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カテゴリー: 日本史(戦国)

「反戦主義者なること通告申し上げます」

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  森永 玲 、 出版  花伝社
 長崎県島原半島に生まれた末永敏事(びんじ)は、結核を研究する医学者であり、アメリカに留学して研究し、日本に帰国しても結核研究にいそしんでいた。
 末永敏事は、1938年(昭和13年)、茨城県知事に対して、次のように書面で申告した。
「ここに私が反戦主義者なることを、および軍務を拒絶する旨通告申し上げます」
 51歳の末永敏事は、この申告の直後、特高警察に逮捕された。
 末永敏事は、1887年(明治20年)に島原半島の北有馬村今福で生まれた。実家は代々の医家だった。末永敏事は、長崎医専(長崎大学医学部)を卒業したあと、台湾に渡った。その後、アメリカ・シカゴ大学で学んだ。内村鑑三と交流があった。そして、日本に帰国してからは、古里に戻って「村医者」となった。ところが、キリスト者として反戦主義者である末永敏事のいるところではなくなり、茨城県へ転居した。
 末永敏事の申告について、当局は不敬罪の適用を敬遠した。不敬は日本国民にあってはならないこと。当局は、不敬罪容疑の摘発にこそ取り組んだが、その送検・起訴には消極的だった。なぜなら、訴追したら、その状況が目立ってしまうから。まるで天皇制へ不信感が日本国民に広まっているように自ら認めることになりかねない。それは当局にとって不都合だった。
 そこで末永敏事は、造言飛語罪で起訴されたが、本人は法廷をふくめて無言を貫いた。その結果、禁固3ヶ月となった。そして、末永敏事は1945年8月25日に東京の清瀬村で死亡したことになっているが、その死亡状況は判然としない。
 医者として結核をアメリカに渡ってまで専門的に研究して成果をあげていた真面目な医学者が戦前の戦争推進体制の下で有罪となり、その死亡状況すら不明というのです。戦争体制による悲劇の一つだと思いました。
長崎新聞に2016年10月から連載されていたものが一冊の本となりました。価値ある歴史掘り起しの一冊です。もっと新事実が出てくることを期待しています。
(2017年7月刊。1500円+税)

信長と弥助

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  ロックリー・トーマス 、 出版  太田出版
 織田信長にイエズス会が黒人を献上した。この黒人は信長の近習(小姓)として仕え、本能寺の変のときにも信長の側にいたが危く難を免れた。明智光秀から南蛮寺へ追放せよと言われて命は助かったが、その後の消息は不明。黒人の出身地は不明で、日本名は弥助。
 ここまでは私も知っていましたが、イギリス出身の著者が英語で書いた本が翻訳されたものです。よく調べてあるのですが、いかんせん原資料が不足ですので、決定的に解明したというにはほど遠く、読んでもどかしさが残りました。
 背丈が驚くほど高く、坊主頭で、筋骨隆々とした体は、真っ黒な色をしている。その男の名は弥助という。信長の道具持ちも務める小姓で、史上初の外国人侍だった。
 本能寺の変のあと、織田勢で唯一生存が確認されている侍が弥助だ。弥助は明智軍に刀を差し出して投降したあと、近くのイエズス会の教会堂に移送された。
 明智光秀はイエズス会を敵にまわしたくなかったので助かったと解釈されています。
弥助は物覚えが良く、すぐに日本語を覚えた。日本語は、母国語以外に学んだ4番目か5番目の言語だった。
 黒人が来るというので、京都の人々が何千人も殺到した。信長は弥助の風貌が引き起こした騒動を耳にして、誰が、何が治安を乱したのかを知りたがり、群衆が散開したあと、その黒い男と会わせろと要求した。信長のいた本能寺に黒人はやって来た。イエズス会宣教師のオルガンティーノが同行し、仲立ちした。
 信長は上半身裸になるよう命じた。弥助の黒い肌はこすられても、ひっかかれても色が落ちることはなかった。信長は、ようやく黒い肌が本物だと納得し、息子たちを呼んで、この驚くべき人間を見せた。イエズス会のヴァリニャーノは、政治的配慮から弥助の献上を申し出て、信長は受け取った。
 弥助は信長から従者付の私宅と扶持(ふち。給与)を受け取った。信長の刀持ちとして、護衛として、有能な側近の一人となった。
 弥助のルーツはアフリカ大陸にある。モザンビーク出身説が有力のようです。
 弥助は、信長をめぐるゲームにも登場しているそうですね。知りませんでした。その意味で、今どきの若者にはポピュラーな存在なのかもしれません。
 こくな日本史のニッチな話をイギリス出身の著者が英語で出版するとは、世界は広いようで狭いものですね。
(2017年2月刊。1800円+税)

杉山城の時代

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  西股 総生 、 出版  角川選書
 杉山城って、聞いたこともない城ですよね。でも、これが今注目されている城なんです。なぜか・・・。
 杉山城は、埼玉県比企(ひき)郡嵐山(らんざん)町にある「土の城」。城といっても、城主である殿様以下の武士たちが居住していたものとは、どうやら違うようです。戦国時代の戦闘に備えた砦(とりで)のような城なのです。なぜ、それが注目されているのか、そして、誰が、いつつくった城なのか、少しずつ解き明かしていく本です。
 杉山城は、標高95メートル、比高42メートル。杉山城の特徴は、土橋や虎口(こぐち。出入口)に対して徹底的に横矢を掛けていること。横矢を掛けるための工夫(施設)を横矢掛りと呼ぶ。虎口から堀を渡った対岸に設けられたスペースのことを馬出(うまだし)という。馬出は一般に、城兵が逆襲に転ずる際に攻撃の足がかりとなる場所。これを局限することによって、虎口を一気に突破されないという効果も期待できる。
 杉山城の縄張りは大変に複雑だが、塁壕や通路をランダムに屈曲させた結果ではない。縄張りを構成する各部分は、敵の侵入を効果的に防ぐという観点から、いずれも合理的な説明が可能。したがって、城兵が正常に配置され機能したとしたら、攻城軍は容易には主郭に到達できないだろう。その縄張りは、あまりに緻密で論理的であるから。
 杉山城の発掘調査は、この城が領主の日常生活とも地域支配とも無縁な、純然たる軍事施設であったことを物語っている。戦国時代の比企(ひき)地方には、純然たる軍事施設としての城が次々に築かれていたのだ。
著者は杉山城について、次にように分析しています。杉山城に与えられた任務と守備隊の人数を具体的に意識し、弓・鉄砲をもつ兵を選抜して、ここに3丁、あそこに5丁といったように決められた火点に配置し、鑓(やり)をもった兵たちは白兵戦力として、まとまって使うことを考えていた。杉山城の特徴は、障碍(しょうがい)の主体を徹して横堀に求めていることにある。
 杉山城は2017年に、日本名城100選(続)に選定されたということです。かの忍城(おしじょう)とあわせて、埼玉県には見るべき城がたくさんありますよね。ぜひとも現地に行って縄張りを実感してみたいものです。
(2017年11月刊。1700円+税)

信長研究の最前線(2)

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者  渡辺 大門 、 出版  洋泉社歴史新書
 信長は、朝廷の外護者(げごしゃ)たる存在だった。外護者としての織田信長、政治・秩序の保障者としての朝廷。両者は、相互に補完しあって、国家の上部構造に位置づけられていた。
 イエズス会の宣教師たちは、安土築城のころから、信長について中央を治める権力者であると認識するようになっていた。
織田信長がイエズス会を厚遇したのは、彼らが自分に敵対することなく、従順な姿勢をもっていたから。
イエズス会は、信長に黒人を献上していたが、その黒人は本能寺の変で明智方と戦った。そのことから、宣教師は光秀の報復を恐れた。しかし、光秀はイエズス会を敵視することはなく、黒人はイエズス会に返されたので、宣教師たちは安心した。
イエズス会は、本能寺の変のとき、都でも安土でも非常に動揺していることから、本能寺の変を事前に予知していたとは思われない。
 織田信長については、まだまだ研究し尽くされていないところがあると思ったことでした。
(2017年8月刊。980円+税)

戦国の軍隊

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 西股総生 、 出版  角川ソフィア文庫
 戦国時代の戦闘の実際を詳細に紹介していて、大変勉強になりました。
 当時、早朝から戦闘を開始するには合理的な理由があった。夜間に移動・展開をすませたほうが、自軍の行動や布陣状況を秘匿しやすいし、戦闘のために昼間の時間をできるだけ長く使うことができるから。
 戦国時代の軍事力構造を考えるうえでは、火力(鉄砲)の組織的運用と、個人のスタンドプレーという二つの要素が重要なカギとなる。
 江戸時代には、大小二本の刀を腰に差すのは武士に限られていたが、刀や脇差だけなら、庶民も普通に携行していた。中世にさかのぼると、一般庶民は刀だけでなく弓や槍(やり)も普通にもっていた。
武器を所有・使用する者が武士ということではない。武士とは、「武」を生業(なりわい)とする者のこと、ひらたく言えば、戦いや人殺しを生業とする家の者、戦いや人殺しのプロ、つまり職能戦士ということ。
 中世の戦場では、武士たちは、常に顔見知りの者たちと声をかけあって、互いに相手の戦功を証言できるようにしていた。
 戦国時代の日本では、軍隊が等間隔で整然と隊列を組んで行動する習慣はなかった。そうした行動をとる必要性がなかったからだ。
 足軽は、基本的に武士でない者、つまり主従性の原理が適用されない集団だった。彼らは金品で雇用され、軽装で戦場を疾駆し、放火や略奪に任じた。非武士身分によって構成される非正規部隊、これが傭兵的性格の強い集団としての足軽の本質だった。
 足軽大将のような指揮官クラスの者は、もともとが侍身分の出身か、もしくは侍身分として扱われ、騎乗して参戦していたのだろう。
 戦場での侍たちの主要な武器が持鑓(やり)になり、徒歩戦闘の頻度が高まった結果、侍たちは次第に馬上で抜刀する技術を失っていった。
 中世の軍隊は、兵糧(ひょうろう)自弁が原則だった。自分の領地から送金を受け、出入りの商人たちから、めいめい食糧や日用品等を購入して、陣内での生活を維持していた。
戦国時代の合戦の実相をめぐる論争に一石を投じた本だと思いますが、いかがでしょうか・・・。
(2017年6月刊。960円+税)

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