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カテゴリー: 日本史(戦後)

昭和天皇の敗北

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 小宮 京 、 出版 中公選書
 昭和天皇が、いったい何に敗北したというのか…。
 昭和天皇は、戦後、敗戦の責任をとって退位することもなく、日本国憲法ができて「象徴」となっても、最近、ちっとも首相が内奏に来ないが、どうしたことかと不満たらたらだった。
 つまり、戦後も、戦前と同じように内閣に対して助言、ひょっとしたら指導するつもりだったのです。それをしようとして、周囲が慌てて制止していた。これが天皇にとっての「敗北」ということのようです。
1946年1月25日、マッカーサーはアメリカ本国に対して、天皇制の存続が重要だと連絡した。日本を円滑に支配で運営するうえで、天皇制を利用したほうがよいと、マッカーサーは判断していたわけです。
 昭和天皇は皇室財産が国会の審議対象となったら、「その収支が白日にさらされるので、かなり窮屈になる」、このように苦笑したと記録されている。
 マッカーサーは、「会談」の場では、一方的にまくしたてるのが常態化していた。マッカーサーはいつも好き勝手に話す。一人でしゃべり続けるので、マッカーサーとの対話は成立しない。
マッカーサーは幣原(しではら)首相と会談(対談)したのではなく、一方的に命じただけのこと。つまり、9条は幣原の提起したものではなく、マッカーサーが発案したもの。なーるほど、恐らくそうなんでしょうね。
 昭和天皇は国民主権の明示に納得しなかった。昭和天皇がGHQ草案を受け入れたという「聖断」なるものは事実ではない。むしろ実態に反する虚構に近い。
 昭和天皇は、自らの地位や主権に関する事項について、強い関心を抱いていた。
 昭和天皇は、天皇大権がある程度は制限されることは覚悟していたが、統治権をすべて放棄するところまでは想定していなかったと思われる。
 昭和天皇は、日本型の立憲君主制を模索した内大臣府案を高く評価していた。昭和天皇からすると、政府も内大臣府も臣下にすぎない。ところが、幣原首相や松本国務相は、昭和天皇の意向を無視した。
 昭和天皇は、キングの存在を大前提として、君主主権でも国民主権でもないものを希望すると明言した。これは「聖断神話」を真っ向から否定するもの。昭和天皇がGHQ草案を受け入れたという「聖断」なるものは、幣原がつくり上げた物語にすぎない。
 GHQ側は、「天皇を軍法会議にかけることもできるし、証人に呼ぶこともできる」と言って、日本側を恫喝した。政府は、この恫喝に屈した。
 占領軍(GHQ)のサゼスチョン(示唆)に反対するのは、当時、きわめて困難だった。貴族院は、公職追放などによって恫喝されて、自発的に決定したという体裁をとらされて最終的に可決した。
 昭和天皇に対して、片山内閣が総辞職するときに、拝謁(はいえつ)したこと、芦田首相が内奏したことにマッカーサーは寛容だった。昭和天皇は、自らが主権者であることにこだわり、イギリスのキングと同じく元首であることを希望していた。
 そして、昭和天皇は、戦後も元首であり続けようとした。周囲(たとえば田島・宮内庁長官)が、新憲法のもとでは元首でないと釘を刺した。
 「将来変わるから、当面は辛抱してほしい」と言って昭和天皇をなだめた。
 昭和天皇は、与野党が拮抗し、政局が混乱したとき、政治的調停者としての役割を果たすつもりでいた。昭和天皇は、奨励や警告というレベルをこえて、戦後政治において自らが果たすべき役割を模索していた。
昭和天皇は、当時、「すべての新聞」に目を通していて、その動向を注視していた。
 田島宮内長官の書き残した『拝喝記』によって、昭和天皇が元首としての役割や権限にこだわり、その拡張を目ざしていたことが明らかになる。結局、GHQの圧倒的な権力によって国民主権が憲法に明記され、昭和天皇の希望は実現しなかった。すなわち、昭和天皇は「敗北した」。
 福岡県生まれ(1976年生)の著者による論旨明快な本で、頭がすっきりしました。すでに3版発行というのですから、これまたすごいですね。こんな硬い本でもテーマによっては読まれるわけです。
(2025年4月刊。2200円)

象徴天皇の実像

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 原 武史 、 出版 岩波新書
 昭和天皇は根っからの反共主義者だったようです。吉田茂については、日本共産党を甘く見ている、少し過小評価していると批判していました。著者は、天皇が逆に共産党を過大評価しているとしています。
昭和天皇のホンネは、独立回復を機に憲法9条を改正して自衛軍をもつことだった。
吉田茂については、いろいろ不満たらたらだったのですが、それでも代わる人間がいないから、首相を続けさせるしかないという現実認識だった。岸信介は主戦的だったのに公職追放から解除されたのはおかしいと昭和天皇は考えていた。
 東条英機はちゃんとやったが、近衛文麿は無責任のそしりを免れない。近藤はよく話すけれど、あてはならない。
皇太子(今の上皇です)が東大に行くのを昭和天皇は反対したようです。東大総長の南原繁が全面講和や天皇退位を唱えていたから、その影響を皇太子が受けるのを心配したから。結局、皇太子は学習院大学に入りましたが、中退しています。
この本は、宮内庁長官をつとめた田島道治による『昭和天皇拝喝記』にもとづいていますが、昭和天皇の肉声が聞こえてくるような気にさせられるような生々しさがあります。
 昭和天皇については、口数が少ないというイメージがあるが、その素顔は、むしろ多弁で、話しだしたら止まらなかった。その雰囲気がよく伝わってくる本になっています。
 敗戦後、新しい憲法が出来て「象徴」になったあとも、昭和天皇は依然として天皇大権をもっていると思い込んでいた。これには驚くほかありません。
戦後の日本で、政治不信が強まれば、共産主義の影響を受けた学生や労働者が直接行動を起こして、暴発しないか、天皇には危機意識があった。
天皇は自らの退位を真剣に考えていたというより、もとからあまり退位する気はなかったようです。
 そして、国民の多くが敗戦後、カトリック信者になるのなら、自分も改宗しようか、真面目に検討したとのこと。でも、敗戦後の日本人にカトリック信者が急増したという現象もないので、早々にやめたそうです。
 天皇は皇太子(今の上皇)のことを「東宮(とうぐう)ちゃん」と呼び、その身体が弱いので、天皇がつとまるか心配していた。
敗戦後、昭和天皇は日本全国を皇后と一緒に巡業したが、最後に北海道が残った。行けば、「共産化に対する防御」になるので、ぜひ北海道に行こうということになった。そして、行ったのです。
 昭和天皇が、「国費を使ってアカ(赤)の学生を養成する結果となるような大学もどうかと思う」と言ったとき、それは東大や京大を指していた。いやはや、なんという感覚でしょうか…。
 天皇が皇道派の中心人物の一人である真崎甚三郎を特に嫌っていたというのを初めて知りました。
戦前、日本軍による南京大虐殺があったことを三笠宮は自分の本のなかで書いていますが、昭和天皇も「支那事変で南京でひどい事が行われていることを、ウスウス聞いていた」としています。
 昭和天皇の実像を知ることのできる貴重な新書だと思いました。一読を強くおすすめします。
(2024年10月刊。960円+税)

奪還

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 城内 康伸 、 出版 新潮社
 日本が敗戦した1945年夏、朝鮮半島には70万人の日本人がいた。そのうち北朝鮮には25人、それに満州からの7万人の避難民が加わった。南朝鮮に進駐した米軍は日本人を早朝返還方針をとり、日本人45万人の引き揚げ作業は1946年春までにほぼ完了した。
 ところが、北朝鮮では違った。進駐したソ連軍は、38度線を封鎖し、南朝鮮への移動を許さなかった。北朝鮮での栄養失調と劣悪な環境下に置かれた日本人は発疹チフスなどのため次々に死亡し、地域によっては6人に1人が死ぬ惨状となった。その苦境に置かれた日本人を北朝鮮から大量脱出させるのに活躍した日本人がいた。それが松村芳士男(ぎしお)だ。この本は、松村の経歴と苦難にみちた活動状況を刻明に追跡し、復元しています。貴重な記録です。
松村は、当時34歳、日本では労働運動していて、治安維持法違反で2度も検挙された、元左翼活動家だった。
松村が直接・間接に脱出を援助した日本人は6万人に達するとみられている。
 日本敗戦時、日本政府は食料不足の状況にあるから、海外からの引揚者が急増するのは避けたい気持ちが先に立ち、できる限り現地にとどまり、引き揚げを遅らせようとした。しかし、南朝鮮に進駐した米軍は日本人全員を早期送還する方針だった。それには朝鮮人にある激しい反日感情を踏まえていた。
 松村義士男は、1911(明治44)年12月に熊本市で生まれた。私の亡父は明治42年の生まれですから、ほとんど同世代です。亡父は一度、応召したものの、中国大陸で病人となって本土に送還されて命拾いしたのでした。
 松村は大阪そして北九州で労働運動をしていて、1936年12月に特高警察に検挙された。そして、1940年に朝鮮に渡り、北朝鮮(咸興)に住んだ。戦後、松村は咸興市に「朝鮮共産党咸興市党部日本人部」の看板を掲げて活動を始めた。
 北朝鮮にいた日本人は次々に倒れていき、死亡者は1946年春までに2万5千人に達した。うひゃあ、これは多いですよね…。
 日本人の置かれている窮状を目の当たりにして、松村たちは動いた。集団脱出の方法・経路を考えた。在留邦人(日本人)の惨状に接していた朝鮮当局は日本人が南下するのはやむをえないと黙認した。
 当初は、試験的な鉄道輸送であり、1日30人だった。それが、50人、100人と増やしていった。そして、ソ連軍に陳情し、日本人4000人の疎開命令を出させた。
 しかし、鉄道輸送だけでなく、徒歩で38度線を越えて南下しなくてはいけない。それがまた大変だった。次に、海路での脱出が試みられた。
 コレラが流行しはじめたことから、日本人の移動、南下に再び制限がかかった。
 なーるほど、ですね。アメリカ軍が日本人の南下を防止しようとしたのでした。
 日本のなかにも、北朝鮮の要請にこたえて残留し、産業振興に力を貸そうという技術者もいた。
 「このまま冬を迎えたとき、日本人の命を保証することができるのか?」
 松村たちは、ソ連や朝鮮の関係機関に詰め寄り、日本人の一斉帰還を強く訴えた。
 ソ連軍や朝鮮当局のなかに、技術者を除いた一般の日本人は帰国させて良しとする認識が広まっていた。
 いやあ、こんな取り組みがあったのですね、そして、松村という人物が仲間と一緒に取組を成功させたのです。すごい活躍ぶりです。
 松村は戦後の日本ではあまり恵まれなかったようです。朝鮮では「引き上げの神様」とまで言われたのに、戦後しばらく宮崎県延岡市で工務店を経営していたものの、突如、姿を消し、大阪で病死したようです。
 まあ、それはともかくとして、朝鮮半島の北半分から日本へ帰国するときの苦労がよく掘り起こされていました。
(2024年10月刊。1900円+税)

戦友会狂騒曲

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 遠藤 美幸 、 出版 地平社
 著者はビルマ戦を研究している学者であり、二児の母親でもある。元兵士の遺族でもないのに、ひょんなことから戦友会の「お世話係」となって月1回の戦友会に顔を出すようになった。2005年のこと。しかし、年月がたって、元兵士たちが次々に亡くなっていき、この戦友会は2007年12月に解散した。そのあと有志が集まるようになったのにも関わる。
現在、もはや元兵士が主導する戦友会は日本には存在しない。当然ですよね。戦後80年になろうとしているのですから、終戦時に20歳の人は100歳なのです。著者が関わった戦友会は「第二師団勇(いさむ)会」。第二師団の通称号は「勇」。第二師団は福島、新潟、宮城三県から編成された部隊。第二師団はガダルカナル、中国雲南省、ビルマ方面の激戦地で戦った。
戦友会は多様な形態があり、明確に定義が出来ないのが特徴。
 戦友会は、あくまで任意の民間団体。戦友による会費と寄付が財源。1965年から1969年までが戦友会設立のピークで、その最盛期は短かった。1980年代には3分の1に減少した。
 戦友会の「勇会」は1980年代の最盛期には130~150人の参加があったが、2003年にはわずか15人にまで激減した。
 この戦友会に、著者たちが接近してきて加入した。「自虐史観」を排し、大東亜戦争は聖戦だった、東南アジアの虐げられた貧しい民衆を解放してやったと主張する集団。日本軍が強制連行してつくった慰安所の存在を否定する。しかし、元兵士たちには自ら慰安所を設立したという体験があるので、話がかみあわない。
ガダルカナル島戦に従事した第二師団は1万人余。そのうち8千人近くが戦死した(戦死率76%)。ビルマ戦線の総兵力は1万8千人で戦死者は1万3千人(戦死率68%)。この戦死率の異常な高さに思わず息を呑みます。これって、戦病傷者を考えたら全滅というレベルですよね。
 ビルマ戦線の日本軍総兵力は33万人でうち19万人が戦死した。まさに「地獄のビルマ戦」です。そんな苛酷な戦場体験をもって生還した水足中尉は、もし今、戦争が起きたらどうするか…と自問して答える。
 「私は戦争になったら逃げます。戦争に行って最大の卑怯者になりました。戦争は何としても阻止しなければいけません。勝ってもダメです。自衛隊もいけません」
 金泉軍曹の口癖は…。
 「私は軍隊が大嫌い。二度と戦争してはいけない。最初から相手が憎いわけではないのに殺しあう。相手にも親兄弟がいて、死んだら悲しむでしょう。戦争ほど愚かなことはない。勝っても負けても意味がない。しょせん、国同士の関係だからね」
 磯部憲兵軍曹は、即答する。
 「戦争に行けと言われたら、私は一目散に山にでも逃げますね。米袋をかついで逃げますよ」
 ところが、戦場体験のない人は、その「負い目」から勇ましい言葉を発することがある。
 戦友会では階級がモノをいう。元兵士たちは、かつての上官の前では本音を言わない。言えないのだ。
 激戦のなか、どのようにして生き残ることが出来たのかと問われ、金泉軍曹はこう答えた。
 「自分だけ生き残ろうとずるいことをした人は、みな死んでしまった。他人(ひと)のことを助けて初めて他人に助けてもらえる」
 偕行社は自然消滅の危機にあったが、陸上自衛隊OBとつながって、「陸修偕行社」として存続している。
 実は私も「偕行社」を利用させてもらったことがあります。亡母の異母姉の夫(中村次喜蔵中将)の軍歴を知りたかったのです。すぐ調べていろいろ親切に教えてもらいました。ありがたかったです。
(2024年7月刊。1800円+税)

藍子

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 草川 八重子 、 出版 花伝社
 朝鮮戦争が勃発したのは1950年6月25日。このころ、京都の高校生だった著者が、当時の社会問題と格闘する日々を振り返っています。
藍子の通う高校では、生徒会が総会を開いてイールズ声明(共産主義の教授は追放すべきだというもの)に反対することを決議しようとします。しかし、そんな決議をしたら、アカい高校と見られて生徒の就職が困難になるという現実重視派から反対の声が上がるのでした。
 前年(1949年)4月の総選挙で共産党は35人の国会議員を当選させたのに、GHQが共産党の追放を決め、6月の参議院選挙で当選した2人も無効とされてしまった。そして、下山、三鷹、松川という大事件が相次いで起き、世の中は急速に反共ムードが高まっていった。
 この高校には民青団の支部があり活発に活動しています。藍子は初め反発しながらも、戦争反対の声を上げるべきだと考え直して加入します。そして、オモテとウラの活動があるうちのウラにまわされます。レポ、要するに連絡係です。当時は、こんな活動も高校生にさせていたのですね、驚きました。
 驚いたと言えば、まだ高校生なのに、男子生徒が山村工作隊員に選ばれ、丹波の山村に入って革命の抵抗基地づくりをしたというのです。そして、その活動の一つが地主宅に投石して窓ガラスを破れというものでした。そんなことして、世の中に大変動が起きるはずもありませんが、当時は、大真面目だったのですね。
 高校生の藍子は疑問も抱きます。当然です。
 何でも「革命のため」と理由をつければ、指導者は勝手なことができて、藍子はひたすら我慢しなければならないのか…。そんなことはないはず。
 「革命」は世の中をひっくり返して、虐(しいた)げられていたものが権力をとること。労働者が、自分たちの政府をつくること。それを成し遂げる人間は、自由で積極的な自分の意思で活動すべきだろう…。
 著者は1934年生まれですので、私よりひとまわり年長です。50歳前後からたくさんの本を書いています。今回の本は、共産党の「50年問題」を、高校生だった自分の体験を描くことによって、「あの時代を抹消してもいい」のかと問いかけています。90歳になる著者が「体力と気力のある間にと蛮勇を振る」って書いたという貴重な記録です。それにしても、多感な女子高校生の会話まで見事に「再現」されている筆力には驚嘆するしかありません。
(2024年8月刊。2200円)

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