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カテゴリー: 日本史(戦国)

廃墟となった戦国名城

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  澤宮 優、  出版  河出書房新社 
 
 この本に登場するお城のなかで私が行ったことのあるお城を先に挙げてみます。
 安土城、大阪城、肥前名護屋城、上田城そして原城です。
 安土城には2度行きました。安土城の大手道は広くて一直線に山をのぼっていきます。両側に秀吉邸跡そして前田利家邸跡があります(いずれも「伝」となっていますので、確定したものではないようです)。そして、天守閣のあとの礎石が残っています。
五層七階、地下1階、地上6階。壁の色は、下部が黒、上部が白。上部3層は金や朱の色で飾られていた。この天主台跡地に立つと、信長が天下を見下ろしていた気分をいくらか偲ぶことが出来ます。安土城の石垣をつくったのは石工集団の穴太(あのう)衆だとされていますが、この本は、それを否定しています。
むしろ、信長は寺院建設に生かされてきた石垣をつくる技術者たちを寺院から解放し、再編して安土城の石垣造りに生かした。
 肥前名護屋城は、玄界灘に面した高台に今も廃墟が残っています。すぐそばに立派な博物館があって、住時を偲ぶことが出来ます。秀吉は16万の兵を朝鮮に渡らせた。名護屋城には徳川家康ら11万、京都に警護として秀次ら10万の兵が置かれた。総勢37万の挙国態勢だった。
 この出兵は朝鮮半島を植民地として支配するのではなく、明(中国)征服のために朝鮮半島全滅に道筋を確保することにあった。実に途方もない発想です。いくらなんでも、誇大妄想としか言いようがありませんね。独裁者の思い込みというのは、いつの世も恐ろしいものです。今も昔も何もない名護屋城がこのときばかりは20万人の大都市に変貌したというのです。
 島原の乱の激戦地である原城跡に行ったのは、つい最近のことです。現地に着いてみると、海に面した丘陵地帯で、ほとんどが農地になっています。土産品店も何もありません。立て籠もった兵力は2万3千人。女性と子どもも1万4千人いた。命令系統をきちんとして、住居グループごとにまとまった小屋を建てた。信仰を基盤とした結束が生かされた。戦後、徹底的に破壊されたわけですが、それでも地下を掘ると、今でも当時の人骨が出てくるそうです。幕府軍は3万7千人を皆殺しにしており、一人も(1人の画師を除いて)助かった人はいません。
日本には、まだまだ行ってみたい廃城があることを知ります。小田原城も高天神城もいってみたいものです。
(2010年12月刊。1700円+税)

関東戦国史と御館の乱

カテゴリー:日本史(戦国)

著者   伊東 潤、乃至 政彦、 出版   洋泉社歴史新書
 
 戦国時代のことがすっごくよく分かる面白い本です。なるほど、なるほど、戦国時代の武将たちはこんな考えで、こんなふうに行動していたのかと、感嘆・驚嘆しながら読みすすめていきました。
 御館(おたて)の乱を扱っています。NHKの大河ドラマ『天地人』で有名になりました。
上杉謙信の死によって大正6年(1578年)に勃発した御館の乱こそ、関ヶ原にも匹敵するほどの戦国史上の大事件だった。
 御館の乱をやっとの思いで勝ち抜いた上杉景勝は織田信長勢に押されていたが、天正10年6月に「本能寺の変」が起こって、景勝の苦境は一掃された。その後は、秀吉の忠実な傘下大名として生き永らえた。
 武田勝頼が北条氏政との同盟を死守する気持ちが少しでもあったら、御館の乱は景虎が制し、甲相越三国のあいだには、強固な同盟関係が築けたはず。そうなれば織田信長とて、おいそれとは武田家に手が出せず、日本史は現在あるのとは違った様相を呈したであろう。それは、関ヶ原の勝敗が逆となったときよりも劇的な違いだったはずだ。
 しかし、上杉景虎は景勝に敗れた。それを間接要因として武田家も滅んだ。そして、それが北条家の滅亡をも招き、日本は統一国家の道をひた走ることになった。
父信虎の方針を否定して家督を奪取した武田信玄であったが、結局、その領国拡大策は変わらなかった。否、いっそう積極的になった感さえある。それは甲斐国のかかえる根本的問題に起因していた。つまり、信玄にも外征による領国拡大策以外に甲斐の国内問題、すなわち飢饉と飢餓を解決する術がなかった。
天文22年(1553年)9月、武田信玄と上杉謙信との間に第一次川中島合戦が勃発した。信玄が決戦を避けたので、謙信は撤退した。同年11月、謙信は初めての上洛を果たし、後奈良天皇に拝謁し、天盃と御剣を授かるという栄誉に浴する。これを契機として謙信の勤皇熱が高まった。
天文23年(1554年)、信濃国領有に成功した信玄と、関東領有を目ざす北条氏康のあいだに利害対立はなくなり、さらに西進策をとっていた今川義元もまじえて三国間に同盟締結の機運が盛りあがった。この年に締結された甲相駿三国同盟は相互不可侵と攻守同盟を基本としていた。この同盟の特徴として三国間の婚姻による同盟の補強があげられる。すなわち、信玄が嫡男義信に今川義元の娘を迎え、今川義元が嫡男氏真に氏康の娘を迎え、氏康が嫡男氏政に信玄の娘を迎えることで、三国同盟をより堅固なものとした。この同盟は永禄11年(1568年)まで15年あまりも続いた。
上杉謙信は1556年、27歳のとき出家得度し、すべてを投げ出して高野山に出奔した。若き信玄は戦国大名という職業に嫌気が差してしまった。
上杉謙信には二人の養子がいた。三郎景虎と喜手次景勝である。景虎は北条三郎と名乗っていた。景勝は、かつて謙信に敵対していた上田長尾政景の次男であった。
景虎も景勝もともに、かつて謙信と敵対した勢力を出身する養子だったが、二人とも謙信から実子に優るとも劣らない待遇を受けた。そして、謙信は、景虎の政治基盤を解体せずに景勝の権威昇格を試みた。謙信初名の「景虎」と由来の曖昧な「景勝」では、どう考えても景勝が上位とは言い難い。つまり、謙信は、自らの官途名を譲ることで景勝を引き立てつつも、そこに歯止めをかける存在として、景虎を残したと考えられる。北条方と再び対立した謙信は、またもや反北条の旗頭として、国内や関東の諸士を連れ回し、対北条作戦を継続させねばならなくなった。しかし、北条を実家とする景虎が後継候補では、家中の結束は固まり難く、関東諸士の参戦も危ぶまれた。北条方の矢面に立たされる関東諸士としては、謙信に従って戦うことが北条氏政の実弟である景虎を益することにもつながるというジレンマを抱えることになった。そして、謙信は、北条方との戦いを再開するにあたり、何をおいても景虎を後継とする体制を見直す必要があった。
謙信の祖先は代々、越後守護職・上杉家の家宰として越後国の統治を代行する一族であり、あくまで守護上杉家の補佐役としての権限しか持っていなかった。信玄との川中島合戦において、謙信は正式には主従関係になり国内領主たちを動員してつかい回すのに「勝手に帰国しないこと」という陣中法度があるように苦労していた。このように未熟な権力であったからこそ、謙信は京都の伝統権威に接近した。
うひゃあ、謙信政権の内実って、それほど堅固なものではなかったのですね・・・。まったくイメージが違っていました。
謙信の死は天正6年(1578年)3月のこと。その死から2ヶ月もたって、御館の乱が始まった。以下、御館の乱の推移が詳しく紹介されています。それを読むと、当時の武将たちが気骨のある一城の主(あるじ)だったことがよく分かります。戦国時代の様子を知る絶好の書物です。
(2011年2月刊。860円+税)

『日欧文化比較』

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 ルイス・フロイス、    出版 岩波書店
ルイス・フロイスの日本覚書
1. ヨーロッパでは、未婚女性の最高の栄誉と財産は貞操であり、純潔 が犯されないことである。日本女性は処女の純潔を何ら重んじない。それを欠いても、栄誉も結婚(する資格)も失いはしない。
29. ヨーロッパでは、夫が前方を、そして妻が後方を歩む。日本では、夫が後方を、そして妻が前方を行く。
30. ヨーロッパでは、夫婦間において財産は共有である。日本では、各々が自分の分け前を所有しており、ときには妻が夫に高利で貸し付ける。
31. ヨーロッパでは、妻を離別することは、罪悪であることはともかく、最大の不名誉である。日本では、望みのまま幾人でも離別できる。彼女たちはそれによって名誉も結婚も(する資格)も失わない。
32. (ヨーロッパでは)墜落した本姓にもとづいて、男たちの方が妻を離別する。日本では、しばしば妻たちの方が夫を離別する。
33. ヨーロッパでは、ひとりの親族が(女)が誘惑されても、(その奪還のため)一族全部が死の危険に身をさらす。日本では、父母兄弟が見て見ぬふりをし、そのことをあっさりと過ごしてします。
34. ヨーロッパでは、娘や処女を(俗世から)隔離すること、はなはな大問題であり、厳重である。日本では、娘たちは両親と相談することもなく、一日でも、また幾日でも、ひとりで行きたいところに行く。
35. ヨーロッパでは、妻は夫の許可なしに家から外出しない。日本の女性は、夫に知らされず、自由に行きたいところに行く。
38. ヨーロッパでは堕胎は行われはするが、たびたびではない。日本ではいとも普通のことで、20回も堕胎した女性がいるほどである。
39. ヨーロッパでは嬰児が生まれた後に殺されることなど滅多にないか、またはほとんどまったくない。日本の女性たちは、育てることができないと思うと、嬰児の首筋に足をのせて、すべて殺してしまう。
45. 我らにおいては、女性が文字を書く心得はあまり普及していない。日本の貴婦人においては、もしその心得がなければ格が下がるものとされる。
54. ヨーロッパでは、女性が葡萄酒をのむなど非礼なこととされる。日本では(女性の飲酒が)非常に頻繁であり、祭礼においてはたびたび酩酊するまで飲む。
どうでしょうか。戦国時代の日本女性について、ヨーロッパの人々が大変驚いたことがよく伝わってきますよね。
(1991年11月刊。6600円)

室町幕府論

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  早島 大祐、    出版  講談社選書メチエ
 この本を読むと、本を読み続けることの大切さを改めて認識させられます。というのも、たとえば足利義満は日本国王に取って代わろうとしたという(王権簒奪論と呼ばれる)学説が有力だと私は思っていました。ところが、この本によると、この王権簒奪説は現在では成立しない学説だというのです。
 足利義満が国内的に日本国王号を使用した形跡はない。当時の幕閣たちのあいだで、明(中国)に臣下の礼をとる日本国王号には反発が強かった。そして、日本国王号は九州方面の戦略上の必要に過ぎなかった。
 足利義満は、どのような手段を用いても明との交易を行いたかった。通交の名義は明側の要請に応えただけであって、義満はあくまでそれに合うように行動したに過ぎなかった。明と貿易さえ出来れば、「征夷将軍」でも「日本国王」でもなんでもよかった。足利義満は天皇になろうとしたわけではなく、また日本国王として権力を行使しようともしていなかった。
足利義満の権力を日本国王と表現するのは、果たして妥当かという根本的な批判が加えられている。明から与えられた日本国王号が内政に直接影響を与えたとは言えないというのが今の学会の共通理解である。なーるほど、そうなのか・・・と思いました。
  遺明船のもたらした財貨はきわめて莫大であった。それによって義満は京都に七重塔という100メートルを超える塔を建てた。応永6年1399年のこと。義満の建てた相国寺大塔は、天下を象徴する塔であると当時、認識されていた。
 義満は、大胆さと繊細さを兼ね備えた人柄であった。応永14年に明からの使節がやって来たとき、義満は唐人の装束で使節を歓待した。義満は当時の規範から自由に、自分がふさわしいと思うかたちで衣装を選んでいた。
 大塔や北山第の造営にみられるように、義満の権力は、まことにスケールの大きいものだった。北山殿として、過去のあらゆる院を超えた権力を手中にした義満であったが、その築き上げたものは、息子義持によって、ばっさり仕分けられてしまった。完成間近だった再建・大塔は、放置され、明との通交も停止された。
 室町幕府を考え直すことの出来る本でした。
  
(2010年12月刊。1800円+税)

戦国合戦の舞台裏

カテゴリー:日本史(戦国)

  著者 盛本 昌広、  洋泉社 歴史新書y出版
 
戦国時代の人々の暮らしぶりが伝わってくる本です。知らなかった言葉がたくさん出てきて解説されているのも、うれしいことです。
重説(じゅうせつ)は、再度の情報のこと。戦国時代、敵味方の消息を知るのは必須不可欠ですが、虚報の心配もあります。そこで、二重チェックが必要となります。
注進状とは、一般に敵の動きや合戦の結果といった軍事情報や機密情報を記した文書のこと。注進状は、戦国時大名が出陣するのに不可欠な情報であった。
蝕口(ふれくち)は、出陣を決断したとき陣触(じんぶれ)が出されるが、その陣触を伝える役職をさす。触口の下に小触口がいて、この小触口が実際に侍や村落に出向いて命令を伝える。このつたえる役目を果たしたのが定使(じょうし)であった。
 着到(ちゃくとう)とは、古代以来使われていた言葉で、到着したことを意味する。炭鉱でも、同じく着到という用語がつかわれていました。
小荷駄隊(こにだたい)は、編成された兵糧運搬部隊のこと。
腰兵粮は、腰につけた当時の携行食糧である乾飯(ほしいい)のこと。
 後詰(ごづめ)は、味方の城を包囲している敵を後方から攻めるために出陣すること。
信長が兵糧自弁の原則から一歩ふみ出せたのは、兵糧を大量に購入するだけの資金を持っていたから。信長は各地を攻略していき、財政基盤となる直轄領を設定し、同時に堺など有力な都市も支配下に置いて資金を吸い上げた。また矢銭(やせん。軍用金)の納入の強制なども資金源であったと考えられる。
備場(そなえば)は合戦の場のこと。そこでは高声(こうしょう)や雑談(ぞうたん)が禁止されている。兵卒のおしゃべりは禁止されていた。声高は大将が軍勢を指揮するときに発する声のこと。
 仕寄(しよせ)とは、城攻めの手だてを尽くし、徐々に城の中心に迫っていく状況をあらわす言葉。
自落(じらく)とは、自らの意思で城や屋敷から退くこと。
落武者狩りとは、単なる物取りではなく、敵方の通行を封鎖せよという命令を受けて行われていた。
 まだまだ世の中は知らないことばかりですね。
(2010年10月刊。860円+税)

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