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カテゴリー: 日本史(戦国)

杉山城の時代

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  西股 総生 、 出版  角川選書
 杉山城って、聞いたこともない城ですよね。でも、これが今注目されている城なんです。なぜか・・・。
 杉山城は、埼玉県比企(ひき)郡嵐山(らんざん)町にある「土の城」。城といっても、城主である殿様以下の武士たちが居住していたものとは、どうやら違うようです。戦国時代の戦闘に備えた砦(とりで)のような城なのです。なぜ、それが注目されているのか、そして、誰が、いつつくった城なのか、少しずつ解き明かしていく本です。
 杉山城は、標高95メートル、比高42メートル。杉山城の特徴は、土橋や虎口(こぐち。出入口)に対して徹底的に横矢を掛けていること。横矢を掛けるための工夫(施設)を横矢掛りと呼ぶ。虎口から堀を渡った対岸に設けられたスペースのことを馬出(うまだし)という。馬出は一般に、城兵が逆襲に転ずる際に攻撃の足がかりとなる場所。これを局限することによって、虎口を一気に突破されないという効果も期待できる。
 杉山城の縄張りは大変に複雑だが、塁壕や通路をランダムに屈曲させた結果ではない。縄張りを構成する各部分は、敵の侵入を効果的に防ぐという観点から、いずれも合理的な説明が可能。したがって、城兵が正常に配置され機能したとしたら、攻城軍は容易には主郭に到達できないだろう。その縄張りは、あまりに緻密で論理的であるから。
 杉山城の発掘調査は、この城が領主の日常生活とも地域支配とも無縁な、純然たる軍事施設であったことを物語っている。戦国時代の比企(ひき)地方には、純然たる軍事施設としての城が次々に築かれていたのだ。
著者は杉山城について、次にように分析しています。杉山城に与えられた任務と守備隊の人数を具体的に意識し、弓・鉄砲をもつ兵を選抜して、ここに3丁、あそこに5丁といったように決められた火点に配置し、鑓(やり)をもった兵たちは白兵戦力として、まとまって使うことを考えていた。杉山城の特徴は、障碍(しょうがい)の主体を徹して横堀に求めていることにある。
 杉山城は2017年に、日本名城100選(続)に選定されたということです。かの忍城(おしじょう)とあわせて、埼玉県には見るべき城がたくさんありますよね。ぜひとも現地に行って縄張りを実感してみたいものです。
(2017年11月刊。1700円+税)

信長研究の最前線(2)

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  渡辺 大門 、 出版  洋泉社歴史新書
 信長は、朝廷の外護者(げごしゃ)たる存在だった。外護者としての織田信長、政治・秩序の保障者としての朝廷。両者は、相互に補完しあって、国家の上部構造に位置づけられていた。
 イエズス会の宣教師たちは、安土築城のころから、信長について中央を治める権力者であると認識するようになっていた。
織田信長がイエズス会を厚遇したのは、彼らが自分に敵対することなく、従順な姿勢をもっていたから。
イエズス会は、信長に黒人を献上していたが、その黒人は本能寺の変で明智方と戦った。そのことから、宣教師は光秀の報復を恐れた。しかし、光秀はイエズス会を敵視することはなく、黒人はイエズス会に返されたので、宣教師たちは安心した。
イエズス会は、本能寺の変のとき、都でも安土でも非常に動揺していることから、本能寺の変を事前に予知していたとは思われない。
 織田信長については、まだまだ研究し尽くされていないところがあると思ったことでした。
(2017年8月刊。980円+税)

戦国の軍隊

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 西股総生 、 出版  角川ソフィア文庫
 戦国時代の戦闘の実際を詳細に紹介していて、大変勉強になりました。
 当時、早朝から戦闘を開始するには合理的な理由があった。夜間に移動・展開をすませたほうが、自軍の行動や布陣状況を秘匿しやすいし、戦闘のために昼間の時間をできるだけ長く使うことができるから。
 戦国時代の軍事力構造を考えるうえでは、火力(鉄砲)の組織的運用と、個人のスタンドプレーという二つの要素が重要なカギとなる。
 江戸時代には、大小二本の刀を腰に差すのは武士に限られていたが、刀や脇差だけなら、庶民も普通に携行していた。中世にさかのぼると、一般庶民は刀だけでなく弓や槍(やり)も普通にもっていた。
武器を所有・使用する者が武士ということではない。武士とは、「武」を生業(なりわい)とする者のこと、ひらたく言えば、戦いや人殺しを生業とする家の者、戦いや人殺しのプロ、つまり職能戦士ということ。
 中世の戦場では、武士たちは、常に顔見知りの者たちと声をかけあって、互いに相手の戦功を証言できるようにしていた。
 戦国時代の日本では、軍隊が等間隔で整然と隊列を組んで行動する習慣はなかった。そうした行動をとる必要性がなかったからだ。
 足軽は、基本的に武士でない者、つまり主従性の原理が適用されない集団だった。彼らは金品で雇用され、軽装で戦場を疾駆し、放火や略奪に任じた。非武士身分によって構成される非正規部隊、これが傭兵的性格の強い集団としての足軽の本質だった。
 足軽大将のような指揮官クラスの者は、もともとが侍身分の出身か、もしくは侍身分として扱われ、騎乗して参戦していたのだろう。
 戦場での侍たちの主要な武器が持鑓(やり)になり、徒歩戦闘の頻度が高まった結果、侍たちは次第に馬上で抜刀する技術を失っていった。
 中世の軍隊は、兵糧(ひょうろう)自弁が原則だった。自分の領地から送金を受け、出入りの商人たちから、めいめい食糧や日用品等を購入して、陣内での生活を維持していた。
戦国時代の合戦の実相をめぐる論争に一石を投じた本だと思いますが、いかがでしょうか・・・。
(2017年6月刊。960円+税)

武田氏滅亡

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 平山 優 、 出版  角川選書
ええっ、この本は何なの・・・。新書でないことは覚悟のうえ。選書といっても、こんな厚さの本って、ないでしょ。なんと、この本は750頁もあるのです。
主人公は、織田信長に滅ぼされた武田勝頼です。勝頼については、偉大な父・信玄のバカ息子というイメージが強かったのですが、最近は見直されて、信長は、何度となく息子の信忠に勝頼をあなどってはいけないと警告しています。実際、勝頼は知謀もあり、武力もすぐれていたのですが、時の運には見捨てられた存在でした。この本も、勝頼=バカ殿様説はとっていません。
勝頼の最期は、「天目山」とされているが、実際には、そのような名前の山はない。そして、正確には、武田氏が滅亡したのは、「天目山」ではなく、「田野」(たの)である。
勝頼に最後まで付き添っていた武田軍の武将たちも裏切り、脱走が相次いでいて、ついに勝頼たちは、この「田野」で進退谷(きわ)まった。勝頼は、このとき37歳、妻は19歳、長男信勝は16歳だった。信勝は、最初で最後の戦場で亡くなったことになる。
勝頼の最期は、戦死したのか自刃したのか、まだ確定していない。
武田氏は天正15年(1582年)3月11日に滅亡した。このとき、勝頼の周囲にいたのは、武士40人ほど、侍女50人ほどだった。
その前、信長は、長男の信忠に対して、勝頼を弱敵と侮っていけないと再三再四、いさめる書面を送りつけていた。指示を無視して、とんでもないことになったら、もう会うこともないという脅しまで書いていた。つまり、信長にとって、武田勝頼は決して「バカ殿様」という存在、ではなかったのです。
では、勝頼は、なぜ、時の運がなかったのか・・・。この本は、その点について、徹底的に考察しています。
武田信玄は、1573年に53歳で亡くなったのですね。早すぎる死でした。
勝頼は、突然の父死亡により、当初から権力基盤は不安定だった。それは、そうでしょう。若いというだけではなく、勝頼は「諏方」(すわ)勝頼であって、武田勝頼ではなかったのですから・・・。
長篠合戦で武田軍が大敗したのも、勝頼が「バカ殿様」だったからというのではないようです。ただし、勝頼は、織田軍の勢力を過小評価していたようではあります。索敵が甘かったと著者は評しています。
長篠合戦での鉄砲三段撃ちは、ありえないという批判が克服されて、今では、三段撃ちもありえるということになっています。そして、武田軍にも、それなりに鉄砲隊はいたようなのです・・・。
勝頼は、上杉家の内紛、そして北条家とのたたかいなど、まさに戦国の厳しい時代を戦い抜かなければいけなかったのですが、いかんせん時の運から完全に見放されてしまいました。信長方の謀略にひっかかって寝返りをうつ武将が相次ぐのを止められなかったのです。時の流れというのは恐ろしいものです。
ともかく、武田勝頼を「暗愚」な戦国大名とみるわけにはいかないことを決定づける大著です。学者は、すごいです。
(2017年4月刊。2800円+税)

大航海時代の日本人奴隷

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 ルシオ・デ・ソウザ 、 岡 美穂子
日本人って、昔から案外、海外へ出かけていっていたようです。そのなかには、人さらいにあって海外に売られたという人もいたようですが、それ以外にもいたというのです。日本人の傭兵集団があったり、キリスト教信者が亡命したり・・・、です。多くはありませんが、世界各地に残っている日本人の記録を掘りおこした貴重な本です。
本書に登場するのは、マカオ、マラッカ、マカッサル(インドネシア)、ゴアとコチン(インド)、マドリッド、リスホンそしてセビーリャ(スペイン)。アフリカはモザンビーク、アンゴラ、サントメ、プリンシベ島。南アメリカのリマ(ペルー)、ポトシ(ボリビア)、コルドバとブエノスアイレス(アルゼンチン)、サンチアゴ(チリ)。最後にメキシコのアフカトラン、グアダラハラ、タアナファト、メキシコシティ、アカプルコ、ペラクルス、そしてカルタヘナ(コロンビア)です。このように、世界中、いたるところに日本人の足跡があるのです。
奴隷身分の日本人だけでなく、冒険心、商売人もいたのではないでしょうか・・・。
アメリカ大陸に渡ったアジア人奴隷は、「チーナ」と呼ばれたが、実際には、日本人もいた。
大分で1577年に生まれた日本人奴隷は、誘拐されて長崎へ連れていかれ、ポルトガル人に買われた。子どもの奴隷を買って従者にするのは、富貴と寛大さを周囲に知らしめる証と考えられていた。
長崎にいたポルトガル商人のなかに、実はユダヤ人がいて、キリスト教の異端し審問の対象になっていたというのを初めて知りました。
ポルトガルには、16世紀中ごろから、天正少年遣欧使節の到着より前から日本人が存在していた。1570年代初め、10歳にもならないに日本人少女マリア、ペレイラがポルトガルに到着し、20年のあいだ家事奴隷として仕えたあと、自由の身になったという記録がある。
マカオには、日本人女性だけでなく、日本人男性も少なからず存在した。船の乗組員にも日本人男性がいた。
長崎の頭人から町年寄へと出世した町田宗賀は若いころ、自分でジャンク船を操って海外貿易に従事する船長であり、マカオにも出入りしていた。
マラッカには、1600年ころ、町の警備役として、マレー人兵のほか、日本人傭兵がいた。関ヶ原の戦いのころのことです。
1608年ころ、ポルトガル人に仕える日本人傭兵に加え、マカオに到来する日本人奴隷の数が増加した。そして、マカオ事件が起きた。1614年、マニラに33人の教会関係者と、100人の日本人が到着した。宣教師が日本から追放され、一緒に日本人キリシタンたちがやってきたのだ。マニラにいた日本人は、1595年に1000人をこえていた。そして、1619年には、日本人コミュニティは、2000人、1623年には3000人以上となっていた。
インドのゴアにも、多くの中国人と日本人がいた。
世界中の記録をよくも丹念に掘り起こしたものですね。スペインには、今もハポン(日本)の姓の人々がいるそうです。恐らく、昔の日本人の子孫なのでしょうね。世界は広いけれど、案外、狭いものでもあるようです。
(2017年4月刊。1400円+税)

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