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カテゴリー: 日本史(戦国)

後藤又兵衛

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  福田 千鶴 、 出版  中公新書
 後藤又兵衛は黒田官兵衛・長政の二代に仕え、朝鮮に出兵して活躍しつつも、長政に疎まれて黒田家を去って牢人生活に入り、秀頼の招きに応じて大坂城に入って、大坂の陣で壮絶な討死を遂げた。
黒田長政にとって、後藤又兵衛は、自身が取立てたなかでも第一の家臣だった。その恩も顧みず黒田家を退去するのは、主君として許しがたい行為であった。
大坂夏の陣で没したとき、又兵衛は56歳だった。又兵衛は、黒田官兵衛に子飼いとして育てられ、14歳のとき、長政付の近習として仕えるようになった。
若き日の又兵衛は、何が何でも討死することが「御奉公」であると考えるような荒武者ではなく、冷静な判断力をもつ武将だった。
又兵衛は槍の名手として有名だが、朝鮮出兵のときの虎退治において、又兵衛は初めから刀を抜き、虎を仕留めている。
関ケ原合戦のとき、黒田長政は33歳。その供衆35人の筆頭に後藤又兵衛の名前がある。「黒田25騎」とは、近世中期になって選ばれた黒田家の功臣であるが、そのなかに黒田家にとって逆臣ともいうべき後藤又兵衛が入っているのは、それだけ存在感が大きかったということ。
黒田氏の家中形成の過程で、長政のもとで頭角を現し、長政取立家臣のトップに躍り出たのが又兵衛だった。
又兵衛の娘は、黒田家中の野林家で天寿を全うした。つまり、又兵衛の血筋は女系によって黒田家中に伝えられた。
黒田と細川は犬猿の仲にあった。そこで、細川は、又兵衛の筑前出奔を支援した。同じく池田輝政も又兵衛を支援したので、輝政と長政は仲が悪くなり、互いに音信を絶った。
大名たちは、江戸で家康から起請文の提出を強制させられ、表向きは徳川方への忠誠心を示しながら、裏では頼みとなる人物に隠し置いていた牢人たちを預けて大坂城へ差し向け、太閤秀吉の遺児豊臣秀頼を支援していた。
このように忍び潜む牢人たちを支える社会構造があってこそ、10万とも言われる牢人たちが大坂城に結集できた。日ごろから捨て扶持を与えられて忍び隠れていた牢人たちにとっては、待ちに待った表舞台が大坂の陣だった。
 大坂の陣に向かう徳川方は豊臣系大名の裏切りを心底から恐れていた。
黒田長政が又兵衛に密命を与えて大坂城に入城させたという説が成立する余地はない。
 又兵衛が大坂の陣で討死したのは、武将として見事だったと最大の賛辞が送られている。
 豊臣秀頼は、自分に一命を預けた者たちを見捨てるような武将ではなかった。そのような秀頼だからこそ、又兵衛は冬の陣で大坂城に入り、和議後も大坂城を去ることなく、夏の陣を死に場所として選んだ。
 後藤又兵衛は、定めなき浮世において名称というにふさわしい知術武略を用いて生き抜いたからこそ、末代にその名を残した。
後藤又兵衛という戦国武将を見直すことが出来ました。
(2016年4月刊。820円+税)

決戦!川中島

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  宮本昌孝・矢野隆ほか  出版  講談社
 川中島の古戦場には、私も1回だけ行ったことがあります。しばし往事を愢びました。
古戦場というと、なにより印象深いのは、越前朝倉の一乗谷です。織田信長に滅ぼされて焼け野原となったあと、地中に埋もれたのが発掘され、武家屋敷の一部を復元して広大な公園として整備されています。
 関ヶ原の古戦場には二回行きました。石田三成の陣跡に立ち、家康のいた桃配(ももくばり)山を眺めました。安土城にも二回か三回のぼりました。天守閣跡に立ち、ここに信長も立っていたのかと少しばかり感傷的になりました。島原の乱のあった原城跡にも行ってみましたが、まさしく感慨一入です。
 まだ行っていませんが、ぜひ行きたいのは武田勝頼の軍勢が壊滅的な打撃を受けたという長篠の地(鉄砲の三段撃ちは本当にあったのでしょうか・・・)、そして今川義元が滅びた桶狭間の地です。やはり歴史を愛する者として、なるべく現地に行って、その場所に立って何かを考えてみたいと思います。
 この本は、7人の作家が、それぞれ異なる登場人物を主人公として書いています。競作です。武田信玄、上杉謙信、山本勘助そして真田昌幸ほかです。その心理描写がさすがにプロだけあって、いずれも見事です。もちろん動きだけでなく、合戦の状況も真に迫って活写されています。
 景虎の卓越している点は、最前線にあっても広い視野が発揮されることにあった。小高い場所で、床風に腰かけ、じっと戦況を見ているのと同じ眼差しを、自ら太刀を振るいながら保つことができた。そのような才能、あるいは阿鼻叫喚の激戦においても視野が曇らぬ胆力は、そうそう万人が持てるものではない。
 またさらに、その虎視をもって、勝機を逃さず、つかむ力もずば抜けていた。機を見る敏。機を窺うに静。機を制するに剛。好機と、みるや間髪をいれずに号令を発し、それまではひたすら冷静に戦況を見極め、いざ動いたときには圧倒的な力で、相手をねじ伏せる。常に相手の一瞬の隙をとらえて就く景虎の戦いぶりは、相対した者からすれば、いつどうやって攻められたかも分からぬほどで、気がつけば、陣形は崩壊し、味方はみな壊走しているという有様だった。
 これは、上杉謙信についての叙述です。読んでいるとむくむくとイメージが湧いてきますよね。プロ作家の想像力には圧倒されます。
 (2016年5月刊。1600円+税)

戦国の陣形

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 乃至 政彦 、 出版  講談社現代新書
 戦国時代の合戦といえば、魚鱗とか鶴翼、そして車懸(くるまがかり)の陣立(じんだて)が有名です。ところが、著者は、このような陣形が実際に存在したという証拠の文書はないというのです。
陣形とは、布陣の形状である。
中世の足利(室町)時代には、その軍政は騎兵中心だった。楯兵も弓兵も、騎兵が下馬して構成されていた。中世における正規の戦力は、原則として騎兵だった。そして、騎兵が下馬することなく騎兵として戦うとき、武士としての真価が発揮された。
この時代の合戦の特徴として、しばしば騎兵の集団が遠距離戦闘を介することなく、戦闘を仕掛けた。足利時代の騎兵は、頻繁に接近戦を行った。中世の騎兵は、「馬上十飛道具」ではなく、「馬上十衝撃具」で戦った。
 中世の戦場では、定型の陣形があらわれることはなかった。それは、それを実用する規律ある軍隊がいなかったからだ。中世の武士は私兵の寄り合いに過ぎず、そこには基本となる部隊教練も存在しなかった。
 武田信玄と上杉謙信との戦いのなかで、上杉軍の一翼となった上村義清の部隊は、弓隊150人、鉄砲50人、足軽200人、騎馬隊200騎、長柄のやり100人という兵種別編成で戦った。そして、武田軍の本陣に切り込み、戦傷を負わせた。
上杉謙信は、村上義清の使った隊形を常備の隊形として取り入れた。それには強い信念と大量の物量が前提となった。この兵種別の五段隊形が全国に広がった。
 文禄の役のとき、朝鮮の官軍は、日本軍の「陣法」について学んで対抗した。
 「旗持が最前列、島銃手が二列。槍剣手が三列と、三段に構え、その左右に騎兵を配した。戦いが始まると、最前列の旗持ちが左右にひらいて、二列目の銃手が発砲し、ころあいを見て槍剣手が突撃する。そのあいだ左右にひらいていた旗持軍が両方から、左右の伏兵が敵の背後にまわって包囲する」
 いま有名な定型の陣形は、戦争が日常だった戦国時代には使われなかったが、天下泰平の徳川時代になると、机上に復活しただけのこと。
 武田信玄の「八陣」が一般に広く知られるようになったのは、なんと戦後のことだと著者は指摘しています。
 なんだ、なーんだという感じです。まあ、それもそうなんでしょうね。戦場で、そんなに形ばかりにとらわれていたら、敗北してしまいますよね。大いに目を開かされました。
                           (2016年1月刊。760円+税)

真田一族と幸村の城

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  山名 美和子 、 出版  角川新書
真田幸村のことがよく分かる新書です。
真田一族は信州小県(ちいさかた)地方、上田盆地の北東隅の真田の里に発祥した小さい豪族。戦国時代、真田の里の四囲には、群雄が勢力を競って、ひしめきあっていた。
小豪族の真田氏は、大勢力の真っただ中をかいくぐって台頭し、戦国大名にのしあがり、激動の世に名をとどろかせた。真田三代は、すぐれた調略戦を駆使した。
真田一族は、時勢に応じて武田、織田、豊臣、上杉、徳川と同盟したが、武田のほかは主君としていない。
真田幸村の父・昌幸は、秀吉から「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と言われた。これは、卑怯者というより、変幻自在の知略策謀による、あざやかな出前進退が興味深いというのもで、いわば戦国武将へのほめ言葉だ。
真田一族は六文銭(六連銭)の旗のもと、覇者への野望をいだくこともなく、国のごとく時代を疾走していった。
ヤマカン(山勘)というのは、当て推量のこと。山本勘助が上杉謙信との戦いのときに霧を読み誤ったことから来る言葉。
天正13年(1585年)、昌幸と家康とが戦った第一次上田合戦のとき、徳川軍の戦死者1300人、これに対して真田軍は、わずか40人のみ。真田軍の大勝利だった。
幸村が無名だったのは、次男だったから。江戸時代の前まで、長子相続は定まっていなかった。
幸村は20歳からの12年間を、秀吉の馬廻衆(近習)として秀吉のそばに仕えた。父の昌幸は、嫡子の信幸を家康に仕えさせ、幸村を秀吉の人質にした。これは、戦国の世には、よくあること。
戦国武将の多くは、世俗権力の介入を拒む高野山に菩提所をもちたいと願った。幸村の兄・信之は、93歳まで長生きし、戦国時代を知る語り部として奉公した。
真田家は、江戸時代に老中まで出して、名功として明治まで生き残った。
幸村は高野山においてたくさんの子らの声に囲まれていた。戦国武将の一人として、正室のほかに4人から5人の特定の女性がいて、子どもも10人を超えることは珍しくなかった。 
気軽に読める新書です。
(2015年9月刊。800円+税)

戦国のゲルニカ

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  渡辺 武 、 出版  新日本出版社
 大坂夏の陣で何があったのか、「図屏風」に描かれた絵を詳細に読み解いた本です。すごいです。5071人もの人物が表情豊かに描かれています。「真田丸」の主人公・真田幸村(信繁)も当然のことながら描かれています。
いったい誰がこんな詳細きわまりない絵を描けたのでしょうか。とても想像だけで描いたとは思えません。そして、すべてはオールカラーなのです。あちこちに首をとられた将兵の身体が地面にころがっています。そして、女性が襲われ、人さらいに連れられていっています。まさしく、戦争というものの悲惨さが如実に示されています。
ここには勇壮な合戦絵巻というより、戦争(合戦)の残酷さがよくも描かれています。
大阪城天守閣の元館長によるものですので、その解説はなるほどと思わせます。
5月7日、決戦の日の真田隊は、真田幸村自身をはじめ多くの将兵が家康の本陣を目指して捨て身の突撃を繰り返したため、一時は家康本陣のシンボルたる金扇(きんおうぎ)の大馬印を倒して家康を避難させる事態にまで至った。
幟(のぼり)、旗指物(はたさしもの)、鎧具足(よろいぐそく)などを赤一色で統一した「赤備えの真田隊」の奮戦振りはひときわ目立った。「真田、日本一の兵(つわもの)」と東軍の将兵たちも賛嘆を惜しまなかった(「薩藩旧記」)。真田幸村が越前兵に討ち取られたとき、数えの49歳だった。
豊臣家の馬印が平成びょうたんだというのは、江戸時代も後期の寛政年間(18世紀末)の創作であって、本当は金びょうひとつだった。この「屏風」もそのとおり正確に描かれている。この「屏風」は、合戦の現場を生々しく描いているところに特色がある。
合戦の現場は一人ひとりが必死の殺し合い。敵の首ひとつを取るのも容易なことではなかった。殺すか、殺されるかで、まさしく修羅場だった。
徳川軍の内部でも、各部隊の軍功争いは熾烈だった。そして、各人の高名争いは、さらに切実だった。参戦した将兵のうち、実際に高名をあげられたのは、少数でしかない。それで、敗走する将兵を襲って首を取る「追い首」、武器をもたない非戦闘員の避難民を襲って首を取る「偽首(にせくび)」も横行した。さらには、「味方討ち」さえ起きていた。
この「屏風」には、婦女暴行やら略奪の生々しい状況も描かれている。目立ちにくいところに、ひっそりと描きこまれているのだ。
「真田丸」を楽しみに見ようという人にとっては必読の本であり、「屏風」は必見(私も残念ながらまだ見ていません)だと思いました。
(2015年11月刊。1900円+税)

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