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カテゴリー: 日本史(戦国)

戦国武将

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 小和田 哲男  、 出版 中公文庫
  戦国時代というのは、後世の歴史家が命名したのではありません。武田信玄が定めた分国法のなかに、「今は天下が戦国だから」と書かれています。
戦国時代ほど個人の能力や力量が重視された時代はほかにない。それを中世では、器量という言葉で言いあらわしている。
今では、器量よしというと、美人をさす言葉になっていますよね・・・。
上杉家では、感状をたくさんもらっている武将が上座にすわり、感状が少ないと下座にすわることになっていた。感状は、そのまま戦国武将の器量の認定証になっていた。そして、子どもに父ほどの器量がなければ、結局、家禄を没収されてしまった。
戦国時代においては、主君から恩義が得られなければ、その主君のもとから離脱するのは自由だった。器量ある者が人の上に立つという観念が支配的な風潮だった。
合戦をするにあたって、占いやら方角にとらわれず、合理的な考えをする武将がいた。武田信玄とか朝倉孝景が、そうである。
重臣たちが協議したうえで主君の承認を得るという方式が多かった。主君の恣意は認められなかった。戦国大名と重臣の関係は、近世におけるような絶対的な上下の関係ではなく、比較的に対等に近かった。戦国大名における重臣の力は、今日の私たちが想像する以上に強かったのである。
戦国期の足利将軍は、偏諱(へんき)を与えることで、擬制的な親子関係を結ぶというより、戦国大名からの見返りとしての献金の方を重視していた。
男の世界である合戦に、戦国女性は自ら加わっている。夫の死後、城主となって城を守ったという「女城主」も戦国期には珍しくはなかった。
30年前の本がアップトウーデイトに改訂された文庫本です。面白く、すらすらと読めました。
(2015年8月刊。800円+税)

豊臣大坂城

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  笠谷 和比古・黒田 慶一 、 出版  新潮選書
 大坂城と豊臣秀吉・秀頼について、最新の学説が展開されている面白い本です。
 城内の対面所は、表御殿のなかで最大かつ最高級の殿舎だった。なぜなら、対面は近世封建制度上、大名たちの地位と格式を現出させる、もっとも重要な儀式であったから。
 豊臣大坂城は、増大な惣構え掘を有していた。これに対して徳川大坂城は外郭の防御施設をもたない裸城同然の城である。基本的に、外郭の防御施設をまったくもたないところに、徳川大坂城の最大の特徴がある。
 朝鮮の役の当時、秀吉軍の火縄銃の精確さに恐れをなした朝鮮正規軍は逃散した。しかし、火砲については、明(中国)・朝鮮側に一日の長があった。朝鮮の火砲は基本的に大型だった。ただし、これは主として艦載砲だった。
 関ヶ原の戦いなどで用いられた大砲は、朝鮮の役のときの歯獲品だろう。
 日本軍の大砲は「石火矢」の名前の通り、大石を砲弾として、火薬の爆発で飛ばす「射石砲」だった。
 関ヶ原合戦の果実をもっとも享受したのは、実は徳川ではなく、家康に同盟して東軍として戦った豊臣系武将だった。石田三成(19万石)、宇喜多秀家(57万石)、小西行長(20万石)、長宗我部盛親(22万石)ら88の大名が改易され、その領地416万石が没収された。領地削減された大名分をあわせると、632万石にのぼる。これは全国の総石高1800万石の3分の1をこえる。そして、この没収高の80%、520万石が豊臣系大名に加増された。
 徳川と家康は日本全土の3分の1の領地しか有しておらず、豊臣系大名が3分の1を占めるなど、3分の2は外様大名であるので、その支配は容易ではなかった。関ヶ原合戦は、むしろ豊臣政権の内部分裂を本質としていた。
 関ヶ原合戦の勝利への貢献度にしたがって、恩賞として領地が配分されたのであって、これは家康の深謀遠慮でも何でもない。そして、全国規模での領地再分配に際して領地宛行の判物・朱印状の類は一切発給されていない。
 これって、明らかにおかしい、いわば異常事態ですよね・・・。
 関ヶ原合戦における家康方東軍の勝利は、豊臣体制の解体をもたらしたのではなく、合戦後における家康の立場は、依然として豊臣公儀体制の下における大老としての地位を抜け出るものではなかった。すなわち、家康は、幼君秀頼の補佐者、政務代行者にとどまっていた。
 西国は、そのほとんどが豊臣系国持大名の領地によって占められている。
 西国支配は、もっぱら豊臣系譜の大名によって構成される特別領域として扱われた。
 この地域の支配に関する第一義的責任は大坂城にある秀頼と豊臣家に委ねられ、家康と徳川幕府は、それを通じて間接的にこの領地に対する支配を及ぼそうと構想していた。
秀頼は、秀吉の嫡子であること、それによって秀頼が成人した暁には、武士領主の上に君臨して政権を主宰するべき存在であると考えられていた。
 当時の人々は、秀頼がいずれ関白に任官するであろうということを、当然のこととして受けとめていた。秀吉が構築した豊臣公儀体制は関ヶ原合戦のあとも、解消されることなく持続していた。したがって、秀頼が一大名に転落したという理解は誤りなのである。秀頼は、いずれ成人したら公儀の主催者の地位につくであろうことも、人々の通念として遍在していた。
 家康にとって、関ヶ原合戦の勝利は自前の徳川軍事力によってではなく、家康に同盟した豊臣系武将たちの軍事力に依存してのことだった。それもあって、関ヶ原合戦も、「太閣様御置目の如く」と表現されたように、秀吉の構築した豊臣公儀体制は持続していた。
 家康は、この豊臣公儀体制を解体したり、乗っとたりはせず、そこから離脱した。
 家康は、その体制から抜け出して征夷大将軍に任官することによって、自らを頂点とする独自の政治体制、すなわち徳川公儀体制を構築したのだった。
 こうして豊臣系譜の諸大名は、豊臣秀頼に対する忠誠を維持したままで、かつ徳川家康の指揮・命令に服することになった。
 朝廷から年賀慶賀の勅使は慶長8年以後も毎年、大阪の秀頼の下に派遣されていた。
 豊臣の家臣は、徳川家を慕って臣従しているわけではない。家康がいなくなったあと、秀忠につき従わなければならないという義理はどこにもないのである。
 慶長14年を境として、家康はこの併存体制から抜け出そうとした。「国家安康」の字は、意図的なものであった。それを口実として家康は動き出した。
 大変面白く、知的刺激にみちみちた本でした。
(2015年4月刊。1400円+税)

太閣の巨いなる遺命

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  岩井 三四二 、 出版  講談社
 ときは戦国時代。江戸時代がまだ始まる前のこと。日本人は、東南アジアとの交易を盛んにしていたのです。タイのアユタヤに出かけていきます。
鹿皮はシャムの国の特産品。ほかには、染料のもとになる蘇木(そぼく)、高価な香料の沈香(じんこう)、象牙、絹などが買い付けられ、日本からは刀や塗り物、銅などが持ち込まれる。支払いに一番喜ばれるのは銀だ。
 日本で生み出される大量の銀が、アユタヤとの交易を回している。だから、銀を積んだ朱印船が年に何十艭も日本を出航し、アユタヤばかりでなく南洋の各地をめざして海を渡っている。南蛮船や明国の船も、日本の銀を求めて南洋各地と日本を往反(おうへん)している。
 アユタヤには日本町があり、1000人近くの日本人が住んでいる。チャオプラヤ川に沿って南北に5町、東西の幅が2町ほどの矩形の中にある。アユタヤ産の鹿皮は、革袴や革羽織、馬に乗るときにつける行膳(むかはぎ)、甲冑(かっちゅう)の飾りなどに使われ、日本の武士のあいだで人気が高い。少し前まで鹿皮はルソンから日本に持ち込まれるものが多かったが、いまはアユタヤが最大の産地である。
 イエズス会は、バテレンの元締めであるローマ教皇に忠誠を誓った熱心な信徒の集まりだ。いわば、ローマ教皇の直参馬廻り衆である。デウスの教えを世界に広めるために設立されたのだが、ポルトガルとイスパニアという世界に覇を唱えた強国の力を背景にし、信仰のためには、どんな危険な地域にも入り込む、忠実で優秀な人材を抱え、なおかつ軍勢のように上意下達の仕組みを持っている。
 イエズス会が現にやっていることは、神の教えを広めるという崇高な建前とは裏腹に、ずいぶんと世俗の塵にまみれている。南蛮人が行く先々で、その地の人々に神の福音を説き、人々を手なずけて南蛮船が着く湊をしつらえ、商人が交易できるよう手助けする。
 果ては、ゴアやマカオのように、他国の領土に南蛮人の居留地をつくってしまう。そして、宣教師たちも、当然のように商売をし、ぜいたくも蓄財もするのだ。
 宣教師たちは、京都など宣教に訪れた日本各地では清貧な暮らしをして見せていたが、おのれの領地である長崎では下僕を使い、ポルトガルから運んだ酒や食物を飲み食いするなど、贅沢な暮らしをしていた。
 宣教師になるのに必須であるラテンの言葉や教養を学ぶのは、資力に余裕のある家に生まれなければ出来ないこと。だから、宣教師たちは、もともと貴族か裕福な商人だった者ばかり。貴族だから、召使を身辺におき、贅沢するのは当たり前だと思っている。そこは、日本の位の高い坊主と変わらない。
 しかも、南蛮の貴族は武人の一面も兼ね備えている。戦いとなれば、馬に剰従卒をひきいて出陣する。イエズス会が長﨑を守ろうとして大筒鉄砲を持ち込んだのも、もともと武人でもあった宣教師たちの目からすれば、何の不思議もない。
 手に汗にぎる大海洋冒険小説です。著者のたくましい想像力によって海賊船とのたたかい、そして海上戦闘をしっかり堪能することができました。
(2015年7月刊。1800円+税)

織田信長「天下人」の実像

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山 昴)
著者  金子 拓 、 出版  講談社現代新書
 織田信長の実像に迫った新書です。
 信長は、秀吉とちがって、全国統一をかかげて権力をふるおうとしていたとは考えられない。信長の行動基準は、あくまでも天下静謐の維持という点にあった。
 信長においては、官位によって彼の「天下」の外にあって好意的・従属的な関係を結んでいる諸大名までをも統一的に秩序づけようという考え方はまったくもっていなかった。
 しかし、将軍推任を受け、信長は、それまでの天下静謐の維持という大義名分を自己否定するかのように、征服欲をむき出しにしたいくさを中国・四国方面に仕掛けるという最終決断をしたのではないか。
 だから、光秀が、それまで一貫していたはずの天下静謐のための戦いという目的から逸脱しつつある信長の動きを頓挫させようとしたのではないか。となると、天下静謐を根底から揺るがせたのは、光秀ではなく信長だったことになる。
 本能寺の変の直後、朝廷は光秀を天下人とみなして、京都の安全保障を要請する使者を遣わすなど、謀叛人扱いをせず、それなりの対応をしている。基本的に朝廷は、自分たちを保護してくれる人間であれば誰でもよく、武家権力者が誰であるべきだという理念を前提として動くことはなかった。
 信長が印章につかった「天下布武」(てんかふぶ)というのは、将軍を中心とする幾内の秩序が回復することを指す。戦国時代の室町将軍において、維持すべき支配領域とは京都中心の「天下」であった。それは、日本全国を意味していない。
 信長は、天下静謐を維持することを自らの使命とした。信長の勢力拡大は、天下静謐に歯向かう敵と戦った結果として生じた。
 信長は官位に対してみずから選択するほどの知識はなかったし、また執着心もなかった。
 信長は積極的に左大臣任官を希望していない。
 譲位についての天皇の頑張な拒否があり、逆に積極的な譲位推進の思惑もない。信長は、どうにかして左大臣を辞退しようとしたものでもない。任官がないことを承知のうえで、信長は天皇の譲位延期を受けいれたはず・・・。
 信長の実像を明らかにしようという、意欲的な内容にあふれた新書です。
(2014年8月刊。880円+税)

化け札

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  吉川 永青 、 出版  講談社
 真田昌幸を描いた小説です。面白く、一気に読み通しました。
 境目の者、敵との最前線にある者は向背勝手、つまり危うくなったら寝返りも致し方なしとみなされる。武士だけではない。百姓も自らの身を守るため、双方の勢力に年貢を半分ずつ納めることが認められていた。戦乱の世ならではの習いである。
 岩櫃や沼田は真田昌幸が武田勝頼から引き継いだ地である。その武田を見限って北条に擦り寄り、織田軍が兵を向けたと知るや、そちらになびいた。織田信玄が横死すると上杉に付き、上杉の苦境を知って北条に帰順する。そして、真田は徳川に鞍替えした。実に5度目の寝返りだ。
武田を見限って、北条、上杉、そして徳川、果ては豊臣に付き、付いては離れ、騙し化かしてきた。それでも兵や政は武田流を貫いている。
 軍においては無駄口をきかず、戦においては敵の出鼻をくじき、勢いありと見れば一気に叩く。
歌留多札には幽霊が描かれているものがある。化け札、鬼札、幽霊札、いろいろの呼び方がある。ほかの全ての札に変えて使える。相手を化かす札である。
 「ならば、この真田昌幸、化け札になってやる」
 巷間にそしられることを承知で、真田家のため、民百姓のために武田を見限るのだ。誰に分かってもらえずとも構わない。だが、本領の安堵のみ、生き残りのみに汲々とするのみでは終わらせない。
 北条が、織田が恐れる真田は、そこまで安くない。真田一族が、北条、上杉、武田、徳川、そして織田、秀吉という大勢力のなかでしぶとく生きのびていく様を見事に描いていて、読ませる本です。
(2015年5月刊。1850円+税)

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