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カテゴリー: 日本史(戦国)

桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 藤本 正行、 出版 洋泉社新書y
 桶狭間(おけはざま)というと、谷底のような低地というイメージがあります。しかし、実際には、桶狭間山という丘陵地帯に今川義元は陣を置いていた。そして、信長は、堂々たる正面攻撃で今川軍を打ち破った。
 信長は、遺棄された義元の塗輿を見て、「旗本はこれだぞ、これを攻撃せよ」と命じた。ここまでは最初の攻撃で破った今川軍を追撃するのに夢中で、義元を捕捉できるとは考えてもみなかったはずだ。
 決戦は雨上がりに始まった。信長は空が晴れるのを見て、鑓(やり)を取り、大音声(だいおんじょう)をあげ、「かかれ、かかれ」と命じた。信長の軍勢が黒煙を立ててかかってくるのを見た今川軍は、後ろにどっと崩れた。
 今川軍は、初めは3百騎ばかりが真丸になって義元を囲み、退却を始めたが、信長軍の追撃を受けて、二度三度、四度五度と踏みとどまって戦ったものの、次第しだいに人数を減らし、ついには五十騎ばかりになった。そこで、信長軍の若者(服部小平太)が義元に切りかかり、毛利新介が義元の首をとった。
 以上は『信長公記』による。今川義元の出動は、京都に上洛して天下に号令するためという説があるが、本当は、信長との領国拡張競争で境目の城の取り合いをして衝突したということである。当時の史料で「天下」という言葉は、日本全国ではなく、京都を中心とした畿内近国を意味している。
 著者は、「奇襲」説は明治32年に参謀本部が刊行した『日本戦史・桶狭間役』に、信長の奇襲が大成功したとあることによるものだが、それは、資料にもとづかない創作だとしています。この本は、信長の家臣だった太田牛一(おおたぎゅういち)の『信長公記』(しんちょうこうき)を良質の史料として、それに全面的に依拠していますが、なるほどと思わせるものがあります。
 豪雨のなか、信長がわずかな手勢で義元の本陣に突入して義元の首を挙げたという通説のイメージは確固たるものがありますが、どうやら戦前の参謀本部に騙されているだけのようです。
(2008年12月刊。760円+税)

のぼうの城

カテゴリー:日本史(戦国)

著者:和田 竜、出版社:小学館
 非常にユニークな時代小説とオビにかかれています。なるほど、そうでしょうね。戦国時代のお城の攻防戦を描いているのですが、とてもユニークな物語です。そして、それが史実をふまえているというから、余計に面白いわけです。
 ときは戦国時代末期。秀吉の小田原攻めの最中に起きました。信長が本能寺の変で倒れる前、秀吉は毛利軍と戦っている最中でした。そのときとられた作戦は有名な備中高松城の水攻めです。
 秀吉がつくった人工堤は、下底が12間(22メートル)、上底が6間(11メートル)の幅があるという、途方もない分厚さがあるものを、3里半(14キロメートル)という気の遠くなるような長大さをもっていた。
 いやあ、これはすごいですね。北条攻めに動いた秀吉軍は総勢16万騎。そして、石田三成を総大将とする2万の大軍が忍城に向かった。忍城は関東7名城のひとつに数えられていた。忍城にいた成田長親は、周辺の百姓を城に呼びこみ、迎え入れた。
 三成は、籠城は内より崩れることを知っていたので、それを止めなかった。無駄な数の籠城兵は、兵糧を喰い散らす。兵糧が減るにしたがって裏切りの噂が噴出して城内は疑心暗鬼となり、裏切り者とされた者はどんどん粛清されてしまう。やがて籠城方の大将は、この状態では開城やむなし、と城を明け渡す。すなわち、城内に人が多いと、ほころびも増すことになる。
 やがて、忍城には3740人の籠城兵が充満した。ところが、城内には戦闘心旺盛で、士気は衰えなかったのです。
 三成は緒戦で忍城の計略によって負けたので、水攻めに切りかえた。7里(28キロ)の堤をつくることにしたのだ。秀吉の堤の倍である。のべ10万人を5日間、昼夜兼業で働かせる。人夫に対し昼は永楽銭60文、夜は100文。それぞれ米一升をつける。夜だけでも夫婦2人が5日間働くと、家族4人が1年食べられる米が買える。なーるほど。
 三成が人工堤の建設に着手したのは天正18年6月7日。数十万人が人夫として集まった。人工堤は、断面の台形の下底を11間 (20メートル)、上底を4間(7メートル)という厚さとし、高さを5間(9メートル)とした。秀吉のつくった備中高松の人工堤とほぼ同じ大きさ。三成は秀吉をはるかに上まわる長大な人工堤防を短期間のうちに完成させ、あわや忍城は落城寸前。ところが、アリの一穴が始まったのです。
 本を面白さがなくなりますので、これ以上は紹介しませんが、奇策によって忍城は助かってしまうのです。これだけ面白く読ませるのですから、たいしたものです。さすがに大絶賛を浴びた本だけのことはあります。
 三成は意外や意外、敗軍の将となってしまったのでした。
 最後に、「のぼうの城」というのは、「でくのぼう」の「でく」をとった呼び名からきています。「でくのぼう」でありながら、民衆の心をつかんでいた殿様だったというわけです。
(2007年12月刊。1500円+税)

負け組の戦国史

カテゴリー:日本史(戦国)

著者:鈴木眞哉、出版社:平凡社新書
 戦国時代がいつ始まり、いつ終わったとみるべきか。
 著者は、応仁の乱の始まった1467年から、大坂落城の元和(げんな)元年(1615年)までとみるべきだと主張します。江戸時代から、元和偃武(げんなえんぶ)と呼ばれていたのは理由のあることで、戦国時代は150年以上も続いた。
 応仁の乱は、日本全体の身代の入れ替わりであり、その以前にあった多くの家がことごとく潰れて、それ以後、今日まで継続している家は、ことごとく新しく起こった家だ。このような説があるそうです。なーるほど、ですね。
 著者は、今川義元の死について、天下に手をかけようとして敗死したのではなく、つまり上洛の途上で死んだのではなく、単に隣国との国境紛争の過程で起きたことに過ぎないと主張します。織田信長が謀略で殺されたという説も著者は否定しています。足利義昭黒幕説というものもあるそうですが、それは完全な誤りだと強調しています。
 足利義昭は、豊臣秀吉の天下統一が確実になったころ、ようやくあきらめ、秀吉の傘下に入って出家し、1万石の捨て扶持を受けることになった。もっとも、その前、秀吉が征夷大将軍になりたくて猶子(義子)にして欲しいと頼んできたときには、さすがに拒否した。その程度の誇りは残っていた。
 義昭と秀吉は同年齢だが、義昭のほうが1年早く病死した。
 織田信長には、分かっているだけでも11人の息子がいた。長男・信忠は信長と同じ日に二条御所で明智勢と戦って死んだ。次男信雄(のぶかつ)と三男信孝が成人していた。三男の信孝は柴田勝家と結んで抵抗し、敗れた翌年、再び挙兵したが、自殺に追いこまれた。信雄の方は、秀吉が小田原攻めで天下統一をなしたあと、突然、追放されてしまった。
 信長のあとの子どもたちは、豊臣家に仕えたが、病死したり、関ヶ原で戦死したりした。
 結局、信長の息子の血統としては、信雄の子孫が徳川大名として幕末まで続き、最終的には出羽天童2万石の身代だった。ほかに、七男信高、九男信貞の系統が江戸幕府の旗本として残った。
 秀吉は信忠の遺児である3歳の幼児(後の秀信)を家督に押し通し、信孝を後見役とした。そうなると、兄の信雄がおさまらない。無能な人間であったが、野心だけは人並み以上にもちあわせていた。なんとか信孝に対抗したい信雄と、本音では信孝よりも丸めこみやすい信雄と組みたい秀吉の利害が一致して、二人は提携した。秀吉はなにごとも信雄を表面に押し立てて、自分の野心の隠れみのにしていた。
 戦闘では、たしかに信雄・家康側が勝利した場面もあったが、戦争としては秀吉側が完全に押していた。信雄・家康側は、次第に追い詰められていった。
 秀吉は徹底して西に目を向けていた。当時、海外との通商拠点の多くは九州にあった。したがって、九州全土を支配する者は大変な力をもつことになる。信長は、それを阻止するとともに、自らが巨大な利権を手中にするつもりだった。
 信雄については、健在なうちから、阿呆かと罵られている。彼に対する周囲の評価は、そういうものだった。
 この戦国時代の一般の武士には、二君に仕えずという観念は、そもそもない。
 著者の本は、いくつも読みましたが、そのたびに、目を開かされる思いでした。ところが、今でも、武田軍団(騎馬隊)は織田・徳川軍からも千挺の鉄砲を3段撃ちするなかを無理矢理に突撃して全滅したという「通説」がまかり通っています。恐るべきは「思いこみ」ですよね。
 歴史を見る目が変わる貴重な一冊です。
(2007年9月刊。760円+税)

名将・中山鹿之助

カテゴリー:日本史(戦国)

著者:南原幹雄、出版社:角川書店
 私は中山鹿之助を絶対に忘れることができません。というのも、私が大学受験勉強をしているとき、中山鹿之助の言葉を私の机の前に大きく書き出して、それを自分への励みにしていたからです。当時、私は東京へ出たくてしかたがありませんでした。田舎の九州にいて、東京に出たら、きっときっといいことがある。自由の天地があると夢見ていました。ところが、東京は実際に行って住んでみると、まさに人、人、人、人の海なのです。人の波におぼれて沈みこんでしまいそうです。つかみどころのない超巨大な大都会でした。わずかに下町の商店街で安らぎを感じたものです。そして、東京は地震が多くて、いつ大震災に見舞われるかもしれません。丸々10年間、私は東京に住んで、福岡へUターンしてきました。自然を身近に感じ、四季の移り変わりを花や木とともに体感できる生活こそ自分の性にあっていると今では思っています。でも、それは私が年齢(とし)をとったということでもあります。
 江戸時代の豪商として名高い鴻池(こうのいけ)の先祖が山中鹿之助だというのを、この本を読んで初めて知りました。
 戦国の世に無類の英雄・豪傑として名を知られた山中鹿之助幸盛こそ鴻池一門の先祖なのである。その鴻池は毛利家の依頼によって大名貸しをするようになった。
 毛利家こそ、山中鹿之助の主家である尼子(あまこ)の宿敵だった。尼子が毛利家にほろぼされてから、鹿之助は強大な仇敵を相手に生涯、再興戦をいどみ続けたが、ついにむなしく敗れ去った。しかし、その長い復讐戦を通じて、鹿之助の不撓不屈、剛勇無双ぶりはあまねく人々に知れわたった。
 もともと、毛利元就(もとなり)は尼子の武将の一人であった。尼子は周防(すおう)の大内氏と長いあいだ戦っていたが、毛利元就はいつも尼子家の先鋒として奮戦し、功績があった。尼子経久は元就の器量を高く買い、大身の豪族なみに処遇してきたが、経久のあとを継いだ晴久が毛利を侮って強圧的な態度に出た。そこへ大内氏が好条件で元就を誘ったので毛利は寝返った。晴久は憤って毛利征伐に出たが、逆にさんざんな敗北を喫した。これが尼子と毛利の長い戦いのきっかけとなった。毛利は大内氏に代わって強大な勢力として急速に成長し、ついに昔の主家である尼子を脅かす存在となった。
 山中鹿之助は天文14年(1545年)に生まれた。山中家は出雲尼子家の弟の子孫である。願わくは、われに七難八苦を与えたまえ。よくこれを克服して武士として大成すべし。鹿之助はこのように念じた。
 尼子家の再興を願って、僧侶になっていた尼子勝久を捜し出し、還俗させて毛利に戦いを何度も挑む鹿之助です。 
 陣頭に立って指揮する大将は赤糸威(あかいとおどし)の鎧(よろい)、三日月の前立(まえだて)に鹿の角の脇立(わきだて)の兜(かぶと)をかぶった大男。それならば、まごうかたなく山陰山陽に隠れなき、山中鹿之助。
 山中鹿之助に長男が誕生し、遠くの親戚に預けて育ててもらいます。その子が鴻池家をつくり出すことになるわけです。
 何回となく尼子家の再興を目ざし、京都へのぼって織田信長を頼りにします。木下藤吉郎を頼りにし、秀吉が毛利征伐に乗り出すことによって、ようやくその先人として尼子軍は勝機をつかもうとします。ところが、秀吉軍は二正面作戦を余儀なくされ、あえなく尼子軍は見捨てられるのです。
 さすがの山中鹿之助も、ついに降参し、毛利のもとへ連行されます。ところが、その途中、甲部川で背後から切り殺されてしまうのです。
 強大な毛利家を相手に何度も執念深く尼子家の再興を図り、ついに無念のうちに倒れた山中鹿之助の一生を描いた本です。読みごたえがありました。
(2007年11月刊。1800円+税)

臥竜の天

カテゴリー:日本史(戦国)

著者:火坂雅志、出版社:祥伝社
 伊達政宗の生涯を描く、スケールの大きな時代小説です。
 東北地方、出羽米沢城で生まれた伊達政宗は、生みの母から愛されなかった。母は次男を溺愛し、あばた面で独眼の政宗を遠ざけた。天然痘にかかって、右眼を失明したのである。政宗を支えたのは、父の輝宗。その輝宗が畠山勢に拉致されていこうとしたとき、政宗は、畠山勢に向かって鉄砲を打ちかけた。そして、輝宗はあえなく最期を遂げた。
 のちに、母の意志に逆らって行動しようとした政宗は母の招待宴で毒を盛られた。そこで、政宗は母はそのままにして、弟を自らの手で殺した。家中の政争の種を根絶したのである。ひやあ、すごい時代ですね。何も罪のない弟を刺し殺したというのです・・・。
 伊達家は、最上と争い、佐竹と争い、一進一退。そこへ秀吉が登場する。秀吉になびくのかどうか。政宗は秀吉に簡単になびく気はなく、遠ざかっていた。
 しかし、ついに北条討伐にやって来た秀吉のもとへ参上することにした政宗は、決死の白い陣羽織姿でのぞんだ。いやあ、たいした度胸です。恐れを知らない若者だからこそ出来たことでしょうね。
 もう一度は、蒲生氏郷に秀吉支配に反抗する一揆をあおった証拠を握られ、秀吉に申し開きができない状況に追いこまれたとき、再び白装束になった。こうやっても何とか生きのびいった政宗の運の強さはすごいものです。
 まだ20歳台の青年武将という気迫が秀吉に気に入られたようです。中央政界に面従腹背を続けた気骨の士だったことがよく分かる本でした。
(2007年11月刊。1900円+税)

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