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カテゴリー: 日本史(戦国)

関ヶ原、島津退き口

カテゴリー:日本史(戦国)

著者、桐野 作人 、学研新書 出版
 天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦において西軍の雄、島津義弘軍は敗戦が決まったあと、決死の敵中突破を図り、なんとか成功します。この本は、まず著者自身が「島津の退(の)き口(ぐち)」のルートを実地に踏破した体験にもとづいて書かれていること、そして、生還した将兵たちの手記を活用しているところに大きな特徴があります。つまり小説ではなく、その意義を実証した本なのです。
この本を読むと、当時の島津家というものが対外的にも内部においても、きわめて微妙な立場にあって、義弘が大軍を動かせなかった実情とその苦悩がよく伝わってきます。そんな苦しいなかで、よくぞ敵中突破300里に成功したものです。驚嘆せざるをえません。
 島津家中で義弘は孤立化していた。石田三成と義久との間で板ばさみになっていた。
 関ヶ原合戦において、義弘は太守ではなかったので、領国全体に対する軍事動員権を有しておらず、そのため、義久や忠恒の家臣はもちろん、一所衆とよばれる一門衆や国衆からの協力もほとんど得られず、自分の家臣団以外はほとんど動員できなかった。
 義弘は、西軍に加担することを決めてから、11通もの軍勢催促状を国許に送った。しかし、義久・忠恒は義弘の懇請を黙殺し、ついに最後まで組織的な動員はなかった。
 結局は、関ヶ原における義弘の軍勢は1500人ほどだったと推定される。
 島津勢は、関ヶ原合戦においては、「二備え」(にのそなえ)、二番備、後陣だった。勝機は去ったと判断し、66歳の義弘は、前方を突き破って故国へ帰ろうと考えた。
 島津勢の主要武具は鉄砲だった。これを足軽ではなく、武士が撃った。退き口の敵は、飢えだけでなく、東軍方や百姓たちの落武者狩りが容赦なく義弘主従に襲いかかった。
 途中で300人ほどのはぐれ組みが発生した。
 関ヶ原の戦場離脱から鹿児島帰着まで190日かかった。走破距離は海路をふくめて千数百キロに及ぶ。何より義弘の生き抜くという牢固な意志力と義弘を慕う家臣たちの自己犠牲的な奉公と献身の賜物であった。
義弘とともに大阪に戻ったのはわずか76人でしかないが、これは島津勢の生き残りすべてではない。1500人の島津氏の将兵3分の2が戦死もしくは行方不明となった。逆にいうと、3分の1も鹿児島にたどり着いたわけです。
義弘は、85歳の大往生をとげた(1619年)。
 義弘軍の敵中突破の実情をしのぶことができる面白い本でした。
(2010年6月刊。790円+税)

センゴク兄弟

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 東郷 隆、 出版 講談社
 ときは戦国時代。信長、秀吉につかえて、四国讃岐10万石の領主となった。失態があって浪人。後に戦功をたてて信州小諸5万石の主に返り咲いた。江戸時代になって兵庫県出石5万8千石の領主になるも、江戸末期に仙石騒動という有名な家督争いがあって、3万石に減封された。
 青年漫画誌ヤングマガジン掲載の、「センゴク」シリーズの原作本です。
 よく出来ています。よく調べています。感嘆しながら、どんどん読み進めました。
 越前の一乗谷が出てきます。私も一度だけ行ったことがあります。古い小京都といった趣があります。織田信長がまだ天下を取る前の時代です。美濃には、斉藤道三ががんばっていました。
 仙石兄弟が初陣に出かけるとき、旗持ち1人、長柄が6人、弓2人。兵糧運びの軍夫3人、馬上の武者2人。長柄は軍役規程によって2間半が4本、1間半の短槍2本。いずれも穂の長い直槍で、持ち手は自前の具足を身につけているものの、その形は鎧の袖がなかったり、脛当てがなかったりだった……。
 桔梗一揆。これは武士団の団結した姿を示すもの。
 着到(ちゃくとう)。国主からの催促状を差し出して名簿に記入すること。炭鉱で坑内に入る(下がる)前に点呼を受けるのも、同じく着到と呼んでいました。
 詞戦(ことばいくさ)は、慣れたものでなければつとまらない。少しでも言葉に詰まれば、敵味方の笑いものとなり、二度と立ち直れないほどの恥辱となる。これは、単なる悪口合戦ではなく、言葉によって相手を屈服させる呪詛(じゅそ)なのだ。
江戸期と異なり、戦国時代の百姓身分は帯刀が許されていた。
 物揃え(ものぞろえ)。軍役ほどおおげさなものではないが、近隣で不意の小競り合いがあったときに備えての予備動員のこと。
 懸銭(かけぜに)とは、畑に対する賦課額。
 秋成(あきなり)とは、秋の収穫高。
巻数(かんじゅ)とは、年末の特別な祈祷札のこと。
 公界人(くがいにん)とは、乞食のこと。浮浪者が多かった。公界人は神の子。これを守るのは神仏を尊ぶものの務めである。
 御発(ごはっこう)は出陣。山入りでは大事な家財を村の城に運び込んでいた。
 戦国時代について、よくよくイメージの湧いてくる本でした。ところが、参考文献に『武功夜話』が紹介されていますが、これは偽作だと私も思っています。ですから、引用するときには、せめて偽作とも指摘されているくらいのことは触れるべきでしょう。
 
(2009年12月刊。1600円+税)

城と隠物の戦国誌

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 藤木 久志、 出版 朝日新聞出版
 和田竜『のぼうの城』(小学館)は大変面白い小説でしたが、その素材となった「忍城戦記」が紹介されています。「忍城戦記」は『埼玉叢書』(国書刊行会)にのっているそうです。それによると、忍城に領域の村人がやって来て籠城した様子が、次のように紹介されています。
 長野口持ち 足軽30人 農人300人
 北谷口持ち 足軽30人 農人200人
 佐久間口持ち 足軽40人 農人・商夫430人
 忍口持ち  足軽100人 町人670人
 行田口持ち 足軽420人 百姓・町人500人
 皿尾口持ち 足軽25人 百姓・町人150人
 持田口持ち 足軽420人 百姓・町人2627人
 15歳以下の童部など1113人、男女都合3740人立て籠るなり。
 忍城に緊急避難した周辺の人々のうち、75%ほどの百姓・町人が戦闘要員として諸口に配置された。
 そして、石田三成側の水責め工事の土木労働に雇われた周辺民衆の動向についても書かれている。このとき、石田三成は、土木工事の労働の報酬として、賃金(米銭)を「昼の労働には一人当たり永楽銭60文と米一升」「夜の労働には、永楽銭100文と米一升」と、かなりの高額を公約したので、「近隣・近国」の村や町は、ほとんど築堤ラッシュの状況を引き起こした。このころは、一日に米4升が相場たった。水責め工事が1週間で完成したのはそのせいである。
 落城したあと、秀吉が石田三成に対して、「避難民を殺したら、隣郷がみな荒廃するだろう。だから助けてやれ」と指示していた。
 戦国時代のお城と民衆とのさまざまな関係を実証的に究明している、面白い本でした。
(2009年12月刊。1300円+税)

小太郎の左腕

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 和田 竜、 出版 小学館
 ときは戦国時代。種子島から入ってきた鉄砲が大量に使われ始めています。
 火縄銃による試合があります。火縄銃は連射を旨とすれば、1分間に5発の弾を撃つことが可能だ。小太郎は、これをやった。もはや速いという程度のものではない。ほとんど無造作ともいうべき所作で、瞬く間に玉薬を銃口に流し込み、弾を押しこみ、火皿に口薬を盛り、火ぶたを閉じた。火ぶたを閉じるや、すぐさま鉄砲を構えた。火ぶたを切るや、引き金を引いて激発させた。
 小太郎は、実は雑賀(さいが)衆の一人であった。雑賀衆とは、現在の和歌山市を中心とする一帯に猛威をふるった鉄砲傭兵集団である。鉄砲についてまだ懐疑的な当時の武将たちも、その雑賀衆の鉄砲における精兵ぶりには舌を巻き、彼らを敵に廻すのを極度に恐れた。
 雑賀衆は、五組の代表者が合議のうえで衆としての方針を決め、雑賀五組に住む者たちは、その決定に従うという形態で運営されていた。とはいえ、五組の代表者が雑賀衆を支配しているわけではない。五組の代表者は各村々の決定事項を持ち寄るため、惣国の構成員は決定された事柄に当事者意識を持ち、それもあってその結束は比類ないものとなった。そして、雑賀衆として敵と認めた一国には、一丸となってこれに当たった。
 えいえい、おう。
 この叫び声は、漢字で書くと、曳々、応だそうです。初めて知りました。
 『のぼうの城』も傑作でしたが、この本も実に読ませます。たいした腕前です。感心しながら一気に読みとおしました。
 
(2009年12月刊。1500円+税)

戦国大名と一揆

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 池 亨、 出版 吉川弘文館
 越前朝倉氏の拠点であった一乗谷に行ったことがあります。山の谷間の平地に小京都がありました。発掘が進んでいて、屋敷のいくつかが復元されていますので、往時を十分しのぶことができます。
 京文化の影響が強いとされていますが、文化的な成熟度の高いことを実感しました。
 応仁の乱(1467年)が起きたころ、家臣は主人の家督問題に積極的にかかわるようになっていた。もはや主人に一方的に隷属する「家の子」ではなく、自前の「家」を持つ国人領主だった。主人に求めたのは「家」の存続を保証できる政治的能力(器量)であり、それにもとづく家臣の指示が家督決定の鍵となった。
 山城国一揆や一向一揆などを通じて、江戸時代の百姓一揆とは異なる。一揆の正確で重要なのは、構成員が原則的に対等な立場から参加していること。一揆の構成員が約束を結び、「一揆契状」を作成するとき、上下の序列がない傘(からかさ)連判(れんぱん)形式で署名することが多いのは、そのためである。つまり、一揆の構成員になる条件は、自立をした主体であることだった。
 将軍・足利義政の妻の日野富子は、「まことにかしこから人人」(一条兼良)と評価された。当時の武家の妻は、単なる「お人形」ではなく、家政を取り仕切る立場にあり、夫に問題があれば子を後見するのも当然の役割だった。これは、この時代では珍しくはない。
 応仁の乱による室町幕府の全国支配の崩壊が、天皇や公家の経済的基盤に打撃的被害を与えた。その影響は、朝廷の儀式(朝儀)の衰退として表れた。伝統的儀礼の遂行こそ、朝廷のアイデンティティとなっていたから、これは深刻な問題だった。国家的祈祷が中絶するか簡略化された。
 代替わり儀礼である大嘗祭に至っては、江戸時代まで200年余も断絶した。
 それどころか、天皇の葬式を行うのも大変で、遺体が2カ月以上も放置されたことすらあった。
 重要な朝儀の場である紫宸殿は破損したままで、周囲の築地は崩れ、警備も手薄のため、人の出入りは簡単で、たびたび盗賊に襲われた。
 各地に誕生した戦国大名は、自らを「大途」(だいと)、「公儀」などと称した。公権力の担い手としての立場を表明したわけである。
 戦国大名には、領国を統治する公権力の側面と、主従制によって官臣を編成する家権力の側面があった。この両側面を統一的にとらえることが重要である。
 分国法の核心は喧嘩両成敗法にあった。
 中世社会では、国家権力の力が弱く、地方の紛争はほとんど自力救済によって解決が図られていた。
 室町幕府も、自力救済を規制しようと「故戦防戦法」を制定していた。その内容は、「故戦」(最初に喧嘩を仕掛けた側)と「防戦」(それに応じた側)とで刑罰に軽重があり、また「防戦」側は正当性があれば罰は減じられるというもの。これでは決しがたく、結局、中途半端なまま実行性を持たなかった。
 それに対して、今川氏の喧嘩両成敗法は、紛争解決における実力行使を一切禁止し、今川氏の裁判権に服することを強制したものとして画期的意義を持つ。裁判制度の整備、充実は、まさにこれと表裏一体の関係にあった。
 なるほど、そういうことだったのかと思い知らされることの多い本でした。
 
(2009年8月刊。2600円+税)

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