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カテゴリー: 日本史(戦国)

戦国のコミュニケーション

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 山田 邦明 、 出版 吉川弘文館
戦国時代の武将たちは、どうやって確かな情報をすばやく伝達していたのかを残された書面から探った本です。
本能寺の変で信長の死を知った秀吉は直ちに「大返し」に取りかかったが、同時に敵方への情報遮断にも成功した。
戦国時代、人の噂の伝わる早さは今考える以上のものがあった。でも、確かな情報を伝える手紙はなかなか届かなかった。そして、手紙には、使者が口頭で詳しく述べると書かれていることも多かった。すると、誰も使者としては派遣するかが重要になる。
ただ、飛脚を使うこともありました。どんな使い分けがされていたのでしょうか…。
自分の出した情報が、いったい相手に通じているのかという不安は、当時はきわめて深刻なものだった。使者が帰るまでに1ヶ月はかかり、飛脚だと、着いたかどうかが確かめられないことも多かった。
戦国時代の文書は、書き手の心情や願望が生き生きと書かれているものが多い。なので、読みとるのは難しいが、内容が理解できたら、なかなか面白い、
戦国時代には、使者や飛脚が敵方に押さえられ、密書が奪いとられることが本当に起きていた。
「申す」というのは、下から上に向かって何かを主張するときが多く、上から下への意思伝達は「仰(おお)す」と表現された。
毛利元就(もとなり)は、三人の息子、隆元(たかもと)、吉川元春、小早川隆景に手紙を書いて送った。ところが、送った手紙(書状)原本は元就に返すことになっていたというのです。これには驚きました。
「読んだら早く返せ」と元就は書状に明記していました。それは、他人には決して見せられないようなことも書かれていたからです。つまり、家臣たちの評価も書いてあったようなのです。
書状には日付がないので、内容から書かれた時期を推測するしかありません。
長男隆元が41歳で急死したあと、吉川元春と小早川隆景は若い当主輝元(隆元の子)を支えて毛利両国の保持と拡大につとめた。元就は75歳で亡くなった。
有能な死者は二つのパターンがあった。その一は、足の速い者。その二は、理解力や交渉能力のある者。この両者が使い分けられていた。いずれにしろ、使者をつとめるのは、本人にとってきわめて危険にみちた仕事だった。
信頼できる情報を得ること、もたらされた情報を信じることは、戦国時代にはきわめて困難だった。それは、よく分かります。ところが、ネットの発達した今日では、フェイクニュースとかなりすまし情報に惑わされないことが求められています。情報の入手とその評価が、とても難しいのがよく伝わってくる本でした。
(2020年1月刊。2300円+税)

戦国の図書館

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 新藤 透 、 出版 東京堂出版
日本人は「戦国時代」が大好き。この本に、こう書かれていますが、まったくそのとおりです。映画「七人の侍」も戦国時代の話ですよね。織田信長とか豊臣秀吉、たくさんの武将たちが次々に登場してきますので、大いにロマンがかきたてられます。
ところで、「戦国時代」という言葉が一般に普及したのは明治に入ってからで、「戦国大名」という用語が誕生したのは戦後だというのに驚いてしまいました。江戸時代には「戦国」という言葉は使われておらず、一般的な言い方ではなかった。むひゃあ、そ、そうだったのですか…、恐れ入りました。
足利義政・義尚は、書籍収集をしていて、足利将軍家は蔵書家でもあった。
この本は足利(あしかが)学校について詳しく紹介しています。
足利学校は、室町時代の中期に、関東管領の上杉憲実によって再興された。鎌倉・円覚寺の禅僧が校長となり、生徒には琉球出身の学生もいた。すごいですね。沖縄から、はるばる本土、それも足利まで、噂を聞いてやってきたのでしょうか…。
足利学校では儒学を中心として『易経』に力を入れていた。当時、易学と兵法を学んだ足利学校の卒業生は戦国大名にひっぱりだこだった。易学は、戦国時代の「実学」だった。
足利学校は、自学・自習が中心で、修学年限も決められていなかった。まさしく大学ですね。なので、単なる図書館ではなかったということです。
このころの連歌師は、プロの間者(かんじゃ)ではなかったとしても、それに近いことをしていた。ふむふむ、なるほどですね…。全国を渡り歩いていて、各地の情報をつかんでいたことからのことです。
もともと寺院は僧侶のための教育機関だったが、武士の子弟も受け入れるようになり、室町時代に入ると、民衆の子どもたちの一部も「入学」が許可された。「大学」の受け入れ枠が広がっていったのでした。
戦国時代は、世の中が乱れた時代だったが、それまで京都で独占していた文化が一挙に地方に波及し、そこで独自に進化した画期的な時代だった。
というわけで、戦国時代の実情の一端を知ることのできる本です。
(2020年9月刊。2500円+税)

戦国大名の経済学

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 川戸 貴史 、 出版 講談社現代新書
日本史のなかでも戦国時代というのは、織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康が出てきますし、その前には武田信玄、上杉謙信、さらには真田幸村などいかにも魅力的な武将たちのオンパレードです。
でも、この手の末尾に、戦国時代と現代との決定的な違いは、当時の人々には戦争がごく身近だったとされています。うひゃあ、そ、そうなんだよね…。だったら、私はバック・トゥ・ザ・フューチャーで戦国時代に顔を出したくはありません。映画『七人の侍』の世界なんて、まっぴらごめんです。
当時の日本の人口は1500万人ほど。戦国一国あたりの人口は20万人から30万人。
戦争すると、戦闘員が数千人、兵站(へいたん)に関わる非戦闘員を加えると2万人。兵糧を支給すると、1人1日6合の兵糧として、戦闘員2000人として、1日あたり12石の米を要する。1ヶ月だと米360石。現代の価値として1500万円。このほか、鉄砲などの武具を用意しなければならない。昔の戦争だってお金がかかるのですね、当然ですが…。
鉄砲は1挺あたり50~60万円の価値があった。鉄砲使用に必須となる火薬の原料として欠かせない「硝石」を日本は中国から輸入することに成功した。
信長の安土城は、現代の価値として100億円はかけただろう。
戦場では「乱取(らんど)り」があっていた。勝者が人を拉致して売りとばすのだ。売られてしまった人たちは、主人に隷属的な下僕として従属する。下人(げにん。奴隷)だった。
乱取りを上杉謙信自身が容認していた。乱取りは、兵士たちへの報酬だった…。
ワイロは当然というのが、この時代の人々の共通認識だった。当時の人々の認識では、まったく恥ずべき行為などではなく、それどころか見返りをもっとも期待できるものだった。
日本の中世社会は、贈答儀礼がきわめて盛んな時代であり、有力者同士の交流に贈答は欠かせなかった。
やはりいつの時代も、お金、つまり経済抜きの行動はありえないというわけです。
(2020年8月刊。1000円+税)

「関ヶ原」の決算書

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 山本 博文 、 出版 新潮新書
この本の結論をまず紹介します。
「関ヶ原」で負けたことで、秀頼は年収1286億円だったのが、一挙にわずかその1割ほどの185億円になってしまった。秀頼の領地としては摂河家74万石のみとなった。そして、全国にあった豊臣家蔵入地と金銀山からの運上収入を全部失った。
これに対して、家康のほうは573万石を支配するようになったが、これは日本全土1850万石の3割に相当する。そして、金銀山からの運上金が年に397億円。なので、あわせると毎年1205億円の収入を生む領地と金銀山を家康は得た。
この家康が奪った秀頼の蔵入地と金銀山こそが「関ヶ原」の15年後の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼす原資となり、260年も続いた江戸幕府の重要な経済基盤となった。
まことに経済基盤こそ社会のおおもとを動かす原動力なのですね…。
「関ヶ原」で決戦した東西両軍の戦費も計算されています。
徳川家康としたがった大名の兵力は5万5800人。この軍勢が3ヶ月、90日のあいだ行軍し、戦った。1日5合の割合で計算すると、20億円あまり。これに秀忠軍をあわせると30億円近くになる。西軍のほうは9万3700人なので、そして61日間とすると、23億円弱となる。つまり、わずか3ヶ月間で53億円もの兵糧米が消費されたということ。
島津家が「関ヶ原」でなぜ敵中突破に成功したのか、なぜ薩摩藩を守り抜くことができたのか、かなり詳しく紹介され、分析されています。
関ヶ原のとき、島津義弘は65歳、徳川家康は58歳、そして石田光成は40歳だった。
義弘の率いる軍勢は、わずか1000人足らずでしかなかった。それでも島津の軍勢は「関ヶ原」の敗戦のなかで敵陣の中央突破を図って、なんとか切り抜けることに成功した。それには福島正則の軍隊が島津軍を見逃してくれたことも大きかった。朝鮮出兵のとき、福島正則は島津軍とともに戦った関係にあった。
義弘主従は、最終的に50人ほどになっていた。ただし、別に300人ほどの部隊が京都にたどり着いている。また、島津軍には商人も同行していたという。そして、島津氏の内部では、「関ヶ原」の戦後も強硬派と融和派があって、深刻な対立があった。
結局のところ、家康は島津家との軍事衝突より全国の平和を優先させたということのようです。大変勉強になりました。著者は、惜しくも先日亡くなられました。残念です。
(2020年6月刊。800円+税)

撰銭とビタ一文の戦国史

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 高木 久史 、 出版 平凡社
日本史に登場する銭(ぜに)の素材は、金・銀・銅・鉛と、さまざまなものがあった。
朝廷は鉛でできた銭を発行し、中世の民間は純銅の銭をつくり、秀吉政権は金または銀で銭をつくり、江戸幕府は鉄または黄銅(銅と亜鉛の合金)でも銭をつくった。
15世紀の日本では文字やデザインのない無文銭がつくられた。これは、錫が少なく、銅の多い銭は文字がはっきり出にくいことによる。無文銭をつくっていた地域の代表が堺。
足利義満は、20~30万貫文の銭を輸入した。義満が明との勘合貿易に積極的だったのは、内裏(だいり)や義満の邸宅である北山殿(今の金閣)を建設するための財源を調達するためだった。
室町時代を全体としてみると、輸入した銭の量は貨幣に対する人々の需要をみたすほどのものではなかった。
銭が不足したことへの人々の対応策の一つが省陌(せいはく)。これは100枚未満しかない銭を100文の価値があるとみなすこと。このために銭をひもで通してまとめたものを緡銭(さしぜに)という。ただし、これは、中国やベトナムにもあって、日本独自の慣行ではない。
撰銭(えりぜに)とは、人々が特定の銭を受けとることを拒んだり、排除してしまうこと。たとえば、明銭のなかの永楽通宝は品質もそこそこ良いのに人々から嫌われた。
人々は旧銭を好み、新銭は「悪」とみなした。つまり、使い古された貨幣のほうが安心して使えるので、好まれた。
九州の人々は明銭のうち、洪武通宝を好んだが、本州の人々はこれを嫌った。
16世紀には銭そのものを売買する市場が成立し、これを悪銭売買と呼んだ。
銀は、15世紀以前の日本では対馬国を除いてはとれず、中国や朝鮮半島からの輸入に頼った。16世紀に入ると、石見(いわみ)銀山など全国各地に銀山が開発された。信長政権の時代には、銭が不足気味だった。
「ビタ一文も負けない」というときの「ビタ」は、銭のカテゴリーの一つ。やがて、人々はビタを基準銭に使うようになった。「ビタ一文」と言うとき、貨幣の額面が小さいうえ、少額なことを人々がややさげすむ意味をふくんでいる。
秀吉は関東の北条一門を屈服させると、永楽通宝1をビタ3、金1両をビタ2000文とする比価を定めた。秀吉政権は高額貨幣の発行を優先させ、銭政策に消極的だった。秀吉は全国の金山を直轄すると宣言し、国内の銀山で採れた銀で銀貨をつくって大陸出兵の軍費にあてたり、そのことで再びもめた。
碓氷(うすい)峠あたりを境として、西側はビタを、東側は永楽通宝を基準銭とする地域に分かれていた。
寛永通宝はビタのなれの果てだった。
日本中の銭のさまざまなつかい方の一端を知ることができる本です。
(2018年12月刊。1800円+税)

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