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カテゴリー: 日本史(戦後)

巨大戦艦・大和

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  NHK取材班 、 出版  NHK出版
 菊花輝く軍艦は、艦底一枚下地獄。どちらもみじめな生き地獄。そんなこととはつゆ知らず、志願したのが運の尽き。ビンタバッタの雨が降る。天皇陛下に見せたいな。
 これは戦前の海軍でうたわれていた歌とのことです。将来を奪われて、命を奪われた兵士たちが哀れです。戦艦大和を戦前の日本人の大半は知らなかったというのです。これには驚きました。完全な情報統制下に置かれていたのです。
 ところが、アメリカのほうは初めのうちこそ知りませんでしたが、あとでは日本軍の暗号を全部解読していましたので、大和のことは手にとるように分かっていました。日本人に対する情報統制なんて、何の意味もなかったのです。今回の特定秘密保護法も、結局、同じことでしょう。上部の支配層にとって都合の悪いことを国民に隠し、アメリカにはすべて筒抜けにするのです。それも暗号解読ではなく、日本政府がアメリカに法にもとづいて、うやうやしく情報を差し出すのです。
 とんでもない法律です。こんなことをしながら厚かましくも国民に対しては愛国心を押しつけようというのですから、信じられません。
 昭和19年10月、戦艦武蔵はアメリカ軍の飛行機から集中攻撃を受け、あえなく沈没した。
 魚雷20本、爆弾20発が命中した。
 武蔵が目の前で沈んだので、大和の乗組員は皆がっかりしてしまった。不沈戦艦ではないことが実証されたから・・・。「不沈神話」はもろくも崩れ去ったのである。
 昭和20年4月、大和に特攻作戦が命じられた。伊藤整一中将(司令長官)は特攻作戦に反対だった。
 「目的地に到達する前に壊滅するのが必至だ」
 海上護衛総司令部の大井篤大佐(参謀)も反対した。
 「大和につかう重油4000トンがあれば、大陸からの物資輸送が活発にできる。また、日本海への敵潜の侵入をくいとめるのにも大いに役に立つ。大和につかう4000トンは、いったい日本に何をもたらすのか。敵をして、いたずらに『大和、討ちとったり』の歓声をあげさせるだけではないか」
 特攻出撃を主張した連合艦隊主席参謀の神重徳大佐は、次のように主張した。
 「大和が生き残ったままで戦争に負けたとしたら、何と国民に説明するのか。成功率は絶無ではない。もし、これをやらないで、大和がどこかの軍港に繋留されたまま野たれ死にしたら、非常な税金をつかって(当時のお金で1億3000万円)、世界無敵の戦艦大和をつくった。それをなんだ、無用の長物と言われるぞ。そうしたら、今後の日本は成り立たない」
 まことに身勝手な論理です。大和の乗組員3000人の生命をなんとも思っていません。軍当局は人命より軍の体裁、見栄を大切にしたというわけです。
 そして、案の定、大和は目的地に到達する前に、アメリカ軍機にボコボコにされ、巨砲をつかうこともなく、あえなく撃沈されてしまいます。乗組員3000人とともに・・・。
 いまも大和は沖縄近くの海底に沈んだまま。
 海上特攻作戦は戦局に何らの影響も与えずに、大和沈没の事実も終戦まで国民に知らされることもなかった。
 戦争のむごさ、軍上層部の無責任さを明らかにした本でもあります。
 昨年10月、広島県呉市にある大和ミュージアムを見学しました。いまの安倍政権がすすめている世論操作に踊らされてはいけないとつくづく思ったことでした。
(2013年7月刊。1900円+税)

霧社事件

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  邱 若龍 、 出版  現代書館
1930年(昭和5年)10月、日本統治下の台湾の山岳地帯で起きた先住民(タイヤル族)の放棄とその顛末が台湾人によって劇画となっている本です。
 この霧社事件については、既にいくつかの本を紹介していますし、最近は映画も見ていますので、私にはイメージがよくつかめますが、映画を見ていない人には、ぜひこの劇画を読んで山岳地帯とタイヤル族の生活、そして蜂起にいたる日本の圧政をイメージをつかんで実感してほしいと思います。
 タイヤル族は、台湾の先住民のなかではもっとも広範囲に分布し、強い民族性をもっていた。顔の入墨(いれずみ)と首狩りは民族の戦闘性の象徴となっていた。主として焼き畑と狩猟で生計を立てていた。ところが日本統治下では、山地は官有林として没収され、首狩りはもちろん厳禁、銃も奪われた。
 反抗事件が次々に起きたが、ことごとく圧倒的火力を有する日本軍によって制圧された。
 タイヤル族において入墨は個人の成長や能力を社会が認知したしるしとして重要な意味をもっていた。それがあることによって結婚も許されるのである。
 入墨がない者は、永遠に子ども扱いされる。入墨をするには、女子であればきれいな布を織れることが必要。男子であれば少なくとも敵の首を一つ持って帰ることが条件である。
いやはや、これはすごい民族ですね。でも、人を殺して一人前というのは、アメリカでも同じようですよ。少なくとも、ベトナム戦争のころ、徴兵制のあったアメリカでは一人前の男は人が殺せることという不文律があったということです。たしかに、アメリカ人はいつまでも国の内外でよく人を殺していますよね・・・。
日本人が大勢集まる運動会に狙いを定めて、一斉に襲いかかり、日本人だけを老若男女、ほとんど全員殺してしまったというのが霧社事件です。そのなかには、日頃お世話になっていたはずの日本人医師までいたといいますし、日本人の子どもまで助かっていないのですから、それほど日本への憎しみは激しかったのです。
 300人のタイヤル族の青年たちが4000人もの日本軍を相手に1ヶ月以上も戦ったのでした。日本統治下の台湾で起きた事件として忘れてはならないものだと思います。
 ネットで見つけて、アマゾンで購入しました。
(1993年4月刊。1700円+税)

占領から独立へ

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  楠 綾子 、 出版  吉川弘文館
1945年7月26日のポツダム宣言は、日本国政府の存在を前提とし、無条件降伏を求める相手を日本国軍隊に限定していた。
 アメリカ政府は、天皇制を明確に保障はしないけれども、否定しないことで、「国体護持」が認められるかもしれないと匂わせる方法を選んだ。そして、日本の外務省は、このアメリカ政府の意図を正確に読みとった。
 日本政府、そして軍では、だれもが「国体」だけは守らなければならないと信じていた。しかし、その意味するところまでは共有されていなかった。厳密に中身が定義されなかったが故に、「国体護持」という目標は、日本政府と軍内の合意形成に強力な磁力を発揮することができた。
突然の降伏決定にどう身を処してよいか分からない軍人たちに、ともあれ暴発させずに降伏を呑みこませるには、東久邇内閣の陸軍大将であり皇族という権威は有効だった。
 マッカーサーは、1945年8月30日、厚木基地に降り立った。サングラスにコーンパイプといういでたち、丸腰で武装解除前の敵地に降り立ったのである。これも実は、先遣隊と一足先に着陸した第八軍司令官アイケルバーガーが入念に安全を確認した上での行動である。
映像を活用して自己を演出する才能において、マッカーサーはほとんど天才的だった。
東久邇自身は意欲満々だった。1920年代のフランスに長く遊んだ東久邇は、皇族のなかでは恐らくもっとも開明的な思想の持ち主だったと思われる。東久邇は、実にさまざまなアイデアを思いつき、実行に移そうとした。婦人参政権、貴族院の廃止、言論・集会・出版・結社の自由、特高警察の廃止、さらには民主的・平和的憲法の制定も考えた。
 しかし、東久邇の発想は保守指導層の理解を得られなかった。政治に携わった経験のない東久邇首相は、自己の構想を政策という形に落としこみ、それを実行するために官僚機構を動かす術を知らず、また手段ももたなかった。
映像の活用、荘重なことばをちりばめたスピーチなど、突出した自己演出欲求はマッカーサーの特徴だった。
 マッカーサーは、ワシントン介入には拒否反応を示すのが常だった。そして、マッカーサーの独断専行をトルーマン政権は、苦々しく思っていた。
 マッカーサーの威厳ある振る舞い、もったいぶった表現や人を身近に近づけない態度は、日本人の考える支配者像にうまく合致した。マッカーサーは、日本国民の前に姿をさらすことは、滅多になく、会見する日本人は、昭和天皇と首相のほかはごく少数に限られた。そうして、日本国民の上に絶対的な支配者として君臨した。戦争に疲れ果てた日本人の前にマッカーサーは慈悲深い解放者を演じた。
 天皇と天皇制をどう扱うかは、アメリカ政府にとってはまことに悩ましい問題だった。終戦直後のアメリカでは、天皇を戦犯として起訴し、天皇制を打倒せよという声が圧倒的だった。
 天皇は揺れていた。日本の起こした戦争とその悲惨な結果について、制度上、法律上の責任はともかくとし、道義的責任は感じていたと思われる。
 9月27日の第1回の天皇とマッカーサー会見によって、天皇と日本政府はマッカーサーが天皇を重視し、敬意をもって丁重に扱うという感触を得た、マッカーサーにとっては、占領政策の協力者を得たという点で、それぞれに有益だった。それ以降、マッカーサーは、天皇擁護の方針を鮮明に打ち出していった。
 弊原や吉田茂のように、根本的・急進的な改革を嫌う保守層は、明治憲法の改正ではなく、運用の変更によって、自由主義的・民主主義的な政治・社会を実現することが適当かつ可能と考える傾向にあった。
 1946年2月3日、マッカーサーがGHQの民政局に示した原則は三つ。第一に、立憲君主としての天皇制の維持。第二に、自衛戦争をふくむ完全な戦争放棄。第三として、封建制度の廃止。
 戦後放棄条項は、天皇制の存置と日本の軍事大国化の阻止という二つの要請を同時にみたす、当時においてはほとんど唯一の方法であった。
 吉田茂は、権力闘争をたたかう武器として公職追放を利用した。
マッカーサーと天皇の会見は11回に及んだ。それは毎回、天皇がアメリカ大使公邸にマッカーサーを訪問する形式で行われた。マッカーサーは最後まで宮中に行うことはなかった。マッカーサーは天皇を敬愛し、その協力を求めつつも、天皇をふくむ統治機構の上にマッカーサーが君臨していることを象徴的に示すスタイルを最後まで変えようとはしなかった。
 終戦後の日本政治を詳しく、かつ多面的に分析した本として、興味深く読みとおしました。
(2013年9月刊。2600円+税)

フィリピンBC級戦犯裁判

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  永井 均 、 出版  講談社
日本軍って、戦中のフィリピンで実にひどいことをしたのですね。そして、戦後、それにもかかわらずフィリピンは国としてまことに寛大なる処遇をしたのでした。
 たとえば、1945年2月のマニラ地区のセント・ポール大学周辺で日本軍はフィリピン住民を500人近く大虐殺した。ほかにも、1000人以上の住民を殺害した事件など、300件以上が調査されている。
フィリピンに動員された日本兵は61万人。その8割の50万人が命を落とした.死者の大多数、8割は餓死者であった。フィリピンは、日本軍将兵にとって、文字通り絶望の戦場だった。
 戦後、フィリピン人は、日本人と見るや激しい怒りをぶつけた。日本軍に対する「恨みの炎」はフィリピン全土で燃えさかった。
 1945年10月から1947年4月まで、マニラで日本軍将兵に対する戦犯裁判が続いた。そこでは215名の戦犯が裁かれた。これは米軍当局の手によるもの。
 フィリピンが米軍から裁判権を引き継ぎ、日本軍将兵に対する戦犯裁判を始めたのは1947年8月。この裁判は1949年12月まで2年半のあいだ続いた。
 フィリピンが戦犯裁判を担うようになったのは、マッカーサー元師の意向だった。それは、アメリカ国内で、マニラ駐留の米軍に戦犯裁判の管轄権力があるのかという疑問が出ていたことにもよる。
フィリピンのロハス大統領は、国際法にのっとって公平かつ道理に則した迅速な裁判の機会を与えると公言した。
 ロハス大統領は、復讐や報復ではなく、裁判は国際法の原則にもとづく正義の追求にあると宣言した。ロハス大統領は、弁護士だった。
 そして、戦犯法廷の弁護人として日本人弁護士を日本から呼び寄せた。ところが、日本人弁護士は言葉の壁に直面したようです。そこで、フィリピン人弁護士が登場するのですが、彼らは誠実に弁護したとのことです。
 フィリピン人弁護士の公平な弁護態度は日本人関係者から高く評価された。
 フィリピンの戦犯裁判においては、極刑宣告の比率が高いという特徴があった。79人の被告に死刑が言い渡された。これは、起訴された151人の半数以上(58%)を占める。この151人は、軍司令官から1等兵まで、そして民間人も含んでいる。
裁判が終わって、刑務所に収容された有期・終身刑は「紅組」と呼ばれたが、赤い囚人服を着ていたから、戦犯死刑囚は「青組」と呼ばれた。
刑務所長刑者を人間として処遇した。所内を丸腰で歩き、受刑者と会話し、独房も訪問した。
 フィリピン当局は、独立国家の威信にかけて、日本人は戦犯の処遇に慎重を期した。そして、日本人戦犯は刑務所の規則を守り、規律正しく、協力的で、刑務当局から信頼を得ていた。日本人は脱走や自殺を図ることもなかった。
 1951年1月、日本人戦犯の死刑囚14人が処刑された。14人は絞首刑となった。
 フィリピン当局は、刑に処せられた日本人を最後まで丁重に扱った。処刑に立ち会ったフィリピン人関係者には、従容と死地に赴く14人の姿が強く印象に残った。
 この執行から10日あまりたった2月1日に日本で処刑のことが報道され、日本国民のあいだに助命運動がわき上がった。
 反日一辺倒でなかったとはいえ、キリノ大統領は、フィリピン国民の厳しい対日感情に配慮せざるをえず、日本人戦犯に厳格な姿勢でのぞむ姿勢があった。大統領選で再選を目ざしていたキリノにとって、日本人戦犯の恩赦、本土送還は危険な橋であった。
 キリノは戦争中に、日本軍によって愛する家族を殺されていた。苦しみの日々を過ごしてきたキリノ家の傷は深かった。キリノは憎しみ続けることをやめる人生を生きよう、子どもたちに諭した。
 キリノ大統領が恩赦したとき、そのことにフィリピン世論は比較的冷静だった。
戦犯死刑囚79人のうち、実際に処刑されたのは17人のみ。執行率は2割にとどまったが、これはほかの地での8割と比べると低い。
 1953年7月、フィリピンから日本人戦犯111人が日本に戻った。
「モンテンルパの夜はふけて」という渡辺はま子の歌は知っていますし、モンテンルパ刑務所も現地で外側だけ見たことがあります。このようなドラマがあったことを初めて知りました.ほんとに世の中は知らないことだらけですね。大変な労作だと思いました。
(2013年4月刊。1800円+税)

もう日は暮れた

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著者  西村 望 、 出版  徳間文庫
1930年10月、台湾中部の山岳地帯の霧社で発生した事件を忠実にたどった小説です。
 小説ですので、登場人物の名前は史実とは異なりますが、事件の背景、事件の推移については史実のとおりです。
 霧社は台湾中部の中央部にそびえる、能高山脈の山麓にある台湾原住民・高山族の村である。高山族は、終戦直後まで、高砂族と呼ばれていた。そして、霧社は、高砂族のなかの一部族である、アタヤル族の村である。アタヤル族は高山族のなかでも剽悍(ひょうかん)をもって知られ、首狩りの習慣を持っていた。事件当時、3万人余の人口を有し、高砂族のなかでは最大の部族だった。
 日清戦争で清朝から台湾を割譲された日本は、植民地経営を平穏に行うためには、アタヤル族をはじめとする山岳民族の慰撫懐柔が不可欠と考えた。これを理蕃(りばん)と読んだ。この施策実行の先兵となったのが警察だった。理蕃事業の成否は、配置された警察官の人柄や気質に大きく左右された。
 霧社は、理蕃のなかで、もっとも成功した場所のひとつとして知られていた。
 そんな霧社で、盛大な運動会の当日、集まっていた日本人のほとんど全員(134人)が皆殺しの憂目にあったのでした。
 日本人による植民地経営の苛烈さを知ることのできる本でもあります。現地の風習の違いは、次のようなところにも見られます。
 蕃社では、死者は埋葬するが、外には埋めない。みんな屋内に埋めてしまい、その場所は聖なる一隅として、いっさい使わない。死者はオットフとなってそこに坐っていると信じられている。
霧社事件の起きる前の状況、殺戮の様子、そして日本軍の鎮圧作戦の推移を小説として知ることのできる貴重な文庫本です。
 でも、史実に即していますので、重たい気分で読み進めました。少し骨が折れるものではありました。
(1989年10月刊。520円+税)

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