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カテゴリー: 日本史(戦国)

戦国の軍隊

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 西股総生 、 出版  角川ソフィア文庫
 戦国時代の戦闘の実際を詳細に紹介していて、大変勉強になりました。
 当時、早朝から戦闘を開始するには合理的な理由があった。夜間に移動・展開をすませたほうが、自軍の行動や布陣状況を秘匿しやすいし、戦闘のために昼間の時間をできるだけ長く使うことができるから。
 戦国時代の軍事力構造を考えるうえでは、火力(鉄砲)の組織的運用と、個人のスタンドプレーという二つの要素が重要なカギとなる。
 江戸時代には、大小二本の刀を腰に差すのは武士に限られていたが、刀や脇差だけなら、庶民も普通に携行していた。中世にさかのぼると、一般庶民は刀だけでなく弓や槍(やり)も普通にもっていた。
武器を所有・使用する者が武士ということではない。武士とは、「武」を生業(なりわい)とする者のこと、ひらたく言えば、戦いや人殺しを生業とする家の者、戦いや人殺しのプロ、つまり職能戦士ということ。
 中世の戦場では、武士たちは、常に顔見知りの者たちと声をかけあって、互いに相手の戦功を証言できるようにしていた。
 戦国時代の日本では、軍隊が等間隔で整然と隊列を組んで行動する習慣はなかった。そうした行動をとる必要性がなかったからだ。
 足軽は、基本的に武士でない者、つまり主従性の原理が適用されない集団だった。彼らは金品で雇用され、軽装で戦場を疾駆し、放火や略奪に任じた。非武士身分によって構成される非正規部隊、これが傭兵的性格の強い集団としての足軽の本質だった。
 足軽大将のような指揮官クラスの者は、もともとが侍身分の出身か、もしくは侍身分として扱われ、騎乗して参戦していたのだろう。
 戦場での侍たちの主要な武器が持鑓(やり)になり、徒歩戦闘の頻度が高まった結果、侍たちは次第に馬上で抜刀する技術を失っていった。
 中世の軍隊は、兵糧(ひょうろう)自弁が原則だった。自分の領地から送金を受け、出入りの商人たちから、めいめい食糧や日用品等を購入して、陣内での生活を維持していた。
戦国時代の合戦の実相をめぐる論争に一石を投じた本だと思いますが、いかがでしょうか・・・。
(2017年6月刊。960円+税)

武田氏滅亡

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 平山 優 、 出版  角川選書
ええっ、この本は何なの・・・。新書でないことは覚悟のうえ。選書といっても、こんな厚さの本って、ないでしょ。なんと、この本は750頁もあるのです。
主人公は、織田信長に滅ぼされた武田勝頼です。勝頼については、偉大な父・信玄のバカ息子というイメージが強かったのですが、最近は見直されて、信長は、何度となく息子の信忠に勝頼をあなどってはいけないと警告しています。実際、勝頼は知謀もあり、武力もすぐれていたのですが、時の運には見捨てられた存在でした。この本も、勝頼=バカ殿様説はとっていません。
勝頼の最期は、「天目山」とされているが、実際には、そのような名前の山はない。そして、正確には、武田氏が滅亡したのは、「天目山」ではなく、「田野」(たの)である。
勝頼に最後まで付き添っていた武田軍の武将たちも裏切り、脱走が相次いでいて、ついに勝頼たちは、この「田野」で進退谷(きわ)まった。勝頼は、このとき37歳、妻は19歳、長男信勝は16歳だった。信勝は、最初で最後の戦場で亡くなったことになる。
勝頼の最期は、戦死したのか自刃したのか、まだ確定していない。
武田氏は天正15年(1582年)3月11日に滅亡した。このとき、勝頼の周囲にいたのは、武士40人ほど、侍女50人ほどだった。
その前、信長は、長男の信忠に対して、勝頼を弱敵と侮っていけないと再三再四、いさめる書面を送りつけていた。指示を無視して、とんでもないことになったら、もう会うこともないという脅しまで書いていた。つまり、信長にとって、武田勝頼は決して「バカ殿様」という存在、ではなかったのです。
では、勝頼は、なぜ、時の運がなかったのか・・・。この本は、その点について、徹底的に考察しています。
武田信玄は、1573年に53歳で亡くなったのですね。早すぎる死でした。
勝頼は、突然の父死亡により、当初から権力基盤は不安定だった。それは、そうでしょう。若いというだけではなく、勝頼は「諏方」(すわ)勝頼であって、武田勝頼ではなかったのですから・・・。
長篠合戦で武田軍が大敗したのも、勝頼が「バカ殿様」だったからというのではないようです。ただし、勝頼は、織田軍の勢力を過小評価していたようではあります。索敵が甘かったと著者は評しています。
長篠合戦での鉄砲三段撃ちは、ありえないという批判が克服されて、今では、三段撃ちもありえるということになっています。そして、武田軍にも、それなりに鉄砲隊はいたようなのです・・・。
勝頼は、上杉家の内紛、そして北条家とのたたかいなど、まさに戦国の厳しい時代を戦い抜かなければいけなかったのですが、いかんせん時の運から完全に見放されてしまいました。信長方の謀略にひっかかって寝返りをうつ武将が相次ぐのを止められなかったのです。時の流れというのは恐ろしいものです。
ともかく、武田勝頼を「暗愚」な戦国大名とみるわけにはいかないことを決定づける大著です。学者は、すごいです。
(2017年4月刊。2800円+税)

大航海時代の日本人奴隷

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 ルシオ・デ・ソウザ 、 岡 美穂子
日本人って、昔から案外、海外へ出かけていっていたようです。そのなかには、人さらいにあって海外に売られたという人もいたようですが、それ以外にもいたというのです。日本人の傭兵集団があったり、キリスト教信者が亡命したり・・・、です。多くはありませんが、世界各地に残っている日本人の記録を掘りおこした貴重な本です。
本書に登場するのは、マカオ、マラッカ、マカッサル(インドネシア)、ゴアとコチン(インド)、マドリッド、リスホンそしてセビーリャ(スペイン)。アフリカはモザンビーク、アンゴラ、サントメ、プリンシベ島。南アメリカのリマ(ペルー)、ポトシ(ボリビア)、コルドバとブエノスアイレス(アルゼンチン)、サンチアゴ(チリ)。最後にメキシコのアフカトラン、グアダラハラ、タアナファト、メキシコシティ、アカプルコ、ペラクルス、そしてカルタヘナ(コロンビア)です。このように、世界中、いたるところに日本人の足跡があるのです。
奴隷身分の日本人だけでなく、冒険心、商売人もいたのではないでしょうか・・・。
アメリカ大陸に渡ったアジア人奴隷は、「チーナ」と呼ばれたが、実際には、日本人もいた。
大分で1577年に生まれた日本人奴隷は、誘拐されて長崎へ連れていかれ、ポルトガル人に買われた。子どもの奴隷を買って従者にするのは、富貴と寛大さを周囲に知らしめる証と考えられていた。
長崎にいたポルトガル商人のなかに、実はユダヤ人がいて、キリスト教の異端し審問の対象になっていたというのを初めて知りました。
ポルトガルには、16世紀中ごろから、天正少年遣欧使節の到着より前から日本人が存在していた。1570年代初め、10歳にもならないに日本人少女マリア、ペレイラがポルトガルに到着し、20年のあいだ家事奴隷として仕えたあと、自由の身になったという記録がある。
マカオには、日本人女性だけでなく、日本人男性も少なからず存在した。船の乗組員にも日本人男性がいた。
長崎の頭人から町年寄へと出世した町田宗賀は若いころ、自分でジャンク船を操って海外貿易に従事する船長であり、マカオにも出入りしていた。
マラッカには、1600年ころ、町の警備役として、マレー人兵のほか、日本人傭兵がいた。関ヶ原の戦いのころのことです。
1608年ころ、ポルトガル人に仕える日本人傭兵に加え、マカオに到来する日本人奴隷の数が増加した。そして、マカオ事件が起きた。1614年、マニラに33人の教会関係者と、100人の日本人が到着した。宣教師が日本から追放され、一緒に日本人キリシタンたちがやってきたのだ。マニラにいた日本人は、1595年に1000人をこえていた。そして、1619年には、日本人コミュニティは、2000人、1623年には3000人以上となっていた。
インドのゴアにも、多くの中国人と日本人がいた。
世界中の記録をよくも丹念に掘り起こしたものですね。スペインには、今もハポン(日本)の姓の人々がいるそうです。恐らく、昔の日本人の子孫なのでしょうね。世界は広いけれど、案外、狭いものでもあるようです。
(2017年4月刊。1400円+税)

城をひとつ

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 伊東 潤 、 出版  新潮社
「城をひとつ、お取りすればよろしいか」
これが本書の書き出しの一行です。うまいですね。憎いです。この本のタイトルにもなっていますが、ええっ、何、どうやって城を取るというの・・・。むらむらと湧いてくる好奇心に勝てません。
「江戸城を取るのは容易ではないぞ」
「容易かどうかは、入ってみねば分かりませぬ」
「間者(かんじゃ)は敵にばれたら殺されるが、貴殿はそれでも構わぬのか」
「命のひとつくらい懸けねば、皆さま方に信じてはもらえますまい」
小説の問答とはいえ、すごい状況ですよね。思わず息を吞んでしまいます。
城を取ると言ったのは大藤(だいとう)信基(のぶもと)。相手の殿様は、北条早雲の後継ぎ、北条氏綱。
今まで捕まった間者は顔色を読まれて捕まっている。つまり、自信をもってことにあたれば、恐れるものは何もないのだ。
江戸城内の権力抗争につけ入って、ついに内部崩壊させていく手口が鮮やかに描かれています。小気味よいものがあります。
信基は、義明の強固な自負心と年齢的な焦りを知り、その隙間に入り込み、自ら墓穴を掘らせることに成功した。その手法は見事なものです。
入込(いりこみ)とは、何者かに化けて敵や仮想敵の内部に入り込み、信用を得たうえで、味方に情報を流したり、撹乱工作をしたりすること。
戦国の時代、武士が商人に無法を働くことは極めて少ない。武力にものを言わせて商人から荷を奪えば、そのときは良くても、その武士は二度と交易ができない。必要な物資も情報も手に入らず、領内の経済が停滞し、自領でとれた米も、容易に売りさばけなくなる。
北条家中における大藤家の役割は、家伝の「入込」の技を使って相手の内部に入り込み、敵を撹乱することにある。
戦国小説の傑作の一つだと思いました。
(2017年3月刊。1600円+税)

描かれたザビエルと戦国日本

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 鹿毛 敏夫 、 出版  勉誠出版
1600年に天下分け目の関ヶ原の戦いがありました。その50年前の1549年8月にイエズス会の宣教師であるフランシスコザビエルが日本にやってきて、1551年11月まで滞在していました。2ヶ年3ヶ月の滞在でしかありませんでしたが、日本にキリスト教をもたらし、多大な影響を支えた宣教師の先達として今も高名です。
本書は、そのザビエルの足跡を絵画と写真とともに刻明に明らかにしています。
ザビエルの遺体が今もインド(ゴア)に保存されているというのにも驚きました。
そして、ヨーロッパに残された宗教画には、ザビエルとともに大友などの大名たちが登場しています。ただ、説明を聞かないと、まるで日本人とは思えない顔つきをしています。恐らく、絵を描いた画家は、見たこともない日本人の戦国大名たちを想像できず、身近なヨーロッパの領主を描いたのでしょうね・・・。
ザビエルは、私が学んでいるフランス語では、グザビエと発音します。なあんだ、そうだったのか・・・と思いました。
ザビエルは、ローマへの手紙のなかで日本人について、このように報告しています。
「日本人はインドの異教徒には見られないほど旺盛な知識欲がある。
もしも日本人すべてがアンジロウのように知識欲が旺盛であるなら、新しく発見された諸地域のなかで、日本人はもっとも知識欲の旺盛な民族であると思われる」
つまり、昔も今も、日本人には好奇心の旺盛な人が多かったということですね。何か目新しいものがあれば、すぐに飛びついて、我が物としたいという習性があるのです。
ザビエルは、1552年12月3日、46歳のとき、中国のマカオの先の小島でマラリアにかかって亡くなった。そして、その遺体が腐敗しなかったことから、インドのゴアまで運ばれて、死後400年以上たった今もミイラ化して、見ることできる(10年に1度だけ一般公開される)。
ザビエルは、山口の領主である大内義隆、そして、豊後の領主である大友義鎮(宗麟)と面会している。大分県市内にはキリスト教会が建立し、多くのキリスト教信者を迎えた。
ザビエルの足跡を、視覚的にもしっかりたどることのできる貴重な本です。
(2017年1月刊。2800円+税)

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