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カテゴリー: 日本史(戦国)

バテレンの世紀

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 渡辺 京二 、 出版  新潮社
日本にキリスト教が入ってきて、それなりに普及し、キリスト教が弾圧されたとき、少なからぬ日本人が宣教師とともに拷問に耐え、殉教していきました。
なぜ、キリスト教が一部的ではあっても広く熱狂的に普及したのか、そして、仏教を捨てて殉教までする多くの日本人を生みだした理由は何だったのか、島原の乱は百姓一揆と同じものなのか、違うものなのか・・・。それらの疑問について、深く掘り下げている本です。
イエズス会の宣教師は、たとえ奴隷であろうとも、キリスト教徒でありさえすれば、異教徒にとどまるよりははるかに幸福なのだとする観念をもっていた。つまり、キリスト教徒のみが真に人間の名に値する存在であって、それ以外のイスラム教徒と異教徒(この二者は異なるもの)は、悪魔を信じる外道である以上、世界支配者なるべきキリスト教徒化され支配されるしか救いの道はない。西洋人は主人であり、非西洋人は潜在的な奴隷なのである。
イエズス会は、従来の修道会とは、著しく相貌を異にしていた。終日、修道院に籠って祈りに明け暮れることを望まない。また、合唱祈祷や苦行に日時のほとんどを費やすことより、黙想や研学、さらに伝道活動を重視した。これは、まったく新しいスタイルの戦闘的な修道会だった。
日本を訪れたことのあるポルトガル船の船長は、日本人は知識欲が強いので、キリスト教の教理に耳を傾けるだろうとザビエルに語った。
日本人は気前が良く、ポルトガル人を家に招いて宿泊させる。好奇心が強くて、ヨーロッパについて知りたがる。
ザビエルが鹿児島に着いたのは1549年8月10日、日本を離れたのは2年3ヶ月後の1551年11月15日。滞日したのはわずか2年3ヶ月でしかない。しかも、ザビエルは最後まで日本語を習得しなかったし、布教の点では、ほとんど成果をあげていない。
ザビエルにとって日本人は、好奇心の強い、うるさい人々だった。相当うぬぼれの強い人々でもある。武器の使用と馬術にかけては、自分たちに及ぶ国民はいないと信じていて、好戦的だ。
日本人は、鎌倉新仏教の諸宗派の出現以来、新奇な分派には慣れっこだった。新奇な教えに対して、当時の日本人の大多数は、免疫をもっていた。日本人のうちキリスト教に入信したのは、貧民だった。都市部には町衆が存在していたし、町衆は神社仏閣を中心とする信仰共同体だったから、異教キリスト教の侵入をはね返す壁となった。
山口での布教が比較的に順調だったのは、まず武士層が入信したからでは・・・。九州の諸大名は、海外との貿易の利にひかれてキリスト教に近づいた。幾内の小領主層は、苛烈な、一切の秩序は失われる、カオスに似た状況だった。それは、頼れるものは自分しかいないという過激な孤独の心情を生み出した。キリスト教は、彼らの孤独な魂によほど訴えるものがあった。
信者であっても、キリシタンとして救済を得ることと、神仏に祈って御利益(ごりやく)を受けることは、まったく矛盾していなかった。つまり、日本人のキリスト教信者たちは、神々には、それぞれの特技に応じた使い道があると考えたのだ。こんなのは宣教師としては絶対に許されない考えである。
キリスト教徒の追放令が出たときの信者は全国に4万人。1598年3月、まだ日本にはキリスト教の宣教師が114名も残っていた。
家康はキリスト教への嫌悪を、貿易を促進したい一心で匿した。家康がキリスト教を黙認したところ、信者は37万人に達した。この当時の宣教師は34人いた。
雲仙の地獄での拷問は、殺さずに棄教させようとすることから続けられたもの。残虐を好んで宣教師や信者を拷問したのではない。殺さずに棄教させようとしたからこそ拷問という手段に訴えたのである。
堂々と460頁もある大作です。大変勉強になりました。さすが深さが違います。
(2018年3月刊。3200円+税)

「反戦主義者なること通告申し上げます」

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  森永 玲 、 出版  花伝社
 長崎県島原半島に生まれた末永敏事(びんじ)は、結核を研究する医学者であり、アメリカに留学して研究し、日本に帰国しても結核研究にいそしんでいた。
 末永敏事は、1938年(昭和13年)、茨城県知事に対して、次のように書面で申告した。
「ここに私が反戦主義者なることを、および軍務を拒絶する旨通告申し上げます」
 51歳の末永敏事は、この申告の直後、特高警察に逮捕された。
 末永敏事は、1887年(明治20年)に島原半島の北有馬村今福で生まれた。実家は代々の医家だった。末永敏事は、長崎医専(長崎大学医学部)を卒業したあと、台湾に渡った。その後、アメリカ・シカゴ大学で学んだ。内村鑑三と交流があった。そして、日本に帰国してからは、古里に戻って「村医者」となった。ところが、キリスト者として反戦主義者である末永敏事のいるところではなくなり、茨城県へ転居した。
 末永敏事の申告について、当局は不敬罪の適用を敬遠した。不敬は日本国民にあってはならないこと。当局は、不敬罪容疑の摘発にこそ取り組んだが、その送検・起訴には消極的だった。なぜなら、訴追したら、その状況が目立ってしまうから。まるで天皇制へ不信感が日本国民に広まっているように自ら認めることになりかねない。それは当局にとって不都合だった。
 そこで末永敏事は、造言飛語罪で起訴されたが、本人は法廷をふくめて無言を貫いた。その結果、禁固3ヶ月となった。そして、末永敏事は1945年8月25日に東京の清瀬村で死亡したことになっているが、その死亡状況は判然としない。
 医者として結核をアメリカに渡ってまで専門的に研究して成果をあげていた真面目な医学者が戦前の戦争推進体制の下で有罪となり、その死亡状況すら不明というのです。戦争体制による悲劇の一つだと思いました。
長崎新聞に2016年10月から連載されていたものが一冊の本となりました。価値ある歴史掘り起しの一冊です。もっと新事実が出てくることを期待しています。
(2017年7月刊。1500円+税)

信長と弥助

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  ロックリー・トーマス 、 出版  太田出版
 織田信長にイエズス会が黒人を献上した。この黒人は信長の近習(小姓)として仕え、本能寺の変のときにも信長の側にいたが危く難を免れた。明智光秀から南蛮寺へ追放せよと言われて命は助かったが、その後の消息は不明。黒人の出身地は不明で、日本名は弥助。
 ここまでは私も知っていましたが、イギリス出身の著者が英語で書いた本が翻訳されたものです。よく調べてあるのですが、いかんせん原資料が不足ですので、決定的に解明したというにはほど遠く、読んでもどかしさが残りました。
 背丈が驚くほど高く、坊主頭で、筋骨隆々とした体は、真っ黒な色をしている。その男の名は弥助という。信長の道具持ちも務める小姓で、史上初の外国人侍だった。
 本能寺の変のあと、織田勢で唯一生存が確認されている侍が弥助だ。弥助は明智軍に刀を差し出して投降したあと、近くのイエズス会の教会堂に移送された。
 明智光秀はイエズス会を敵にまわしたくなかったので助かったと解釈されています。
弥助は物覚えが良く、すぐに日本語を覚えた。日本語は、母国語以外に学んだ4番目か5番目の言語だった。
 黒人が来るというので、京都の人々が何千人も殺到した。信長は弥助の風貌が引き起こした騒動を耳にして、誰が、何が治安を乱したのかを知りたがり、群衆が散開したあと、その黒い男と会わせろと要求した。信長のいた本能寺に黒人はやって来た。イエズス会宣教師のオルガンティーノが同行し、仲立ちした。
 信長は上半身裸になるよう命じた。弥助の黒い肌はこすられても、ひっかかれても色が落ちることはなかった。信長は、ようやく黒い肌が本物だと納得し、息子たちを呼んで、この驚くべき人間を見せた。イエズス会のヴァリニャーノは、政治的配慮から弥助の献上を申し出て、信長は受け取った。
 弥助は信長から従者付の私宅と扶持(ふち。給与)を受け取った。信長の刀持ちとして、護衛として、有能な側近の一人となった。
 弥助のルーツはアフリカ大陸にある。モザンビーク出身説が有力のようです。
 弥助は、信長をめぐるゲームにも登場しているそうですね。知りませんでした。その意味で、今どきの若者にはポピュラーな存在なのかもしれません。
 こくな日本史のニッチな話をイギリス出身の著者が英語で出版するとは、世界は広いようで狭いものですね。
(2017年2月刊。1800円+税)

杉山城の時代

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  西股 総生 、 出版  角川選書
 杉山城って、聞いたこともない城ですよね。でも、これが今注目されている城なんです。なぜか・・・。
 杉山城は、埼玉県比企(ひき)郡嵐山(らんざん)町にある「土の城」。城といっても、城主である殿様以下の武士たちが居住していたものとは、どうやら違うようです。戦国時代の戦闘に備えた砦(とりで)のような城なのです。なぜ、それが注目されているのか、そして、誰が、いつつくった城なのか、少しずつ解き明かしていく本です。
 杉山城は、標高95メートル、比高42メートル。杉山城の特徴は、土橋や虎口(こぐち。出入口)に対して徹底的に横矢を掛けていること。横矢を掛けるための工夫(施設)を横矢掛りと呼ぶ。虎口から堀を渡った対岸に設けられたスペースのことを馬出(うまだし)という。馬出は一般に、城兵が逆襲に転ずる際に攻撃の足がかりとなる場所。これを局限することによって、虎口を一気に突破されないという効果も期待できる。
 杉山城の縄張りは大変に複雑だが、塁壕や通路をランダムに屈曲させた結果ではない。縄張りを構成する各部分は、敵の侵入を効果的に防ぐという観点から、いずれも合理的な説明が可能。したがって、城兵が正常に配置され機能したとしたら、攻城軍は容易には主郭に到達できないだろう。その縄張りは、あまりに緻密で論理的であるから。
 杉山城の発掘調査は、この城が領主の日常生活とも地域支配とも無縁な、純然たる軍事施設であったことを物語っている。戦国時代の比企(ひき)地方には、純然たる軍事施設としての城が次々に築かれていたのだ。
著者は杉山城について、次にように分析しています。杉山城に与えられた任務と守備隊の人数を具体的に意識し、弓・鉄砲をもつ兵を選抜して、ここに3丁、あそこに5丁といったように決められた火点に配置し、鑓(やり)をもった兵たちは白兵戦力として、まとまって使うことを考えていた。杉山城の特徴は、障碍(しょうがい)の主体を徹して横堀に求めていることにある。
 杉山城は2017年に、日本名城100選(続)に選定されたということです。かの忍城(おしじょう)とあわせて、埼玉県には見るべき城がたくさんありますよね。ぜひとも現地に行って縄張りを実感してみたいものです。
(2017年11月刊。1700円+税)

信長研究の最前線(2)

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  渡辺 大門 、 出版  洋泉社歴史新書
 信長は、朝廷の外護者(げごしゃ)たる存在だった。外護者としての織田信長、政治・秩序の保障者としての朝廷。両者は、相互に補完しあって、国家の上部構造に位置づけられていた。
 イエズス会の宣教師たちは、安土築城のころから、信長について中央を治める権力者であると認識するようになっていた。
織田信長がイエズス会を厚遇したのは、彼らが自分に敵対することなく、従順な姿勢をもっていたから。
イエズス会は、信長に黒人を献上していたが、その黒人は本能寺の変で明智方と戦った。そのことから、宣教師は光秀の報復を恐れた。しかし、光秀はイエズス会を敵視することはなく、黒人はイエズス会に返されたので、宣教師たちは安心した。
イエズス会は、本能寺の変のとき、都でも安土でも非常に動揺していることから、本能寺の変を事前に予知していたとは思われない。
 織田信長については、まだまだ研究し尽くされていないところがあると思ったことでした。
(2017年8月刊。980円+税)

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