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カテゴリー: 日本史(戦国)

真田三代・風雲録

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  中村 彰彦 、 出版  実業之日本社
真田(さなだ)幸隆・昌幸・幸村という真田三代の武勇と知略で血湧き肉躍る武勇伝の数々です。700頁もの巨編ですので、東京往復2日間かけてじっくり読み尽くしました。
 『業政(なりまさ)走る』という小説を読んでいましたが、初代の真田幸隆は業政に助けられたのでした。戦国時代は「合従連衡」(がっしょうれんこう)の世の中です。武士は二君に仕えず、というのではありません。強い方についてもよいのです。なぜなら、基本的にそれぞれ独立した存在だったからです。明日に生き残るためには、昨日の友も敵とせざるをえません。
 真田幸隆は、結局、武田晴信(信玄)の配下に組み込まれます。そして、武田軍のなかで鬼謀をめぐらして頭角をあらわしていきます。その有力な敵は越後の上杉勢でした。
 川中島の合戦のころは、真田幸隆は武田軍の有力武将だったのです。
 昌幸は真田家の二代目。武田勝頼に仕えます。しかし、勝頼は自らに甘い近臣を重用し、有力な重臣を遠ざけてしまうのでした。それが長篠の戦いでの武田軍惨敗につながるのです。
真田昌幸は、武田家が滅亡したあと、徳川家康と豊臣秀吉の間で苦労させられます。そして、秀吉亡きあと、昌幸そして幸村は家康と相手に戦うことになるのです。しかし、昌幸の子は徳川方と秀頼方の二手に分かれて戦うのでした。
 この本によると、昌幸が、その子を二手に分けたというのではないとしています。私も、そう思います。成り行きで、そうなってしまったのだと思います。
 関ヶ原の合戦のとき、家康の長男・秀忠軍4万を信州・上田城にくぎづけにした真田軍は、なんと2500にすぎなかった。秀忠軍は上田城を攻略できずにぐずぐずしていて、ついに関ヶ原の決戦に間にあわなかった。怒った家康は、秀忠に会おうとしなかった。有名な話です。家康は、関ヶ原で必ず勝てるという自信はなかったはずだと指摘されています。初代の真田幸隆は鬼謀ただならぬ才人だった。二代目の真田昌幸について石田三成は「表裏地興(ひきょう。卑怯)の者」という厳しい評を下した。三代目の幸村は「日本一の兵」(つわもの)と評された。
 大阪夏の陣で真田勢は、家康本陣に斬り込んでいったのです。とても面白く読み通しました。ただ、石田三成が襲われて家康の館へ逃げ込んだというのは史実に反するように思います。間違いとして訂正してほしいところです。
(2012年12月刊。1900円+税)

伊東マンショ

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  マンショを語る会 、 出版  鉱脈社
宮崎で生まれた少年が、戦国時代にはるばるスペインそしてローマに渡って教皇に面会したのでした。その天正少年遣欧使節団の首席をつとめたのが伊東マンショです。昨年は、伊東マンショが長崎で亡くなって400年という記念の年でした。
 慶応17年(1612年)11月に43歳で亡くなったのでした。
 マンショは、今の西都市で生まれました。日向国を治めていた伊東氏の重臣の子どもです。ところが、日向の伊東氏は南に薩摩の島津氏、北に豊後の大友氏にはさまれ、島津軍に攻めこまれて大友を頼って落ちのびていったのでした。そして、頼みの大友軍が島津軍に大敗してしまったのです。
 天正10年(1582年)2月、遣欧少年使節は長崎を出発した。首席の伊東マンショ、干々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチーノの4人。いずれも13か14歳の少年たち。引率者はヴァリヤーノら3人。随員2人。この9人がポルトガル商人の帆船でマカオに向かった。マカオに10ヵ月間滞在して、ラテン語、ローマ字の学習、何より楽器演奏に励んだ。
 ポルトガル領のインド・ゴアについたのは、長崎を出て1年9ヵ月後。そのあと、アフリカ南端の喜望峰を通過して、セントヘレナ島に上陸します。200年後にナポレオンが幽閉された島です。
 ポルトガルのリスボンに着いたのは長崎を出て2年半後の1584年(天正12年)8月のこと。10月にマドリードに入り、スペイン国王フェリーペ2世と会見。使節一行は着物姿。日本語で挨拶。大友・有島・大村の三大名の書状を、同行した日本人修道士が読みあげた。
 1585年(天正13年)3月、ローマで法王グレゴリオ13世の謁見式に参加した。総勢2000人の大行列だったというのですから、大変な見物でしたね。
 このとき、日本から織田信長の「安土城屏風絵」も進呈したようです。残念なことに紛失して、所在が分からなくなっているそうです。
 4人の少年使節の熱狂的な報道が当時の新聞に絵入りで報道されていたというのです。金モールの洋装のりりしい青年4人の絵が載っています。
 ところが、天正18年(1590年)7月、4人が8年5ヵ月後に日本に戻ったとき、日本はすっかり変わっていたのでした。
 それでも、少年たちは豊臣秀吉に京都の聚楽第で面会しています。
 マンショたちは、印刷機を持ち帰ってきました。ローマ字による本の印刷もすすみました。ところが、キリシタン禁教となり、苦難のなかでマンショは病死してしまったのでした。
 ところが、マンショの死んだ慶長17年(1612年)は、徳川幕府のキリシタン弾圧が強化された年だったのです。残酷な拷問を受けなかったのが、まだ幸いだったかもしれません。
中浦ジュリアンは1633年に穴吊りという過酷な刑で処刑されました。64歳でした。原マルチーノは、マカオに流され、そこで1629年に病死しました。
 島原の乱が起きたのは、その何年か後の1637年のことです。
(2012年8月刊。619円+税)

織田信長

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  池上 裕子 、 出版  吉川弘文館
織田信長研究の最新到達点を明らかにした本です。といっても、それほど目新しい内容があるわけでもありません。
 信長は美濃を平定して上洛の条件がととのったとき、「天下布武」の印判を用いはじめた。永禄12年(1569年)、元亀元年(1570年)のころ。この「天下」は、日本全国を意味するものではない。京都に隣接する諸国と五幾内のこと。
 元亀3年(1572年)9月、信長は比叡山焼討ちを敢行した。山下の坂本から根本中堂をはじめとする山上へと放火・殺戮を尽くした。3,4千人は伐り捨てたという。
 この比叡山焼討ちは、古い体制を象徴する宗教勢力を否定するという目的のために破壊・殺戮したのではない。信長に味方せず、敵方を利して、信長を窮地に陥れたから、敵を徹底的に破壊する信長流の報復戦をした。もちろん、そこには計算があった。天皇と都の鎮護を担って公武の手厚い保護を受け、信仰の対象でもある比叡山でさえ容赦なく攻め滅ぼすというメッセージである。これを見て、わが身の存続をひたすら願う天皇・公家らは信長の機嫌を損ねないように努めるしかないと考えた。
 信長は比叡山を焼討ちし、本願寺と戦い、寺院勢力を自己のものに服属させようとした。しかし、仏教を否定したわけではない。
天正3年(1575年)、信長は積極的に朝廷官位の中に身をおく道を選んだ。11月4日、昇殿して徒三位権大納言に叙任され、7日には右大将に任じられた。かつて、源頼朝も武家政権の樹立にあたって権大納言と右大将に任じられている。すでに指摘されていることだが、信長はそれにならったと思われる。
 信長は天皇・朝廷を否定せず、それから官位に叙任される形をとり、天皇・朝廷を支えてきた公家寺社に新たに知行地を与えて、その経済基盤を保障する政策をとった。
 信長は朝廷を否定しなかった。天皇・公家も寺社関係者も信長に願いはするが、信長の機嫌を損ねないように気配りをかかさないし、天下の構成要素になっている。彼らは信長にとって何の障害にも不利益にもならないどころか、利用価値があった。信長は彼らを温存し、利用して天下静謐を実現しようとした。彼らを否定して、あるいは彼らから完全に独立して政権を樹立できるとは考えていなかった。
 信長の築いた安土城の最上階の七重目(6階)は、三間四方の狭い空間であるが、徳のある理想的な皇帝・学問の世界を代表する孔門十哲、知徳を備えながら世俗の利益・名誉を求めない賢人、これらをみずからの居所の最上階に配し、聖なる空間とした。信長の王権構想は、日本と天皇とを超えんとするところにあった。
 信長は中国を強く意識し、中国的世界をとりこみつくろうことで、天皇と将軍とは異なる地平に立つことを示そうとした。
 信長は天皇を安土に行幸させ、この御幸の間に迎えようとした。それが信長の居所である天主よりずっと低い所に建てられたことに意味がある。平地の少ない山に天主を頂点にヒエラルヒを明示する目的でもって築かれた安土城は、天皇にも天主を仰ぎ見せようとしたもの。
 信長の本心では、実質的に自己を天皇の上に置いていた。信長は、安土城と城下町を描かせた屏風を、見たがる天皇の求めには応じずに、宣教師ヴァリニャーノに与えた。自らの偉業をヨーロッパ世界に知らしめたいと考えたのだ。
 私と同じ団塊世代の著者の手になる本です。信長の全体像をコンパクトに知ることができる本です。
(2012年12月刊。2300円+税)

秀吉の朝鮮侵略と民衆

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  北島万次 、 出版  岩波新書
 秀吉の朝鮮侵略は、1592年(天正20年)から、1598年(慶長3年)まで、前後7年にわたった。秀吉政権は、家臣や諸大名の目を海外征服にまで向けさせる果てしなき戦争体制によってのみ維持・強化しえた。
 その海外制覇の野望は1587年(天正15年)の九州平定直後に具体化される。
 加藤清正が豆満江を渡ってオランカイ地域に進入した目的は、オランカイから明へ入るルートを探ることにあった。しかし、オランカイは広く、のち清朝を興す女真部族が割拠し、耕地は雑穀遅滞であって、兵糧が取られる見込みはないとみて、清正は断念した。
 1593年、平壌の戦いと幸州の戦いにおける日本軍の敗北、碧蹄館の戦いにおける明軍の敗北、これによって日本と明の双方から和議の気運がもちあがった。
 1593年5月、石田三成・小西行長らに付き添われて名護屋に着岸した謝用梓と除一貫は明の皇帝から任命されてもいない偽使節だった。彼らは、諜報機関の一員(スパイ)だった。
 そして、小西行長は朝鮮にもどって、明軍の沈惟敬とはかって行長の家臣である内藤如安を秀吉の降伏使節に仕立て、明皇帝のもとに派遣することにした。1594年12月、内藤如安は北京に到り、明皇帝の朝見を受けた。そして、明皇帝は秀吉を日本国王に冊封するとした。
 1596年、小西行長は秀吉に対して、加藤清正が和議を妨害したと讒訴した。
 1596年9月、秀吉は大坂城で明皇帝の使者と対面した。そのとき、明使は秀吉に拝跪を求めたが、秀吉は膝間に瘡ありと称して拝跪しなかった。そのうえで、明使は日本軍の朝鮮完全撤退を求めたので、秀吉は激怒し、これで日明講和交渉は破綻した。
 第一次朝鮮侵略は明征服を目指したが、その野望は挫折した。しかし、動員した諸大名には恩賞を与えねばならない。そこで、秀吉は朝鮮南四道奪取を目指した。
 1597年12月の蔚山倭城を明軍が攻撃するにあたって、呂余文という名前の降倭を偵察としてつかった。呂余文は剃髪し、日本兵に変装し、蔚山に潜入した。
  さらに、清正の家臣であった降倭の岡本越後守(沙也可)と宇喜多秀家の家臣であった降倭の田原七左衛門が明軍の勧告状を手にして加藤清正と面談した。
 日本の将兵が明と朝鮮軍の捕虜となったばかりか、積極的に抗日の戦いに加わっていたとは、いささか驚きでした。
 降倭とは、秀吉の朝鮮侵略のとき、日本の陣営から朝鮮あるいは明側に投降した将卒や雑役夫などの日本人をいう。1593年には、降倭を疑いの目で見ることが多かった。1594年から降倭のうち悪賢く制しがたいもの以外は殺さず、降倭それぞれが習得している軍事技術を伝習させる方向に重点が置かれるようになった。そして、給料を与えて射撃や刀槍の術などを伝習させた。また、剣銃の鋳造などにもあたらせた。さらに、降倭を間諜として利用することもあった。
 要叱其(よしち)という降倭は軍官(将校)となり、日本軍に復帰する意思は毛頭なかった。降倭は、日本軍との戦闘のみならず、女真族との対決にも動員された。
 降倭になった者の動機には、日本軍の大将の性格が悪く、課せられた役儀が重く厳しいからというものがある。兵卒に課せられた際限なき築城と普譜、その反対に大将は茶の湯や連歌・けまり。これが兵卒を降倭に走らせる引き金となった。
 特定の従順な降倭をとり立て、その降倭に降倭全体を束ねさせた。しかし、降倭内の対立があり、結束したわけではなかった。それでも、配下を率いて投降し、定住する降倭の部将もいた。沙也可は金忠善となった。さらに、金向義という武将もいる。本拠をつくって定住し、妻子をもち、耕地を保有する降倭もいた。
 降倭の実態を詳しく知ることのできる本でもありました。
                (2012年10月刊。760円+税)
 日曜日に仏検(準一級)の口頭試問を受けました。すごく緊張してのぞみましたが、美容整形手術に賛成か反対かという問いでしたので、何とか答えることができました。実は、もう一つの問いは難しい単語があって意味が分からなかったのです。3分前に問題を渡され選んだ問いについて、3分間のプレゼンをするのです。これがいつも大変です。今回は、たまたまフランス語のできる娘が自宅にいましたので、試験官になってもらって、特訓を受けました。これが良かったように思います。話し慣れていないので、いつも大変なのです。

秀吉と海賊大名

カテゴリー:日本史(戦国)

著者   藤田 達生 、 出版   中公新書 
 秀吉と光秀の関係について新説が紹介されています。
 信長は、対毛利戦争の継続に積極的ではなく、対毛利主戦派の秀吉と宇喜多直家を交渉から除外して和平にもちこもうとしていた。つまり、信長と秀吉は必ずしも一枚岩ではなく、織田政権の西国政策を体現するとみられていた秀吉の地位は意外に脆弱だった。
 光秀のライバル秀吉は、天正8年5月の時点で政治生命の危機に瀕していた。そこで秀吉は、中国方面司令官としての立場を死守するために宇喜多氏と一蓮托生の関係を築いて、なりふり構わずに対毛利戦争をあおり、信長の中国動座を画策した。天正8年の時点で、秀吉は四国の長宗我部氏とも友好関係を築いていた。
 信長は、天正8年8月に島津氏に対して大伴氏との戦闘を停止し、双方が和睦するように命じた(九州停戦令)。このように停戦令は、秀吉が初めてではなく、その前に信長が天下人として発令していた。
 光秀は信長の四国攻撃のあとの自らの処遇について不安を抱いたに違いない。外交官として深く関係した長宗我部氏が敗北することによって、織田政権内における発言力が決定的に低下することは確実だった。それに追い討ちをかけたのが、四国・中国平定後に予想される大規模な国替(くにがえ)だった。光秀が円国への国替を強制される可能性はきわめて高かった。幾内から最前線へ転封は、常に政権中枢にあった光秀にとって、左遷つまり活躍の場をとりあげられることを意味していた。そして、四国遠征のあとは、光秀が没落し、秀吉が織田家中で最有力の重臣となることは確実だった。
 秀吉は、毛利氏に対しては強硬策をとったが、海賊衆には実に辛抱強くソフトに迫っていた。
本能寺の変の直前、信長は四国国分の実務のため、淡路に行こうとしていた。光秀や長宗我部元親にとって理不尽な信長の外交政策の転換は、信長にとっては若い信孝を活躍させるチャンスと位置づけていた。信長は来るべき天下統一後をにらんで、若い一門、近習を有力大名として幾内近国に配置しはじめていた。
 光秀は、将軍相当者だった信長を討滅するため、主君殺しを正当化し、反信長勢力を糾合するためにも、かつての主人である現職将軍・義昭を奉じた。
 毛利氏が秀吉を追撃しなかったのは、秀吉方に内通した重臣をかかえて崩壊寸前の家中の立て直しを優先させたから。長年に及ぶ戦闘で毛利家の家中は相当に消耗しており、これ以上の危機は回避すべきだと大局的判断に立ったのだろう。
 毛利家中は、秀吉の激しい調略によって、一部の重臣が離反したり、態度をあいまいにしており、相当に浮き足だっていた。家臣相互が疑心暗鬼の状態にあり、とても一丸となって秀吉を追撃できる状態にはなかった。
海賊停止令は、海賊の存在そのものを停止するものではなく、賊船行為を厳禁したことに本質がある。中世の海賊にとって、海関を設けること自体は正当な権利であった。
 秀吉と光秀、そして海賊との関係を再認識させられる、面白い刺激的な本でした。
(2012年3月刊。760円+税)

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