法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 日本史(戦国)

長篠合戦

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 金子 拓 、 出版 中公新書
 1575(天正3)年5月21日、武田勝頼(かつより)軍と織田信長・徳川家康の連合軍が激突した。この長篠(ながしの)合戦については、織田・徳川軍が3千挺の鉄砲を三列に並べて連続射撃し、思慮不足の「若殿」ひきいる武田軍騎馬隊を全滅させたというイメージで語られることが多いのですが、それらは史実とは相当かけ離れているようです。
 鉄砲3千挺の三列の連続射撃は今やほとんど信じられていません。そして、武田勝頼についても「若殿=バカ殿」ではなかったようです。
 武田軍の「騎馬隊の無謀な突撃」についても、果たしてそうだったのか、疑問視されているとのこと。
 武田勝頼は決して愚かな戦国大名ではなく、長篠合戦で大敗北したあと、権力の立て直しにある程度成功していた。重臣層が討ち死にした結果、かえって若い世代を登用して藩政を刷新でき、外交面でも積極的に手を打って、挽回していた。
 「三列交替の輪番討撃(三千挺の三段撃ち)」は否定されているが、鉄砲隊を三つに分けて三ヶ所に配置させたという有力説もある。
 織田信長は、そのあとに予定している大阪の本願寺攻めに備え、兵力は出来る限り温存しておきたかった。つまり、武田軍との戦闘で人員をあまり失いたくなかった。そこで、武田軍からは見えにくい土地に布陣し、馬防柵を構築した。
 長篠の戦いについては、私もそれなりに本を読んできましたが、現在の到達点が要領よくまとめられている新書だと思います。
(2023年12月刊。990円)

九州・琉球の戦国史

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 福島 金治 、 出版 ミネルヴァ書房
 戦国時代、火薬の原料となる硫黄の産地は薩摩の硫黄島(アメリカ軍と対決した硫黄島ではない)、豊後(大分)の硫黄岳(伽藍(がらん))岳などであり、中国の明王朝などが日本の硫黄を欲した。
 サツマイモとも呼ばれる唐芋が日本に定着したのは16世紀。わが家の庭にもサツマイモを植えていて、10月末に掘り上げるつもりです。
 室町幕府の九州統治は、九州探題を通して守護を管轄するのが原則だった。
 中世には、複数の主人をもつことが許されていた。しかし、主従関係は未来永劫(えいごう)と認識される時代に変わっていった。
 天文7(1538)年に秋月で和議(合意)が成立し、大友氏は筑後・肥後、大内氏は筑前・豊前を支配することになった。
 朝廷(京都)の公家にとって、九州の武士たちの交流は直接の収入源であった。そして、見返りに国人(武士)は権威やブランドを手に入れた。
 大永3(1523)年に、中国の寧波(ニンポー)で、細川と大内という両氏が武力衝突したのを「寧波の乱」と呼ぶ。
 イエズス会の宣教師ザビエルは、日本に来る前にアルヴァレスの報告を読んでいて、ザビエルは、日本人は識字率が高いから、教理の習得は可能と判断した。ただし、ザビエルは、2年あまり豊後に滞在したあと、インドに戻った。
 島津氏は宣教師もキリスト教徒もうまく対応できなかった。
文禄・慶長の役において、日本軍が緒戦で勝利したのは、朝鮮官軍の逃亡、戦闘回避、民衆の官物略奪、日本軍の主要武器である鉄砲への不慣れがあった。
 兵糧の需要増加によって、出撃基地である名護屋の米相場は京都方面より6割増しに高騰した。
 朝鮮出兵のとき、日本人捕虜が数千人規模で「降倭」となり、日本軍と戦った。
 戦後、日本から6000人あまりの人々が朝鮮半島へ帰還した。
戦国時代の九州・沖縄の動きを通覧・通読することができました。ここでは、特に印象的なところを紹介しています。
(2023年7月刊。3800円+税)

徳川家康と武田勝頼

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 平山 優 、 出版 幻冬舎新書
『どうする家康』の時代考証も担当している気鋭の歴史学者による新書なので、論旨は明解、切れ味の良さに心地よいばかりです。
徳川家康の生涯において、最も苦難を強いられた敵は、武田氏。武田信玄と勝頼父子だ。信玄との抗争は、わずか半年あまりで信玄の死によって終了したが、その子・勝頼の度重なる襲来によって、家康の危機はさらに深まっていった。
家康にとって、勝頼との抗争のほうが費やした時間も長く、危機の連続だった。家康の本拠地である三河・岡崎の譜代らが勝頼と内通したり、息子・信康や妻(正室)築山殿まで武田氏の調略にあうなど、徳川家中の分裂を引き起こすほどの重大事態に陥った。家康にとって勝頼は、信玄以上の脅威であり、徳川氏単独では、手も足も出なかった。  
徳川家康と武田信玄は元亀1(1570)年までは甲三同盟を結ぶ同盟国だった。元亀3年、武田信玄は突如として、徳川家康の領地に侵攻した。わずか1ヶ月半で、家康は三河と遠江の領国の3分の2を失うという大打撃を受けた。そして、信玄軍の本隊は徳川氏の浜松城に迫った。
武田信玄は元亀4(1573)年4月に53歳の若さで死亡した。
徳川氏は、織田の支援なくして、武田勝頼と戦うことはできなくなっていた。徳川氏の有力は部将である岡崎衆のメンバーは武田氏の調略により、着々と切り崩されていった。家康の子・信康、そして家康の正室の築山殿も武田氏と結んで、家康打倒を謀った。それほど武田氏のほうが家康より強いと思っていたということだ。
長篠合戦のころは徳川家康対武田勝頼の合戦だった。
家康は勝頼をその死ぬまで「大敵」とみなしていた。勝頼は信玄の「バカ息子」ではなかったのです。勝頼は武田家中での権威の確立に腐心しており、信長と家康が顔をそろえた合戦で勝利したら、武田家の御屋形としての地位は不動のものとなると考えたようだ。
 長篠合戦については、織田・徳川連合軍が施いた三重の馬防柵の前に、武田軍の猛将が馬に乗って近づいたところを三段式構えた3千挺の鉄砲によって、武田軍の主要な勇将たちは次々に倒れ、残りは逃げ去ったということになっている(と思います)。ところが、この本によると、徳川軍前面の馬防柵を武田軍は次々に突破していったというのです。まあ、それでも、ついてくる兵力が不足したことから、徳川軍の将兵に取り囲まれて討ちとられていった。そんなドラマがあったのですね…。
 武田氏は、信玄も勝頼(かつより)も、ともに鉄炮(砲)の装備を重視し、その動員強化に躍起になっていた。ただし、このころ、武田氏にとっては、鉄炮そのものというより、玉薬(銃弾と火薬)を手に入れるのがきわめて困難だった。武田軍は、鉛不足に苦しみ、銅銭を鋳(い)つぶしてまで、武田軍は鉄炮玉を確保しようとしていた。
 長篠合戦とは、物量(兵力)と鉄炮が明暗を分けた戦いであった。とはいえ、それは新戦法(織田・家康)と旧戦法ではなかった。そうではなく、物量豊富な西(織田・徳川)と、内陸部にいて、物資の入手が困難な東(武田方)への激突とみるべきもの。
長篠合戦のあと、勝頼の武田家には、主だった武将が亡くなっていて、統計上もごく少ない。長篠合戦後の勝頼の重臣層は、かなり様変わりした。それでも勝頼は、武田軍の再編成につとめ、総兵力1万3千余の軍勢を何とかまとめ上げた。
 ただ、勝頼の新しい軍勢は、実戦経験に乏しく、年齢も12、3歳の若年層が目立つなど、質的低下は明らかだった。 
結局のところ、勝よりは織田信長軍に圧倒されてしまうわけですが、家康が、最後まで勝頼を知恵も勇気もある武将だと高く評価していたことは忘れてはいけないと思います。そして、勝頼亡きあと、武田氏の遺臣の多くは家康の家臣となって、生きのびていったのでした。
 いつものことながら、大変勉強になりました。
(2023年5月刊。980円+税)

「秀吉を討て」

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 松尾 千歳 、 出版 新潮新書
 昔から「日本史、大好き」の私にとっても刺激的な話が盛りだくさんの本でした。
 話の焦点は薩摩と島津です。戦国時代、関ヶ原合戦のとき、西軍の薩摩・島津軍が敗色濃いなかを中央突破して辛じて逃げのびた話は有名です。そのとき、島津軍は、「捨て奸(がまり)」の戦法をとったとして有名です。これは、最後尾の部隊が本隊を逃すために踏みとどまって戦い、その部隊が全滅すると次の後方部隊が踏みとどまって死ぬまで続ける。これを繰り返して、殿のいる本隊を逃がすという戦法。
 しかし、著者は、実際には、そんな戦法はとっていない。一丸となって無我夢中で敵中に突っ込み、大勢の犠牲者を出しながらもなんとか東軍の追撃を振り切り、戦場を離脱した。これが真相だというのです。なるほど、そうかもしれないと私も思います。次々に後方に残る部隊をいったい、誰がいつ、どうやって組織した(できた)というのでしょうか。そんな余裕がこのときの島津軍にあったのでしょうか…。結果として、殿軍(しんがり)に立った将兵たちはいたでしょうが、それも時と地の関係で、そうなってしまっただけではないのか…、そう考えたほうがよさそうです。
 それはともかく、この本で提起されている最大の疑問は、関ヶ原合戦のあと、なぜ家康が西軍に属していた島津家をとんでもなく優遇したのか…、ということです。
 島津家は、事実上、処分を受けていない。そのうえ、藩主の忠恒に、「家」の字を与えて「家久」と改名させた。「家」の字を徳川将軍からもらったのは島津忠恒だけ。これは、大変に名誉なこと。さらに、家康は家久に琉球出兵を許可し、琉球国12万国を加増した。
 この本では、その理由は定かではないとしつつ、島津が明(中国)と太いパイプをもっていたことを家康は把握していて、海外交易に熱心な家康は、島津に頼るしかないと考えた。家康は明との国交回復を願っていた。
 家康が島津氏に琉球出兵を許したのは、明と太いパイプをもつ琉球王府を島津氏の支配下に入れ、勘合貿易の復活を実現させようとしたのではないか…。
 さて、「秀吉を討て」とは何のことでしょうか…。
 この本では、島津家は中国人の家臣や彼らと手を組む中国の「工作員」が接触していて、秀吉の意に反して朝鮮出兵からの撤兵をすすめていたということを指しています。それほど、島津家は中国側と深いつながりがあったというのです。すなわち、薩摩は、海洋国家、日本の中国大陸に向けた玄関口だったというのです。
 何ごとも、いろんな角度から物事を考察することが必要だということですね。勉強になりました。
(2022年8月刊。780円+税)

青年家康

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 柴 裕之 、 出版 角川選書
 NHKの大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を担当している著者による本です。
 家康はその少年時代、今川氏の人質としてみじめな日々を余儀なくされていたという通説を真向から否定しています。
 家康(竹千代)は6歳のとき、織田信秀へ人質として差し出された。そして、今川軍が織田勢を攻めたて、城将の織田信広を捕まえ、竹千代と交換することになり、家康は今川氏の本拠地である駿府で過ごすこととなった。
 竹千代が岡崎松平家の当主であったことから、今川義元は、駿府で竹千代を庇護することによって、松平家の上に君臨する上位権力者としての正統性を得た。
 今川義元は岡崎の松平家を解体して、岡崎を直轄領地とはせず、今川氏の政治的後見と軍事的な安全保障のもとに、松平家重臣による政治運営のもとで岡崎領の支配をまかせていた。
 駿府での家康(竹千代)の生活は、今川義元の師でもあった太原崇孚により学問の師事を得たというように、義元の庇護のもとで大事に養育されて過ごしていた。それは決して苦難の人質時代、忍耐と惨めなイメージで語られるような日々ではなかった。
 すなわち、家康は単なる人質ではなかった。それは、すでに西三河の有力な従属国衆である岡崎松平家の当主であったことによる。
 竹千代が14歳になって元服したとき「元信」と名乗ったのは、今川義元の「元」の1字をもらったものであり、これによって元服した家康(元信)が今川家の政治的、軍事的な保護を得た従属国衆・岡崎松平家の当主であることを世間に確認させた。
 今川義元は桶狭間で敗死したとき、42歳だった。そのあと、家康は織田信長とも手を結んだのでした。それは義元亡きあとの今川家とはキッパリ縁を切って、むしろ敵対し、抗争することを選んだとうことです。今川家が力をなくしたことによる選択でした。
 さあ、家康どうする、とても考えさせられるタイトルですよね。
(2022年9月刊。税込1870円)
 1月に受けたフランス語検定試験(準1級)の合格証書が送られてきました。待ちに待った証書です。合格基準店23点のところ、28点でした。実際には、思うように話せず、冷や汗をかいたのですが…。
 なぜ、諸外国ではデモもストライキもやっているのに、日本はストライキをやらないのかと尋ねられました。みなさんだったら、何と答えますか?そして、それをフランス語で、どう表現しますか。とつとつと答えてしまいました。それでも、頭のほうは少し若返りました(と思っています)。

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.