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カテゴリー: 日本史(戦国)

帰蝶

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  諸田 玲子 、 出版 PHP研究所
 織田信長の正妻は、明智光秀の従妹であり、斎藤道三の娘だったというのです。知りませんでした。織田信長の正室、つまり正妻です。
帰蝶は、斎藤道三(どうさん)の娘の濃姫(のうひめ)である。これまでの通説によると、本能寺の変のずっと以前に早世したが、離縁されたと考えられていた。ところが、近年そうではなくて慶長17年(1612年)に78歳で亡くなったという記載が見つかった。別の資料にも、信長の一周忌の法要を信長公夫人がとりおこなったと書かれている。
では、帰蝶は本能寺の変に至るときに明智光秀といかに関わっていたのか、そして本能寺の変が起きたあと、いかなる行動に出たのか、誰もが知りたいところです。
そのあたりを小説として、女性の立場でこまやかに丁寧に描いた小説です。
私は安土城には二度のぼったことがあります。やはり織田信長の「天下布武」という発想を知るためには、ぜひ一度は安土城の跡地に立つ必要があると考えました。
広い大手門の坂道をのぼっていき、あとは曲がりくねっています。天守閣を再現した博物館が近くにあって、当時をしのぶことも出来ます。
信長の周囲にいた女性たちが、栄光と恐怖の背中あわせに生きていたことを偲ばせる小説でした。
作家の想像力というのは、本当にたいしたものです。
(2015年10月刊。1700円+税)

アジアのなかの戦国大名

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  鹿毛敏夫 、 出版  吉川弘文館
  戦国時代の大名が海外貿易に積極だったことがよく分かる本です。
  周防(すおう)山口に本拠を置く大内氏は、15世紀半ば過ぎ、それまでの対朝鮮交易に主体的に乗り出していった。大内氏は、16世紀半ばの天文7年と天文16年の2度とも、遣明船経営を独占した。
  天文7年(1538年)の遣明船は、大内船三艘で編成されていたが、各船には百数十人が乗り込み、総勢400人をこえる船団だった。
肥後の戦国大名である相良(さがら)氏も遣明船を派遣した。相良晴広は、天文23年(1554年)に、「市木丸」を明に派遣した。このとき、日本からは、銀を持っていった。豊後(ぶんご)の大友氏も遣明船を派遣した。
  これまでの通説では、大内氏が滅亡した天文20年(1551年)をもって勘合貿易が断絶されたとされているが、実は、このように相良、大友、大内ら西日本の地域大名によって遣明船は派遣され続けていた。
  ただし、それは明(中国)側にとっては、密貿易(倭冠船)そのものでもあった。
  すなわち、16世紀に日本の地域大名が派遣していた遣明船は、明政府から日本国王使船として認められたら正式な朝貢貿易船として振る舞い、認められなければ密貿易船として南方海域で私貿易活動を行うというように、裏表を使い分ける二面性を有していた。
  15世紀の遣明船が日本から中国(明)へ運んだ最大の輸出品は硫黄だった。木造帆船に軽自動車54台分の重さの硫黄を積んで東シナ海を横断した。
  宋代の中国では、火薬を兵器として利用することが拡大し、黒色火薬の原料としての硫黄の需要が急増した。11世紀の宋政府は、日本から大量の硫黄を買い付け、軍需物資として硫黄を国家的に管理した。このころの日本では硫黄が、鬼界島(硫黄島)や大分で掘られていた。
  ゴールド(金)ラッシュ、シルバー(銀)ラッシュと同じように、サルファ―(硫黄)ラッシュが出現していた。15世紀から17世紀までのこと。
  カンボジアやシャム(タイ)とも九州の諸大名は取引をしていた。カンボジア国王は、大友氏へ返礼として象を送ろうとしたようです。
  西日本で多くのキリシタン大名が生まれたのも、これらと関係がある。戦国大名で最初に受洗したのは肥前の大村純忠。その後、九州では有馬氏や大友氏、中・四国では宇喜多氏や一条氏、幾内では高山氏。このように、西日本で多くキリシタン大名が生まれている。
 戦国時代の日本の実情について知らないことがたくさんありました。
(2015年9月刊。1700円+税)

秀吉研究の最前線

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  日本史史料研究会 、 出版  洋泉社 歴史新書Y
 秀吉についての最新の研究成果がコンパクトにまとめられた新書です。
 五大老・五奉行という呼称は、秀吉の当時は使われておらず、江戸時代に入ってから一般化した。五大老とは、江戸幕府の大老にちなんでつけられたものなので、江戸時代の呼び方。五奉行は、あるときは「年寄」ないし「奉行」と呼ばれていた。
 五大老の日常的かつ本来の職務は領地給与であった。五大老は、あくまで秀吉の代行者にすぎなかった。五奉行の職務は、豊臣家直轄領の統括であった。
そして、五大老が上位で、五奉行が下位であったというのは、安易すぎる結論であって、見直されてしかるべきもの。
 秀吉は、武家出身者として初めて従一位関白に任官した。秀吉は、死ぬまで太政大臣の地位に留まっていた。
秀吉の実父は誰なのか分っていない。実母はなか(のちの大政所)。
刀狩以降も、民衆は丸腰ではなかった。江戸時代の百姓は領主に数倍する鉄砲をもっていた。ただし、百姓から帯刀権が剥奪された。
 清須会議は有名だが、会議というのは明治になって学者が名づけたもの。当時は、「談合」と呼んでいた。このとき、信雄と信孝が争ったのは織田家の家督ではなく、「御名代」であった。
 秀吉は名護屋城における最重要拠点を家康に任せていた。つまり、秀吉は家康を警戒していなかった。
 40代、50代の学者による研究会がまとめていますので、信頼性があります。
(2015年8月刊。950円+税)

戦国武将

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 小和田 哲男  、 出版 中公文庫
  戦国時代というのは、後世の歴史家が命名したのではありません。武田信玄が定めた分国法のなかに、「今は天下が戦国だから」と書かれています。
戦国時代ほど個人の能力や力量が重視された時代はほかにない。それを中世では、器量という言葉で言いあらわしている。
今では、器量よしというと、美人をさす言葉になっていますよね・・・。
上杉家では、感状をたくさんもらっている武将が上座にすわり、感状が少ないと下座にすわることになっていた。感状は、そのまま戦国武将の器量の認定証になっていた。そして、子どもに父ほどの器量がなければ、結局、家禄を没収されてしまった。
戦国時代においては、主君から恩義が得られなければ、その主君のもとから離脱するのは自由だった。器量ある者が人の上に立つという観念が支配的な風潮だった。
合戦をするにあたって、占いやら方角にとらわれず、合理的な考えをする武将がいた。武田信玄とか朝倉孝景が、そうである。
重臣たちが協議したうえで主君の承認を得るという方式が多かった。主君の恣意は認められなかった。戦国大名と重臣の関係は、近世におけるような絶対的な上下の関係ではなく、比較的に対等に近かった。戦国大名における重臣の力は、今日の私たちが想像する以上に強かったのである。
戦国期の足利将軍は、偏諱(へんき)を与えることで、擬制的な親子関係を結ぶというより、戦国大名からの見返りとしての献金の方を重視していた。
男の世界である合戦に、戦国女性は自ら加わっている。夫の死後、城主となって城を守ったという「女城主」も戦国期には珍しくはなかった。
30年前の本がアップトウーデイトに改訂された文庫本です。面白く、すらすらと読めました。
(2015年8月刊。800円+税)

豊臣大坂城

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  笠谷 和比古・黒田 慶一 、 出版  新潮選書
 大坂城と豊臣秀吉・秀頼について、最新の学説が展開されている面白い本です。
 城内の対面所は、表御殿のなかで最大かつ最高級の殿舎だった。なぜなら、対面は近世封建制度上、大名たちの地位と格式を現出させる、もっとも重要な儀式であったから。
 豊臣大坂城は、増大な惣構え掘を有していた。これに対して徳川大坂城は外郭の防御施設をもたない裸城同然の城である。基本的に、外郭の防御施設をまったくもたないところに、徳川大坂城の最大の特徴がある。
 朝鮮の役の当時、秀吉軍の火縄銃の精確さに恐れをなした朝鮮正規軍は逃散した。しかし、火砲については、明(中国)・朝鮮側に一日の長があった。朝鮮の火砲は基本的に大型だった。ただし、これは主として艦載砲だった。
 関ヶ原の戦いなどで用いられた大砲は、朝鮮の役のときの歯獲品だろう。
 日本軍の大砲は「石火矢」の名前の通り、大石を砲弾として、火薬の爆発で飛ばす「射石砲」だった。
 関ヶ原合戦の果実をもっとも享受したのは、実は徳川ではなく、家康に同盟して東軍として戦った豊臣系武将だった。石田三成(19万石)、宇喜多秀家(57万石)、小西行長(20万石)、長宗我部盛親(22万石)ら88の大名が改易され、その領地416万石が没収された。領地削減された大名分をあわせると、632万石にのぼる。これは全国の総石高1800万石の3分の1をこえる。そして、この没収高の80%、520万石が豊臣系大名に加増された。
 徳川と家康は日本全土の3分の1の領地しか有しておらず、豊臣系大名が3分の1を占めるなど、3分の2は外様大名であるので、その支配は容易ではなかった。関ヶ原合戦は、むしろ豊臣政権の内部分裂を本質としていた。
 関ヶ原合戦の勝利への貢献度にしたがって、恩賞として領地が配分されたのであって、これは家康の深謀遠慮でも何でもない。そして、全国規模での領地再分配に際して領地宛行の判物・朱印状の類は一切発給されていない。
 これって、明らかにおかしい、いわば異常事態ですよね・・・。
 関ヶ原合戦における家康方東軍の勝利は、豊臣体制の解体をもたらしたのではなく、合戦後における家康の立場は、依然として豊臣公儀体制の下における大老としての地位を抜け出るものではなかった。すなわち、家康は、幼君秀頼の補佐者、政務代行者にとどまっていた。
 西国は、そのほとんどが豊臣系国持大名の領地によって占められている。
 西国支配は、もっぱら豊臣系譜の大名によって構成される特別領域として扱われた。
 この地域の支配に関する第一義的責任は大坂城にある秀頼と豊臣家に委ねられ、家康と徳川幕府は、それを通じて間接的にこの領地に対する支配を及ぼそうと構想していた。
秀頼は、秀吉の嫡子であること、それによって秀頼が成人した暁には、武士領主の上に君臨して政権を主宰するべき存在であると考えられていた。
 当時の人々は、秀頼がいずれ関白に任官するであろうということを、当然のこととして受けとめていた。秀吉が構築した豊臣公儀体制は関ヶ原合戦のあとも、解消されることなく持続していた。したがって、秀頼が一大名に転落したという理解は誤りなのである。秀頼は、いずれ成人したら公儀の主催者の地位につくであろうことも、人々の通念として遍在していた。
 家康にとって、関ヶ原合戦の勝利は自前の徳川軍事力によってではなく、家康に同盟した豊臣系武将たちの軍事力に依存してのことだった。それもあって、関ヶ原合戦も、「太閣様御置目の如く」と表現されたように、秀吉の構築した豊臣公儀体制は持続していた。
 家康は、この豊臣公儀体制を解体したり、乗っとたりはせず、そこから離脱した。
 家康は、その体制から抜け出して征夷大将軍に任官することによって、自らを頂点とする独自の政治体制、すなわち徳川公儀体制を構築したのだった。
 こうして豊臣系譜の諸大名は、豊臣秀頼に対する忠誠を維持したままで、かつ徳川家康の指揮・命令に服することになった。
 朝廷から年賀慶賀の勅使は慶長8年以後も毎年、大阪の秀頼の下に派遣されていた。
 豊臣の家臣は、徳川家を慕って臣従しているわけではない。家康がいなくなったあと、秀忠につき従わなければならないという義理はどこにもないのである。
 慶長14年を境として、家康はこの併存体制から抜け出そうとした。「国家安康」の字は、意図的なものであった。それを口実として家康は動き出した。
 大変面白く、知的刺激にみちみちた本でした。
(2015年4月刊。1400円+税)

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