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カテゴリー: 日本史(戦国)

室町幕府論

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  早島 大祐、    出版  講談社選書メチエ
 この本を読むと、本を読み続けることの大切さを改めて認識させられます。というのも、たとえば足利義満は日本国王に取って代わろうとしたという(王権簒奪論と呼ばれる)学説が有力だと私は思っていました。ところが、この本によると、この王権簒奪説は現在では成立しない学説だというのです。
 足利義満が国内的に日本国王号を使用した形跡はない。当時の幕閣たちのあいだで、明(中国)に臣下の礼をとる日本国王号には反発が強かった。そして、日本国王号は九州方面の戦略上の必要に過ぎなかった。
 足利義満は、どのような手段を用いても明との交易を行いたかった。通交の名義は明側の要請に応えただけであって、義満はあくまでそれに合うように行動したに過ぎなかった。明と貿易さえ出来れば、「征夷将軍」でも「日本国王」でもなんでもよかった。足利義満は天皇になろうとしたわけではなく、また日本国王として権力を行使しようともしていなかった。
足利義満の権力を日本国王と表現するのは、果たして妥当かという根本的な批判が加えられている。明から与えられた日本国王号が内政に直接影響を与えたとは言えないというのが今の学会の共通理解である。なーるほど、そうなのか・・・と思いました。
  遺明船のもたらした財貨はきわめて莫大であった。それによって義満は京都に七重塔という100メートルを超える塔を建てた。応永6年1399年のこと。義満の建てた相国寺大塔は、天下を象徴する塔であると当時、認識されていた。
 義満は、大胆さと繊細さを兼ね備えた人柄であった。応永14年に明からの使節がやって来たとき、義満は唐人の装束で使節を歓待した。義満は当時の規範から自由に、自分がふさわしいと思うかたちで衣装を選んでいた。
 大塔や北山第の造営にみられるように、義満の権力は、まことにスケールの大きいものだった。北山殿として、過去のあらゆる院を超えた権力を手中にした義満であったが、その築き上げたものは、息子義持によって、ばっさり仕分けられてしまった。完成間近だった再建・大塔は、放置され、明との通交も停止された。
 室町幕府を考え直すことの出来る本でした。
  
(2010年12月刊。1800円+税)

戦国合戦の舞台裏

カテゴリー:日本史(戦国)

  著者 盛本 昌広、  洋泉社 歴史新書y出版
 
戦国時代の人々の暮らしぶりが伝わってくる本です。知らなかった言葉がたくさん出てきて解説されているのも、うれしいことです。
重説(じゅうせつ)は、再度の情報のこと。戦国時代、敵味方の消息を知るのは必須不可欠ですが、虚報の心配もあります。そこで、二重チェックが必要となります。
注進状とは、一般に敵の動きや合戦の結果といった軍事情報や機密情報を記した文書のこと。注進状は、戦国時大名が出陣するのに不可欠な情報であった。
蝕口(ふれくち)は、出陣を決断したとき陣触(じんぶれ)が出されるが、その陣触を伝える役職をさす。触口の下に小触口がいて、この小触口が実際に侍や村落に出向いて命令を伝える。このつたえる役目を果たしたのが定使(じょうし)であった。
 着到(ちゃくとう)とは、古代以来使われていた言葉で、到着したことを意味する。炭鉱でも、同じく着到という用語がつかわれていました。
小荷駄隊(こにだたい)は、編成された兵糧運搬部隊のこと。
腰兵粮は、腰につけた当時の携行食糧である乾飯(ほしいい)のこと。
 後詰(ごづめ)は、味方の城を包囲している敵を後方から攻めるために出陣すること。
信長が兵糧自弁の原則から一歩ふみ出せたのは、兵糧を大量に購入するだけの資金を持っていたから。信長は各地を攻略していき、財政基盤となる直轄領を設定し、同時に堺など有力な都市も支配下に置いて資金を吸い上げた。また矢銭(やせん。軍用金)の納入の強制なども資金源であったと考えられる。
備場(そなえば)は合戦の場のこと。そこでは高声(こうしょう)や雑談(ぞうたん)が禁止されている。兵卒のおしゃべりは禁止されていた。声高は大将が軍勢を指揮するときに発する声のこと。
 仕寄(しよせ)とは、城攻めの手だてを尽くし、徐々に城の中心に迫っていく状況をあらわす言葉。
自落(じらく)とは、自らの意思で城や屋敷から退くこと。
落武者狩りとは、単なる物取りではなく、敵方の通行を封鎖せよという命令を受けて行われていた。
 まだまだ世の中は知らないことばかりですね。
(2010年10月刊。860円+税)

「秀吉の御所参内、聚楽第行幸図屏風」

カテゴリー:日本史(戦国)

 著者 狩野 博幸、   青幻舎 出版 
 
 昨年(2009年)秋に、新潟県は上越市で初公開された屏風絵が秀吉や秀次そして聚楽第などを描いているというのです。とても珍しい屏風絵なのですが、著者はそれをこと細かく実証しつつ解説してくれます。眺めて楽しく、読んでうれしくなるような本です。
 京都の御所を出て進んでいく行列の中央に天皇しか乗ることの出来ない鳳輦(ほうれん)が描かれている。その輿の上には金銅製の鳳凰が飾られている。なるほど、白装束の者たちが鳳輦をかついで進んでいます。そして、反対側からは、多くの武士たちに守られて進む牛車が描かれている。その牛車には、桐の紋がはっきり見える。
後陽成天皇が聚楽第(じゅらくだい)に行幸したのは天正16年(1588年)4月14日のこと。秀吉が聚楽第をつくったのは京都における政庁を作るためだったが、天皇の行幸もその視野に入れていた。
 秀吉は、天皇の行幸のとき、室町将軍のときの先例を無視して、内裏に御迎(おむかえ)に参上した。そして秀吉は桐紋の牛車に乗って、天皇の乗る鳳輦と向かいあう形で進んでいった。このあたりは、この本に解説とともに屏風絵が拡大されていますので、よく分かります。
秀吉の参内、天皇の行幸は華やかさのなかにも、恐るべき緊張の下に進められた。厳重な警固が張られ、行幸にあたっては、内裏から聚楽第までわずか15町ほどのあいだに6千余人の武士が張りついて警備していた。屏風絵に描かれた武士たちは、いずれも脇差しさえも着していない。
 この屏風絵は、儀式は儀式として描き尽くしながらも、それとは無関係に当時の市中に生きる人々の姿をこと細かに描いている。当時の女性たちが夫の諒解を得ることなく、勝手に外出している様子も描かれている。外国からやって来た宣教師たちが驚いた光景である。宣教師たちは、女性の貞操観念の低さにも呆れている。女性は自由だったのである。日本の女性こそ、世界でもっとも自由な存在であったと知るべきなのだ。女性だけでなく、子どもたちも伸びのびと生きていました。うらやましい限りです。
このようにきらびやかな素晴らしい屏風絵が最近まで広く世に知られていなかったというのは惜しい限りです。一見、一読の価値ある本としておすすめします。
 
(2010年10月刊。2500円+税)

戦国鬼譚・惨

カテゴリー:日本史(戦国)

 著者 伊東 潤、 講談社 出版 
 
 うまいですね、すごいです。やっぱり本職、プロの作家は読ませます。日本IBMに長く勤めたあと、外資系の日本企業で事業責任者をやっていた人が執筆業に転じたというのです。異色の経歴ですが、きっと金もうけなんかよりも自分の好きなことをしたいと思って転身したのでしょうね。見事な変身です。賛嘆します。私も見習いたいのですが・・・・。
 武田信玄以後の武田家に仕えていた武将たちの、それぞれの生き方が短編の連作として描かれています。どれもこれも、さもありなんという迫真の出来ばえです。
 戦国時代の末端の武士の頭領たちに迫られた決断の数々が、豊かな情景描写とともに再現されていますので、読んでいるうちに、たとえば木曽谷に、また伊奈谷に潜んでいる武将にでもなったかのような緊迫感があり、身体が自然と震えてくるのです。まさに武者震いです。
 武田信玄が追放した父親の信虎が登場し、また、信玄が死んだあとの勝頼も登場します。しかし、この本の主人公は、武田家を昨日まで支えてきて、主君勝頼を見限って裏切っていく武将たちです。そして、それはやむをえない苦渋の選択だったということを理解することができるのです。戦国時代の武将の心理を考えるとき、なるほどそういうこともありうるかなあ・・・・と、参考にできる小説だと思いました。
 ただ、読み終わったときちょっと重たい気分になってしまうのが難点と言えば難点です。でも、戦国武将の気分にどっぷり浸ってみたいという人には強くおすすしますよ。 
(2010年5月刊。1600円+税)

村人の城、戦国大名の城

カテゴリー:日本史(戦国)

 著者 中田 正光、 洋泉社歴史新書 出版 
 
 北条氏照(うじてる)の領国支配と城郭。こんなサブタイトルがついています。氏照は、今の八王子に城を構えていたようです。そして、村人の城のほうは有名な黒沢明監督の『七人の侍』をイメージするといいとのこと。この映画は時代考証がよく行き届いていて、戦国期の村人の生活や風習が実によく再現されているそうです。
 北条早雲は、実は本人は「北条」を名乗ったことがない。北条を名乗ったのは、二代目の氏綱から。北条早雲は、江戸時代につくられた名前である。実際に呼ばれていたのは、伊勢盛時(もりとき)とか、伊勢宗瑞(そうずい)であった。うへーっ、そうなんですか・・・・。
早雲は一介の素浪人から一国の主にのし上がったというのは間違いで、実際には歴とした家柄であり、中央政府で将軍に仕えて、「申次(もうしつぎ)」という外部の仲介役をつとめていた役人だった。なんと、なんと、思い込みというのは恐ろしいものですね。
滝山城のかつての雄姿が図解されていて、よくイメージが伝わってきます。
 戦国時代、平百姓でも苗字をもった者がいたことは既に知られている。日本人は、昔から識字率も高く、名なしの権兵衛を嫌ったのですね。
武田信玄が信州志賀城を攻め落としたときのこと。城内の兵を攻め立て三千人を討ちとり、その首を志賀城の周りにことごとく晒した。そして城内に残された婦人、子ども、老人を生け捕りにし、意気揚々と甲州へ引き上げた。帰陣してから人身売買市を開き、2貫、3貫、5貫、10貫という値段をつけて売りさばいた。要するに、身代金を得る場になった。捕らわれた者の親類が身代金を支払って生け捕りにされた人たちを買い戻した。これが当時の戦いの現実だった。相手を殺し、領主から名誉の感状を受けるより、生け捕りにして身代金を獲得した方が得だということ。殺さないで身代金を手にすれば、現実の生活は豊かになっていく。
 当時の合戦の実態は、相手の領国に侵入して田植え時の苗代を踏みあらしたり、収穫時の稲を刈り取って強奪することが多かった。さらには、民家に押し入って金目になるものを手当たり次第に盗み、奪い去った。
 当時の戦場は、うまくすれば人身売買で身代金を手に入れられる、大金が入ってくるうれしい稼ぎ場でもあった。二男三男たちが家長(長男)から離れ、積極的に戦場に赴いていった背景には、こうした事情があった。うむむ、そういう実情があったのですか。『七人の侍』も、そんな前提でみると、また認識が深まりますよね。
 ルイス・フロイスは、『日欧文化比較』のなかで、「日本では、ほとんどいつも小麦や米や大麦を奪うために戦っている」としている。つまり、当時、合戦する狙いは食糧を奪うことにあるといっているのです。
 一乗谷の朝倉氏の支配は100年間続いたが、伝染病の記録がない。いかに一乗谷が衛生的に管理されていた都市であり、住民がすぐれた衛生思想の持主であったか理解できる。城内は馬小屋に至るまで常に清潔が保たれていた。私も、朝倉の一乗谷に行ったことがあります。戦災にあって消滅した町屋が復元されていて、当時の生活を実によくしのぶことが出来ます。
 中世の城が図解され、とても分かりやすく読める本です。
(2010年4月刊。840円+税)

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