼らは、一転して、青年将校たちの側に立ち、政党政治家、財閥、特権階級を糾弾した。軍指導層は青年将校を政治利用、軍部への支持に回収していった。
 その結果、五・一五事件で起訴された青年将校たちへの判決は思いのほか軽い量刑だった。この判決の甘さが、後の2.26事件を括発することにつながる。
 ここには、今日の日本でも学ぶべき教訓があるように思いました。
(2013年9月刊。2100円+税)

小さいおうち

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  中島 京子 、 出版  文春文庫
直木賞の受賞作です。モノカキ志向の私ですから、日頃、直木賞か芥川賞、それでなくても文化勲章を狙っていると高言している身として、この小説の出来の良さにはただただモノも言えません。直木賞を受賞したのに何の異論もありません。細かい部分(ディテール)の描写といい、筋の運びとして、そして見事な結末には息を呑むしかなく、文句のつけようもありません。
 山田洋次監督が映画にしてくれて、来年1月には見れるとのこと。今から楽しみです。
 先日、妹尾河童原作の映画「少年H」をみましたが、戦前の平和な生活がいつのまにか戦争へ突入していく情景が、きめこまかに再現されていました。
裏表紙に、この本のストーリーが要領よく紹介されています。
 昭和初期、女中奉公にでた少女タキは赤い屋根のモダンな家と若く美しい奥様を心から慕う。だが、平穏な日々にやがてひそかに”恋愛事件”の気配が漂いだす一方、戦争の影もまた刻々と迫りきて―。晩年のタキが記憶を綴ったノートが意外な形で現代へと継がれてゆく最終章が深い余韻を残す傑作。
 戦前の上流サラリーマンの家庭生活が、住み込み女中の目から、ことこまやかに描写されていますから、つい没入させられます。そして、いつのまにか微妙な男女の機微に触れていきそうです。
 女中タキのお見合い話をふくめて、戦争が日常生活に忍びこんでくるのです。
 この本には、私のつれあいがこよなく愛する永藤(ながふじ)菓子店が登場します。上野駅近くにあって、タマゴパンなどで有名なのでしたが、今は閉店してしまいました。
あと味もさわやかな、ロマンあふれる小説です。
(2013年6月刊。543円+税)

命のビザを繋いだ男

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  山田 純大 、 出版  NHK出版
1940年(昭和15年)、ナチスドイツに追われて逃げてきたユダヤ難民たちが、リトアニアの日本の領事館に日本へのビザを求めて押し寄せてきた。領事代理の杉原千畝(ちうね)は、人道的見地から、本国の指令に反して日本通過を許可するビザを発給した。そして、ユダヤ難民6000人がヨーロッパからシベリア経由で日本の神戸、横浜、東京へ渡っていった。
 ここまではセンポ・スギハラのビザ発給によるものとして、私も知っていました。この本は、日本にやってきたユダヤ難民のその後を扱っています。
 杉原が発給したビザは、あくまでも日本を通過することを許可するビザであり、許された日本滞在期間はせいぜい10日ほど。たった10日間で、目的地の国と交渉し、船便を確保するのは不可能。そして、ビザの延長も拒否された。
 そんなユダヤ難民の窮状を救ったのが小辻節三(こつじせつぞう)だった。この本の主人公・小辻節三はヘブライ語学の博士号をもち、ヘブライ語を自由に話すことができた。そして、60歳のときにユダヤ教に改宗した。
 最近も、外務省の元高官が晩年にユダヤ教に改宗した人がいるという記事を読んだことがあります。日本人でも、インテリにはユダヤ教に魅かれる人が少なくないのですね。この本は、その小辻節三を生い立ちから、その家族の現在に至るまで、よく調べていて、本当に感心します。
 日本が国際連盟を脱退したときの外務大臣として有名な松岡洋右(ようすけ)は、その前は満鉄総裁だった。そして、小辻を顧問として破格の高給で迎え入れた。
どうやら満州にユダヤ人を迎え入れようとする計画があったようなのです。
ハルピンで極東ユダヤ人会議が開かれたとき、小辻は1000人をこえる聴衆の前でヘブライ語で演説をはじめた。ただし、そのヘブライ語は、とても古典的なヘブライ語ではあった。みんな驚いたことでしょうね。日本人が古典的ヘブライ語を話すなんて・・・。
 ユダヤ難民が神戸へ上陸して苦労しているとき、小辻は頼まれて、その局面打開のために東奔西走した。そして、小辻に力を貸したのが、元満鉄総裁であった松岡洋右外務大臣だった。まさしく偶然のおかげでした
 松岡外相は、ドイツとの関係は良好に保ち、アメリカとの戦争は回避したいという立場にあったので、小辻のユダヤ難民の救出に手を貸した。
 その後、小辻は満州に渡り、そこでユダヤ人に助けられた。
小辻に神戸で助けられたユダヤ難民のなかには、アメリカに渡ったあとイスラエルの宗教大臣になった人もいました。
 小辻は、戦後、そのような人々との交流も大切にしたようです。まったく知られていなかった事実を、足で歩いて発掘していった著者に感謝したいと思いました。
(2013年4月刊。1700円+税)

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